4月に入り、いろんなことがようやくすっきりしてきた。

私の見る世界はどんどんシンプルに。そしてフラットになっていく。

以前紹介した本「嫌われる勇気」のなかに、人間関係の中でひとつでも上下の関係性がある場合、その人は世界を上下でしか見ることができない、というようなことが書かれていた。

何故なら人は、この人とは上下、この人とはフラット(前や後ろや横の関係)な関係と、使い分けることはできないから。

なので、反対に、ひとつでも完全に誰かとフラットな関係性をもつことができたなら、世界には上下の関係はないことになる。

アドラーは人の悩みは全て対人関係の悩みだと断言している。

そしてその中の悩みの大半を占めるのが、人との間に上下の関係性をつくりだすことで、お互いの人生への介入が始まることで起こるのだそう。

これを読んで、人をコントロールしようとする、人に依存しようとする、そんなことが始まるのも、上下の関係性のせいなのだなぁと思った。


自分が正しいと主張し、そうでない人を断罪しようとする。

自分は被害者だ、弱者だと訴え、人から守ってもらうこと優しくされることを要求する。

自分は人のためにしていると思い込み、自分にしてもらう必要のある人をつくりだす。


そんなことが思い浮かび、もう納得せずにはいられなかった。


「無条件に人のそばにただいること」ができれば、私たちはとても平安に生きることができる。


自分を人の中において自ら位置づけするから苦しくなるのだ。

私はまさにこの苦しみを作り出していたと思う。


この本の中ではさらに、自意識から純粋な他者への関心にきりかえていくことが書かれている。

自分をどこに位置づけ、どのように見られたいと望むことをやめて、人と人とはもとから真に対等な関係だという意識のもとに、世界をシンプルに見ていくと、自分への執着はどんどん薄らいでいく。

そしてそこから他者への純粋な関わりが起こってくるのだと思う。

このことは、私がこの数ヶ月を通して各所からヒントをもらい学んできたことでもある。

人の人生をどうにかしようと思わないこと。これは子育てにおいてもそうで、親だから上にいて、子どもに何かを教育し教え込む役割だと思えば、家庭には苦しい人間関係ができあがる。

そうではなくて、親も子も横のつながりである、例えばある面に関しては親は先を歩く人生の先輩であるし、ある面に関しては子どもの方が先をいく場合だってある、という意識でいるだけで、子育てが本当に楽で楽しいものになってくる。

その他の人間関係も同じ。

世界はシンプル、そしてフラット。人生は楽しい。

たとえ完璧でなくても私にもできることはあり、人といることが幸せだ、そんなことを思える今が嬉しい。
















嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え/ダイヤモンド社
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誰もがひとつの命に生まれて来る時、魂にはやりたいことがあるらしい。

魂は命という乗り物にのって人生の旅をする。

見たい景色、辿り着きたい目的地、そんなものがあって、どの命を生きるかを選ぶのだ。

それを覚えている人もいれば、大人になるにつれてだんだん忘れてしまうことも多い。

そもそも、魂がこの命の中に入っていることも疑うようになったり。

でも、大切なことはいつも目には見えないのだ。

愛や響きあう気持ちやそこにある絆も、見えはしない。

心を躍らせるような幸せも、ほっと安らぐ安心感も、形には見えない。




私は亡くなった長男を見送る時に夫と共に優大の魂を感じた。

そして魂からのメッセージも受け取った。

夫が見たのはとてもはっきりした映像だったので、それがなんであったのか、お経を上げて下さったお寺の住職に聞いてみたのだ。

すると住職は「私には見えませんが、それはラジオの周波数のようなもので、チャンネルを合わせられる人もいるんでしょうな~。」と。

何かを証明するような答えではなかったけれど、二人でとても納得して帰った。

そもそも見えないものばかりのこの世界で、たったひとつの現象や、見えないものについて証明しようとすることなんて本当は意味がないのだろう。




私の魂がやりたいことは、愛することと許すこと。

意味などない、条件もない、何も分け隔つもののない「無条件の愛」というものを知ること。

だから、私の人生にはいくつかの、苦しみや怒りや罪悪感や悲しみがわきおこる出来事があった。

その度に、愛そう、許そう、癒そう、としてきた。

生きにくくて、投げ出したくなって、無意味に思えて、それでも「愛したいわたし」がいつもいた。

そんな私のこの人生の地図、今まで歩んできた道のりの意味、それがわかった時、そこにはただ感謝しかなかった。

「あぁ、愛するためにうまれたんだ。すべて与えてもらっていたんだ。」そう心から思った。



誰もが魂の目的をもっているとしたら、あなたはどんな人生を描きたい?

