みなさん、おはようございます。今朝の人類の大救世主:現人神大塚寛一先生のみ教えのロニ如是我聞は下記でございます。「心の眼」で拝読されてくださいませ。大塚先生は1891年神国日本の四国阿波(あわ)にご降臨され、1972年に「神の座」にお戻りになられましたが、皆さまの心が神界に佇立される大塚寛一先生に通じますれば、素晴らしい幸福がもたらされると確信しております。下記は如是我聞ですが、大塚先生の教えの多くの原文は国会図書館へいきますと「鶏鳴新聞」(1984-1993)「神霊時報」(1984-2014)という2つの新聞で過去数十年の多くの教え原文を閲覧することができますことも申し添えさせていただきます!
神軍リクルーターロニサランガヤ
第三号(昭和十四年十二月二十三日発行)
① 皇紀二千六百年
世界の大転換と人類の危機興亡の岐路に立つ
憂国の志士出(い)でて国家の羅針盤たれ (昭和一四、一二、二三)
② 緒言
全人類は各層に亘(わた)って一大転換期に直面し、既(すで)に動揺の端は東西に起こり、其の余震は全地上を覆(おお)い何時果つ可(べ)くも予想し難き状勢にある。今日、特に重大使命を課せられたる我が日本国民は、此の光輝ある二千六百年祭を楔機とし、敢然(かんぜん)立上がり、我が神国日本の大任を果たさざる可からず。
想い見よ、我が有色アジア民族は世界最古の文化を有し、而も大聖者はアジア人に非(あら)ざるは無し。又最高形而上(けいじじょう)学的文化の大部分はアジア人の手より創造され、又今より僅(わず)か七百年の昔、彼(か)の茫漠(ぼうばく)たる蒙古の原野に、呱々(ここ)の声を揚(あ)げし成吉思汗(ジンギスカン)は、今日の如く何等文明の利器を用いず、只(ただ)空手単身、寒風砂塵(さじん)渦巻く荒涼の野に、豪然(ごうぜん)と立上がり気魄(きはく)三界を覆い、意気天地を貫き、一端呼号すれば、雲を呼び山川を震動せしめん勢にて、遂(つい)に欧亜を席捲(せっけん)せしめ、今尚(なお)、王族の中に彼の生血の支流は脈打ちつつあるのである。此等(これら)を見ても如何に欧米人より勝(すぐ)れたるかは明瞭である。然(しか)し乍(なが)ら盛衰は天の大法、如何(いかん)とも致し難く、ここ三百余年間の物質文化時代は白人の専横(せんおう)する所となり、彼の海賊的野獣性を発揮し、全アジアに到らざる処なく毒牙を振い、再起し能わざる迄に残忍(ざんにん)酷使され、今尚益々圧迫し来たりつつ有るも只我国のみ皇国の威徳(いとく)により、直接の暴圧(ぼうあつ)は免(まぬ)がれたりと雖も、経済に、思想に、外交に、全面的に亘(わた)り挑戦し来たりつつあるを思う時、自国は勿論(もちろん)、有色アジア人の盛衰存亡は一に我国策の如何による処にして、而も其の決定的時刻は目前に迫れり。この重且(か)つ大なる使命は、未だ人類の上に課せられたることなき大業の前に立ち乍(なが)ら、児戯(じぎ)に等しき小細工にては絶対に成就(じょうじゅ)し難し、鯨には鯨の刀を要し、又大アジア建設には大アジア建設の大計を用いざるべからず。然し今回の大業はアジアの再建に非ず、過去数世紀に亘り発展したりし所の物質文化に、精神文化の伴(ともな)わざりし欠陥のため、全世界人類が将(まさ)に崩壊の苦境に没入せんとする此際(このさい)、アジア人の手、吾等(われら)の手にて、人類の矛盾を除去し、悪に対し善を以って報復せねばならぬ時が来たのである。起て憂国の士、出でて国家の羅針盤たれ。優秀世界に誇る日本丸も羅針盤なき航海は危うし危うし。
③ 神と三種の神器を科学的に立証す
神とは宇宙構成の根本原理により、一切万有を生ぜしむる原動力の現われを人格化視する処を神と謂(い)う。
④ 万有を生ぜしむる神の法則
大極(鏡)は時空を超越せるその儘(まま)の姿である。其のままの姿は即ち空にして、在(あ)るが儘の空である。在るが儘の空とは、一切の物が運動を停止せし時である。また時は運動による変化の尺度に過ぎず 運動は同時に力(劔)を生ず二対以上の力の交叉点に於(おい)て始めて物(玉)を生ず。力(劔)は放力と引力(両刄)とを同時に生じ、他の二大力と相交叉して他の引くものを放ち、放つものを引く。ゆえに停止する事なく、無始無終運動を引起こして行くのである。斯(かく)の如く、如何なるものも、引力と放力無きものなし。ゆえに一定の物質なく、一定の時なし。換言すれば万有一切は、力の交叉点にして、交叉点の連続が存在となる。 ゆえに力を去って物なく、時もなし。また変化なき所に、力も物もなし。変化は二物以上にして生じ、一物なる時は即ち空である。
