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2020/2/21 登城BLOGはコチラ

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 目次

※過去訪問重複箇所は赤字

 

  二の丸跡

 佐和口

二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)

 

 金亀児童公園 

土塁

中堀

二季咲桜

井伊大老銅像

遠城謙道師之碑

 

 

 裏門跡

 

 黒門跡

 

 

  山崎曲輪

 三重櫓跡

 屏風折れの石垣

 山崎御門跡



 


 

 

 

二の丸跡

槻御殿や藩校、1,000石以上の家老など重臣たちの屋敷が置かれた武家町が形成されていた。
 
佐和口
佐和口は、中堀に開く4つの口の1つで、「いろは松」に沿った登城道の正面に位置している。

佐和口には、かつて中堀に接して高麗門があり、その内側を鈎の手に曲げて櫓門が築かれていた。

 

城門の形式としては最強の枡形で、重厚な構えとなっていた。
 




現在は門の礎石が残るのみ。


 

二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)

佐和口に向かって左翼に伸びており、その端に二階二重の櫓が建ち、多聞櫓に連接している。

佐和口多聞櫓は、佐和口の桝形を囲むように二度曲折する長屋となっている。

この櫓の内部は7つに区画され、中堀に向って三角形「△」と四角形「□」の狭間が交互に配置されている。
 

 


 

枡形から右翼に伸びる長大な多聞櫓は、「開国記念館」

 

昭和35年(1960)に井伊直弼の没後100年を記念する事業として、彦根市民の浄財によって、彦根城の佐和口多聞櫓を再現したもの。

 

以後、直弼を顕彰する展覧会などが継起的に催され、昭和59年には一部を改装し、「彦根市民ギャラリー」として使用してきたが、平成14年には閉館となる。

 

平成19年に開催された国宝・彦根城築城400年祭で、「井伊家14代物語」会場として使用され、平成20年10月1日からは展示施設となっている。

 



 

 

【名称】 開国記念館
【住所】 滋賀県彦根市金亀町
【電話】 0749-22-2742
【開館時間】 8:30~17:00(入館は16:30まで)
【入館料】 無料
【休館日】 12月25~31日(臨時休館あり)

※ 2020年11月25日時点の情報です

 

 
金亀児童公園

彦根城や玄宮園の直ぐ近くに立地し、歴史を感じることができる公園。

 

土塁












 

 

中堀
埋木舎方面





旧池田屋敷長屋門方面





玄宮園方面

 

 

二季咲桜
昭和47年4月に水戸市(友好都市)より寄贈されたもので、冬(11月から1月)と春(4月から5月)の年二回開花する。

 

 

井伊大老銅像
この銅像は明治時代、直弼の遺徳を顕彰しようとする旧彦根藩士らによって建立された。

最後の官職だった正四位上左近衛中将の正装をうつしたもの。



【井伊直弼(1815-1860)】

開国の英雄井伊直弼は、文化12年(1815)に彦根城下の下屋敷(槻御殿)に生まれ、嘉永3年(1850)36歳で彦根藩主となり、安政5年(1858)には江戸幕府の大老職となった。

同年6月、直弼は我国の将来を考えアメリカとの開国を英断。

この大偉業をなしとげた直弼は、心情をくむことのできなかった人々によって安政7年(1860)3月3日桜田門外で暗殺され46年の生涯に幕を閉じた。



銅像の横には、井伊直弼の孫の妻である井伊文子さんの歌碑がある。

一身に責負ひまして 立ちましし 大老ありてこそ 開港はなりぬ

 

 

遠城謙道師之碑
遠城謙道(おんじょうけんどう)は、旧彦根藩士で通称遠城平右衛門といい、文政6年(1823)に彦根で生まれた。

15歳で鉄砲隊に入ったが、藩医「堀田道策」に医術を学んだのを始め、儒学や画も学ぶなどし、特に禅の修行を積んだことで武士の魂を磨いた。

桜田門外の変における、大老井伊直弼公の横死の後、悲憤の余り主君の旧恩に報じようと同志と謀り老中に抗弁するも、果たすことができなかった。

追い腹は犬死と判断し、僧となりお墓守を勤める決心をし、井伊家菩提寺の清涼寺「俊竜和尚」の元で仏門に入り、名を「謙道」と改めた。

慶応元年(1865)、妻と6人の子供を残した謙道は、江戸における井伊家の菩提寺、豪徳寺に移り、直弼公の墓側に庵を建て終生掃墓、読経をし、魂を慰めること実に37年に及んだ。

 
 

 

裏門跡
内堀に架かる門(大手門、表門、黒門、山崎御門)のひとつ。

橋に接して櫓門が建つ。

絵図にはしばしば「冠木門」と記されるが、現地に残る痕跡などから判断する限り、薬医門あるいは高麗門だったと思われる。

 

 

 

黒門跡




「黒門跡」から見る「内堀」

 

 

 

「黒門跡」を通過して、前回周れなかった「山崎曲輪」へ向かいます。

 

 

 

 

 

 

 

「山崎曲輪」が見えてきました!
 

 

 

 

山崎曲輪

山崎曲輪は彦根城最北端に築かれた曲輪で、かつてこの場所には家老の木俣土佐守守勝の屋敷があったが、元和期の縄張り変更で城の正面が大手門から表門へ移行したのに伴って、佐和口門脇へと移った。

木俣守勝は、井伊直政が佐和山城に入る前に居城としていた高崎城で城代家老を勤めていた人物。

凱旋した井伊直孝を迎えた場所といわれている。

 

 

 

 

 

 

 

春には梅や桜で美しい風景になります。

 

 

三重櫓跡
西隅には三重櫓が築かれていたが、明治のはじめに解体された。
 
彦根城には三階建ての建物が3棟(「天守」、「西の丸三重櫓」、「山崎曲輪にあった櫓」)あった。



「三重櫓跡」から見る「内堀」


 

屏風折れの石垣
防御機能が高い。




「金亀公園」と琵琶湖へ続く「内堀」

 

 

山崎御門跡
内堀に架かる門(大手門、表門、裏門、黒門)のひとつ。

橋に接して櫓門が建つ。

絵図にはしばしば「冠木門」と記されるが、現地に残る痕跡などから判断する限り、薬医門あるいは高麗門だったと思われる。

長橋口御門と連動することで高い防御性能を持っていた。



「山崎曲輪」から見る「山崎御門跡」









 

 

 

この先が「梅林」です。

 

時間の都合上行けませんでした...
 

 

 

 

日本100名城 50.彦根城 再々訪【中編】へ続く