文化と組織 | yosia621のブログ

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私が教会に来たころには既に組織論理が文化を主導してきたように思います。
背後に絶対善である神様がいる、御旨(大善)を成すために方法(小悪)は問わないと正当化する事が当たり前になっていました。

親に嘘を言って(事故った、車を買うなどの理由を言って)お金をせびる、返すあてのない借金をして献金し、中には自己破産を推奨する責任者もいるほどです。夫に内緒で教会に金を捧げる、これらは教会員でれば思い当たる事は沢山あると思います。

「返せない借入はできない。」「親(夫)に嘘をつけない。」などど言えば「カイン的だ」「お父様のご苦労を思えばそういう事は言えない」「善悪交差のこの時それは(多少の嘘)は善であり、神が取る条件となる」と当たり前のように説教が返ってくる。

これらは全て御旨の為、神の為、世界の為という美名のもとに行われら実績至上主義でした。そしてその実績で責任者の評価がきまり人事が決まっていった為に責任者達は実績を上げる事が善でありそのような文化を作り上げて行きました。

教会を犠牲にしてでも世界を・・という根本思想に殉ずることなく、反対に組織(統一教会)を維持するために他を犠牲にすることを厭わないという域にはいっています。組織を守る事が御旨を進める事になり組織防衛、組織維持という価値観にスライドして行っています。


その間違いはどこから始まったのか?
正しい思想や価値観によって築かれた文化が組織を牽引しなければならなかったのが、組織論理(組織維持、指示命令系統遵守)がUC(教会)文化を主導し、作り上げてきました。

このように主体、対象が、内的価値観と外的価値観が逆転させたことに大きな原因があると思います。

組織論理、組織維持の為に原理を利用(悪用或いは誤用)してしまいました。
例えばアベルカインがそうです。
「メシアの為の基台」だったはずの堕落性を脱ぐためのアベルの位置(より神側)という文言やカインの完全屈服の道を組織論理に当てはめ組織の命令系統をスムーズにする為に誤用しました。より上司をアベルとし神に近い、絶対に従う事で部下はカインとして堕落性を脱ぐことができるという誤用です。

教区教会(当時はブロックや地区)の責任者は父母の代身として教育されました、93年頃から主の国である韓国から牧会者が来日しました。文師と同じ国の中心者が来たと言って以前にもまして「メシアの代身色」は濃くなっていきました。

日本人の時は「父母の代身」を「親の代わり」として誰よりも苦労しメンバーを愛し神の御旨を成そうという雰囲気はありましたが韓国人牧会者は「父母の代身」を「玉座にいる王の代身」として捉え、ふんぞりかえっている人も多くいました。

そして韓国人牧会者のその価値観や態度は正しいとした現場の信徒の態度もアベルカイン信仰に拍車をかけました。意義申し立てをすればカイン的、不信仰とされる教育が行き届いていた事が互いの不幸の連鎖になっていきました。

韓国牧会者の中にも真面な方もいて日本に来た当初は「壺に敬礼している信仰はおかしい」「韓国にはアベルカインという信仰観はない」と発言していた人もいました。それが今は清平による教会内霊感商法推奨し、逆輸入されたアベルカイン信仰を利用して献金を募る主体になっているし、最後まで抵抗した韓国牧会者の方々は解雇されたか辞職しています。

教会組織運用はアベルカイン(メシアを迎える為の条件)ではなく、家庭や国といった主体と対象による授受作用(善や目的や神様を中心)によって運営し発展していくのが正しい原理観です。

文師はその組織を解体して各家庭が独立し訓読家庭教会、家庭連合を推進しようとされましたが結局未だ成されていません。

おかしいとは思いつつも組織文化の中で長年生きてきたのでその価値観から抜け出るのは容易なことではありません。距離をおき御言や原理講論を読み直しながら「信仰生活」を「総括」してようやくはっきりと教会の組織運営は間違だと理論的にも心情的にも倫理的にも言う事ができるようになりました。

今後も様々な団体や組織に関わって生きて行くと思います。
全てにいえる事は文化が組織を牽引し主導しないと思わぬ方向に行ってしまうという事です。

営利にしろ非営利にしろ、法人にしろ個人にしろ何の為にその団体があるのかという事を忘れず、そして主体と対象の善を目的に授受作用すれば発展する事を通じて原理の正しさを立証し神を証すことが出来るのです。


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