心の休憩室 ~ 人間関係・親子関係・仕事の悩み・お金の悩み・スピリチュアル等

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NLP(神経言語プログラミング)の観点から心の問題や人間の悩みに
ついていろいろと書いています、又精神的に疲れた方、人間関係で
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人生の輪ワークシート
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今度私のブログがアメーバーオウンドに引っ越しすることになりました。それにブログ名も変える事にしました。

ただ記事が多すぎて編集にもう少し掛かりそうなので今しばらくお待ちいただければ思いますただURLにはアクセスできるのので

記事編集のものがまだなので少し読みづらいかも」しれませんがそれでもよかったら過去記事等を楽しんでいただけると幸いです。新規一転よろしくお願いします。

それからアメーバブログのほうもしばらく残しておきますので

ブックマークの変更をよろしくお願いします。

 

新しいブログ名は

鬱の事に関して,もっと知ろう。今は、心を病んでいる人達が沢山いる時代。

 

ぜひ見に来てくださいね(笑)気に入った記事があったらコメントお願いします。

 

追伸の追伸

 

メーバーオウンドはPCからでしか操作できないので今後安いサーバーを借りてワードプレスでの引っ越しも検討しております。

Ameba Owndアプリ提供終了のお知らせ(PC版は引き続きご利用いただけます) | Ameba Ownd Blog

詳細は後日お知らせします。

言われなくてもできる人・察する人)に頼きるのは、ある意味上の立場の人は甘えの要素がある。

皆さんこんにちは今日は誰かに仕事を頼む又は指示をする時の事について思った事を書きます。

まず、仕事をしていて、特に細かい指示を出さずに仕事を頼んでも、意図どおりに完璧に仕事を仕上げてくる人が希にいます。日本の会社だと、このような「言われなくてもできる人・察する人」は所謂非常に優秀な人だとみなされる場合が少なくありません。

「言われなくてもできる人・察する人」もっといえば、1をを聞いて10をも知ってしまう忖度のできる人、もしくは、そのように理解度の早い人は、一緒に仕事をするのは、ある意味では非常に気持ちのよい事でもあります。

 

もっとも、「言われなくてもできる人・察する人」はそれほど多くいるわけではありません。そもそも、「言われなくてもできる人・察する人」だと思われている人も最初から「言われなくてもできる人・察する人」だったということはなく、このような人は、豊富な業務経験の蓄積から言われなくても他人の意図(忖度(そんたく))が汲めるようになったという場合がほとんどです。それを新人に「言われなくてもできる人・察する人」であることを求めてもそれは叶いませんし、標準から大きく逸脱するような指示は、「言われなくてもできる人・察する人」が相手であっても、言わなければやってもらえないのが普通なんです。そして「言われなくてもできる人・察する人」に完全に依存しきってしまう様な、所謂人に仕事を付けると言うやり方、仕事の進め方は、どこかで必ず破綻して、行き詰まる事になっていきます。

 

もしこれが例えば、チーム等で仕事を進めるとしたならば、やはりコミュニケーションは適切に行わなければなりません。そこで今日は、もし仮にそんなチーム内における適切なコミュニケーションの方法、特に仕事の指示の与え方ついて考えたいきたいと思います。
 

日本では、高コンテクスト文化・欧米では、低コンテクスト文化である。
 

まず、チーム内におけるコミュニケーションについて考える前に、まずはコミュニケーション全般について考えてみましょう。コミュニケーションのもっとも標準的なものは言葉を用いて行うコミュニケーションですが、コミュニケーションで表明される意図は必ずしも言葉にすべて含まれているとは限りません。言葉で表現する事ができないもしくは難しい、非言語の領域等も含まれていて、コミュニケーションの際には、言葉の字面だけでなく、コンテクスト(文脈)等も読むことも、重要になってきます
 
たとえば、「いつものあれやっておいて」と上司から曖昧に指示されたとして、「いつものあれやっておいて」と言う曖昧な言葉だけいくら聞いていても、そんな曖昧な指示の内容は特定できません。このような曖昧な指示でも部下が自分が何をすべきか察して動くことができるのは、この指示が出された状況や普段から自分がしている仕事などのコンテクストを頭の中で参照し「いつものあれ」が実際には何を指すのかをきちんと特定できているからです。前述の「言われなくてもできる人・察する人」はこのコンテクスト参照能力が優れている人だと言い換えることもできます。
 
コミュニケーションの際、どの程度コンテクストを参照する必要があるかは文化圏によって異なります。例えば日本は、高コンテクスト文化、欧米等は、底コンテクスト文化とも言えます。現にアメリカの文化人類学者であるエドワード・T・ホールは、その頻度によってその文化を高コンテクスト文化、低コンテクスト文化に分類しています。高コンテクスト文化では実際に言葉で表現できていない又は難しいと言う、非言語の内容まで相手に伝わることを前提としてコミュニケーションが行われ、低コンテクスト文化では言葉で表現できていない非言語の領域では、基本的には伝わらないとしてコミュニケーションが行われているのです。
 

日本人は、曖昧な表現を好む傾向がある、それは、察する事を美徳とする文化(忖度)から来ている。


お気づきのように、日本はかなり高コンテクスト文化の国です。一方で、欧米は低コンテクスト文化だと言われています。よく「欧米人ははっきりとノーを言う」という話を聞くことがありますが、これは「言葉で表現していないことは基本的には伝わらない」という低コンテクスト文化の発想に照らせば納得できます。
 

高コンテクストなコミュニケーションにつきまとう忖度と言うリスク
 

高コンテクスト文化も、低コンテクスト文化も、別に優劣があるというわけではありません。日常生活を営む上では、自分の国の文化にあったコミュニケーションスタイルをつらぬけばそれでよいとは思います。

ただ、ビジネスの世界に限定すると、高コンテクストなコミュニケーションには大きなリスクがつきまといます。

相手がコンテクストを正しく読んでくれることをも前提の上で過剰な期待して仕事を投げた結果、意図とは違う結果が帰ってきて手戻りが生じるということは少なくありません。
 
高コンテクストなコミュニケーションは、実は、失敗した場合には、お互いが嫌な思いをします。仕事を依頼した人は「そのぐらい、いちいち言われないでもわかれよな」という気持ちにもなり、依頼された人も「やって欲しいことがあるなら、まずは、きちんと指示をしろよ」という気持ちになります。コミュニケーションをケチった、もしくは、端折った結果、逆に仕事の量が増え、チームの雰囲気も更に悪化するというのは悲劇です。
 

仕事は「振る側」にも大きな責任がある事を、忘れてはならない!

特に、日本の場合、「言われなくてもできる人・察する人」のような高コンテクストに対応可能な人が非常に優秀だとみなされることで、「言われないとできない人・察する事が出来ない人」の評価が本当に不当に下げられることがあります。しかし、よくよく考えてみると、実はおかしな話でもあります。
 

この場合、一番責められるべきは仕事を振られた側ではなく、安易な考えで雑な仕事を振った側の人間です。相手が「言われなくてもできる人・察する人」だからといって、それに甘えて雑に仕事を放り投げ続ける事は、本来許されるべきでは無いのです。ましてや、相手が代わっても同じような曖昧な指示を続け、それで前任者と同じように自分の思い通りに動かないからと言って相手を怒り怒鳴り散らすのなんて論外です。
仕事を振る側には、振られた側以上に重要な仕事を振る責任と言う物があることを忘れてはならないのです。
 

コミュニケーションミスを防ぐために気をつけるべきこと

そうは言っても、「じゃあなにか、何から何まですべて細かく指示するなんて非現実的な話だろ!そんな時間があるなら自分でやった方がマシだ!」と思う人もいるかもしれません。別に、すべてを細かく指定・指示しろと言いたいわけではないのです。大切なことは、要所でのポイントを適切に伝達する事です。具体的には、どんな仕事を指示する場合にも、以下のポイントだけは外さずに伝達するように心がけるべきです。
 

仕事を振る場合の要所でのポイント

第一に、その仕事の目的等は、は必ず伝えるべきです。例えば「資料を作って欲しい」というのであれば、その資料が何に使われるものなのかをきちんと伝えなければ、その目的に向かっていけません。目的が分かりゴールが見えてくれば、どの程度資料を作りこめばいいのか、どのような情報を盛り込めばいいのか等がある程度判断できます。

第二に、成果物のイメージも伝える必要があります。これを実現する一番簡単な方法は、過去の成果物やサンプル(見本)を参考資料として渡すことです。差分があるなら、差分について過去の成果物に照らして説明します。過去の成果物がない場合は、ある程度時間を使ってお互いのイメージのすり合わせをするべきです。

第三に、必要な情報の参照方法も伝達しなければいけません。仕事を進める上で何を見ればいいか、誰に聞けばわかりそうかなど、自分が知っている情報は依頼をした時に一緒に伝えましょう。これを怠ると、相手が一からこれらの情報をさがすことになり、貴重な時間が大きく失われます。

最後に、締め切りも必ず伝えましょう。締め切りを伝えずに、自分の勝手な都合で突然それもいきなり、「そろそろできた?」などと聞くのは余りに反則です。理想を言えば、相手と相談して締め切り日いつなのか、決められるとさらによいでしょう。
 
以上の4点に気をつけて仕事を依頼するだけで、コミュニケーションミスによる事故はかなり減ります。雑に仕事を放り投げて「言われなくてもできる人・察する人」に頼りきって依存し甘えるのではのではなく、「きっちりと言うべきことを言う人」を目指していただければと私は、思います。要は、人に仕事を付けるやり方ではなく、仕事そのものに人を付けるやり方を実行するべきだと思います。

というわけで今回の投稿は、どうでしたか?
又よろしくお願いします。
 
本間義昌でした。
 
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どうもこんにちは、ブログの更新です少数ながらも読んで頂いてる

皆様に改めて感謝申し上げます、

 

今日はある一冊の本を読んで、今の自分に最も必要な本かもしれないと思い

 

ある書籍の紹介をさせて頂きたいと思い

 

アマゾンの電子書籍(キンドル版)も公開しているのでよろしければ

 

キンドルアプリ等をダウンロードしてダウンロード購入をなさってください。

 

 

それでは紹介させていただきます。

 

 

あなたの強さは、あなたの弱さから生まれる、

 

この本の著者さんである小澤 竹俊さんはもう余命幾ばくもなくただ大人しく死を待つ以外にない多くの癌患者さんを看取ってきた言わばホスピス医としてそれこそ多くのどう治療を施しても助からない多くの癌患者が亡くなる様を看取ってきた実績があります。

 

毎日多くの癌患者を看取った末に見えてきたものがあったそうです。

 

毎日多くの癌患者の皆さんがいつ死ぬかもわからない極限の恐怖で自分の死が目前と迫っている患者さんに対して何も声をかける事も「全力を尽くします」と声をもかけることも出来ずそれどころか「健康に生きているお前に、俺の気持ちがわかるか!」「他人事だと思って、適当な事を言うな!」逆に心を閉ざしてしまいました。只何もできないなにもしてやれる事が無いと激しく自分の無力さに嘆いていたそうです。

 

人間や動物・植物でさえも死と言う絶対的な物から以下に健康で長寿だろうとあらゆる生命体である以上死そのものから逃れることが出来ないのです。植物だって土から養分を吸い取れなければやがて枯れて死ぬ運命です

 

人間だって例外ではありません医療の進歩で多少長生きできるのかもしれませんが遅かれ早かれこの世の一切のしがらみをすててあの世に行くことになるのです、どんなにお金を得ようどんな地位や権力を持とうがそのすべてを生きている人に託してあの世に行かなければならないのですあの世持っていけるのは生きてきた経験と思い出だけです、

 

そして死を目前にした患者さんに対してせめて心だけでも軽くする事はできないだろうかと思案の末に

 

患者さんの心に寄り添って丁寧に話を聴いてあげる事にしたのです。

 

そうして行くうちに

癌患者の人たちもすこしづつ心を開いて癌に怯える恐怖心や自分のこと人生や苦労してきた事等

ポツリポツリと少しづつ語り出す様になったのです。

 

