2014/9/26 登城BLOGはコチラ

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 目次

※過去訪問重複箇所は赤字

 

 鉢巻石垣と腰巻石垣

 大手門橋と大手門跡

大手門橋塵取石垣の調査と修復

 

 南堀切石塁石垣の調査と修復

 

 

  鐘の丸跡

 鐘の丸虎口

鐘の丸虎口石垣の調査と修復

佐和山城からの移築石垣の発見

 

 天秤櫓(重要文化財)

江戸時代の石垣修復と文化財石垣としての修復

天秤櫓の壁

 

 

 

 

 

 

「旧西郷屋敷長屋門」を直進していくと、
 

 

 

 

「鐘の丸」の石垣が見えてきました。

 



 
鉢巻石垣と腰巻石垣
彦根城の石垣の特徴的な見どころのひとつで、土手の上部に鉢巻石垣、土手の下部に腰巻石垣が築かれている。

コストを抑えつつ防御力を最大限に発揮させるための工夫として、鉢巻石垣や腰巻石垣が考えられた。

鉢巻石垣とは土塁の上部にだけ作った石垣のことで、土塁だけでは崩れるので、これがあると土塁の上部の耐久性が上がるため、建物を建てることができるようになる。

鉢巻とは、土塁の上部にだけ石垣があるためこのように呼ばれている。

腰巻石垣とは鉢巻石垣の逆で、土塁の下部にだけ造った石垣のこと。

水堀や川などに面している土塁では、その水によって土塁が削られてしまうため、土塁が崩れてしまう恐れがる。

そこで水面の少し上の高さまで石垣で固めることによって、土塁が削られたり崩れたりすることを防いだ。

表御門に架かる橋から、南西の大手門までの間の内堀の内側に、鉢巻石垣と腰巻石垣が築かれている。

 

 

 

大手門橋と大手門跡
築城当初の正面である大手門。

内堀に架かる橋の内側に枡形を設け、橋に接して高麗門、内側に櫓門を建てて両者を瓦塀が囲む厳重な構え。

大手門は彦根城の南西に位置し当時は大坂城への抑えから、軍事的に重要な位置を占めた。

大坂の陣で豊臣家が滅ぶと次第に重要性が失われ、表御殿がある表門が日常的に使われるようになる。

ただし、正式的な門は大手門とされ朝鮮使節団の一行が宿営地も大手筋の寺院などを利用している。










「大手門橋」から見る「内堀」









「一の門付櫓台」
 




 

かつての二の門は櫓門として厳重な押さえとし、大手橋に平行するように多聞櫓と2重櫓が配置することで敵からの進入を阻止するような工夫が見られた。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
大手門橋塵取石垣の調査と修復
大手門塵取石垣は、彦根城の内堀に架かる「大手御門橋」城内南側に位置する。

調査・修理前は大手門橋の城内側の橋台から内堀水面に向かって緩やかに下る斜面となっていた。

石垣解体修理前の発掘調査によって、船着場のような長方形の空間と石階段を検出した。

長方形の空間は全面に川原石を主体とした石が敷き詰められていた。

一部でその下部を確認したところ、0.1メートル前後の深さで彦根(金亀)山を形成する地山を検出した。

またそれを掘り込んで大手枡形虎口に伴う櫓台石垣の基底石(根石)を設置し、その際に全面に石を敷き詰めて石垣の安定を図るような仕事がされていた。

長方形の空間を形成する腰巻石垣の裏込めは、その築石背面から約1メートルの幅を持っており、しっかりとした構造の石垣であることがわかった。

明暦2年(1656)の山鹿素行が執筆した軍学書「武教全書」によると、この施設は「塵取」とされる施設に該当する。

「塵取」は、堀にたまった塵芥の類を取り集めるために、城内から堀に降りる口で、土居や石垣が途切れた空間に石階段などを造って、水面へ降りられるようにする施設のこと。

城外から侵入されやすいという欠点があることから、主として本丸など内部に設けて最外部には造らないという施設。

ここに船を備えて置いて、ひそかに外部と連絡する場合にも利用できる施設とされている。





 

 

 

「大手門」の先に券売所があります。

 

【名称】 彦根城(玄宮園を含む)
【住所】 滋賀県彦根市小金町1-1
【電話】 0749-22-2742
【開場時間】 8:30~17:00(天守最終入場は16:45まで)
【入場料】 一般 800円、小・中学生 200円
【休園日】 年中無休

※ 2020年2月21日時点の情報です

 

 

 

「大手山道(大手門坂)」を登ると、

 

 

 

 