空中に有の出現により、空と有の交叉点は物を発生す。これ即ち神の万物を生ぜしむるところの法則にして、我国に於いては三種の神器により現わせる一大鉄則である。
⑤ 大日本精神と宗教の帰一
宗教は煩悩(ぼんのう)の為、無明の暗(やみ)に迷える衆生(しゅじょう)を光明世界に出(い)でしめんとして、真道に復帰せんが為、種々の方便を用いたるも、其時と場所と機根により、示す事の限りなく異なりし故、今日にては其の本意を執(とら)え難く、方便に堕(だ)し、而(しか)も其方便たるや多くは時代に相反し即応せざるにも拘(かかわ)らず、判断力を失える盲目的信仰は、遂に身を亡(ほろ)ぼし、印度、ユダヤの如く国家をも亡ぼすに至れる前例多し。其の他地上到る所に於いて政治上侵略の手段とし又自らの慾望を充(みた)さんがための方便に用いる者が続出し、民衆を信仰的に、麻酔せしめつゝある事は、何人も知れる処(ところ)である。斯(かく)の如く今日にては、宗教の本義を没却(ぼっきゃく)し、かえって迷信に陥らしむる用具化せんとしている。然るに我が天照大神(あまてらすおおみかみ)は、万物の母にましまして其の御神徳は三世を照し、余す所なき御光を放ち、一切衆生の生命を司(つか)さどらしめ給(たま)う大神にまします。而して、天照大神御鏡を天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に授けて祝(ほ)きて曰く「吾が児(こ)此の宝鏡を視(み)まさんこと、まさに吾を視るがごとくすべし、与(とも)に床を同じくし殿を共にし以て斎鏡と為(な)すべし」と曰わせられし事は、人意により百千万劫説法するに勝る一大御教訓にして其の御心を拝する時、如何に我肇国(ちょうこく)の由来の偉大なるかを知る事が出来るのである。そこに人意的教訓により、汚(けが)す事を恐れ、今日迄言挙(ことあ)げせざるに至りし所以(ゆえん)がある。之を思う時、我が神道に勝る道を現わしたるものは、世の何処(いずこ)にも無し。何んとなれば世の一切の宗教は人が神仏に向かって作り上げたるが故に、人が如何に願う共、片便(かただよ)りにて、神意を測り難く、其の御利益の程も知り難し。
然し我が神道は、始より神が人に対し答え給う所の御心である。故に如何なる者と雖(いえど)も、生死の別なく救い給える事を、八咫(やた)の御鏡により顕(あら)わし給うのである。神は相対的のものに非(あら)ず、絶対愛なるが故(ゆえ)に、願うと願わざるに拘わらず、国の東西世の古今を通じて救わざる所なき、公平平等の大神にまします事は明鏡に万物を写し受け、而も止め、滞(とどこお)らしめざる如くである。故に人は只、畏敬(いけい)感謝の念を以って御奉公申上げ、常に御神鏡の前に立ち、写る姿は、神の御心にして、その悪は、己が心の穢(けがれ)にて、御鏡を汚がす事を恐れ、出づる時は自ら罪穢を祓(はら)い、清め浄(きよ)めて逢(あ)い奉るこそ、神の子の勤めである。
然し神は御神鏡の上にいますのみに非ず、常に吾れと倶(とも)に在りて、守らせ給う、心の鏡の前に、姿を整えねばならぬ。此の救い救われ居る身の有難さを、気附かず、感謝の念も起こさず、唯願い、救われんことを祈ることは、かえって御心を汚がすのみならず、救われ居る身も、穢に陥入らしめる事になる。斯の如く我が神道は、昔より言挙(ことあ)げせざる最高道なるが故に、方便を用いず、時代を超越し、今日も亦(また)、未来永遠に、全き道を示せるものである。世界情勢が現在の如く、混乱せる時こそ、真の指導精神が必要なるにも係(かか)わらず、時代に即応せざる過去の遺物の如き方便を、振廻(ふりまわ)す事は何等益なく、益々(ますます)時代より遠ざからしむるのである。此の非常時国民の、国家を全からしむるは、億兆一心に統一せざる可(べ)からざる時に、最高比類なき建国の源泉たり国体の根幹たる神道を差置いて、亡国の遺物の如き、雑多なる方便に囚(とら)われ、帰趨(きすう)することなき有様は、大いに自戒す可きである。真に帰納すべき真道は、我が神道を置いて、他に有ることなし。今日我が日本に於て、各宗の存在し得らるるも、我が神徳に依るの他なし。我が神道に帰依する事は、一身を修(おさ)め、一国を安泰ならしめ、そこに初めて神国たる神意が現われるのである。斯の如く全人類の遵奉(じゅんぽう)す可き、最高の道であり、又万物を生成発育せしめる所の軌道なのである。故に人のみ通る道に非ず、一切万有を帰納せしむ可き、神ながらの道である。神ながらの道の上に躍動する所、即ち大日本精神であり、世界最高の理想にして帰結すべき所である。
大塚寛一先生