どんな目的にも共通すること、それは・・・喜びをもって生きること。

誰かと比べて物質的に不自由であっても足りないことがあっても、成功してもしなくてもそんなことは関係なくて。


「大切なのは心からの喜び。」


そんなことを思いながら、桜をながめる今日この頃・・。

うちへうちへと自分の中を旅すると見えてくる世界。

自分を見ていたはずなのに、しだいに自分から全体へとつながる。


宇宙の中に自分がただそこに「在る」ことを知る。

つながりを探す必要もなく、すでにそこにあって。。

自分と人とがつながりあっている、裸の心がひびきあっている、そう感じるだけ。



そのままのわたしとして在るとき、そこに見えてくる世界。

正と誤、善と悪、優と劣、光と闇、区別なく一体となってただそこに在る。

私は正しいことしてます。私は善いことしてます。私は人より努力してます。私は人よりわかっています。

「私は、私は・・・してます。だから愛して!」そんなこと、言わなくてもいいんだ。


なにができなくとも、ここにいていい。そこにいていい。みんないていい。どんな自分もいていい。

すでにそこにすべてがあることを知るだけでいい。


「宇宙には上下はない。」


わたしを生きる先に、全てはひとつという光がある。


「大きな大きな家族。」

私の中にあるこの感覚。

まるで自分が宇宙のような、その中を漂う星のような。。


自分が全てで、全てが自分。


「ぜんぶ愛なんだよ~!」そんな優しくて軽やかな声が聞こえる。


生き生きとしたわたしらしい人生が、喜びで躍動するように始まっていく。


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春の光と冬の風が同居する土曜日。

ほころび始めた桜を見に鎌倉山へお散歩に。

夫といろんなことを話しながら歩く。



桜の季節のすぐ後にやってくる夫の誕生日と愛する息子の命日。

私と夫が出会い、その二人を選んで生まれてきた優大は、自分の旅立つ日をパパの誕生日に決めて、そっとその身体から離れた。

優大は喜ぶ日を選んで旅立った。私達にはその優しいメッセージが確かに届いた。


今年は40回目の誕生日と4回目の命日。


一周忌にしっかりと見上げることも出来なかった桜。

ときは悲しみを洗い流し、苦しみを拭い去り、私達の心に暖かな愛だけをのこした。

今年の桜は、私のそんな気持ちのままに、ただただ優しくそっとそこに咲いていた。。


巡り続ける季節の中で、私はようやく、心にいっぱいの光を感じることができるようになったことを知った今日の日。


大切な人を見送ったなら、たくさん悲しんでいい。

だれになんと思われようとも、蓋をして忘れようとしなくていい。

悲しんだ後に、いつか、優しく微笑んでいるその存在を感じるときが必ず来る。

どれだけ泣いてもいい、でも、・・・笑ってもいいんだよね。

ほころび始めた桜を見上げて、喜んでもいいんだよね。ね、優大。






生きていると、本当に、いろんな「とき」が、ある。

生きていること自体が苦しいとき、一歩も進めなくて立ちすくんでしまうとき。

未来が見えず怖くて、今を受け入れるのも辛くて、どこにも光が見えないとき。

ただ通り過ぎる時間の中で、自分の気持ちも居場所もがわからなくて、孤独を感じるとき。


私にもたくさんのそんなときがあった。きっとこれからもあるかもしれない。

でもそんな時、コインの表と裏のように、私の中にある想い。

生きたい、生きていていいと思いたい、勇気を出して前に進みたい。

光を探したい、希望はあると信じたい。

私は一人じゃない、いつも守られていると感じていたい。



よく生きたいと思うから、人は葛藤する。

心から幸せでありたいと思うから、人は自分だけの真実を探そうとする。


どんなときも、どんなときだって、一瞬も無駄なときはなくて。

苦しんだ人程、自分のことを理解でき、人のことも理解できるようになるように、その「とき」の恩恵はいつか必ずもらっているのだ。

なにもできないときには、なにもできないという「とき」を体験している。

だからこそ、動き出したいという想いが生まれてくる。

「とき」の流れが止まることはないのだから。


いいんだよね。それで。そのときのわたし、あなたで、大丈夫。

どんな「とき」もひとまず、自分に、大丈夫、って言ってみるのだ。それでいいのだ、笑。