日本100名城 50.彦根城 再訪【後編】はコチラ
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目次
二の丸跡
馬屋(重要文化財)
馬屋の構造
家老 木俣屋敷跡
佐和口
いろは松
二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)
パンフレット及び資料
井伊大老(直弼)歌碑
京橋口門跡と雁木
旧西郷屋敷長屋門(彦根市指定文化財)
切通口御門跡
まとめ
二の丸跡
この建物はL字形をしており、佐和口門櫓に接する東側に畳敷の小部屋、対する西側近くに門があるほかは、すべて馬立場と馬繋場となっている。
全国の近世城郭に残る大規模な馬屋として例がなく、国の重要文化財に指定されている。
前方の馬つなぎ柱には、手綱通しの金具が上下2段に設けられており、ここに馬の手綱を縛った。
また、上部には桁を渡し、一対の猿耳を取り付けて馬の胴部に回す腹掛けを固定していた。
一方、床は板張りとなっているが、その下を擂鉢状の漆喰製叩きとし、もっとも低くなる中央に甕(かめ)を1つ配している。
馬の排泄物を処理し易くするための工夫。
こうした馬屋の他にも、かつて表御殿の玄関脇には客用の馬屋があった。
また、玄宮園やお浜御殿などの下屋敷には、馬場があって馬の調教が行われていた。
武門をもって知られた彦根藩では、戦のない時代を迎えても、著名な兵法家や武術家を多数召し抱えて、藩内で武術が学び継がれたのだ。
馬術も例外ではなく、2代藩主直孝に召し抱えられた神尾織部の「新当流」をはじめ「大坪流」「大坪本流」「八条流」などの流儀が普及する。
8代藩主直定はとくに馬術を好んだ藩主として知られているが、藩士も250石以上は馬扶持を支給されて馬を所持し、馬術の修練を怠らなかった。
こうした馬に関する役職として馬役がある。
彼らは藩主の馬の日常的な管理・調教を行うとともに、藩主やその子弟、そして藩士に馬術を指南した。
馬屋の馬たちも彼ら馬役によって維持され、藩主などに供されていた。
木俣氏は三河武士で、彦根藩木俣氏初代守勝は、井伊直政と同じく徳川家康の家臣であったが、徳川氏の武田氏攻略後、武田遺臣を井伊直政の付属とした時、家康の命により甲州侍の物頭として直政の与力に付けられたという。
直政が関ヶ原の戦いでの鉄砲傷がもとで翌年他界すると、嫡男・直継がまだ若年であったため、守勝が藩主に代わって家康との交渉役となり、彦根城築城の命を受けたという。
築城当初は山崎曲輪に屋敷を構えていたが、大坂の陣後の元和普請時にこの地に移転したとのこと。
木俣家は江戸期を通じて彦根藩筆頭家老を務めた。
佐和口には、かつて中堀に接して高麗門があり、その内側を鈎の手に曲げて櫓門が築かれていた。
城門の形式としては最強の枡形で、重厚な構えとなっていた。
この松は土佐松で地上に根を張り出さず、人馬の往来の邪魔にならないので、わざわざ高知から移植されたものである。
江戸時代は「松之下」と呼んだ。
参勤交代での入国の際、藩主が下馬し、歩行身分以上の家臣が総出で出迎える場所。
この儀礼を荘厳なものにするための舞台装置として、松並木が植えられた
佐和口に向かって左翼に伸びており、その端に二階二重の櫓が建ち、多聞櫓に連接している。
佐和口多聞櫓は、佐和口の桝形を囲むように二度曲折する長屋となっている。
この櫓の内部は7つに区画され、中堀に向って三角形「△」と四角形「□」の狭間が交互に配置されている。
江戸時代から現存する「二の丸佐和口多聞櫓」
現存する多聞櫓の右端は切妻屋根で不自然に途切れ、石垣のみの空地が広がる。
