日本100名城 50.彦根城 再訪【中編】はコチラ
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目次
西の丸跡
西の丸三重櫓(重要文化財)
西の丸水手御門虎口
西の丸水手御門虎口石垣の調査と修復
大堀切と出郭
観音台
露出遺構(水抜き石組桝)
黒門跡
井戸曲輪
彦根城博物館(表御殿)
登り石垣
表門跡と表門橋
西の丸跡
山上部最大の面積を持つ曲輪で、かつてはここに「御文庫」という建物があり、周期に等間隔に櫓が配置されていた。
現在は広場となっている。
天守のように装飾的な破風などはないが、櫓全体を総漆喰塗りとし、簡素な中にも気品のある櫓。
西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置しており、さらに西に張り出した出曲輪との間に設けられた深い堀切に面して築かれている。
西の搦手方面からの敵に備えた守りの要だった。
この建物は浅井長政の居城であった小谷城の天守を移築したとの伝えもあるが、昭和30年代に行われた解体修理では、そうした痕跡は確認されなかった。
●見どころ
1.西の丸は、三重櫓と東側の多聞櫓、西側の多聞櫓からの続櫓で防御されている。
2.三重櫓の三層部分は、監視と見張り用に窓が設けてあり、一、二層は攻撃用として外側だけに窓がある。
言い換えれば、攻めてきた相手を攻撃する櫓と言える。
3.彦根城内には三つの三重櫓があり、西の丸三重櫓(天守・山崎曲輪)はその一つである。
4.西の丸三重櫓は、嘉永6年(1853)に大修理され、柱や梁の8割近くが移築時のものから江戸時代後期のものに取り替えられている。
5.移築時の立証として転用材が、階段の床板や側柱等にほぞ穴痕が残っている。
6.西の丸三重櫓は、湖上からの攻撃や裏門からの要塞として、竪堀・登り石垣や廊下橋の縄張りも施されている。
7.彦根藩筆頭家老の木俣土佐守も常時三重櫓に詰め、湖上の警備・監視に努めている。
内部は「天秤櫓」と同じく、左右で壁の造りが違う。
そして、「天守」と同じく曲がりくねった「梁」。
最上階から眺める景色
かつての武家屋敷跡は彦根西中学校に
天守方面
「西の丸跡」から「出郭」への出入口は枡形虎口になっています。
その出入りをするための虎口は二ヶ所あるが、そのうちの一つが水手御門虎口。
隣接する井戸曲輪にちなんでの名称と考えられる。
絵図の記載から高麗門風の城門が存在していたと考えられ、石垣には城門の一部がはめ込まれていた痕跡や礎石が見られる。
解体修理前の発掘調査は、解体修理対象の石垣に対して、基底部と天端部にわけて行った。
特に基底部においては、これまで知られていなかった建物の存在を礎石の検出で確認することができた。
この礎石は石垣の基底部(根石)が一部で覆い被さる形で検出したため、礎石を設置してから石垣が構築されたと考えられる。
また、石垣と礎石の配列から、両者で一つの構造物を形づくっていたと考えられる。
礎石の上に据えられていた柱に支えられた建物の中に石垣が存在していた。
このような建物は、彦根城跡内では太鼓門や天秤櫓門などで見ることができるため、築城当初の水手御門は櫓門であった可能性がある。
石垣修復に伴う調査で、絵図資料に記載されていない建物が確認できたことは貴重な発見となる。
修理前状況(平成25年度以前)
石垣解体状況(平成26年度)
石垣基底部礎石検出状況(平成25年度)
修理対象石垣配置図
石垣保存修理範囲
大堀切と出郭
大堀切に掛かる木橋の外にあるのが、馬出しの機能を持った出郭である。
「井伊年譜」には、この出郭の石垣は、石工集団として知られる穴太衆が築いたと伝えられている。
藤原鎌足の子藤原不比等が近江の大守に任じられて淡海公と呼び、この土地に住まわれたこともあり、その子藤原房前が護持仏として所持していた黄金の亀の背に乗った高さが1寸8分の聖観音を本尊にして一寺を建立し金亀山彦根西寺観音と名付けた。