そして患者さんも自分の事を少しづつ患者さんが語りだすうちに徐々に顔も穏やかになっていき

そのうち患者さんもある日、気づいたそうです。「今まで自分の力だけで生きてきたつもりだったが、

実は自分を産んでくれた両親や兄妹・家族を含め多くの人間の支えがあったらこそ生きてきた、いや、生かされてきたのかもしれない!」

それを思うとただ家族を含め自分の周りの人たちに心から感謝の思いを抱けるようになったそうです、

結局その方は亡くなったそうですが最後に感謝の言葉を残しているようです

 

すこし話は変わりますが

少しだけ父の話をさせてください。

 

今年の3月25日に原発不明癌と言う癌で他界した父もまだ生きて治療に励んでいる時1月中頃容体が急変して横浜市大医学医学部附属病院に緊急入院しその後に点滴の後遺症で瞼で目が塞がって見えず耳も少し難聴気味でおまけに呼吸も満足に行えず喉を切開にしてそこにチューブを切開して喉に通して如何にか呼吸が出来たという状態です。ですが喉にチューブを通してしまった為、

痰が喉に積もりやすく時折切開したチューブで痰の吸引をしなければならず、

物も食べられない飲めない挙句の果てに言葉も喋れないと言う状態になったので、

胃から直接管を通して栄養を送り込む胃ろうの手術を受けました、

さらに昔の面影と見るも無残に別人の様に顔が異常に膨れ上がって医者の目の前で言葉が出せないにも関わらず筆談で母に対して「俺を見捨てないでくれ」と嗚咽しながら懇願する様子はあんな強かった父が一瞬見せた弱さだったのしれません、

母もそんな父に対して泣きながら「わかったから見捨てないから最後まで見捨てないから」

言っているのを目の当たりにして結局人は、自分の事を分かってくれる人と出会う事が出来た時に本当に死と向き合える強さを得るのかもしれません。

生きる為にやむを得ず胃ろうせざるを得なかったとはいえ、

自分もいたたまず見ているだけでも辛い思いでいっぱいでした、

 

あらゆる治療を施しても治療の手立てがないと言うならせめて死ぬとき迄、好きなものを食べさせて上げたかったなと思います。

 

父にとっては自分の事を理解して常に父に寄り添って生きてきた母を全幅の信頼をしきっていたんだと思います

そして母も父に対して家庭でも仕事でも常に寄り添い合って生きてきたんだと思います

結局は自分を理解し分かり合える人がたった一人でも良いから見つける人生と言う旅を続けているのかもしれません。

そしてもし奇跡的にお互いを分かり合える人が居たら人はどこ迄も強くなれるし勇気を持てるかもしれません。

 

自分の弱さそれも自分の死に真摯に向き合えるようになるとその中から本当に強い自分になるのかもしれない私は思います。私の父も癌に侵されながらも最後まで生きる事を諦めることなく胃ろう迄して生き延びようとしました、そして死の直前まで癌と闘って最後は苦しむ事もなく穏やかに安らかに逝ってくれました。

 

又話は、変わりますが

 

世の中は特に勝ち組・負け組と言う言葉がありますが一体どこの誰に対して何に勝ちたいのか!何に負けたくないのか?本当の強さとは何か!考える時があります、その時、ふっと昔読んでいた漫画を思い出しました。

 

昔、週刊少年ジャンプで連載していた北斗の拳と言う漫画を皆さんご存じでしょうか。

 

昭和の頃にアニメ化もされています

 

只当時はアニメ化されたのは昭和の頃で、このような残酷に相手が粉々になるような残虐極まりないシーンをアニメ化するのは倫理的に不可能だろうと言う意見もあったようですが、今だったら間違いなくR12指定されていたかも知れません。

 

出来るだけ当時の子供たちを考慮した上でアニメ化するうえで色々工夫がされています

 

例えば、血の色を赤ではなく白にしたり

 

相手が吹っ飛ぶさまも赤と黒のシルエットで隠したり出来るだけ当時の子供たちに刺激を与えない様に配慮

されております、

 

読んだ事の無い人に対して大まかにストーリー紹介します。

 

主なストーリー要約すると

核戦争が起こって文明が完全に崩壊してしまった世紀末の世界のお話で人類は生き残ってはいましたが

世界は暴力がすべてを支配する弱肉強食の荒廃した世界に代わってしまって暴力で善良な人々に対し問答無用の暴力で食糧や水を奪っていくそんな殺伐とした世界に

 

そこに

 

何処からとも無く現れた、

主人公であるケンシロウが現れ一子相伝の

暗殺拳法の北斗神拳を使ってどうしようもない救いようのない悪党を次々に退治し行くストーリです。

ちなみに北斗神拳どう言う拳法と言うと相手の経絡秘孔(ツボを)ついて肉体そのものの破壊より内部の破壊を極意とした拳法で主人公のケンシロウが’「あたたたたたた~」と叫びながら相手の経絡秘孔を突きまくり悪党を破裂させていくケンシロウの姿は、分かりやすい強さに憧れていたこともあります、しかしケンシロウの兄弟子で義兄でさらにライバルでもあったラオウの登場によって憧れていた強さとはまた違う強さもある事を知って強さの価値観がぐるりと変わってしまった事を今でも思い出します。

 

ストーリーが進むにつれ

 

ケンシロウとラオウ最終決着の場面でお互いに北斗神拳の究極奥義夢想転生を繰り出しつつも最後に均衡破り勝ったのはケンシロウだった、しかしのちにストーリーが進むにつれあえて自分の暴走を止める為にラオウすなわち自分を倒しtくれる人間を探していたのかもしれないとのちのストーリで明らかになりますが動機が何であろうと負けは負けと素直に負けを認め、

 

ケンシロウに対し「見せてくれこのラオウを倒した男の顔を」とケンシロウの顔を触りその後に「見事だ弟よ」ケンシロウに対して最大の賛辞を送っています。

 

その後、

 

死んだと思われていたケンシロウの恋人ユリアとも再会を果たし核の放射能の影響で余命幾ばくもなかったユリアの命を数年持つよう病状の進行を遅らせる秘孔付き

「ユリアお前の命はあと数年はもとう、残る余生ケンシロウと静かに幸せに暮らせ」本当はラオウも心の中でユリアに惚れていたにも関わらず自分を打ち負かしたケンシロウに譲るなど

並みの男の器量では出来ない事だと思います

 

その後

「さらばだ、ケンシロウ俺もまたトキ(ケンシロウのもう一人の義兄でありラオウの実弟)許に天に帰ろう」と

告げた後

「このラオウ天に帰るに人の手など借りぬと」言い放ち自ら死に至る秘孔を突き

「我が生涯に一遍の悔いなし」叫びながら天高く拳を突き上げて天に昇天してしまいました。

この言葉の通り本当に自分の人生に満足して逝ったのだとおもいます。

 

果たしてラオウは負け犬だったのでしょうか、そうではありません、これが並みの男なら負けたことが悔しくて再選やリベンジを図って修行でも訓練でも躍起になっています。

本当に自分を撃ち負かしてなおそれでも相手を恨むことなく賛辞を送りリスペクトとの出来る人間こそほんとの強く広い器を持った男の中の男だったと思います。

 

漫画でもアニメでもこのシーンは北斗の拳史上に残る屈指の名シーンとして現在の令和の時代でも語り継がれています。

 

今まではケンシロウのファンでしたがこのケンシロウとラオウの最終決着のシーンはラオウこそ男の中の男だと思い一気にラオウのファンになりました。

 

そして

 

分かりやすい強さにしか価値を見出せない人は、

自分の弱さに向き合えずに見かけばかり強そうな振りをしているだけなのでは無いでしょうか。

 

最後に自分の父の事や北斗の拳のラオウを題材にしましたが自分に余命を宣告されてしまってからがその後に残された時間をそして人生を幸せに生きられるかどうかそれにはとことん自分の死に向き合うしかないとおもっております。

 

仏教の世界にも

 

生老病死と言う言葉がありますが

 

生きる苦しみ

老いる苦しみ

病の苦しみ

死の苦しみ

合わせて生老病死と言うそうですが

 

しかし、残念ながら、世の中にはどうしても変えられない現実、どうしても埋められ ないギャップ、

どうしても自分の努力や独力だけでは解決出来ない、苦しみもあるんです。

 

その最も解決できない苦しみの最たるものは、老いや死なのではないのでしょうか? 

どれほど科学が進んでも、人は老いや死から完全に逃げ切ることは出来ないし不可能なんですよ。 

こうした、解決出来ない苦しみを「解決したい」と思えば思うほど、

人は解決出来ない事に苦しみぬくのかもしれません。

 

私もこの本を読んでいて気づいた事がありますが癌を宣告され既にステージ4の段階でどう治療しても助からずに命の期限を切られてしまった本当に絶望している人

この様な人たちこそ実はカウンセリんぐを最も必要としているのではないかと思います

末期の癌患者さんの心にを深く傾聴しその人の心に寄り添い

理解してくれようとする傾聴力こそが死をまじかに迫ろうとしている、

人の心を最後に救ってくれるのではないかと私は思います。

 

私も、このあなた強さは、あなたの弱さから生まれる、を読んで初めて知りましたが

ニーバーの祈りと言うものがあるそうです。

 

ニーバーの祈り

 

ニーバーの祈りは、アメリカの神学者、ラインホルド・ニーバー

( 1892 ~ 1971年)が考えたものだといわれており、 

その祈りとはこの様な祈りです。日本では「平静の祈り」、「静穏の祈り」とも呼称されています。

ちなみに下記の祈りは一部分です

 

「神よ、変える事の出来ない物を静穏に受け入れる力を私に与えてください。

 変えるべき物を変える勇気をください、

そして、変えられない物と変えるべき物を区別する賢さを私に与えて下さい。」

 

というものです。

 

私はニーバーの祈りは、人生における選択の大切さを訴えている物とかんじました。

「解決できる苦しみと解決できない苦しみを見分けて選択する賢い目を持てとこの書籍は自分にそう説いているような気がしてきました。 そして、解決出来ない苦しみに悪戯に悩むのはもうやめて、勇気を持って、解決出来る苦しみに全力を注いだほうが余程、建設的だと私は思いました。

 

そしてこの書籍はこうも解いています

もし人生で人間の努力や独力だけではどうにもならない解決のしようもない事があれば、

 

それは静かに受け入れてしまえとも言っています、また受け入れてしまう事で違った考えや価値観も持てるようです、そして時・時間が解決してくれるのを待つしかないのかも知れません!


どちらにしろこの書籍はあなた強さは、あなたの弱さから生まれる、は自分が読んで見ても本当にいい本で今の自分にどうしても必要な本だと思いまた、それを皆さんとシェア出来ればと思っております、多くの人に読んでただきたいです。

 

 

 

最後にもう一度ニーバー祈りを今度は全文を紹介させてください

 

「神よ、変える事の出来ない物を静穏に受け入れる力を私に与えてください。

 変えるべき物を変える勇気をください、

そして、変えられない物と変えるべき物を区別する賢さを私に与えて下さい。

 

一日一日を生き、
この時をつねに喜びをもって受け入れ、
困難は平穏への道として私に受け入れさせてください。

これまでの私の考え方を捨て、
イエス・キリストがされたように、
この罪深い世界をそのままに私に受け入れさせてください。

あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを私は信じています。
そして、この私の人生が小さくとも幸福なものとなり、

天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると私は知っています。

アーメン

 

そして著者は最後に、この世における死と言うのは、肉体と言う有限から解放され無限の世界に帰る事とその様に述べております。

 

 

これを読んでくれたあなたに感謝します

 

本間義昌でした



 

ブログを更新します。

 

今日はちょっとどうしても言いたいことがあってブログでそれを、あえて言おうと思います。

 

(注)ここから先の文章は特に女性にとって少し表現的に不快に感じる文章がある事をご了承いただきたいと思います。もし読んでいて途中で不快に思われる女性又は男性もそうですが途中でページを閉じるか離脱しても

構いません。しかし、今回どうしても他人事とは、思えなかったのであえて書かせていた事をどうかご理解いただきたいと思います。

 

 

 

実は先日テレビのニュースでこんなニュースが目に入ってきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

事件の概要を一部引用し要約します。

 

先日神奈川県秦野市の畑でビニール袋に入った赤ちゃんの遺体が見つかった事件です、

警察は秦野市に住む10代の少女を死体遺棄の疑いで緊急逮捕したとの事です。 

 

