アベル・カイン信仰のどこが間違いなのか(2) | yosia621のブログ

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メシアを迎えたのですから「蕩減復帰原理、復帰摂理」の「アベル・カイン」は無くなりました。

それが「現在」です。

未だにUCでは「アベル・カイン」信仰によって、兄弟姉妹関係より、上下関係が主となって、命令や服従が叫ばれています。

UCが間違っているとして、(UC曰く)分派に行った方でも・・・

「中心(アベル)を中心として一つになる」
「中心に侍る」
「堕落性はあるのだからアベルを通さすして脱げない」
等、当たり前のように言っている方もいます。

堕落性はアベルを通さなくても脱ぐ環境はあります。

堕落性はご存じのように
神の立場に立てない(自己中心等)
自己の位置を離れる(血気、怒気、浮気等)
主管性転倒(反逆、反抗等)
悪の繁殖(責任転嫁、正当化、噂話等)

一般社会でも、家庭でも「堕落性を脱ぐ」ような環境圏はあります
社会や家庭では堕落性を誘発するような出来事は沢山あります、教会という狭い村より遥かに実践する環境に恵まれています。

社会や家庭で、為に生き、怒らず腹を立てずに、素直に、他人の悪口は慎むよう努力する事を意識して実生活の中で実践し、出来ない時は内省し出直すことを繰り返す。

前回の記事で「メシアを迎える為の基台」が誤用され、堕落性を脱ぐという観点からと四位基台に見立てた「アベルカイン」の「偽原理」の事を書きました。(アベル・カイン信仰のどこが間違いなのか(1) 

日本統一教会では原理用語が原理的でない使われかたがされ、原理の単語を組み合わせて「偽原理」を作って使用してきました。

その偽原理を組織運営に使用したことは大きな過ちです。

メシアが来たはずの今日も「アベルに神が働く」と言います。

これは堕落後のアダム家庭における復帰摂理の説明で、アベルが善の表示体であり、アベルは神が相対し、用いる人物だと言う「メシアを迎える為の基台」の「信仰基台」を根拠にしていると思われます。しかし何度も書きますがメシアは来ています。

神が働くのは「四位基台」です。
良く授け良く受ける授受作用する事で合性一体化した個体、組織に神が働くのです。

未だに「アベルを通さなくては神が取らない」と言ってます。

これも「メシアを迎える為の基台」の「実体基台」でカインの供え物はアベルをとおして供えないと神が取ることができないという事が根拠にされていますが、メシアが来た今日に適応させることは間違いです。

未だにアベルを通さないといけないのであれば、最も身近な「祈り」もそうなります。しかし「祝福中心家庭〇〇の名で報告します」と個人の名で報告しても神が取りことが出来るとうのは皆様ご存知ですよね。祝福中心家庭の祈りを直接神が取ることが出来るとするなら他の事も神は取ることは出来るはずです。

「教会長(アベル・中心)は真の父母の代身」
その文言や姿勢は正しいと思います。
親ならば子供より苦労し、成長の為に必至で共助します。
身を削っても子供の幸福の為に動きます。
信徒も情的関係で支えたい力になりたいという思いは正しいと思います。
ですが実際はそうなっていません。

父母を天一国王と見立てた「勘違い教会長」が多く、「真の父母」の権威を利用し、上からの位置で指示命令を出し、勝利出来ないのは決意がたりないと信徒にその責任を押し付けています。

信徒は子供の養育費までも捧げているのに幹部の子供は塾、習い事、留学とその差は歴然としています。家土地献祭と教育して、信徒の家を売らせて献金させるのに不正幹部はマンションを買います。

勝利しないと「日本が・・・後孫が・・大変に」なるという恐怖によって「従っている」場合が多いです。

組織運用は「アベル・カイン信仰」による服従ではなく、神が働くことの出来る「四位基台」を正しく作らなければならないと思います。

主体対象が合性一体化すれば神が働くのです。
主体である教会長の一方通行(指示、命令)では神がは働らきません。
それは弊害です、良く授ける(愛を注ぐ)と対象から美(孝、烈、忠)が返ってくるのが正しい原理観です。

思い出してください、ダンベリーしかり、水沢里修練会しかり、主体は主体として愛を投入して投入した結果、屈服してその主管下に入ったのです。

教会長や責任者も神様や真の父母を中心としたら兄弟姉妹なんだという根本が失われ、その権威のみ強調され実績追及に利用されました。

兄弟姉妹という関係という心情文化が掻き消され、上下関係が蔓延し組織運営に利用されたのが先か、組織運営、実績向上の為に命令系統確立にアベルカイン信仰が利用されたのか。

偽原理と組織運営の関係は内外なので、原因と結果と言えます。、
原因である内的に間違った原理観があった結果として実績追及組織が出来てきたのでしょう。個々の価値観が狂い実績至上主義に陥り、実績を上げる人が重宝され組織で出世した結果、更に実績至上主義に拍車がかかり絶対価値になって行ったと思います。

メシアが来た今日はアベル・カインを「善悪の表示体」とする必要もなくなりました。
メシアが来たという事は「メシアを迎える為の基台」が造成されたという事なのでアベル・カイン共に勝利した事になるので、あの人はアベル的だとか、カイン的だとかという表現自体改めていかないといけないと思います。

メシア家庭では当然メシアを迎えているので兄弟は本来の位置になります。
堕落以前のアダム家庭なので、長子はカインであり、次子はアベルです。
アブラハム家庭で言えば長子はエソウで、弟はヤコブです。

メシアを迎えたという事は長子権をサタンから返却してもらったわけですから、長子は長子権を奪わずとも長子は長子権を持っているという事になります。

堕落後のアダム家庭のように弟アベルが善の表示体で、より神が相対できると定義する必要もありません。愛は親子から長男、次男へと流れます。長子は長子で次男は次男です。

家庭の秩序から言えば主体は父(夫)であり、対象は妻(母)となり子という事になります。
父が不在の家庭では長男が成人していればその家庭は長男を立て、母は共助する立場であり、弟や妹は兄を盛り立てるという事になります。

弟の位置が復帰原理上のアベルの位置で神が相対しうる善の表示体でるとするならそれは「メシアが来た」という事を原理的に否定している事になります。

なのでメシア(文鮮明師)が来れれたという事は、長子権は現存している息子で長子位置にある顕進氏にあり、弟である亨進氏には長子権はありません。

文師が目指したものは教会という教団の維持や発展だったでしょうか?教団ではなく「世界平和」という運動そのものでしたでしょうか?それが分かれば全て理解できると思うのですが。

<アベルカイン関連過去記事>
文化と組織
分裂と分立。 

【gildongブログ:アベルカインについての教材記事】
アベルカイン ( 13 )

アベルカインはメシヤを迎えるための条件に過ぎない

アベルカインでは長成期完成級を越えられない
アベルカインの弊害(カインの立場)
アベルカインの弊害(アベルの立場)
日本式アベルカインが間違いである理由(み言から)
アベルカインは既に撤廃されている 


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