それは養老4年(720年)元正天皇の御代のことであった。
その時以来彦根山を金亀山ともいい、後に出来た彦根城を金亀城とも呼ぶようになった。
なお、ここは旧藩時代に出郭があり、合戦の際に質子を入れるため人質郭と呼ばれていたが、今はこの郭も取り払われて残っていない。
門跡を抜け、
「山崎山道」を下っていきます。
振り返って見る「西の丸 三重櫓」
石垣の外側下部に排水孔が設けられており、城内の排水を集めて内堀へ排出するための施設と考えられる。
写真は北腰曲輪の土塁裾に二ヶ所あるうちの一ヶ所で、2.7×2メートル 程度の規模である。
かつては、橋に接して両脇に平櫓を備え二層の櫓門が建っていた。
絵図にはしばしば「冠木門」と記されるが、現地に残る痕跡などから判断する限り、薬医門あるいは高麗門だったと思われる。
「井戸曲輪」の上下の石垣は、高さが10メートルを越える高石垣です。
とくに下方の石垣は高さが19.4メートルあり、彦根城の石垣の中ではもっとも高く堅牢な構造となっています。
井戸曲輪
孤状に築かれたこの曲輪の北東隅には塩櫓が築かれ、周囲は瓦塀が巡っていた。
塩櫓の近くには方形と円形の桝が現存しており、石組み溝で集められた雨水を浄化して貯水するタイプの井戸であったと考えられる。
「塩」 と 「水」 は、籠城戦ともなれば兵士の体を維持するために必要不可欠。
井戸曲輪は小さい曲輪だが、黒門から侵入する敵兵に対する守りであるとともに、彦根城を守備する兵士の生命維持に必要な物品の備蓄が配慮された曲輪でもあった。
再び、「本丸跡」→「太鼓丸跡」→「鐘の丸跡」まで戻り、「表門山道」を下ります。
「天秤櫓 廊下橋」から見下ろす「表門山道」
下から見上げる「表門山道」
城内の山道は、敵のスムーズな侵入を妨ぐため、緩い傾斜と不均一な踏幅の石段で登りにくく造られています。
彦根城博物館(表御殿)
江戸時代初期、彦根城建設の2期工事(1615~1622年頃)の中で建てられ、明治初期に取り壊されるまで、彦根藩政の中核として機能していた。
表御殿が明治時代に取り壊された後、跡地はグラウンドとなっていたが、昭和50年代頃、表御殿の復元建築と資料を保存・展示する「博物館」の機能を兼ね備えた建物を建設しようという機運が高まり、調査が進められた。
発掘調査で建物の跡を確認し、絵図や古写真などの資料も調査し、資料に基づいた正確な復元を目指した。
ただ、文化遺産を展示・保存する施設は耐火構造とする必要があったため、展示・収蔵スペースは鉄筋コンクリート造で外観を復元し、藩主の居室であった「奥向き」空間は、伝統的な木造建築で昔ながらに再現した。
奥向きに面して造られた庭園は、発掘調査により発見されたもの。
遺構や、古絵図に描かれた樹木・灯篭・手水鉢なども再現している。
「天秤櫓」から見る「表御殿」
復元模型(Wikipediaより)
木造御殿(Wikipediaより)
庭園(Wikipediaより)
登り石垣は文字どおり山の斜面を登るように築かれた石垣。
豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮出兵の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城(わじょう)」において顕著に見られる城郭遺構。
日本では洲本城(兵庫県)や松山城(愛媛県)など限られた城にしか見ることができない。
縄張り変更により正面となった表門。
内堀に架かる橋の内側に枡形を設け、橋に接して高麗門、内側に櫓門を建てて両者を瓦塀が囲む厳重な構え。
現在架かっている橋は、明治初期の写真や当時の文献を参考に、3年の歳月をかけ平成16年2月完成した。
門が存在した頃(左下)
「表門橋」から「表門跡」を振り返る
「表門橋」を渡り、「馬屋」へ向かいます。
日本100名城 50.彦根城 再訪【完結編】へ続く