警察によりますと少女は今年5月中旬、秦野市の畑に生後間もない

赤ちゃんの遺体を遺棄した疑いが持たれています。 

 

畑の所有者が異臭を感じて土を掘り起こしたところビニール袋が見つかり、

駆けつけた警察官が袋の中に赤ちゃんの遺体が入っているのを確認したということです。 

 

関係者からの情報提供で、10代少女の関与が浮上したということで、

少女は警察の調べに対し「赤ちゃんを埋めたことに間違いありません」と容疑を認めています。

 

捜査関係者によりますと、遺体は少女が出産した赤ちゃんとみられるということです。 

警察は、遺体の司法解剖を行い赤ちゃんが死亡した経緯についても詳しく調べることにしています。

 

 

私としても誰も救われない誰もが互いに不幸にしかならない結果だけしかなく非常に悲しい結果になってしまいました。

赤ん坊を捨ててしまった10代の少女も妊娠させた男性も、そして何より生きられる可能性があった赤ちゃんが最大の被害者ですよ。

 

もし、その子がもし生きられる可能性があったら、施設に預けるなり赤ちゃんポストに入れるなり、いくらでも生きられる、可能性がまだあったかもしれません。その子が幸せに生きられるかどうかは可能性の話であって正直に親御さんに打ち明けていれば親御さんのサポートをうけながら、子供を育てる事も出来たかもしれませんし、

 

子供のできない夫婦に里親に出すことも出来たはずです。私もこんな形で生きられたはずの小さな命が無残に失われてしまった事に涙を抑えることが出来ませんでした。

 

おそらくその10代の少女も性の知識に乏しく相手の男性からも半ば嫌とは言えず受け入れてしまったのかもしれません。そう言う意味ではその妊娠させた男性も同罪です。もしその子の事を本当に大事に思っているならきちんと避妊をする事もできたはずです、それをしなかったという事は、所詮その子の事もその程度に考えていたのだと思います。私も、男性ですが、同じ男性としてもどうしても許す事が出来ません、その様な屑のような男と一緒にしないで欲しいと思います。

 

それに、親に知られたらどうしようしられたら怒られる叱られるという恐怖もあったのでしょう。

又、自分自身が妊娠している事にすら、気づかなかったかもしれません、薄々妊娠に気が付いても少し大きめの服を着れば幾らでも誤魔化せてしまいますから、妊娠が発覚してもどうにも両親に打ち明ける事が怖くてかと言って中絶する費用も作る事も出来ず遂に産気づいて、産んでしまったのだと思います。産んでしまって、かと言って自分ではどうすればいいかもどう赤ん坊を扱ったらいいのかも分からず少女も気が動転して死なせてしまった可能性があくまでも推測でしかないのですが可能性としてはありだと思っています。

 

今回の事は我々大人にも大きな責任があります、

日本では、ど言う訳なのか、性の知識を禁忌(タブー)し、する扱いが非常に根強く

まだ少年とか少女の癖に性に興味を持つなんてふしだらな所が有るというのは、日本人すべてにその様な

バイアス(思い込みの事)が薄々根付いているのかもしれません、

 

でもやはり思春期の内に男女関係なく性知識をきちんと正確に教えるという事はやはり大人の義務であり

この様な間違いをこれ以上生み出さない為にも必要な義務と大人としての責任だと思っています。

 

ただ一番の問題は何時頃の年齢になったら性の知識を教えるのか、

そのタイミングが分からないから悩んでいるのが殆どでは無いでしょうか。

 

特に男性の場合は相手の女性に特別な好意を持たなくても、女性であれば出来てしまい所があります。何故なら男性が性交渉をするときは基本的には女性の膣口に射精するのが目的だからなんです。正し女性の場合は別です、女子が子供を宿せるのはどんなに何人かの男性と肉体関係があろうと、たった一人の男性の子供しかそれが双子だろうが三つ子だろうが一人の男の子供しか宿せない様になっているのです。その為に女性の方は、慎重に男性を選ばざるを得ない様になっているんです。

それに女性が妊娠できるのも大体15~16歳ごろに生理がきて50歳ぐらいで閉経すると言います。

だから、女性が子供を宿せるのは人間の寿命を考えると非常に短いと思います。

それに妊婦さんが産気づいて、産むときは女性は壮絶な痛みに耐えながら命がけで赤ん坊を産まなければなりません!,下手をしたらすべての気力も体力も使い果たして産んだ後に死ぬ事もあるんです。それぐらい子供を産むという事自体女性にとっては命がけの行為なんです。」

 

男性の場合は15~16歳ごろに精通が起こるので

性の知識を教えるタイミングはそのあたりがベストなのかもしれませんが。

最近では優しい性教育の為に子供にも大人にも学ぶべき書籍があります

 

 

 

 

 

思春期の男女は特にこう言う事に敏感な部分があり、男女と共にその様な事を告白する事が恥ずかしく感じる年頃でもあります、ですから今子供を育てている人特に思春期のお子さんがいたらは何か様子が変だなと思ったら女の子だったら生理が始まったのかもしれない、男の子だったら精通が起こったのかもしれないと、察してあげて気づかないふりをしてあげて欲しいと思います、難しい事は分かりますがそれでも、

察して上げようとする、見て見ぬふりをする優しさは父親・母親共にもってほしい思います。

 

特に男性の場合は思春期・未成年はは特に性欲が有り余っているのでいつの間にか寝ているときに夢精して慌てて風呂場等に行き汚れた下着をこっそり洗うところも父親・母親が見かけたとしても見て見ぬ振りをするのも優しさだと思います。

 

 

 

すこし話はそれますが、

 

よく人間一人の命は地球より重いと聞いたことがありますよね?。

なぜこのような話が生まれたのかと自分なりに推察してみたのですが

それは、おそらく人間だけが知性と感情を兼ね備え言葉を使うことが出来るからだと私は考えております。

もちろん動物にだって例にすれば犬や猫にも感情は、ありますし

実は、最近の科学的な研究では、植物にも感情らしき物があるという事が科学的に証明されてもいます。

 

そして人間だけが言葉を使う事を許された生物なんです。

例え自分たちが使う日本語だけではなく他に英語もあれば中国語や韓国語もあるし

フランス語もあればロシア語だってあります、

ですが言語が異なっていっても言葉を使う生物は人間にしか出来ない事なんです。

 

もし現実に犬や猫が突然言葉使って喋りだしたり話し出したら逆に怖いと思いますよね。

 

これがアニメやディズニーのようなファンタジー映画だったら犬や猫が喋ってもおかしくないのかもしれませんが

それも虚構の世界だからこそ何でもありになってなってしまうわけです。

 

すこし話が脱線してしまいましたが

 

最初の事件に話を戻しますが結論になるかわかりませんが、思春期の子特に男性の未成年等に性教育云々言う前に

小学校5~6年位の高学年の子供たちに対して道徳の時間を使ってでも、

(今は道徳と言う科目があるかわかりませんが!)

人の親になるという事はどう言う事なのか。人の命について、まずそこから子供たちに教えた上であえて子供たちに考えさせて子供たちだけで議論をさせていくべき課題なのではないのかと?と言うのが私の結論です。

 

そしてもし自分たちが親になって子供持ったらどう育てていこうか真剣に子どもたちに想像させてイメージさせてほしいのです。

 

子供たちが真剣に人の命に付いて深く議論し色々意見を言い合いならが少しずつつ人の命に理解を示したのであれぱ、ましてや生まれたばかりのあかちゃんや2~3歳ぐらいの子も虐待等で命を落とす事なく、人の命そのものを考えなかった人の命を知ろうとしないからこの様な救いようのない事件が起こってしまったと思っています。

 

かさねて言えば人が生み出した科学やテクノロジーがどれだけ進歩したとしても細胞一つ葉っぱ一枚まったくの無から、生命一つ作る事も想像する事も、いまだに出来ていないんです。それが人間の科学の限界なのです。

ましてや人間の赤ん坊を袋に詰めてまるでごみを捨てるように遺棄する等どうひいき目に見ても許される事ではありません。

袋の中にまだ赤ん坊が生きていた可能性はあったんですよ。

この10代の少女は小さな幼い命の大切さをもっと理解して海よりも深く猛省してほしいと切に願います

 

それから遅れましたが赤ちゃんのご冥福をお祈りします。

せめて今度は、来世に生まれ変わるときは本当に子どもを愛してくれる心優しい両親の下に生まれる事をねがいます。

 

男と女がSEXする事はいやらしく思う人もいるかもしれんせんがSEXと言うのは男と女の共同作業で協力して一つの命を想像する神秘的な行為だと私は、思います。

 

 

2~3裁位の小さな子供は様々な可能性の塊であり可能性に満ち溢れた人類にとっての未来の希望なんです。

 

貧しい発展途上国のような貧困に喘いでいるような貧しい国はまだ10歳にも満たない子供の両手足を親が一家が暮らしていく為にはこれしか他に方法が無いんだとすまない許してくれと泣きながら鉈で切ると聞いた事があります、その様なテレビのドキュメンタリーで何時だったか見た覚えがあります。

 

現地のレポーターらしき女性の方が親になぜ子供にそんな惨い事をするのか?と聞くとその親が言うには私たち一家は代々乞食や物乞いで他人から物乞いやお恵みを貰って暮らしている、だからこうして手足を切ってしまえば両手足の無い子供は他人から見れば余りにも哀れに見えるので人から施しや恵みを受け取りやすい、のだそうです。この話を私も知って余りにも馬鹿で視野が狭い親だなと思いました。

 

正に貧困は視野が狭くなる原因だと思いました、両手足を子供のうちに切られたその子供はもう一生死ぬまで人々から物乞いして

乞食として生きていかなければ生きて行けなくなった事に変わりはありませんから子供がかわいそうになります。子供にそんな愚かな事をする前にちゃんと五体満足健康に育てて学校にきちんと通わせ、教育を受けさせてせめて字の読み書きや計算等を覚えさせれば、それなりに仕事についてお金を稼いで家にお金を入れる事だって出来た筈なんです、それを両手足を切ってしまったら自分で歩く事も出来なければペン持って字を書くことも自分で本を開いて勉強する事も自分で食事をする事も排泄時にも自分で下の処理も出来なくなってしまうんです、なぜそこまで考えが及ばないのか。食うに困る程貧困に追い詰められば、そこまで視野が狭くなると目先の事しか考えられない良い例だと私は思います。

 

私も既に、50を目前にした年齢になりました。

その間、一度も結婚もせず子供一人作る事も出来ませんでした。

 

だからこそ

 

その希望を幼い内からその希望をむしり取るような事はもうやめて欲しいと思います。

 

子どもを虐待死したりさせるような人は親になる為の大人としての成熟差や覚悟が足りなかったかもしれません。

子どもをそれも幼い子供を虐待死するという事は、人類から未来の希望を自分たち大人が自らその可能性の目を潰して失われて言っている事と同じことであります。

 

テレビに出てる経済ジャーナリストの池上彰さんもテレビで言っておりました。

 

「子供たちの未来に投資しろと」

 

大人たちはそれに気づくべきです。今も幼い命が理不尽な形で虐待され命を奪われている事を、

 

今回は言いたいこと言えてよかったとおもいます

 

これを読んでくれたあなたに感謝します。

 

本間義昌でした

 

 

皆様こんにちはブログの更新の時間です。

 

最近近況報告と言う名目で色々と自分の周りの事で結構語ってしまったように思います。

 

私もうつに罹ってしまいメンタルクリニックで精神科医から薬を処方してもらい、

30分のカウンセリングで困っている事とか悩みを話しています。

おかげで自分自身すこし心が軽くなったように感じます。

やはり頭が整理されて心が浄化されて来ているのかもしれませんね

 

父の死も色々思うところがありますが、

もう少し前を向いて生きたいと思うところであります

 

そして

 

心機一転してこれからは、色々と書きたい事を書こうと思います。

よろしくお願いします。

 

前回のブログで思いと行動がセットになって初めて幸せになれる道筋ができると書きましたが

 

今回はちょっと人間の持つ潜在意識の事について少しお話したいと思います、

 

人間には意識できる表層意識と潜在意識で動いていて約80パーセントが潜在意識で占められています

つまり無意識・潜在意識の力は侮ったら泣きを見ることになります

 

例えば普段からつぶやいてる呟きとか口癖がつい口が滑って本音を言ってしまった事とかありますよね?

