本日6月23日は沖縄戦から77年目になる「沖縄の戦没者 慰霊の日」になります。
私は本日、午前中から4時間ほどかけて沖縄戦の戦没者・戦災犠牲者の方々のご供養を行っておりました。
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《沖縄戦関係者の方々へご供養に関するお願い》
この内容は結喜個人からのお願いになります。
● 本日の沖縄慰霊の日は、沖縄戦での戦没者・戦死者・戦災犠牲者の方々を追悼する日です。
もし追悼者の方で
1. 沖縄や奄美大島などのご出身の方
2. 標準語だけではなく、沖縄の方言→『琉球語』(ウチナーグチ)や『奄美語』などの琉球諸島語圏の方言を話せる方
がいらっしゃいましたら、沖縄戦に関してのご供養の際には標準語(ヤマトゥグチ)ではなく、ぜひご出身の沖縄や奄美大島の方言でご供養していただけますと非常にありがたいです。
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● 私は2014年に沖縄での追善供養・鎮魂供養を行いましたが、その際に沖縄の対馬丸記念館に立ち寄りました。それまで私は対馬丸事件についてまったく知らない状態でした。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E4%B8%B8
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https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_38.html
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対馬丸記念館で私は日本とアメリカによって沖縄の罪のない多くの子どもたちが犠牲になったことを知り、ずっと泣き続けていました。私はこの事件を知り必ず対馬丸が沈没した現地まで赴いて、追善供養・鎮魂供養だけではなく、海に沈んでいった子どもたち・犠牲者の方々を必ず懐かしい沖縄まで送り届けることを約束しました。
その約束を果たすまで丸7年かかりましたが、ようやく今月6月9日〜12日に対馬丸のご供養を終えることが出来ました。しかし今回のご供養は私の人生の中で最も大変なご供養になったのです。
対馬丸や沖縄戦のご供養に関する詳しい経緯は次回にまわしますが、今回一番伝えたいのは生まれ育った故郷の言葉(方言)によって癒やされる魂があるということを知ってもらいたいのです。
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《なぜ琉球語や奄美語でのご供養が必要なのか?》
● 私は供養だけに関しては、唯一誰にも負けない自信があります。私は自分の人生をご供養に捧げていると言っても過言ではないという自負がありましたが、今回のご供養は人生で初めて挫折する結果となりました。
それは、『こちらがいくら亡くなられた方々に対しての想いがあっても言葉が通じない。供養が届かない。』という経験をしたからです。
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《標準語(ヤマトゥグチ)での供養は通じなかった》
2014年から7年間かけてのご供養ですので、それはもうできる限りの下調べをしてから(琉球王国の歴史や琉球神道など)ご供養に臨んだのですが、今回のご供養に関しては私のご供養はほとんど通じませんでした。
いや、ご供養というよりは「こちらの言葉が通じなかった」ことがご供養が出来なかった原因だったのです。
私は人生で初めて『想いがいくらあっても届かない。通じない。』という衝撃の経験をしました。
《救世主はタクシーの運転手さん》
この最悪の状況を打破してくれたのは、対馬丸の慰霊碑まで案内してくれた奄美大島のタクシーの運転手さんでした。(幸いこのタクシーの運転手さんは非常に信仰が厚く、ユタやノロ、奄美大島や沖縄の信仰にも知識がある方でした。)
私は言葉が通じない、ご供養が届かない状態になりパニックに陥り本当に困ってしまいました。私は無い知恵を絞り出して、沖縄は言語が違うということを思い出し(琉球神道や神歌など)、もしかしてと思ってタクシーの運転手さんに私の話している言葉を奄美大島の言葉(奄美語・琉球語)に通訳してもらったのです。
● タクシーの運転手さんに通訳してもらった言葉
『この黒い衣をきたおばちゃんのところに来てくれたら、みんなを懐かしい沖縄に連れて帰ることができるから暗い海の底から出て、このおばちゃんと一緒に沖縄に帰ろう。』
↑の言葉を奄美大島の方言に変換して通訳してもらいました。
するとどうでしょう。
私の伝えたい内容がちゃんと対馬丸の子どもたちに伝わったのです。もうびっくり仰天です。(これもすべてタクシーの運転手さんの奄美大島の方言のおかげです!!!ようやく子どもたちを暗い海の底から地上へと連れ出すことができたのです。本当に本当にありがとうございました!!!)
