みなさん、おはようございます。今朝の人類の大救世主:現人神大塚寛一先生のみ教えのロニ如是我聞は下記でございます。「心の眼」で拝読されてくださいませ。大塚先生は1891年神国日本の四国阿波(あわ)にご降臨され、1972年に「神の座」にお戻りになられましたが、皆さまの心が神界に佇立される大塚寛一先生に通じますれば、素晴らしい幸福がもたらされると確信しております。下記は如是我聞ですが、大塚先生の教えの多くの原文は国会図書館へいきますと「鶏鳴新聞」(1984-1993)「神霊時報」(1984-2014)という2つの新聞で過去数十年の多くの教え原文を閲覧することができますことも申し添えさせていただきます。
神軍リクルーターロニサランガヤ


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 膚(はだ)を刺すような冬も過ぎ、昨日今日、桜のたよりが聞かれるようになった。今までは地球の南側が豊かな太陽の光を浴びて草木が生き生きと繁茂してきたが、春とともに地球の北側もすでに彼岸を過ぎ、山野は冬眠から覚め草木は芽生え、やがて新緑から夏へ移っていくようになると、今度は南の方が冬眠に入っていく。この自然の移り変わりに即応して、もう一つの変化が地球上の「文化」においても起こりつつある。地球を縦に割った裏半球の欧米は、過去二・三百年の間に全盛期を誇り、その勢いによって物質文化を極度にまで推し進めてきた。しかし時の進むにしたがい、これまで裏半球で勢いよく繁茂してきたものが表半球の方へ移動せんとしているのが、いまアジアの夜明けとなって現われている。この時に当たって、日本はアジア民族全体の担うべき重大な責任を自覚し、その指導的役割を果たさねばならない。今日ほど日本を含めアジア全体にとって人材の必要とされる時はいまだかつてなかったと言ってよい。それにもかかわらず、この大きな地上の勢力の交替期にあって、人材が見当たらないということはまことに寂しいことと言わねばならない。ところでいつの時代でもその時の主役的役割を担う大人物を、上から五十名抜き去ったならば、その国の歴史は根本的に変わってしまう。日本の戦国時代でも武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と順々に抹殺したならば、歴史は大きく変わってしまう。。もともと教育というものは、立派な人間の感化によって魂をつくり上げ立派な人物に仕立て、その人の持ち前を最高度に発揮させるよう教育していくのが本当の意味の教育であって、このようにして初めて大人物が生まれるのである。ところが、現在のように何もかも平均に発達させるような教育方法を施すと、特徴のある人間は本来自分の得意な方面には努力しないで済むが、不得手な方面には無理な努力と犠牲を強いられることになる。ちょうど植木屋の手にかかった盆栽のように枝ぶりその他は格好よくなるが、小さくまとまり過ぎて、棟木や柱にはなりにくい。自然生えのままの樹木には神代杉のような巨木ができるが、植木屋の手にかかったら最後、到底神代杉は生まれない。その明らかな証拠は、今から七八百年ほど前に蒙古に生まれたジンギスカンがある。彼は広漠たる未開の原野に身を起こし地上の七割を征服したアジアの大英雄であったが、これなども人為的に手を入れずに、自然生えのまま放っておいたところにあれだけの人物が育ったのであろう。こんなわけで、この際、教育の在り方を根本的に改める必要があるのではないか。現在の教育方法では習う者はどの科目も一律に勉強はできるが、一芸に秀でた者は出ないような仕組みになっている。汽車に乗って田舎を旅すると生け垣が綺麗に並んでいるのを見かけることがある。ちょっと見ると、いかにも綺麗だがズバ抜けた大木は見当たらない。人間の教育ものびのびした野生の教育がいいようだ。明治時代をつくった西郷隆盛、それに続く岩崎弥太郎、安田善次郎、大倉喜八郎らの大先輩。あるいは現代の松下幸之助、吉川英治の諸氏など、いずれも高い学校教育を受けてはいないが、そのことが幸いして自己の天分を思いきり伸ばし、それに全力を集中できたのであって、自然生えの人物ばかりである。なまじ学校に入って、自分の不得手な勉強に消耗しないで一つのことに専心できたからこそ、あのように伸びられたのではないかと思われる。このような観点からすれば、国の興亡盛衰は、全ての人が教育を受ける教育の機会均等よりも、少数の傑出した指導者の有無によって決まると言えよう。かのジンギスカン時代には大学はおろか小学校すら無かったにもかかわらず、一人の傑物が出たためにその偉大な感化力によって、多くの人が各自に内在する天分を発揮できたのである。汽車、自動車、航空機など、文明の利器一つさえ無い時に地球の七割まで征服できたということは、よほど傑出した人物であった証拠で、現在で言えば地球全体を征服してもなお余りある力があったわけである。まことに大人物の養成は、国家の喫緊事である。現在の教育は、盆栽作りの植木屋が鋏を入れて伸びんとする枝を無理に押えるのと同じである。これでは棟木や柱は言うに及ばず、薪にも割れないような人間しか、つくることはできない。人づくりが改めて叫ばれている今日、政府は、宜しく教育に対する考え方を根本的に改め、神代杉のように気宇壮大であって、大局的総合判断を誤らず、常に一時代先を予見できるような指導者の養成に、真剣な努力を払うべきだと信ずる。

大塚寛一先生『禁転載』