「天秤櫓」が見えてきました。

 

 


 

振り返る。
 


 

 

 

南堀切石塁石垣の調査と修復
天守がある本丸より南の堀切内の石塁を構成する石垣。

落とし積みの傾向のある石垣であり、以前より、築城後に増設された石垣か、修理された石垣と考えられていた。

解体調査の結果、裏込め内の栗石量は少なく、築石に背面土の土圧がかかりやすい構造であることがわかり、さらに江戸時代の瓦が出土したことから、築城当時の石垣ではないことが追認できた。

平成21年10月、台風に伴う豪雨により崩壊した。

それ以前から大きな膨らみが生じていた石垣であり、写真撮影と測量による状態把握が完了していたため、崩落石を調査の上、もとの位置に積み直すことができた。









 


 

鐘の丸跡

築城当初、鐘楼が当地に存在したため鐘の丸と称すが、鐘の音が城下北方にとどかなかったため、太鼓丸の現在地に移設した。

この鐘の丸には「大広間」や「御守殿」などの建物が存在したが、大広間は享保17年(1732)に解体されて江戸へ運ばれ、彦根藩江戸屋敷の広間に転用された。
 





「南西隅櫓台」









これは何の跡?


 

鐘の丸虎口
鐘の丸の正面玄関。

往時は、城門と番所があり、石垣の上は多聞櫓と塀で厳重に防御されていた。
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

鐘の丸虎口石垣の調査と修復
攻め手に威圧の意味などを込めて、城門手前の石垣に二つの「鏡石」が配置され、威風堂々とした面構えだった。

しかし、その「鏡石」から上部が膨らんだ状態が長らく続き、崩壊の危険性があったために文化財修理としての修復工事を行った。

遺構確認調査では、石垣の上部に建っていた「二階御多聞櫓」と「御多聞櫓」の二棟分の基礎が良好に残っていることが確認できた。

石垣の解体調査では、石垣に向かって左側の一部が江戸時代の中で積み直され、城門や番所が改修されていたことが分かった。

一方、向かって右側や根石については、石垣背面の裏込め土に江戸時代の瓦の破片などのゴミが混入していないことなどが確認できたことから、築城当時の石垣であることが確実となった。

解体修理の原因ともいえる「鏡石」は背面に奥行きが全くない平らな石を縦に据えていたことがわかった。

石垣の解体・修復方法は、解体対象の築石にすべて番付けして丁寧に解体し、同時に築石裏込めを発掘調査により解体し、石垣勾配が正常になる形ですべての石を元あった配置に戻している。

石垣の上で検出された多聞櫓の基礎石も元の位置に戻して再び地中で保護している。



石垣修理前状況

鏡石が前倒しになり、上部付近の石が横たわっていた。





石垣解体前の発掘調査で確認した多聞櫓の基礎





石垣解体完了状況





石垣保存修理範囲

 

 
佐和山城からの移築石垣の発見
鐘の丸虎口の石垣は、解体調査の結果、その大半が石垣構築当初のものとわかった。

その際に、調査区壁中央上部に人頭大の石がまとまって出土したことや、その右側に栗石が多く、左側はほぼ土のみであるという状況が確認できた。

この右側の土層堆積は周囲の石垣の状況から、解体石垣の背面に築かれた鐘の丸西面石垣の断面と考えられる。

鐘の丸西面石垣立面を詳しく観察すると、湖東流紋岩(火山岩)とチャート(堆積岩)の二種類の石材で築かれている特殊な石垣であることを確認した。

これは彦根城跡の石垣のほぼすべてが、湖東流紋岩の築石で築かれたものといわれていたことと大きく異なる。

複数の石材で構成され、しかも同質の石材で築かれた石垣を持つ城跡を滋賀県内で探した結果、本市所在の佐和山城跡にしかないことがわかった。

佐和山・彦根山ともにチャートの山だが、青色系のチャート(一部は泥岩の可能性あり)は佐和山城跡でのみ確認できる。

これらのことから、鐘の丸西面石垣の築石は佐和山城より持ち込まれた石材で再構築された石垣と考えられる。

文献資料から、鐘の丸が最初に完成した曲輪であることや、井伊家が佐和山城(旧城)から彦根城(新城)へ居城移転する際に、部材を移したと言われていたが、具体的に石垣遺構から説明できるようになった。

なお、移築石垣の付近には、墓石部材を築石に利用した石垣もあり、新城築城にあたっては、真っ先に古材(転用材)を利用して築城を開始し、その後、新たに新材である湖東流紋岩を調達して、全山総石垣の城郭が完成したことがわかる。