かつてこの地には二階二重の櫓門が桝形を見下ろすように架かっていたが、明治初年に解体されてしまった。
空地はその名残り。
枡形から右翼に伸びる長大な多聞櫓は、「開国記念館」。
昭和35年(1960)に井伊直弼の没後100年を記念する事業として、彦根市民の浄財によって、彦根城の佐和口多聞櫓を再現したもの。
以後、直弼を顕彰する展覧会などが継起的に催され、昭和59年には一部を改装し、「彦根市民ギャラリー」として使用してきたが、平成14年には閉館となる。
平成19年に開催された国宝・彦根城築城400年祭で、「井伊家14代物語」会場として使用され、平成20年10月1日からは展示施設となっている。
【住所】 滋賀県彦根市金亀町
【電話】 0749-22-2742
【開館時間】 8:30~17:00(入館は16:30まで)
【入館料】 無料
【休館日】 12月25~31日(臨時休館あり)
※ 2020年2月21日時点の情報です
「佐和口」を抜けると左前方に「埋木舎」や「護国神社」があります。
今回は時間の都合上行きませんでした。
安政7年(1860)正月(同年3月18日に万延と改元)、直弼は、正装姿の自分の画像を御用絵師狩野永岳に描かせ、この自詠の和歌を書き添えて、井伊家菩提寺の清涼寺に納めたと伝えられる。
この歌は琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために幾度となく心を砕いてきたと、幕府大老として国政に力を尽くしてきた心境をあらわしている。
直弼は、この2ヶ月後の3月3日、江戸城桜田門外で凶刃に倒れた。
その1つが京橋口門。
京橋口門は、第2郭の重臣屋敷と第3郭の本町筋の間にあり、内堀の大手門にも通じる要所に位置している。
門の内側に設けられた枡形には、かつて中堀に接して高麗門(冠木御門)があり、その内側を鈎の手に曲げて櫓門が築かれていた。
櫓門は門の上に2階2重の櫓が乗り、両側に多聞櫓が伸びている。
門の形式としては最強の桝形で、重厚な構えとなっていた。
この多聞櫓の内側には、雁木という長大な石の階段が造られている。
御城下惣絵図に描かれた「京橋口」
京橋口門外観(明治9年)
「京橋」から見る「中堀」
左折れの枡形虎口
「雁木」は、多くの城兵が一度に多聞櫓を駆け上がれるように築いたもので、城を防御するための工夫。
長屋門は、彦根城下では現存する長屋門中最大のもので、特に正面の外観はほとんど旧形を保ち、旧武家屋敷の面影を残す貴重な遺構。
西郷家は遠州(現在の静岡県)の出身で「34家」の1つで家老職だった。
徳川家康に初代は仕えていたが、家康の命で天正10年(1582)、井伊直政の付家老となり、幕末まで仕えた。
彦根藩の当初より幕末まで、同じ土地で替地の無かった家老。
直興の代の頃の西郷籐左衛門は、禄高は3,000石だった。
東辺に長屋門、北辺の西端に高麗門が位置している。
帰り道、「中堀」沿いを歩けばよかったのですが、彦根駅方面に行ってしまい駐車場まで辿り着く道のりが長かった...
マンホールの写真も撮りながら、
石垣の上に櫓があったと考えられ、本丸表口の太鼓門櫓とほぼ同様の建築様式と推定される。
切通口御門は、彦根城を測量した「御城下惣絵図」(江戸時代後期)に描かれており、彦根城東側の出入り口として、外堀(3.8キロ)上にあったとみられている。
ようやく到着。
次は「船町口」「山崎曲輪」「中堀」「内堀」方面を攻めてみたいです。
人気のお城ですが、この時期ばかりは人もまばら。
私にとっては好都合なんですけどね。
実戦を想定して造られている様々な構造、国宝天守は素晴らしい!
ただ、階段が...私には高き壁のようでした。