ご訪問ありがとうございます。

魂革命講演家の辻口 陽子です。

 

今日は、少しライトなお話から、

私の奥に入った、

 

児童養護施設と私と母について

お話しようと思います。

 

これまでのお話

 

児童養護施設と私

 

実は異文化交流は始まっていた

 

児童養護施設の慰問・招待

 

児童養護施設と食事編

 

児童養護施設とファッション編

 

児童養護施設とおもちゃ編

 

 

児童養護施設で暮らす子どもたちの

理由はそれぞれ違います。

そして今暮らす子どもたちと、

私の時代も違ってきています。

 

私は、母が蒸発して、(蒸発という言い方も古いw)

板前で夜遅くまで仕事していた父。

子どもを育てられる環境ではなく、

養育できなかったために

1歳8か月でベビーホーム(乳児院)へ

預けられています。

 

2歳8か月で児童養護施設へと

移り変わりました。

入園した頃の写真です。

この写真を見ても、

私の娘とそっくりな私。

 

物心ついた頃には、

私にはお父さん、お母さんと呼ぶ環境はなく、

面倒見てくれる大人を先生と呼び、

〇〇ちゃん。〇〇くんと呼ぶ生活でした。

誰が本当のお兄ちゃんなのか、

この頃は判断できていませんでした。

 

幼稚園は園内保育だったので、

殆どの時間を施設で過ごしました。

 

小学生になると、

何だか自分の置かれた環境が

人と違うのだと認識出来てきました。

どうやら人にはお父さんとお母さんが

いるらしい、、、、、

 

お父さんと会えていたわけではないけれど、

いることは理解出来ていました。

母はいないのだから、

亡くなっているのだろう!と

確信していました。

 

しかし、

小学5年生の頃、

学校から帰る私を、

先生が呼び止めた。

 

「陽子、お母さんが会いにきてるから」

耳を疑いました。

えっ?誰の?

私の?お母さんて死んだんじゃないの?

いるの?

 

と、そんな私が

戸を開くと、泣き崩れている女の人がいた。

あちらは、一瞬で私がわかった様子。

私には見知らぬおばさま。

 

何年も会っていないのに、

小さな時別れたのに、

本当か?わかってんの?

間違ってない?と疑りの心。

 

その後1年くらいだったか、

母と月1回の外出が続きました。

一度も”お母さん”と呼ぶことはありませんでした。

 

母との数少ない写真がありました。

今見たら似ていますねw

 

母には再婚予定の方がいて、

私たちと離れたきり、

離婚をしていなかったので、

再婚はできずにいた。

 

母は毎月毎月その方と一緒に会いに来た。

どこへ行きたいのか、

何をやりたいのか、

何を食べたいのか、

尋ねてくれたけど、

 

私は何の何がが全くわからなかった。

兄が指定したところへ行ったけれど、

ほぼゲームが出来るところw

 

初めて、焼肉を食べ、

初めて平塚の七夕祭りに行き、

初めて水族館へ行った。

美味しいお寿司も食べ、

大好きなラーメンも食べた。

 

果物が好きだと言った私に、

たくさんの果物を持って、

車の助手席で一生懸命剥いて、

差し出してくれた。

 

母が住む家にも連れてってくれて、

スルメをオーブンで焼いてくれた時、

熱い熱いと言いながら、

耳たぶを抑えた母に、

何で熱いと耳たぶ触るの?て質問した。

 

私の左手薬指に、

切った傷跡が残っている。

私の左膝下に、目立つシミがある。

これは何であるの?と聞いたら、

母は丁寧に説明してくれた。

 

母が、山を登る登山鉄道てあるんだよ。

今度一緒に乗って景色を見ようと

約束してくれたのを覚えている。

箱根登山鉄道。

その約束は叶うことはなかったけれど。

 

これはどこへ行ったのか覚えてはいないけれど

兄とのスリーショット

 

それから暫くして、

園長先生は、

兄と私に質問してきた。

父と母どちらを選ぶか?

選択肢は3つ

父を選ぶか、

母を選ぶか、

兄と私それぞれ別々の選択をするか、

 

私は兄とは離れないとだけ答えた。

私たちは父を選択した。

それ以来、母とは会えなくなった。

 

それから月日は経って、

高校生になった頃、

兄に、母の居場所を聞いたけれど、

わからなかった。

 

同じ女性として、

不幸でいて欲しくなかった。

私は大丈夫と伝えたかった。

私も恋をして、人を大切に思うことを

知ったからかな?