鐘の丸の虎口石垣と西側石垣





鐘の丸虎口石垣解体完了状況(平成24年度)

 

 

 

「鐘の丸跡」と「天秤櫓」は廊下橋で結ばれています。
 





 

 


空堀を跨ぐようにして鐘の丸から天秤櫓の門へ架けられている木製の橋で、もともとは橋に覆い屋根と壁がつけられていた事から、廊下橋の名で呼ばれています。

この橋にかつて屋根や壁が設けられていたのは、城の防備のために城兵の移動を敵方に知られないようにするためでした。

なお、この橋には「落とし橋」としての機能もあり、非常時にはこの橋を落下させ、敵の侵入を防ぐ事ができるようになっています。





 

 

 



 

 

天秤櫓(重要文化財)
この櫓は、豊臣秀吉が創築した長浜城大手門を移築したといわれているもので、ちょうど天秤のような形をしているところから天秤櫓と呼ばれた。
この形式は、わが国城郭のうち彦根城ただ一つといわれている。

嘉永7年(1854)に中央部から西方の石垣を足元から積み替えるほどの大修理があり、東半分の石垣が※1ごぼう積みであるのに比べ西半分は※2落とし積みになっている。
 

 

※1 野面積みの一種。胴長な石を用いて、短径面を前面に出し、長径面を奥にする積み方。粗野に見えるが堅固な石垣となる。

※2 打ち込みハギなどの石を用いて、上から石を落し込むように積む方法。

 

 
 
 
天秤櫓は、天秤ばかりのような廊下橋を中心に左右対称といわれているが、左右の窓の数が違う。
(正面の壁の厚みに防御策あり)
 




両端の二重櫓は、右(東側)が江戸に、
 
 
 
 
左(西側)が京の都に正面を向けた時代背景を反映した形で建てられている。
 
 
江戸時代の石垣修復と文化財石垣としての修復
江戸時代の石垣修復では、壊れた部分のみを最小の範囲でその時点での最新技術で修復が行われる。

この結果、石垣の一面で異なる石材加工がなされた築石が混在し、また、異なる積み方がなされたという特徴がある。

一方、文化財保護法で、特別史跡に指定された彦根城跡は、石垣そのものが国民共有の財産である文化財となっている。

これは次の世代にも先人が築き上げた宝物を残していくための法的な保護措置。

解体修復の際には十分な調査の上で、その成果に基づいて江戸時代の石垣の姿に近づけるための修復工程が必要となる。

この結果、周囲と違和感がなく、一見するとどこが修理されたのか分からなくなるという特徴がある。

現在は、文化財保護の観点で文化庁長官の許可のもとで修復が行われるが、江戸時代は軍事施設の管理という観点で幕府の許可が必要だった。







 

天秤櫓門は、侵入者が門を突破しようとして扉の下に梃子を差し込むのを阻む「蹴放」と、扉門を持ち上げて外そうとしても押さえつける「まくさ」を仕組んだ城門になっている。

 

 


 


 

 

 



門をくぐった先は「太鼓丸跡」
 

 


 

 


 

表坂・大手坂・鐘の丸の敵陣に対応した、コの字型に配置した城門と両側の続櫓になっている。

 

 


 

内部へ。

 



 

櫓は武具などを保管する武器庫として活用されていた。

 

柱にはチョンナ目(手斧で表面をうろこ状に削ること)がある。

 



 

 





 


 

東側の窓から、佐和山(城跡)と彦根城表御殿(現彦根城博物館)全景が見える。

 

 


 

 

天秤櫓の壁
天秤櫓の壁は、防火や防弾のために厚い土壁となっている。

土壁は竹を縦横に組んだ竹小舞を骨組みとして藁縄を絡め、それに荒壁、中塗り、白漆喰の順に塗り重ねている。

建物の外面は、柱などを土壁で完全に塗り込める「大壁造り」、内面は柱を見せる「真壁造り」となっている。

また、敵が攻め寄せる外側は、防弾の効果を高めるために壁を二重に造って一段と厚くしている。

その厚さは30センチを超えている。

このように厚くなっているのは、防弾が必要な壁面の中位より下であり、それより上方は通常の土壁としている。

二重壁のある側が、「大堀切」に面した外側になっている。



大壁造りの外面





真壁造りの内面

盛り上がっているのが分かる。





壁を二重とした外側
 

窓の格子木は、弓や鉄砲等で敵陣を広く狙えるように菱形の木材を使用している。
 

 

 

 

日本100名城 50.彦根城 再訪【中編】へ続く