 

それが無意識・潜在意識の力でありパワーなので潜在意識の力は強く思えば思うほど強力になっていきますが

逆に間違った使い方をすれば願いも目標もかなうどころかますます遠ざかることになります、

 

 

それから、人によっては、あまりにも潜在意識の使い方をうまく活かしていない様に思います。

一つ言っておきますすが潜在意識は実は広大な宇宙と常につながっているという事を知っておいて欲しいと思います。

 

例えば1億の借金を抱えたとします。その時あなたは、如何しますか「1憶返せたら良いなあ!」

「1億返せないどうしよう」「1億も借金作っちまったもう俺は破滅だ」

とかこう言う言い回しを言っている内は

どんなに願っても借金を抱えている人は返せないと思います。

 

潜在意識と宇宙の仕組み

 

潜在意識にもっと言えば宇宙に願いを届けるためには

きちんと宇宙のルールに沿ったお願いをしなければならないんですよ、

 

それは

 

・「結果をきちんと決めて宇宙にお願い(注文)をする事」

・「ヒントや直感は、最初の0.5秒で掴んで必ず実行に移す事」

・「口癖を、旨く行く口癖に変える事」


宇宙の仕組みは、 宇宙中に溢れてくるエネルギーを、唯々ひたすらに増幅、させてしまうのが宇宙と言う場の性質です。そしてそれを、目の前に、形として形成し具現化する。それが宇宙の性質何ですよ。

 

そのエネルギーの波動として、宇宙が最もキャッチしやすいのが、その人が心の底から信じ切っている事それが言葉や口癖・呟きなのであります。

 

ついつい口癖になって出て仕舞う言葉はつまり口癖や呟きは、

自分自身が心底信じ切っている人生の大前提・信念その物だと思って良いと思います。

たかが口癖と馬鹿にしてはならない、口癖や呟きで相手が何を心の底から信じているか一発でわかってしまうからなんですよ。

 

口から出る言葉は常に振動されそれが潜在意識や宇宙に絶えず言霊のエネルギーとなって宇宙でさらに増幅されそれが自分に跳ね返って来るだけなんです。

 

日頃からの口癖・呟きはまさに宇宙に対して言葉のエネルギーを送り宇宙で増幅されてやがて自分に対して願ったことが跳ね返って来るだけなんです。願いが叶う仕組みとは簡単に言うと自分が口から出した言葉や思いがそのまま増幅されているだけであり自分が発した言葉の持つ(言霊)と言うエネルギーを宇宙空間がひたすら増幅・増幅・増臓してそれが自分自身にはねかえってきているだけに過ぎないのです。

 

人間が陥りがちなNGの口癖のパターンを今から教えよう

・「○○出来ない」「○○返せない」「○○売れない」等の「自虐口癖

・「何とかしてください1」「何とかしてよ!」と言う懇願口癖

・「○○したい!」「○○になりたい!」「○○出来たらいいな!」と言う夢見心地口癖

 

これらの言葉や口癖もしくは呟きは「出来ない」「返せない」「何とかしてください」「したい」「なりたい」

と言う言葉は○○したい!○○になりたい!「○○出来たらいいな」と言う言葉だけ増幅されて結局は○○したい!○○になりたい!と言う現実を引き寄せることになるのである、

 

つまり○○出来ないと言うのも出来ないが増幅されて自分に帰って来る事になります、○○したいと言う事はじゃあいつかは、してみたいのね、○○になりたい」と言うのも今はなれていないのね いつかはなってみたいのね、」とこの様に宇宙は受け取ってしまうんです。そしてその言葉のエネルギを宇宙で増幅させて本人に直接跳返ってくるようになっているのです。これが宇宙の法則の歴然としたルールなんです。

 

同様に「何とかしてください」「何とかしてよ」と言う口癖や呟きも「何とかしてください」「何とかしてよ」が宇宙で御福されて恐ろしい迄の「何とかしてくれ」と言う状況がひたすら宇宙で増幅され押し寄せる事になってしまいます。

 

そのような意味では宇宙の法則は常に杓子定規で善悪も解釈も驚くくらいに無いのが宇宙の法則です

人の口癖や呟きがただひたすら宇宙で増幅され現実となって帰ってきたそれだけなのである。

 

願いや目標をかなえたいときは明確にまずは結果を具体的に決めた後さらに手法や方法や期日も決めた上でをはっきりと口に出していう事。その上で、その為には、最後に「完了口癖にして言い切る事」。 これならば潜在意識にも反応し宇宙にも何の解釈もなくダイレクトに届きます。その上でそれに沿った行動が必要になってくるのです。

 

具体的には

「○○したい!」「○○になりたい!」「○○出来たらいいな!」

 

 

「○○しました!」「○○になりました!」「○○出来ました!」

「○○返せない」→「私は借金を何時迄に○○をこの方法で返しました!

「○○売れない」→「私はこの売れ残りを何時迄にこの方法で売り切りました!」

 

とここ迄設定できて初めて夢や目標が叶う道筋が出来上がります

 

 

これを読んでくれている読者の皆様も

何か目標や夢やなりたい物やりたい事があるのなら

 

「私は何時迄に○○にこの方法でなりました!」

「私は何時迄に○○にこの方法で達成できました!」

「私は何時迄に○○にこの方法で出来ました!」

 

と出来るだけ声に出して言って下さい、

 

出来れば紙に書くのも一つの手法です、

実際に紙にペンで書くのは潜在意識が立ち上がりより明確に願望実現の手助けになってくれるはずです。

 

潜在意識を味方につければ物凄い強力な味方になってくれます、

 

 

これを読んでくれたあなたに感謝します」。

 

本間義昌でした。

みなさんこんにちはブログ更新です。

 

最近は自分の近況報告ばかりやっている気もしますが、もう少しだけお付き合い願いたいなと思っています。

 

今日は、すでに亡くなってあの世にいる父に対して自分にも反省すべき所があったのかもと思い

懺悔するつもりで書こうと思います、そのためにもまずは皆さんにもまずは

亡くなった父の事をまずある程度知ってもらいたいという思いで書きます、

 

生前の父

 

父は山形県の出身で最終学歴が中学卒です。父の祖父は早くに亡くなっていて自分は写真でしか見たことがありません。

父は元々地声が酷く粗々しいがなり声で東北訛りが酷く乱暴な言葉使いしかできない人でした。

学歴コンプレックスもあったようです。人によっては父の事を誤解している人も多くいると思います。

自分もそんな一人でした

 

父の声質はイメージすると心身統一法を世に広めた中村天風さんの声をかなり粗々しく乱暴にがなりたてる東北訛りの酷かった人でした、ただ中村天風さんの音声は同じくがなり声ですがどこか品があり何処か力強い感じです、おそらく前向きで明るい言葉を言っているからなのでしょうか?

 

実際の中村店風先生の肉声がこちらユーチューブに乗っております。

 

 

 

おまけに最終学歴が中学卒だったせいなのか、語彙力も乏しく本も一切読まない、自分の見た事・聞いた事・経験してきた事・だけしか信じない人でした。かといって他人の話は信じやすくよく怪しそうな話を鵜呑みにして信じ込んでしまって何度も騙されかけた所を家族みんなで止めた事もあります。詐欺師とかから見れば父は絶好のカモだったと思います。義理人情に厚く、他人にはお人好しで面倒見も良かったところも見かけます。

 

時には父親らしいところもあったと思います、よく車で港の船着き場に船をチャーターしての海釣りも趣味にしており、よく釣った魚を母に捌かせて刺身にしてよく家族みんなに振舞っていたのを、おぼえております。他に釣り番組も好きでよく見ていましたね、あとは、時たまパチンコに行くぐらいでした。子供の頃両親に一度だけ我儘を言ったことがあります。おそらく小学生ぐらい何年生の時だったか忘れましたがつくば万博に行きたい連れててってと駄々を捏ねたことが事があります、

そしたら父が車で家族全員でつくば万博に連れて行ってくれたこともあります、あいにく会場は人でごった返していて正直見たかったバビリオンには入れず、他のバビリオンに入ることにしましたがそれでも連れてってくれた事に対して素直に嬉しかったと思います、それに正月は毎年、自分を含めた子供たち全員集めてお年玉をくれたのも父なりのやさしさだったのかもしれません。

 

ある意味では、今でいうテンプレ過ぎる程、昭和の厳格な父親を地でいく人だったと思います。

好みの番組も映画等も昔の白黒時代の古い任侠やくざ映画が好きでよくみてました、ちなみに父の好きな俳優は、高倉健さんと菅原文太さん他には、歌手もしてた石原裕次郎も好きでしたし彼の歌もよく聞いていました。

その為雰囲気としては横暴なまるで昔のやくざの親分のような雰囲気を醸し出しているような

近寄りがたい雰囲気が漂っていたことも、事実です。内心では昔の古き良き,弱きを助け強さを挫く極道に憧れを抱いていたかも知れません、

 

そして父は、相手に喋らせるのは嫌いな方で、この人は相手に喋る隙も与えず自分が言いたいことをだけをまくしたてるように喋る人だったので、この人は自分も含めて相手とコミニュケーションを取る気はないと、うすうす感じていました。

 

亡くなる少し前の父は、自分に対しても話が終わったと思って喋ろうとすると「とにかく話を聞け最後まで聞け」と自分の口を手で押さえて一方的に言いたい事を言いたいだけ言って気が済むと自分に「お前は何か言いたい事がないのか言いたい事があるなら言ってみろ」威圧的な目線で睨まれて既に話す気力もなくなった自分は「別にない」とだけ言うのがやっとでとぼとぼ上に上がって部屋に籠るだけでした、それに、話をしようと生意気な口叩くなと子供のくせに一人前の口をほざくなと言われ何も言わないとどうした何か言ってみろ黙ってるなん卑怯だぞと、ののしられた事も、何の反応も返ってこないのが面白く無さそうに追い何か言えよ黙ってないで何か言ったらどうだ。

 

正直喧嘩を売られているようで嫌な気持ちしかしませんでした。本来コミニュケーションというのはお互いの会話と会話のやり取りであり言わば会話のキャッチボールのはずです。つまりお互いの人間としての対話と対話(ダイアローグ)だとおもいます。

そんな調子ですから話が終わるころには、もうこっちが話す気力も失せてしまいました、

 

多分父は相手に喋らせたらなにか自分が負けたような気持になったのでは無いのでしょうか、

今となっては、何に負けて何に勝ちたかったのと問いただしたい所ですが今となってはそれを知る術はありません、

 

そして、今にして思えば父が怖かったのではなく、父の声が怖かったのかもしれません、正直父そのものが怖かったのではなく父の声は怖いと言うより嫌いでした。しかし当時はまだ自分は幼かったこともあり父の何に、

怖がっていたのか当時まだ子供だった自分はわからなかったのですが、

 

幼少の自分にとっては父の声は不快な気分にさせるだけで父の怒鳴り声や説教を浴びるたびに自分に対して攻撃されているようにも感じましたし、夕食の時間は父が帰ってきたら今度は何をいわれるのだろうと、どんな説教を浴びせるのか父が帰ってくるのをびくびくしながら待っていたこともこっちが何か言おうとしてもすぐに生意気なこと言うなと大声で怒鳴りつけさらにおびえさせました。まるで自分の勝手な正義感や論理を振りかざす演説でも聞かされるようで食事も段々喉を通らなくなりってげんなりした気持ちになってきたのを覚えております、

 

そんな父でしたがある日無くなる一年か一年半ぐらい前の時

 

生前に父は自分に対してパソコンを覚えたいスマホを覚えたいと自分に言ってきたことがあります。

多分人から「パソコンなんて簡単簡単」(スマホなんて慣れちまえば簡単だよ」

なんて他人からきいてまたそれを鵜呑みにしてしまったのかもしれません。

よく簡単にできる、この「簡単」という単語が特に

父にとってのキラーワードで簡単という言葉にすぐに引っ掛かりかりやすい人でしたから、

でも熱意や情熱だけはものすごく伝わってきましたからそこまで本気だったら教えて挙げられる事は、

それじゃこっちも本気になって教えてあげようと思ったのです

 

でも父にとってはパソコン一つ覚えさせるのは、相当困難でした、自分のが甘かった事を思い知らされました。

 

