お正月も明日7日で御仕舞いである。中華系移民の多い当地では中国、朝鮮、ベトナム等旧暦の正月を祝ういわゆる春節が2月にやってくる。日本というのはまた独特で、他から物は持ってくるが他と同じはダメなのだ。日本の旧暦は飛鳥時代に中国からもたらされ、平安時代まで中国の暦を使っていたが、武士の時代の到来とともに日本独自の暦を中国暦を元に作っていったそうだ。現代において旧暦と呼ばれる暦は天保暦で日本の季節や風土に最も適合し、月の満ち欠けと太陽の動きを相対的に掛け合わせた日本独自の太陰太陽暦だという。中国にも同じ名前の物が存在するが別物だ。ちなみに英語では中国暦の事をlunar Calendarと呼び太陰暦の事だ。

 平安時代までは皇族貴族の時代であったが、基本的には中国の文化を基本とした日本文化が根付いていた。日本独自の文化が花開くのは実は鎌倉時代以後の武士の時代からだと私は考えている。中国大陸や朝鮮半島からもたらされた物を改良して独自性を出すようになったのも武士と呼ばれる京都以外に居る豪族が活躍しだしてからの話だ。火縄銃はすでに武士の時代になってから400年ほどしてから欧州人よりもたらされたが、その後の改良品は多勢を押しのけて高精度の物になっている。欧州のマッチロックライフルの弱みを見事に克服し、また日本に鉄砲伝来後すぐに欧州で登場したフリントロックの様に火打石(フリント)を必要としない火縄銃は、繊維反物の国日本には非常に理にかなった銃だったのだ。

 

戊辰戦争で使われた痕跡か、分銅紋仙台筒の焦げ痕

 

 歴史史料として蒐集した分銅紋の仙台筒は仙台筒の基本を則った意匠で、目釘穴は二つ、分銅紋が各所に在り、松葉バネのいぼ各紙も分銅紋である。

 長さは銃身を含めた推定全長が138cmと仙台筒の中では長めであるが、銃床が1センチほど長く作られており、その分銃身は短い設計になっている。一回目に製作した葡萄栗鼠仙台筒の第一試作品をカンナで再形成し、この台木に合うように削りだした。やはり銃身が有る無いでは全く違った見かけになる。

 

 この仙台筒の面白いところは台木の一部が焦げて炭化している点だ。丁度火薬が発生したガスが最も熱くなる位置が炭化している。その結果銃身を外した後に変形したようで、台木は私が蒸気で矯正するまで5度ほど炭化位置から上に曲がっていた。

写真を見ていただくと炭化している位置がお判りいただけるだろう。手前の目釘穴の位置から手前にかけて4cmほどが焦げている。

 火バサミも馬頭の口先が潰れているのも確認できる。余程の速さと頻度で発砲しなければこのような熱による変形は起きないはずなので、この仙台筒の使用者は恐らく速射に慣れていた上、通常では考えられないような球数を短時間で発砲したと考えられる。火縄銃はマズルローダーと呼ばれるタイプの銃で一度発砲するごとに銃口から火薬、和紙、弾丸を込めなおす必要があり、早くても十数秒の球込めの時間を要するはずだ。その間に銃身は冷めるはずなので、このように炭化するほど焦げているのは珍しいと思 う。少し黒ずむほどなら一般的に起こりうることだと考えられる。

 またちょうど左手の指が当たるところに恐らく発砲後のタールで汚れた手で触れた跡なのか手紋が残っている。丁度先から中指、薬指、そして小指が手前に折れてるように見える。しかしこの手紋のある位置は身長177cmの私の手で持った際に丁度当たる位置にあり、もし使用者が小柄だった場合には到底届くような位置ではない。もしかすると、右手で備えてある筒を持った際についた後なのかもしれない。台株は削れており、損傷は激しい。

 

 

 仮にこの仙台筒が実際に戊辰戦争で使われていたとするとこの損傷の激しさは戦闘の激しさを物語っているのかもしれない。将来現地の刀や甲冑コレクターと日本と武士の歴史の個展を日本文化会館で開催する事にしたので、もう少しこの仙台筒の来歴が解ってくれば東北の戊辰戦争の激しさを物語る遺品として紹介したいと考えている。