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友人と話しているとき「米本ブログ『自律と他律 』のプームチャイさんのコメントいいよって」紹介されました。
米本ブログは毎回チェックしているので記事は読んでいたのですが、その後のコメントはまだ読んでいなかったので訪問しました。

考えさせられる内容なので紹介したいと思います。
自律と他律 」プームチャイ氏コメントより引用

(引用開始)
情的作用と知的作用
米本さん 

この記事に、座布団100枚差し上げます。(笑) 
なかなか、言葉にできないことを語ってくださり、感謝感激です。 

もう一つ、付け加えるなら、 
情的作用は人を主体的にし、知的作用は人を受け身にする。 
だから、自律を求めるなら、こころで感じるしかない。 
理屈で納得させても、受け身になるだけで、主体性は望めない。 
教会が「主体的信仰」と長年叫んでも身につかない理由だ。 

人に言われれば反発する。でも自分で気づけば、主体的(自律)になる。 
気づくというのは心の作用だからだ。 
だから言っちゃいけない。これが難しいんですけどね。 
ああ、言っちゃった。(^^); 
[2015/09/15 19:56]  URL |  プームチャイ [ 編集 ]

Re: 情的作用と知的作用

>情的作用は人を主体的にし、知的作用は人を受け身にする。 

だから、自律を求めるなら、こころで感じるしかない。 
理屈で納得させても、受け身になるだけで、主体性は望めない。 

 鋭いです。 
 問題意識が噛み合うかどうかわかりませんが、強制脱会業界で「資料説得」という用語がありました。 

 これは、監禁下(といってもハードではなく、2、3日程度、統一教会に連絡取らず、話を聞いてね-といったソフトなもの)で、資料(聖書と原理書との比較、文鮮明氏を批判する公の活字など)を読んでもらい、それを説明し、ディスカッションすれば脱会する。 
 これを「資料説得」と言った。今では死語になっているけど。 

 1985年までは、資料説得で、どんなに長くても一週間で脱会した。これは複数の牧師の証言です。 

 ところが、それが通じなくなりました。「頭では統一教会の問題はわかったけど、心の底から納得することができない」 

 85年頃以前は「知的作用」で脱会した。ところが、それ以降は「情的作用」が働かないと脱会しない。このことを否定する脱会説得者はいないでしょう。 

 プームチャイさんのいう「知的作用」と「情的作用」。これは対立するものではなく、相対的なものだと考えています。

 勧誘の歴史は詳らかではないけど、黒板伝道時代は知的伝道、ビデオセンター時代は情的伝道だったのではないかと愚考しますが、どうなんでしょうか。
[2015/09/17 19:28]  URL |  米本 [ 編集 ] 

Re: 情的作用と知的作用
米本さん 
コメントありがとうございます。 

私自身、こうやってまとめたとき、当然、反証も考えるわけです。 
知的作用で、主体的(自律)になることはないのかと。

私は知的にみ言葉を聞いて教会に来たのではないか。 
科学者は知的好奇心で、研究に没頭するのではないかと。 

ですからこれは、参考にはなっても定義するほど強くは言えないと思っていました。ですが最近、いや、知から情が誘発されているのではと思うようになりました。

私が教会に来たのは1984年、ビデオセンター時代でしたが、知的に原理を聞いて来ました。ですがそこには、真理を知った震えるような感激、そのような心の衝動があったわけです。 
知的作用が情的作用を引き起こしたとでも言ったら良いのでしょうか。

とすると、昔は知的作用から情的作用が誘発されやすかったが、
今は、知的作用から情的作用が誘発されにくくなったということなのか。 

心が簡単には感動(感じて動く)しにくい時代、そんな世相を反映しているのだろうか、そんな風に考えたりします。


訂正:「世相」ではなく、「教会の実情」と言うのが正しいと思います。
[2015/09/17 21:06]  URL |  プームチャイ 

(引用終わり)
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このコメントを読んでようのように感じ、どう考えるかはそれぞれです。

私はこんな事を思いだしました。
だいぶ前になるのですが、
意的時代から知的時代そして情的時代へと移行されていくと言う話を聞いたことがあります。

意的時代は力の時代で力が支配し、知的時代は知の時代で頭のいい人、経済力がある人がリーダーとなり、情的時代は仁徳のある人、愛情深い人が尊敬され人が集まってくる時代。

ちょっと記憶はあやふやですがだいたいこんな意味で聞きました。

終末(悪しき時代から良き時代への転換点)は情の時代の到来を示し、これだけ情報が氾濫し、様々な見解を個人がネットでいう事ができる、どれが本当なのかという理屈より、情で感じることを優先させるそんな選択をしてもいい時を迎えているようにも思います。

「違和感を覚える。」
「なんとなく違うように感じる」
ここから出発して真実は何かを考える(調べる)。
情から知へ。
そして行動する。

創造の段階で、喜びを得たいとう情から、知(創造原理)が生じ具体的に創造(意)へと移行されました。
からそれほど乖離した考えでもないように思います。

まず「感じる」ことが大切なのかもしれませんね。