そもそも父は、ローマ字も一度も教わった事も習った事も無いと言うんです。

そこでまずはローマ字表を購入して、そこから始めなければなりませんでした、

本来ならローマ字は、(自分は小学校の時に倣った覚えがあります)

小学校の時に教わるべきの文字ですが当時の父の小学校時代は

ローマ字という概念もなくまったく教わった事は無いそうです、

その為、ローマ字表を見ながら必死でノートに書き取りをしていた事もあるし、

ローマ字表をみながら懸命にキーを打っていたのも覚えがあります

 

例えばグーグルのアカウント登録をしても「よし覚えたから今度は俺のやっている所を見てくれ」とそしてつまづいたところは自分が入力を代わりにしてあげました、それで又、登録作業を完了すると、またグーグルアカウント登録をして同じ作業をやろうとしてしまう始末です、理由聞くとまず何度も同じことを繰り返さないとおぼえられないからだそうです。又、ちょっとモニター画面が変わっただけですぐに動揺してパニックになるのも一度や二度ではありませんでした。もともと父は相当の機械音痴で根っからのアナログ人間でしたから、最初からパソコンに関してはかなり物覚えが悪いとは自分もかなり覚悟しておりましたがまさかここまでとは甘く見過ぎた自分が馬鹿でした。

 

ほかにも一度覚えたことをすぐに忘れてしまうところもあって何度も同じことを繰り返し同じ事を、

覚えさせなければならない事に次第に自分も嫌気がさしていき心も疲弊して行ったのも事実です。

その他あらゆる方法でどうにかパソコンを覚えさせようと色々試したりもしましたが、

父は一日たつともう覚えたことが頭の中からキレイサッパリとぬけているのです。

これには本当に頭を抱えました、

 

そしてとうとう自分も我慢が出来なくなり、父に対して匙を投げるように

父さんどうやらあなたにパソコンを覚えさせるのはもう無理だと悟ったんです、父さんどうやらあなたにパソコンを覚えさせるのはもう無理だと思うだから努力は認めるけど申し訳無いけど諦めて欲しい、

どうしてもパソコンでして欲しい事があるなら自分に言えばしてあげるからと言ってしまいました。

 

本当はもっと根気強く父に向き合う必要があったら多分パソコンも多少はマシに使えていたのかもしれません、

結局自分の心が折れてしまったのです。正直もうあのがなり声はこれ以上聞きたくなかったのもありますし、

途中で何かにブチ切れるようにいきなり切れだしてがなり声を立てて自分に対して怒鳴ってきたりもしました。

教えているこっちが怒鳴られることも一度や二度ではありませんでした。

どっちにしろもうこれ以上自分にもパソコンを父に教える気は

もうなくなっていた事に間違いはありませんでした。

父の意図にきづかなかった私は結局は心が折れてしまったのです。

 

父の死後 気づいた事、そして父への懺悔

しかしある日知ってしまいました、

父の本当の意図は、本当はパソコンやスマホに詳しいと思っている自分に対してパソコンやスマホを通して、

自分とコミニュケーションがしたかった。自分と仲良くなりたかっただけなのが父の死後分かりました。

 

それならそれでなんでそれをもっとストレートにはっきりとお前とコミニュケーションがしたかった。お前と仲良くなりたかった、そういう本当に伝えたい事はかえってはっきりとストレートに言うべきだったんじゃなといのかと

自分の母や妹たちに行ってしまいましたが、

 

直接言わなくたってそう言うサインはいっぱい出してたはず妹たちもその事は察していた、

お前が鈍感なのが悪いと言われ、察することが出来ないお兄ちゃんが悪いんでしょ、

自分が悪いと言われ察せられない自分が悪かったのか、と激しく自分責めました、

 

今となっては時すでに遅し

この時自分のあまりの鈍感さに本気で自分で自分を刺し殺してしまいたい位に自分を責めてしまいました。

もしかしたら自分は父と良好な関係になれたかも知れない、でも良好な関係になかったのかもしれない、

でも一つ言える事はすでに父が亡くなっている以上その可能性すらなくなってしまった事に気づいたのです

 

自分が父の言ったパソコンを覚えたいスマホを覚えたいと言った事を真に受けて

本気でパソコンを覚えさせようとした自分の方が馬鹿だったのです。

父の思いを組んでやれず今では激しく後悔しております。

本当は父にとってパソコンとかスマホとかどうでもよかったのかもしれません。

 

それにお前とコミニュケーションを取りたいお前と仲良くなりたいというのもちょっと疑問に感じるところがあります。

なぜなら

もはや推測でしか語れませんが

おそらく父にとってのコミニュケーションというのは

「俺の話を黙って聞け」、「黙って俺の話を聞いていればそれで良いんだ」、と

自分に話を聞いてもらって話を肯定してもらいたかった、

話を認めてもらいたかったと言うのが父にとってのコミニュケーションだったように思います、

現に母は妹たちは父の話に黙って聞いて時々うなずいたり相槌をうったりしているのを見たことがあります。

「そうだね)とか「そう言う考え方もあるよね」とかよく父に返していたのも覚えはあります、

要は父は妹たちや自分や母に対して父のカウンセラー役に徹していればそれでよかったのかもしれません。

 

でも今となってはどちらにしても父と良好な関係を持てたかもしれない、けど良好な関係をもてなかったかもしれない

その可能性まで無意識に自分で手放してしまった、そして父を知ろうとする機会まで逃してしまった、馬鹿な人間だった事に

気づいてしまった事に変わりはありません、

 

いまでは父の遺影に朝と夜の2回線香をあげひたすら無心に成仏できるように手を合わせております。

 

父よどうか鈍感過ぎた馬鹿な自分をお許しください、父の思いを感じ取ることが出来ずにお許しください

そしてどうかあの世で安らかにお眠りください。

 

両親と確執あっても生きてる間は、僅かでも和解の可能性はある、でも死んだらその可能性も失います

 

そして、もしこれを読んでいる方で親子の仲が悪いと言う人はいませんか?

父と不仲、母とも不仲だと言う人もしまだ生きていたならば、

決して悪い事は言いません、たとえあなたにとっては、毒親だろうとも、

生きている内に和解しておく事をお勧めします。

 

もし長年両親に対して連絡を絶っているなら最後通告という意味で最後に連絡だけでも

してみたらどうでしょうか?両親の住所が分かっているなら自分が住んでる住所を伏せて

直接訪ねるのも良いと思います、両親にあったら少し冷静になって自分の親に対してどう言う気持ちでいたか

気持ちを言ってください、しかし飽くまでも冷静に淡々と言ってください、

そこで少しでもある程度謝罪の気持ちがあったら和解すればいいし飽くまでも自分たちは悪くないと

否定や言い訳ばかりしているようなら和解の余地はなしと両親を見限ってその後一切の連絡手段をたって下さい。

 

もし両親と不仲だった場合も何年か後色々誤解が解けて和解できるかもしれませんし、

どうしても親の事が許せなく和解で出来ないかもしれません!  

でも両親が健在で生きているのならまだ僅かでも和解の望みや可能性は残って要るんですよ。

仮に和解する事が出来なかったとしてももうそれで良いと思います。

結局とうとう最後まで和解することが出来なかったな、

と自分の中で納得して諦める事ができるんです。

そして両親に対してけじめをつけ前を向いて自分の人生を歩く事が出来るんです、

 

でもお前と和解したいと言おうが、それともお前とは和解する気はないと言おうが、

どっちの答えを出そうが生きてる両親から父・母の口から直接聞く事は出来るんですよ。

 

でも、死んでしまったらその答えも両親の口から直接聞く事は永久に叶わなくなってしまうんですよ、

両親の口から答えを一生聞けなくなってしまうんですよ。

死人に口なしとは正にこの事です。

 

なぜなら父の死又は、母の死でも良いですが、(自分の場合は父の死ですが、ちなみに母はまだいきています。)

両親の死とは、どう言う事か、それは、両親とその家族を含め両親の周りにいた人達すべての

物事や出来事に対するありとあらゆる可能性を全て失う事を、

意味してるんです、これも自分の父の死によって気づかされた事でした。

 

人の死は死んだらその人に関わる死んだ本人も含めありとあらゆる全ての可能性を永遠に失ってしまうという事を、

頭の隅に覚えておいてほしいと思います。

 

死んだらもう和解することも出来ないし言い争う事も出来ないし

罵倒する事も出来なくなるし当然腹が立って喧嘩する事も殴り合う事も出来なくなるんですよ!

 

死んでしまったらもう何もかもが時すでに遅しという事をどうか覚えて知っておいてください。

それは誰よりも自分自身が父の死によって、骨身に染みてわかっている事ですから!

 

我が家族は(ハイ)高EE

高EEの「EE」とは、「Expressed Emotion」の頭文字から来ています。

EEは日本語にすると「感情表出」ということになります。

「感情表出」とは、文字通り、感情の表し方(表情、口調、態度など)のことです。

精神疾患を抱える患者さんに対して、強い感情表出がなされることを「高EE」と言い、

これは再発率を高める1つの要因と見なされています。

 

要は患者の家族の精神障害にに悪影響のある関わり方をする事であって

私も今回初めて高EEと言う単語を初めて聞きました。

 

切っ掛けは、ある漫画でShrink~精神科医ヨワイ~という精神科医が主人公の漫画で来院した様々な精神疾患を抱える患者の為に

主人公であるヨワイ先生が患者のために様々な手法使って患者の心を癒し時に時には薬も処方もしますが

時にはセラピーや時にはカウンセリングや時には認知行動療法等を使いながら

心のケアを行っていくお話です、昨今現代程心の問題を軽い問題として

捉え軽視しているこの現代社会に今こそ必要な漫画だと思います。

できれば多くの人に読んでもらいたいです。


Shrink~精神科医ヨワイ~は1巻から最新刊8巻まで出ております。

Shrink~精神科医ヨワイ~の最新刊は私も1巻~8巻迄読んでおります

 

下にリンクを張っておきますのでよろしければご購読ください。

 

 

私も現在はうつ病を患いメンタルクリニックに通院しております、


結局高EEの根本的な原因は家族の精神病や精神疾患に対する

無知や無理解が根底にあると思います。


この高EEは、以下の次の3タイプに分けられます。

 

批判的な感情表出
批判的な感情表出とは、「何もしないで寝てばかりいて…」「ゲームばかり遣ってないで働いたらどうなの」

「いつまでダラダラした生活しているの!」など、批判的な発言や態度を示すことです。

それ以外にも「頑張れば出来る頑張れないのを言い訳にするな!」逆に「頑張りが足りないもっと頑張れ」とか

「お前はやればできる人間なんだ出来ないじゃなくやらない言い訳してるだけだよ」「努力は自分を裏切らない」

ほかにも「お前、うつになっている場合かもっとしっかりしてもらわないとこっちが困るんだよ!」

「うつはただの甘えだよ」「働きたくないから詐病に逃げてるだけだよ!」

全て無知や無理解が根底にあります。「何を言っているのか私は知らない・分からない、お前の事が私にはわからない」

これは、相手を否定しているのも同然の言葉です。
敵意のある感情表出
敵意のある感情表出とは、「あなたなんていなければ良いのに」「お前なんて産むんじゃ無かった」

「うつに罹るなんてお前は一家の恥だ」

「OO家・一族の面汚しよ」

「あなたの病気(うつ病)のせいで私の人生が台無しよ!」

「あなたの病気(うつ病)のせいで私の婚約(結婚)が解消されてしまったのよ、如何してくれるのよ!」

等と敵視して攻撃するような感情や態度を示すことです。

また、「無視する」ことも含まれます。

患者さんの言動に左右され(巻き込まれ)すぎ
患者さんの言動に左右されすぎることは「巻き込まれ」とも言いますが、

上記の2つとは全く逆の態度を示すことですが、

患者さんにマイナスの影響を与える感情の表し方とされています。

例えば、「私がいないと何も出来ないから、私が守ってあげないと…」

と、過保護、過干渉な態度を示すことです。

 

そして自分の家族は死んだ父を含め精神病・特にうつ病等に、

一切関心がなく無知で理解のない家庭であることがわかりました。

なぜ理解が無いのか!「自分は鬱とは一生無縁だ」「鬱なんて心の弱いメンタルの貧弱な人が罹るものだ」

「私はうつになんかならないから、要は気の持ちようだ!」「私はうつにならない人生は気合いだ」

それに「何もしないで寝てばかりいて…」「ゲームばかり遣ってないで働いたらどうなの」

と言うその根底には特に日本人には、一つの思想が根強く根底にあると思います。

 

それは、

 

働かざる者食うべからず

 

この思想が余計うつ病患者を苦しませる事になり

うつ病患者を余計に自分自身が卑屈になって

まるで自分は生きてる事自体に罪悪感を抱くようになり

自殺願望を抱くようにもなってくるのです、

 

追い詰められる気持ちに段々なっていきます

 

 

このような人たちにいくら辛いんだとか苦しいんだ、仮に死にたいと訴えようが

うつ病に関して認識の誤りがあると

いくら理解を得ようとして無駄だと思います。

だって分からないんだから!

