1944年(昭和19年)8月22日。


 沖縄の児童疎開船「対馬丸」がアメリカの潜水艦の魚雷によって悪石島付近で沈没し、乗客1700人のうち約1500人が亡くなりました。生存者は一般人168名と学童は59名。犠牲者の825人は学童でした。
 
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2014年から7年もの時間がかかった
対馬丸のご供養。
 
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今年2022年6月に
ようやく対馬丸のご供養を終えましたが
私は人生で初めて
ご供養で挫折し
限界を感じました。
 
対馬丸のご供養は
それはそれは大変なものでした。
 
想いがいくらあっても
出来ないことがたくさんありました。
能力があるないではなく、
私には供養するだけの条件がなかったのです。
 
 
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《ご供養に限界を感じた理由》

 
 1、私自身が奄美大島、琉球王国(沖縄)に地縁と血縁がない。
 
 2、そもそも日本と沖縄では文化や信仰が全く違い、同時に言語体系がまったく違ったために対馬丸の子供たちにこちらの言語が通じなかった。
 
 3、第二次葬である洗骨の風習。そして洗骨は近親者が行うことだということも全く知らなかった。
 
 
今回のご供養で一番苦労したことが
「言葉が通じない」ということです。
 
 これまで全国47都道府県でご供養をしてきたのですが、今回のように「言葉が通じない」ということは一度もなかったため現地で本当に困ってしまいました。(悪石島に行く予定でしたが天候に問題があったため、急遽奄美大島の宇検町でご供養を行いました。)
 それは奄美・沖縄県でのご供養が非常に特殊なものだったからです。もともと奄美や沖縄は琉球神道であり、ユタ・ノロといった霊媒師の方々を中心に死者との繋がりを持つ文化があります。そしてこの琉球神道。日本語じゃなく、方言(琉球語)なのです。そのため琉球神道によるご供養の本には、日本語の「和訳」が記載されております。
 
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● 私は奄美大島や沖縄の方言が使えません。音として言葉を出すことはできますがそれではご供養にならないのです。なにより奄美方言や沖縄方言(琉球語)は日本語にはない発音がたくさんあります。言語体系そのものが日本語と全く違うため、現地の方言を使える方じゃないとご供養は無理だと痛感しました。

 
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● 葬儀方法も日本とは全く違い、元々琉球王国は日本と違って風葬であり、第二次葬である「洗骨」というものが終わってから本当の意味での成仏になるという習わしがありました。洗骨は近年まで行われていたのですが、衛生上の理由から無理やり火葬になってしまったため、古来からの伝統的なご供養が難しい状態です。



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 以上のような問題を抱えながら、自分ができる範囲でのご供養を行なっていたのですが十分なご供養ができなかったため非常に消化不良状態になってしまい、私はついに周りの方々にお願いしてこの問題をなんとかできないものかと相談を持ちかけました。
 

 すると快く協力してくださる方々が大勢でてきて、

 奄美大島出身の生粋のユタであるE先生・奄美大島在住のE先生のお兄さんのTさん、そしてその関係者の皆々様。
 
 一番活躍してくれた奄美の大島タクシー運転手のNさん。(私の日本語を奄美大島方言に変換し通訳してくださいました。)奄美大島の宿泊ホテルの皆さん。
 
 沖縄県の対馬丸記念会館の受付の職員さん。

 今回悪石島には天候の都合で行けませんでしたが、奄美大島に行く前日までご協力していただきました悪石島出張所のTさんとSさん。(悪石島行きはこれまで何回かチャレンジしましたが今回もまたご縁がなくて残念でした。今はまだその時期ではないということかもしれませんが、現地できちんのご供養できる運びになったら改めて悪石島にお伺いさせていただきます。)
 
 東京に帰ってきてからは戦没者・戦死者のご供養や戦争に対しての理解を示してくださったM先生やK先生、そして沖縄との地縁・血縁が非常に深いN先生、その他多くの方々が奄美大島や沖縄(琉球王国)の戦没者・戦死者・戦災犠牲者の皆様のご供養のために動きはじめてくださっています。
 
本当に本当に
ありがとうございます。
 

 
【最後に】

 対馬丸事件や沖縄戦をはじめ、奄美や沖縄での戦没者・戦死者の方々には戦後から始まった日本語でのご供養ではなく、戦前からある奄美語、沖縄・琉球語(方言)によるご供養方法じゃないと故人は成仏できないと私は思っております。(遺族側と供養する側では、立ち位置や役割が違います。遺族側は歴史や事実をあとに続く方々へ語り伝える側。僧侶は遺族の想いを故人に届ける側。同じ発信でも関わろうとする対象者が違えば発信方法・内容が異なります。)

 
 こちら側がご供養したからといってそれが必ずしも相手に伝わるわけではない。成仏するわけではない。ということが今回の対馬丸のご供養での挫折で骨身にしみて理解できました。
 
 生きている側の人間の思い込みによる供養よりも、死者の方々が望むご供養をしてこそ、本当の意味での「思いやり」に繋がりひいては成仏に結びつくのではないかと私は思っております。