 

高校を卒業する時。

20歳になった時。

自分の節目には母が会いにきてくれるのでは?と

期待して待っていた私がいた。

しかし、その日は訪れませんでした。

 

ある時届いた一通の手紙。

母の死を知らせるものでした。

私が40歳の時でした。

何年も会っていなかったのに、

行政書士さんを通じて、繋がった。

母からのメッセージとして

受け取った。

 

頭は真っ白となり、

どんな感覚だったのか、

どう処理してよいのかわからなかった。

 

どこかで、いつか会えるかもしれないと、

小さな希望を持っていたから。

 

再婚相手の方が全て手続し、

私たちに届けてくださり、

私は電話を繋いでもらいました。

 

電話の向こうで、

母の死を心から悼み、

哀しみ、嘆き、愛おしさを募らせていた。

 

母は幸せだったのだと確信できた。

愛し愛され、この世に別れを告げた。

母のことを大切にたくさんお話を

聞かせてくれました。

 

話し方も、ものの考え方も、在り方も、

芯が強く、優しい太陽みたいなのが

母とそっくりだ。

今日話せて幸せだと伝えてくれた。

 

離れていても、

一緒にいなくとも、

母娘は似ているのでしょう。

 

生きている時にお会いしたかった。

母は最期一緒にいてくれる人がいて、

幸せでした。

母を愛してくれてありがとうございます。

こんな会話をして電話を切りました。

 

子はお母さんを幸せにするために

生まれてくると言うお話を聞きます。

私はこれ本当だと感じます。

 

私は母に捨てられた悲しい気持ちよりも、

私は結婚して、幸せを感じた時、

母も幸せであって欲しいと願いました。

子どもを手離し、育てられなかったこと、

どれほど自分を攻め、罪悪感を抱いていただろうか?

 

だから、私は母にひとめあって、

私は幸せだから、大丈夫。

お母さんも最高に幸せであってね。て

言って届けたかった。

 

母はどれだけ辛い日常から逃げ出し、

私たちを手離す選択に追い込まれたのだろうか?

どんな精神状態だったのだろうか?

誰か頼れる人はいなかったのだろか?

サポート体制はなかったのだろうか?

 

子を育てる時、

毎日がハッピーとはいかない。

上手く出来ないことで積み重ねられ、

体力も精神状態も疲弊する時もある。

投げ出したくなる時もある。

誰かの助けで救われ、

また育てる活力となり、

子どもの笑顔に救われる。

 

だから私は思うのです。

母親のプロはいない。

一人で育てる必要はない。

母親をサポートする、

支援する、共に育てるコミュニティを創りたい。

 

そして、

子どもたちを保護する体制はもちろんですが、

 

子を手放さなければならなかった母。

子どもに手を挙げてしまった母。

子どもの面倒がみれなかった母。

この方々への支援も、

自己を引き上げるサポート教育・支援などの

構築も同時にしていける体制を創りたい。

 

親子が共に幸せを構築できる

プログラムを考えていくことは出来ないのか?

いつも思います。

 

どれほど親を憎む子がいたとしても、

結局それは愛なのだと思います。

本当に望むことは、

愛したい。

愛されたい。

共に幸せを願っている。

 

関係性・想いがなければ

憎しみは生まれないから。

 

一度離れてしまった親子でも、

健康な心と身体に立て直して、

再び再会し、共に歩める人生が訪れてくれたらいい。

そのように願います。

 

私の経験を声にして届けること、

どんなことがあっても”大丈夫”を届け続けたい。

そのために今私が出来ることと向き合っていきたいと思っています。

 

今、私に何ができるだろう。

そろそろ巣立ちの時が近づくその度に、

不安や恐れ、恐怖と共に歩き出す子どもたちに

届けることはできないのかと、

もどかしく思います。

 

さぁ!今私にできる一歩を踏み出そう!

 

 

長文となりました。

最後までありがとうございます。

私が私へ送るエールになってしまいましたね。

 

児童養護施設と私と母でした。

また綴らせていただきます。

それではまた。