 

そもそもうつ病と言う事自体が怪しく聞こえてしまう人もいれば、

うつ病は病気じゃなく詐病と言う人も中にはいます。

 

はっきり言います、断言できます、うつは明らかに脳の病気であり心の病気です、

 

じゃあなぜこんなに偏見や誤解がまかり通っているのか、

同じ脳の病気でも心の病気は目に見えないからなんです。

見えないという事は理解できないと言う事でもあります、

理解できないから分からない事は人によっては恐怖でしかありません。

さらに言えば知らないという事がかえって無知や無理解に拍車をかけ

余計うつ病に大して恐れを抱く原因にもなっているのではないかと私は思います。

 

分からない事知らない事は、人にとって最大の恐怖なんだと思います。、

 

うつ病は、非常にわかりやすく簡単に言えば頑張りたくても頑張れない病なんです。

決して怠けたいのではないと言う事をしっかり認識しておいて欲しいと思います、

なぜならうつ病にまで発展してしまった人は本人なりに、

誰が何と言おうとも必死で自分の人生を頑張って生きて真面目に誠実に

生きてきた何よりの証拠なんですよ、だからうつ病になるまで頑張って生きてきた人なんです、

と先ずは自分がどんな形であれ、なりふり

構わず必死に藻掻いて足掻いて生きてきた自分自身の事を

尊重してあげる事が今の自分にとって最も必要なことなのかもしれません、

 

だから理解できないのに家族に対してもう辛いとか苦しいとか死にたいと口ではもう言わないことにしました

多分理解できないと思いますので、おそらく家族に訴えても

「特に妹たちは、うつ病何それ?意味不明?・わけわかんない?言われるのが堕ちだと思います。

 

元々、特に自分に対しては、死んだ父も母も、そして妹たちにしても

どこか自分に対して少し手厳しいスパルタ気質のような気もするのは

単なる自分の思い過ごしでしょうか?

 

結局何らかの精神疾患に罹った人にこそ家族や兄妹身内からのサポートや温かい言葉や優しい言葉を欲して居るのに

その家族や兄弟姉妹が皮肉にも無知や無理解の為に、

うつ病を患った人にとっては最大の敵になってしまう事があるんです。

 

だからもう自分は、うつ病に罹っている事を家族や兄妹に、

分かってくれと期待することは止めにして口にする事も止めにしました。

結局この問題はうつに罹った自分個人の問題だから

自分で解決しなければならないと思っております。

 

人はあらゆる出来事、物事に対して主観でしか見れない。そして幸せとは!

人は誰でも自分が正しい自分がこそが正しくて相手が間違っていると、どうしても思いたくなります、

たとえ同じ親の元に兄妹として同じように育ったとしても

やがてそれぞれに自立してそれぞれの人生という旅をしているのです

人はみんなたとえ親兄弟といえども自分自身の人生を生きているのです。

 

その中から自分見た事聞いた事実際に経験した事が

積み重なってそれがそれがその人の価値観を形作っていきます。

そしてそれが自分自身の価値観=自分の正義になるからです。

なぜなら人生とはこの様な物だと、結論付けて現実をみて生きているからなのかもしれません。

 

だから一人一人生きた人生経験が違う以上相手には相手の

考え方があるし価値観も違うし思想だって違うしそもそも育ってきた環境もみんな違うんです、

だからそのような多様性を受け入れて認めあえば良いと自分は思っております、

 

ですが残念ですが人間はどんなに考え深い思慮深い人でも

物事の見方に自分の主観がどうしても入るし主観でしか物事を語れないようになっているんです。

なぜなら人は、どんなに足掻いてもどんなに想像力を働かせても

他人の人生を追体験する事も実体験する事が出来ないからです、

 

そもそも主観とは自分の目線であり幼少期からずっと成人になるまでに、

それまでに見た事・聞いた事・感じた事・体験した事から少しずつ

自分の価値観や考え方や、信念・物事のとらえ方や意味付けをしそれを積み上げて、

人生の主軸・自分が生きていく指針・軸となる物です。

 

長年の人生経験で人生とはこのような物だと言う、

いわば自分の人生については語れるかもしれませんが

 

自分の人生はこうだ、だから自分は正しいといわゆる正義が行き過ぎて思い込みが激しく

さらに頑固で頑迷になると自分の人生で見た事・聞いた事・感じた事・経験した事がすべてが

正しいと思い込んで相手には相手の正しさがあると言う事に思いやれない人もいます、

 

相手にも相手の正しさがあって

それを認められずお前は間違っていると否定するよりも

そうかそういう考え方やそのような見方もあるのかと

互いを認め合ったほうがお互い良好な関係になれる物です。

 

私の尊敬している銀座まるかんの創業者斎藤一人さんは音声や本等でででこのように語っていたことを思い出しました。

宜しければ斎藤一人さんの最高傑作地球が天国になる話聞いてみてください前半・後半あります。

 

地球が天国になる話前半

 

地球が天国になる話後半

 

 

 

斎藤ひとりさんの話では。

この地球と言う星・惑星は、縦・横・高さからなる三次元の物質世界で出来ており、

あらゆる宇宙の星々の中でも非常に稀有な惑星であると

 

太陽があり水があり花があり植物もありその植物から空気を作って

人間を含めあらゆる生物や動物たちにとっても生きるために必要な環境が何もかも全部そろっている星なんです、こんな素敵な星・こんなに素晴らしい星は後にも先にも宇宙を、組まなく探し回ろうともこの地球ただ一つだそうです。

そしてこの掛け替えの無いたった一つしか無い愛すべきすべての生命の源たる母なる地球には70億近い人たちが

考え方も捉え方も意味付けも価値観も思想も宗教も国も人種も超えて

等しくこの星で人類が仲良く楽しく幸せになる暮らせる

環境が完全に揃った素晴らしく美しい星なんだとも語っています。

よく斎藤一人さんは、幸せとは人は幸せになる権利があるんじゃない、義務がある言う事なんですよ。

 

人は生まれてくる前の世界で神と言う存在に対して幸せになると約束して生まれてくる。

(※ ここから先は一部自分の想像力で書いたある意味フィクションでありそれを念頭に読んで頂ければ幸いです、

しかし数あるスピリチャル・精神世界系の書籍でもほぼ

同じような事を書いていると思うので必ずしも嘘ではないのかもしれないという事を

念頭に入れて読んで頂ければと思います)

 

 

人は生まれてくる前の世界でいわゆるあの世と呼ばれる世界で

私は幸せに生きると神と呼ばれる存在にそう約束して生まれてくるそうです。

その為に今世に輪廻の際には、どの時代にどの国に生まれるか、

どの環境で暮らすか裕福か貧乏かそこそこ普通か、

性別も男性として生まれるか女性として生まれるか、

そしてどんな両親の元に生まれるかもあらかじめ人生の設計図を大まかにきめてから

 

その上で、「神様、私はこの時代にこの国に生まれこの環境でこの性別で

この両親の元に生まれて私は幸せになって生きていきます!」と神と呼ばれる存在に約束します、

「あなたの今世の輪廻先はその設定じゃきつくはないかい」

と神と呼ばれる存在は生まれる前の魂に問いかけます。ですが、

 

「いいえ今回はどうしてもこの人生にチャレンジしたいんです、

確かに今の私の魂レベルではかなりハードできつい人生だと思いますが、

私の魂のレベルアップの為にどうしても必要な事なんです、だから遣ってみたいんです、もしかしたら人生に耐えられず自ら死を選んでしまうかもしれません。でもそのリスクと取ってでもこの人生を通して大きく魂の学びに繋がらる事はたくさんあると思うんです、ですから、どうか神様お願いします、どうか私に今世のこの人生を挑戦させてください、必ず幸せになると約束しますから!そしてたくさん学んでこっちに天寿を全うして帰って来る事を約束します!」「わかった、あなたがそこ迄望むのならば」

 

とある特定の両親の下母親の受精したお腹に魂が宿り今世この世に

赤ちゃんとしてこの世に初めて生を受ける事になります。

 

ですが、神と呼ばれる存在に対して

私は幸せに生きていきますと約束してきているにも関わらず、

神と呼ばれる存在は人間そのものを幸せにしてはくれないし、したくても出来ないんです、

神と呼ばれる存在はただ黙って人間の営みを見守るだけの存在です。

なぜかわかりますか?

 

神自身は人間たちに自分たちの手で幸せになれる力があると人間の可能性を信じているからです、

 

ですがただ黙って見ているだけではありません。

その為に、その人の人生の助けや学びにつながる物を人生の至る所で

幸せに変えてくれそうな素材のような物を人生の至る所に

ちりばめてくれているんですよ。

 

神と呼ばれる存在は、幸せそのものを与えてくれるわけではない。

幸せになりそうな素材を人生の至る所に与えて用意してくれてるんです。

それがたとえばたまたま偶然見つけた一冊の本だったり

幼い頃からの幼馴染でそれが、

一生付き合える友人だったり

結婚と言う形で生涯のパートナーなってくれたり

自分の天職が見つかったり夢中になれるスポーツや趣味に出会ったり時には、

思いがけない出来事やイベントが起こったりとさまざまな出来事がおこります。

その幸せになりそうな素材をどのよう使うか又は、どのように加工するか、又はどのように組み合わせるか、

試行錯誤して試す事によってその方法で幸せになれるかどうか試してごらん

と神と呼ばれる存在は問いかけているんです。

それが具体的な行動を起こすと言う事なんです。

 

幸せになる為には思いと具体的な行動がセットになって初めて幸せに生きられる道筋ができる

 

人が幸せになるには思った事を思うだけではなく

それに相応しい具体的な行動がどうしても必要になってくるんです。

なぜなら地球は縦・横・高さからなる三次元の物質世界だから、

その物質世界でもあるこの地球で幸せに生きる為には、

思いと行動それも具体的な行動がセットで合わさっていないと、

何一つとして幸せがかなわないし夢もかなわないし

願いや目標もかなう事の無い所なんですよ。

 

この地球はそう言う星なんです。斎藤一人さんは

下記の書籍そう語っています。

興味があったらyンで見てはどうでしょうか?

 

 

 

だから夢や目標やりたい事があるなら積極的に行動して

自分だけの納得出来る自分だけの幸せを掴むしかないと自分では思っています。

 

そしてこれからの時代はやりたい事が見つからないと、

少しづつ生きにくい時代がやってくるのかもしれません。

 

そうかといって、今すぐやりたい事を見つけろとはいませんから

自分にとっても人生やっと半分に差し掛かっている所です。

 

 

そして人間は幸せになるために

何かを作る物を作成する、何かを発明すると言う力を獲得しました、やがて火も獲得しそれを自在に扱うことで鉄を精製して作ったりをさらに文明レベルが上がりやがて様々な考えや思想や哲学や宗教等も生み出す想像力を獲得したのです。

イスラエルの歴史学者・哲学者でもあるサピエンス全史の著者であるユヴァル・ノア・ハラリ氏によると

人類の文明は嘘と虚構と妄想によってここまで文明を発展させてきたと言っておられます。

詳しくは下記のサビエンス全史という書籍をご覧ください。

 

 

 

全ての争いの根源は恐れ

もしこの世で自分が世界一不幸だ思い込んでいる自分がもし幸せになれたならば、

 
 

たった一人だけでも不幸な人間が消えたことになります。

それを、人間はただ幸せになりたいただそれだけなのに、

なぜ人と人が争わなければならないんですか、

なぜ戦争を起こすんですか。

なぜ虐めがおこるんですか?