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《標準語が通じなかった原因》
その日、奄美大島のホテルに戻ってから、なぜ私の言葉や供養が通じなかったのか。その原因を探るために沖縄戦当時の歴史を調べ直していくと、その原因がわかりました。
沖縄戦が行われていたその当時、方言撲滅運動が強制的に行われていたのです。
⇓こちらをご覧ください。(クリックすると引用元の記事に移動します。)
当時の沖縄はこのような状態だったのです。
社説[戦後70年 地に刻む沖縄戦]
戦場の琉球語 間諜を警戒し使用禁ず
※ 引用・琉球タイムスより
(↑クリックすると移動します。)
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「方言」論争と沖縄戦
※ 引用・日本近現代史の授業中継より
(↑クリックすると移動します。)
当時の日本軍によって沖縄(琉球)の文化や言葉、風習などはことごとく破壊されていきました。
そして沖縄戦において最悪の状況をつくりだしたのが第32軍牛島満軍司令官(中将)であり、6月23日自決前に「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」と最後の命令を出したのです。その命令のために沖縄戦はどんどん長引いていきました。
さらに牛島満軍司令官は、「防諜に厳に注意すべし」という指示も出していたので、日本兵は指示通り終戦した8月15日以降も沖縄で琉球語(ウチナーグチ)を喋っていたものはすべてスパイとみなし、沖縄住民を虐殺していたそうです。
本当の意味で沖縄戦が終了したのは、9月7日に正式に沖縄の日本軍が降伏調印したときであり、8月15日に玉音放送で日本が負けたことが伝えられて本土では戦争が終わっていたとしても、沖縄では戦争は続いていたのです。
《みんなが標準語(ヤマトゥグチ)が話せた・理解できていたわけではない。》
当時は家では方言(ウチナーグチ)・学校では標準語(ヤマトゥグチ)なのですが、学校にいる時間より家にいる時間が長い、またお祖父ちゃんやお祖母ちゃんの話す言葉のほとんどは方言なので子どもたちは教育として幼稚園や小学校で標準語を義務付けられていたとしても家庭の事情や学力等によって全員が全員標準語を話せるわけでも理解できるわけでもなかったのです。
《この言葉、理解できますか?》
【奄美大島 ラジオ体操】
https://youtu.be/RihKsqOqWZg
【沖縄 ラジオ体操】
https://youtu.be/T0YAy6aaGsE
対馬丸の子供達にとっては私の言葉はこの方言のラジオ体操のように、こちらが何か言っている・伝えているのはわかるけれど「意味がよくわわからない外国語」のような感じだったと思います。
※ ちなみに私は英語が苦手で中学校から習っていますが未だに意味がさっぱりわかりませんし、地元の方言もまったく理解できません。当然ながらタクシーの運転手さんの方言もまったくわかりませんし、↑のラジオ体操も手とか腕とかは理解できてもそれ以外の言葉はまったく理解できません。言葉が理解できないと色んな部分でとても不自由になり精神的にどんどん不安定になっていきます。(少なくとも私はそうです。)
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《ウクライナから日本に来た子どもたちも同じ》
沖縄周辺はもともと日本ではなく「琉球王国」であり、文化や言葉、信仰、作法などが違いすぎました。そのため現地の方が昔ながらのやり方でご供養しないと成仏できないと感じました。(特に対馬丸の犠牲者の場合、78年間も海の底にいたわけで当時の時代で記憶が止まっています。子どもたちにとっては78年ぶりの沖縄は子どもたちが思い描いていた沖縄とはかけ離れていて浦島太郎状態だったと思います。例えるならば太平洋戦争終結から28年ぶりに日本に戻ってきた横井庄一さん状態と言っても過言ではないと思います。)
琉球系統の島々では祭祀の文化として洗骨といわれる独自の埋葬・供養方法があります。今では洗骨の文化も廃れつつあるかもしれませんが、まだお年配の方や関係者の方で洗骨の作法を覚えてらっしゃる方がいらっしゃれば、沖縄戦での同胞たちをイメージで構いませんので洗骨していただけますと、本当の意味での成仏ができるかと感じました。
※ 少なくとも当事者ではない私が沖縄の方々のご供養に対してとやかく言える立場ではないことも重々承知していますし、差し出がましいこともわかっておりますが、私は何よりも故人が望むご供養を大切にしていますので、ご理解・ご協力いただけますと幸いです。
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※ 6月12日に対馬丸事件の子供達を沖縄の対馬丸記念館までなんとか送り届けましたが、子どもたちを送り届けるまでの間・送り届けた後も多くの問題が発生しています。
今回のご供養で感じた対馬丸の供養を通しての問題点や解決点、課題点は私のブログで少しずつ書いていきますが、今回の供養で「言葉の壁は私の想像を越えてはるかに大きかった。」ということを痛感しました。
今回私なりにものすごく頑張りましたが、私では沖縄や奄美大島(琉球諸島、吐噶喇列島など)の方々のご供養は役不足で十分なご供養ができませんでした。申し訳ございません。
沖縄は現在日本に組み込まれているものの琉球関係のご供養に関しては、その土地や風土、風習や信仰、ノロやユタといったシャーマンの方々の力を借りないと十分なご供養ができないと感じています。しかしながら私でも多少なりともお役に立てるのあれば私ができる範囲でご供養を続けさせていただきます。
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《最後に伝えたいこと》
私は全国47都道府県に赴いて、戦没者・戦死者・震災犠牲者の追善供養・鎮魂供養を行ってきております。
戦争や震災の当事者の方々はその記憶を伝えていく必要があるかと思いますが、私の目的はそれらで犠牲になった方々のご供養であり、伝える側の視点と供養する側の視点が異なります。そもそもの目的も違うため、私の発言や行動に対して不快に思ったり、不信感を持たれる方もいらっしゃるかもしれません。
戦争や原爆の被害者の方にとっては敵国を恨んだり憎しむ気持ちがあるかもしれません。ですがご供養を行う私の立場からすると、私にとっては人種も男女も年齢も職業もまったく関係なく、日本兵もアメリカ兵もロシア兵もウクライナ兵も「死」という事実の前では、同じように「その出来事によって尊い命が失われてしまった。」犠牲者になります。
そのため私は宗教や国籍、人種など関係なく、犠牲になった方々の追善供養・鎮魂供養を行っています。元尼僧として私が生きている間は一生続けていくつもりです。亡くなった方々が少しでも優しくあたたかな光の世界に行けるように。元の世界に早く戻って安心できるように・・・。
戦争によってたくさんの無関係な人たちが多くの犠牲を払い、苦しみます。その戦争で家族を亡くし供養する立場になった方々の怒りや悲しみ、苦しみを理解してください。戦争が長引けば長引くほど、憎しみや恨みがうまれます。国民の幸せを本当に考えて願うならば、これ以上このような負の連鎖を次の世代に繋げるようなことをしないで欲しいです。