火縄銃復元日記#37 端午の節句祝いと台木製作
春分も過ぎて、明日からは4月になるので息子達の為に端午の節句の準備を始めた。まずは兄が産まれた際に私の曽祖父が買った五月人形を出して、飾ってある。本来は息子ごとに甲冑人形は買うべきだと親しい方から言われたが、母が船便でカナダまで送ってきてしまった物だから仕方ない。バブル絶頂期に産まれた兄の飾りは派手でいかにも80年代を思わせる意匠だ。全く歴史的事実には基づいていない。佩楯にある永楽通宝は曾祖父の黒田家の替紋で、彼の出身の小幡藩藩主の織田家の関係もあると思われる。なぜ藤堂高虎を曽祖父が選んだかはわからない。ちなみに私の飾りは義経の兜飾りで母方祖母が買ってくれたものだ。我が家の伝統的武芸は鉄砲節句に合わせて何か息子に作ってやろうと思ったが、今回の一連の研究からも判明している通り、我が家の武芸伝統は鉄砲にある。少なくとも福島の蒲倉、中島、そして越後の安達、浅田は鉄砲に縁がある。という事で節句に鉄砲を飾らないわけにはいかないと思い、兵器研究家権威の須川氏のウェブページにあった少年用の紀州筒を復元製作する事にした。日本の武器兵器少年用紀州筒全長約88センチで本来の大きさの2/3だという。今後仙台筒の復元製作も行う予定なので良い練習になる。模造銃で有るので、銃身から全て木製で製作する。カラクリは真鍮で作るかもしれないがセン鋤という工具を作らなければならず、考え中だ。近所で引越し整理をしている方があり、その方が4x6のメープル材を格安で売ってくれたのでそれを使うことにした。鎌倉工藝の記事によれば紅葉材も台木に使われたようであるので全く外れでもないはずだ。紀州筒は台株部の庵が仙台筒に比べ3センチほど深い。その為4X6の4インチ側では残念ながら正しい柾目での切り出しができず、板目で作ることになったがこれが大変厄介な事になる。なぜ杢目か柾目で台を作ったかは鉋掛けやノミを打ち込んですぐにわかった。紀州筒は津田流派の使用の場合台株の意匠はほぼ仙台筒の伊勢守と同じで有る。私の考えでは伊勢守流の台株意匠が津田流台株の源流だと考えてる。なぜなら写真の通り、これから角を落として頬つけの部分を削るだけで紀州筒になるからだ。勿論、カラクリの違いで台株自体は仙台筒の方が長くなる。日本で購入した反台カンナとシャクリカンナが来るまで仕上げられないがとりあえず手持ちの工具でできるところまで形成した。全ての工程が終わったら透き漆で仕上げてとりあえず長男用の津田流派鍛錬用の木銃は完成だ。後方にある伝家の火縄銃に比べるとその小ささがお分かりいただけるだろう。尚この台木製作にあたっては国友鉄砲ミュージアムの銃床製作の控えを参考にしている。工具が届くまで暫しの休工である。