相手の事を本当の意味で思いやれる事の無い人は、

 

自分こそが正しい自分が絶対に正しいと自分こそ正義だ思い込んでいるそれは、

想像力の欠如ともう一つは理解できない物知ろうとする事を恐れる心だと私は思うのです。

 

それを自分が正しいお前が間違っていると言っている人間はもうそういうのは止めにしませんか?

違ってて良いんですよ。それが当たり前でDefaultの状態なんですよ。

言い換えるならそれは個性という才能なんですよ、

 

もし自分が自分のほうが正しいと思い込んでいるのなら

相手に言い放つ前に一度で良いから一時立ち止まって心の中で

「本当にそうか?」と自分の心に疑問を投げかけてみてください。

 

そして相手の事も相手の人生はどのような人生を送ってきたのか?

一度目をつぶって相手の人生を想像しイメージしてあげてほしいのです。

完全にイメージすることは難しいでしょうがやってみてほしいのです。

 

そして多くの人たちが互いの違いを認め互いの個性を尊重できたなら

この地球と言う星は人間にとっての理想郷であり天国のような(ユートピア)になります。

 

なぜなら人は男性も女性もみんな等しく楽しく幸せになるために、

神と呼ばれる存在に認められて今世この世

この地球と言う星にこの時代に地球人として生を受けたのだから。人が幸せになる為に!

 

今回はかなり長文になってしまった事に対して謝罪します、しかし書かずにはいられませんでしたご理解ください

最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

本間義昌でした。

近況報告~父の死

 

どうもこんにちはブログの更新です。

 

今日はちょっと自分の起こった事で悲しい事を少しお話させてください。

 

今年令和4年4月25日午後21時20分私の父親が原発不明癌を患い一年近く入退院を繰り返し病気と闘ってきましたが治療の甲斐も無く最後は病室で眠るようにすうっと息を引き取りました、。まるで自分は最後の瞬間までこの病気と向き合って最後まで戦った 何の悔いもない言わんばかりの穏やかな死に顔でした、、すでにエンバーミング(防腐処理の事)、されすでに亡骸となっている父の顔は、自分が今までに生きていた頃には、一度も見せたことのないような優しい顔になっていたことになぜか自然に涙が出て止めることが出来ませんでした。すでに5月1日に葬儀と5月2日に告別式を行いましたその時に葬儀の時にお坊さんの説法をきいてまた自然に涙が零れ落ちてきてしまいました。非常に心に残る説法だったので要約してまとめたいとおもいます

 

お坊さんの説法は要約するとこのような話になります、

 

「あなたのお父様は肉体は滅び魂だけの存在となりあの世に向かわれるときお釈迦様がで迎えに来られたのですよ、

なぜ迎えにかられたわかりますか。

 

それはお釈迦様が父の生前の行いをすべて許したからなんだよ、許したからこそお釈迦様が魂だけの存在になった父の事をむかえにきてくれて父はお釈迦様の弟子になることも許された、人間は、誰でも過ちを犯したり間違いを犯したり時には魔が刺す時もありなす。

 

それこそ自分でも気が付かつかずに無意識に相手の事を言葉等で

傷つけてしまっている事も一度や二度では無いのかもしれません、

 

それでもそんな父を認め全てを許した、許したからこそお釈迦様のの弟子となることも許された、

 

そしてこの場に葬儀に訪れてくれた人たちもすべて許しまた父からも許されたんだよ」とお坊さんの説法は、

本当に葬儀会場の悲しみを温かく包み込むような優しい語り口調で語ってくださいました。

 

自分も若しかしたら気が付かずにいろいろと父に対し傷つよう事をやっていたのかもしれない、自分を顧みて初めて

ごめんなさいと言う思いが生まれて、心の中で涙を流しながら父の遺影に対して謝罪しました。

そしてお坊さんの口から父の思いが伝わったような気がして「もう良いよ、もう許すよ」言っているような気もして

また目から涙が零れ落ちました。

 

おそらくあの父の優しく穏やかな死顔は死んで天に召された事に

よって生前の今まで無意識にしろやってしまった事、遣らかしてしまった事のすべてが 

魂そのものが洗い清められこの世の全てのしがらみを脱ぎ捨て全てを許されたからこその死顔だったのかもしれません、

 

改めて父の冥福を祈りたいと思います、父の人生という闘いは終わりました。

そして、、もし生まれ変わりが有るとしたら魂の縁があれば200年300年の時を経てきっと出会う時がくると信じています、

自分もいづれ寿命を全うしたらそっちにいきます、それまではいっときのお別れです、どうか安らかに人生の疲れを癒してください。

 

許すという事の難しさ

 

「許す」言葉にすると簡単に聞こえるかもしれませんが、

 

実際に許すという行為はなかなか出来ないと思います、

許すという行為はあらゆる感情の中でも最も難しく困難なものだからです、なぜなら許すという行為は様々な葛藤や妥協も

必要な時もあるし長い時間を経て下手をすれば何世代も掛かってようやく許せる気持ちに少しずつなってきたと言うのもあります

 

例えば、今話題になっているロシアとウクライナの戦争を例に

取ってみるとお互いが言い分はあるかもしれませんが、はっきりとわかっている事は、

国と国同士が戦争してもどっちが勝とうが負けようが、お互い決して幸せになれないという事です。

 

国どうしが戦争したって結局お互いの国民,一般市民には関係なく例えばある家族が敵兵に撃たれて死んだり腫瘤弾の爆発に巻き込まれて死んだとします、又はビルが倒壊してその下敷きになって死んだとか、どちらにせよ戦争に巻き込まれて死んだことに変わりはありません、でもそんなことは関係なくただ愛しい人を理不尽に奪われた悲しみは恨みは相手に復讐しない限り

たとえ復讐を果たしたとしても、一度根付いた恨みや憎しみは、そう簡単に消えるものではないと思っています

それは、愛する物を奪われた恨みや憎しみを正義という大義名分に変えているだけだと思います、

 

もし大義名分さえあれば正義の名の下に戦争しても良いとか

愛する人を殺されたとか復讐を是とするような世の中になってしまうと

人と人同士が常に争いの絶えない非常に悪意に満ち溢れた幸せとは程遠い世界になっていくのかもしれません

 

そして恨みや憎しみを抱えたままでは人間はどれほど足掻こうとも恨みや憎しみ抱えたままでは

決して幸せになれないと人間の脳の構造的にも幸せになれないようになっているんです

 

ですからどんなに自分がつらくてもどんなに苦しみにのたうちまわろうとも自分自身

の幸せの為にも相手を許す勇気が必になってくるかもしれませんもちろん

 

恨みや憎しみを抱えたまま生きているとますます恨みや憎しみの思いが増幅されて重くなってくるんです、

 

でもそこで勇気を出して言葉だけでも許しますといえるようになればその分だけ恨みや憎しみという思いからふっと

軽くなるからです、なぜなら許すという言葉には相手の事を許すこともそして自部自身も許してあげることにもつながります

そもそも許すという言葉の語源は緩むから来ているそうです。

 

 

 

許せないと言う何かを抱えていた場合それが人であり物であり、もっと大きな目線で俯瞰的に見れば世の中だったり地域や国だったり地球環境だったりと色々とどうにも許せないと言う正義感がありすぎるような気がしてなりません

 

実は許せないという感情も人によってさまざまな思いに変換されて

そこから強烈な悪意を生み出すきっかけなんです

 

許せないから怒りもわきます

許せないから嫉妬したりもします

許せないから恨んだりします

許せないから憎しみがわきます

 

そこまで許せない事に拘っていると嫌な人嫌いな人もしくは腹の立つ事に対して自分の時間を捧げているような物です。

 

許せないという感情の正体

 

それは、人の事を不幸にしたいという自分の自身の悪魔の声であり人の悪意そのものなんです

そして誰の心の中にも人を不幸にしたい、もしくは誰かを虐めたい虐待したい苦しめたい苦痛を与えたい罰を与えたいという欲望が誰の心にもどんな善人であろうともそのような悪魔の種が邪悪な物が宿っているんだという事を覚えておいてほしいと思います

でもそうして負の感情に飲み込まれずに
 
悪魔の種子を芽吹かせて成長させないように、
種のままそっと頭の中にしまっておく事は可能です
 
よのなかには、いろんな人の悪意にみちあふれておりますが先の戦争の例の通りこの世に悪魔という存在がいたとしたならば
それは人間の悪意そのものでありそれを世界中に広げて争いを生み出すことが悪魔の本当の目的なのかもしれません

 

もし許せない事があったら腹の立つことがあったら

一分だけ口を開かず黙って無言を貫き通してください

 

一分たてば少なくとも許せないことや頭にきたことでも

だいぶ怒りのパラメータが下がっているはずです

又は、貴方を怒らせる人たち相性の合わない人から距離を取ってください

 

 

 

許す勇気を持っていてだきたいと思います。

許す事も許せないという事も厄介な感情であることに間違いはないのですから。

 

 

今日はこれくらいで終わります。

 

最後までお読み頂きありがとうございました

 

本間義昌

 

 

 

;;

念皆さんどうもこんにちはブログの更新です。

 

前回は自分が2度にわたる脳梗塞患ってそのきっかけで

うつ病が再発し今現在もメンタルクリニックに通い心理士の先生から30分のカウンセリングを受けている現状です。

 

いまだ喋りずらい症状も緩和されておりませんが、それでもたどたどしくても寄り添って話を聞いてくれる先生には本当にありがとうと感謝の言葉を伝えたいです。

 

そこで今回は先生が課題を出してくれました。それもいきなり粗大な課題を投げかけられて少し戸惑いましたが

 

その心理士のカウンセラーさんが与えた課題はこういうものでした、

 

もし、自分がなんでもできるなんでもしていいよと言われたら(時間やお金や能力の制約を一切考えずに)

何がしたいと何をやってみたい、そして何をこの世界に実現したい、そのように問われた時、正直あまりにも壮大過ぎる質問ですが、一度自分が本当に成し遂げたかったものが何なのかじっくり考えてみる事にしてみました。

 

正直どんなに時間をかけてもこれといった答えが浮かばなかった事は、事実です。

 

ですがこの世の中を冷静に見つめて俯瞰した目線で見てみると

弱者に対して厳しいというか生きづらい世の中なのかもしれないと、漠然とした気持ちで考えたことはあります。

毎日の日常生活を日々生きていくだけでも3~5倍の体力と気力を使うようになってしまいそれもよりうつの症状を悪化させている原因になっているのも確かだと思います。

 

抑々、昔の昭和の時代とか平成初期の時代はうつ病なんてものは,甘えだの怠け病だのと言われてきた時代でもあってこれがもし江戸時代等であればうつ病なんて病気は殆どその発症例はなかったとおもいます。例え罹っていたとしても大抵は気の持ちようだとか自分を胡麻化してうつ病になっている事にも気がつかずに日々を過ごしていたのでは無いのでしょうか。

 

これは自分の推論にすぎませんが世の中の文明レベルが上がるにつれて人間自体が深く考えることやめてしまい逆に人間の脳が次第にその文明レベルに追いついて行けなくなってしまい脳が疲れて退化して来ているせいなのかもとというのが私の推論です、

( ※ 逆に考えれば人間の脳は疲れて怠けたいために、あえて何かを作る何かを想像する何かを発明する事を人間の脳は年限に与えたのではないのだろうか?)

 

もともと人間の脳は今の文明レベルで合わせていけるレベルではなく人間が狩りや獲物を追い回ししていた遥か、原始時代から人間の脳は、それ程進化していないと言うこともなんとなくわかってきたのです。本来ならばもっと緩やかペースで人は進歩しそれにつれて人の脳も緩やかに進歩すべきだったのでしょう!

 

なぜなら今と違い、昭和の時代や江戸時代や明治・大正の時代は、パソコンはおろかインターネットもメールもなければコンピュータさえもなかった時代です。でも明治・大正・江戸時代の人たちは多少生活に不便はあったかもしれませんがそのころに暮らしていた明治・大正・江戸の民たちは、ストレスを抱えていましたか?不平不満を言っていましたか?士農工商と言う身分制度と鎖国状態だったとは言えむしろ人々は平和に幸せに人生を謳歌していたようにも思えてならないのです。

( ※ 多少の悪人等がいていざこざがあったとしても)

そうでなければ300年近くもの間、これといった争いもなく平和で太平の世は築けなかったと思います。

そしてそのころの人たちは、意外にのんびりと幸せで牧歌的な生活スタイルを送っていたのでしょう。

 

そして昭和の時代に入り

1970年代や1980年代ころにかけてコンピュータ(電子計算機)が発明されそれにつれて

マイクロコンピュータ(マイコン)が開発されました。それが1970年代から1980年代の頃です。

当時は主にパソコン通信等で使われていたPC-98シリーズが一部のパソコンマニアの間で話題になり全盛期は1980年代後半から1990年代で、のちにインターネットが一般ユーザーに開放されたため、徐々に衰退していった。

商用大手としては最後まで残っていたニフティが、2006年3月末でパソコン通信サービス「NIFTY-Serve」を終了した事で、

パソコン通信は事実上廃止となりました。

その後、MS-DOSの画面から起ち上げるWindows3.0~3.1は存在はしてましたが本当にごく一部のパソコンマニアだけの間で知られた存在でした。

 

それが平成初期の1995年あたりから急激にパソコンの基本ソフトであるOS Windows95~98等

爆発的なパソコンとインターネットの登場によってこの30年の間に特に通信や情報に大革命をもたらし一人一人が情報発信ができるようになり、これは個人が独自のメディアを持てるようになった為でもあります。

 

それによっていろんな情報が縦横無尽に飛び交うようになりなにが正しくて何がまちがっているのか、よくその情報のソースや(大本となる情報)エビデンス(きちんとした証拠)もよく調べもせずに憶測やかってなイメージだけで好き勝手に言っている人もいれば、ただの決めつけや偏見でその人を判断するのもちょっどうかなと思うところもあります。

 

今の時代は、インターネットが普及した恩恵によって通信手段だけではなくコミニュケーションの在り方も依然とは、比べ物にならない程複雑になってきたのだと思います、これが明治・大正・昭和の時代は、相手に対するコミニュケーションは直接会って直に話すか、手紙に認めるか。相手先の電話番号に電話をするか、急ぎであれば電報を打ってもらうと割とシンプルなコミニュケーションだったのでしょう!又、江戸時代は直接会って話すか、手紙を届けるしか無かったため割とストレートに自分の思いや考えている事を素直に表現しやすかったのかもしれません。それだけ当時の人々は物事を単純にシンプルに考えていたのかもしれません!

 

しかしインターネットが普及しコミニュケーションもSNS等ありとあらゆる手段で個人が緩るいつながりを持つようになってから少しずつに人間の心が疲弊し疲れ切っているのかもしれません。

 

本来SNSと言うサービスが開発提供されなければ本来ならば一生涯出会う機会すらもなかった人同士が緩くつながってしまい決して出会ってはいけない人と例え緩いつながりであったとしても出会ってしまったが為に不幸になったり、ストーカー等の付きまとい行為がなされたり、場合によっては出会ってしまったり繋がった為に殺されて命まで失う人もいます。それだけ現代の人々は、人間の脳が時代のスピードや変化にも付いて行けずそれだけ人が何を考えているのかわからなくなってしまって疑心暗鬼に陥っていると言う言わば人の心の在り方=思考停止してしまい脳がパソコンでいえばフリーズしてしまいあまりにも心が複雑化してきている時代に突入しているのではないか?と私はそう思えてならないのです

 

その為、人々の心の余裕がなくなり何も考えられなくなり人間の心の許容量が限界を迎えてしまった為でそれが外側に向かうなら弱そうな人などにイライラや怒りを発散させればいいのかもしれませんが、これが内向きだと無気力になったりうつ病を患ったり酷い場合は自ら自死を選んでしまう人もいます。それだけ人々の心は文明が発達していくとともに人間らしい心の温かさや人としてのぬくもりや思いやりのような人が本来持っていた人の優しさが失われているようにも思っています、現代のテクノロジーは確かに人々に快適な暮らしを与えてくれたことは否定しませんし、私自身もこうやってブログを打って自分の考えを発信することもできるようにもなりました。だからと言って弱っている人に対して私は無関心で不寛容なそれも弱っている人間を平気でSNS等で自分の憂さ晴らしの為だけに叩くような自分にはなりたくありません

 

そんなおり書店で久しぶりにある人の書籍が11年ぶりに発行されました。

その著作者の名前は石井裕之と言う半ば伝説と化しているセラピストであり自らをパーソナルモチベーターと自称して

おり過去1回の講演会で5000人も集客した実績を持っています。

また潜在意識の事についての無意識のアクセスの仕方や潜在意識の世界の在り方どう言った仕組みで潜在意識は活動し動いているか?等次から次と思いもよらなかった話を聞くことができたのも今となっては良い思い出と成りつつあります。

 

 

 

私自身も何度か講演会に参加させて頂きました。

 

Hiroyuki Ishii Unplugged ―The Last Words― 石井裕之 アンプラグド~遺書~

じつは5000人も集客した講演会がこの講演会でした。私もその5000人の内の一人です

忘れもしない2008年の10月14日雨が降り続く中での東京国際フォーラムAホールでの会場での石井さんの姿はよく覚えております。

 

教材も幾つかフォレスト出版のホームページから購入させて頂いたものです。

 

 

 

 

ダイナマイトモチベーション6ヶ月プログラム

 

 

 

 

 

 

石井さんの親書を読んでみるとやはり今でもかなり普通と違う目線で語っているところが非常に新鮮で

本当に今の自分の何が苦しいのか、それをはっきりとした言葉で言い切ってくれているのです。

そのなかには本文を一部分を抜粋すると

 

「今非常に生きずらさを感じているのは君はまともな感覚持っているんだよ、と私は、思う、むしろこんなに生きずらい世の中を何の疑いもなく飄々と生きているほうが少しおかしいところがあるような気もする

もしきみがそれだけ苦しんできたのはそれだけ嫌なことから逃げずに自分の人生に誠実に向き合っているからなんだよ

それは君自身がもっと成長できると君自身が信じているからなんだよ」

 

正直この一文を見たとき思わず涙が出てきました。

この一文によってまさに声を大にして言いたかった事を石井さんは見事にはっきりと言い切ってくれたのです

 

 

この石井さんのこのメッセージによって自分は少し救われたような気がします。

この本は一生大切にします

 

今はすべてにおいて物事を合理的かつ論理的な考えになり何事もスピーディに仕事をこなし結果をだす世の中になってきていると思います、なぜなら人々の心がもっと言うと人間の脳がバグを起こし誤作動を起こしているからこそ切れやすくなったりやたらとクレームが多かったりちょっとした事ですぐにぶち切れする人も多くなっているような気もするのです。それは世の中のスピードについていけなくなった、そんな心に余裕がなくなった不寛容で冷酷な世の中でもせめて自分と自分のまわりの人たちには寛容的でありたいと私は思います

 

それからついでに言わせてもらうと人々がなぜこんなに他人に対して冷たく無関心で不寛容になってしまった最大の原因はみんな心の奥底で他人に対して完璧さを求めているせいではないかと思います。

初めに断っておきますが人間はどんなに完璧さを追い求めても完璧にはなれない存在です。もし、自分は完璧に物事を遣っている言い切っている人が居たならばその人は完璧にできていると思い込みたいだけの人です。

 

それともう一つ言いたい事が

 

そして文明が発達しこれからはAIやロボットが人間のお仕事を代行してくれる日もそう遠くないかもしれません。

そうなれば人間の仕事労働ということ自体に段々と価値がなくなってくる世の中になってしまうのかもしれません。

 

やがてAIやロボット・コンピュータが人間の仕事を肩代わりするようになるでしょう。

そのかわりその代償として人々の考える力や思考能力はどんどん落ちていき人々は、いずれほんの一部の頭の良い天才を除けば、なにも考える事が出来ない非常にお手軽な答えを楽して追い求めるような短気で殺伐とした世の中になってくるかもしれません。

 

最初の課題に戻ってしまいますが

 

すでにある答えを見つけ出すのでは無く、例えば1+1=2のようなすでにある答えを探し出するよりも

例え答えが出ずとも常にひたすら考え続けていく事、その事自体に価値を見出せる世の中が来ているかもしれません。

そして考え続けて悩みぬいた上で自分が本当に納得の出来る自分だけの納得出来る答えや生き方をを自分で作り出す事がこれから生きていくうえでも必要な思考力でありいま最も問われている事なのではないでしょうか?と私は思います。

 

今は深く思考し思遠する人が極端に減ったような気がします。

 

昔の中国等の歴史上の人物でも老子や孔子等の思想家はたくさん居りましたし西洋の欧米各国でも「幸福論」を書いたことで有名なアランや「幸福について」「自殺について」を書いたショーペン・ハウアー等の哲学者も昔の時代には、多くいたのです。

 

 

私も人としての在り方・やさしさや思いやりを忘れないようにしていきたいと思います、

 

最後にこれを見てくれている皆様方に感謝します、

 

ありがとうございました。

 

パーソナル(個人)コーチ

本間義昌でした

どうもブログの更新です。

 

正直ブログを書く気力もない程疲れ切っている状態ですが、なんとか続けてけ行けそうです、

 

そこで今回は。今まで自分身に起こった出来事を振り返りたいと思います、実は、私は、2016年頃から2019年にかけて脳梗塞を2度にわたって患いさらに私の父が原発不明がんという非常に珍しいがんに掛かってしまい母も私に対して神経過敏になり少しメンヘラぽくなってしまいわたしは母親に対して腫れ物に触るように慎重に言葉を選んで話すようになってしまいました。ちょっとしたことでもつい自分も少しイラッとした口調になってしまうのですがすこしイラッとした口調をしただけでもつっかかってくる始末で長年連れ添った夫が生きるか死ぬかの瀬戸際も理解できますし、ましては自分の父親ですから私だって心配していることに間違いはありません。ちなみに原発不明がんというのは

どこの臓器からがんが発生したか分からないにも関わらず、他の臓器への転移が認められるる進行の早いがんです。
私たちに発生する可能性のある腫瘍全体のうち、原発不明がんはその1~3%にしか過ぎず、相当に稀な希少がんともいわれています。

 

原発不明がんの多くは首、鎖骨の上、鼠径部のリンパ節転移や全身の骨転移を起こして見つかることがあります。

全身の臓器で発生したがんには、転移しやすいリンパ節があります。

たとえば、頭頸部がんは首のリンパ節に、乳がんではわきのリンパ節によく転移するため、

リンパ節転移を起こした部位から原発巣を推測しやすくなります。
その一方で原発不明がんでは、転移が見つかったリンパ節の近くの臓器を調べても、原発巣が見つかりません。

 

そのようなわけでどこにも原発巣が見つからない以上治療の方針が難しくいざ、治療方針が決まったと思ったらすでにあちこちに転移しておりすでに手遅れの状態になっている場合が多い為根治の極めて難しいがんとも言えます、今現在は緩和ケア病棟に入院しておりますが今現在点滴の副作用で目の瞼が非常に腫れてしまい瞼がふさがって目が見えなくなって耳も遠くなって口も喉に直接チューブをさしてかろうじて呼吸を確保しているため声が出せない等、非常に見てていたたまれない姿となっております

おそらくもう父はもう長くないかもしれません。せめてのこされた母親はだけは何とかささえてやりたい気持ちでいっぱいです、

 

ですが私自身も脳梗塞をきっかけにうつ病が再発し、いまメンタルクリニックに通うとともに30分程カウンセリングを受けている状態です

 

そのような事情なので今自分も含めて周りは非常に困難な状況が続いております

 

なのでせめて父には穏やかに心安らかに過ごしてもらいたいと思っております

 

今回は。今の私の近況報告ということで

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

皆様大変お待たせしてまずは一言謝罪させていただきます。申し訳ございませんでした。」

 

実は私個人のことで大変プライベートなことで非常に困難な状況のために

一時期ブログを中断せざるを得ない状況に陥りましt事をお詫びします。

 

長い間ブログの更新が止まってばかりで心配されたことと思いますそのことについても深く申し訳なかったと重いでいっぱいです、

 

でも少ない読者から立った一人でも見てくれる人がいるなら続けようと思いました。

これからも見ていただければ幸いですとりあえずご報告しておこうと思います

 

よろしくお願いします。。