法隆寺には、黒駒という名馬の伝説が伝えられています。
聖徳太子伝略によると、太子24歳、推古6年(598年)四月、
甲斐の国(山梨県)から四脚が白い黒駒(黒毛の馬)が献上されました。
聖徳太子は「この馬は神馬である」といって、舎人(従者)の調子丸に飼い習らさせました。
やがて9月になって、太子はこの馬を試乗したところ、馬は雲に浮き、調子丸が馬のそばにいて一緒に雲のなかに入り、富士山を越え、信濃を経由して3日後に帰ってきという話です。
調子丸は百済の聖明王の宰相を父にもつ人物の子で、18歳のとき太子(13歳)の舎人として日本に来たといわれています。
大野玄妙法隆寺管長によると、この話はおよそ信じがたい話で、古代インドの理想的帝王であった転輪聖王の「紺 馬 宝」の話におひれをつけた作り話だろうと、法隆寺友の会誌「聖徳」217号に書いています。
作り話にしては真実らしい展開がいっぱいあります。
国宝の綱封蔵の隣に、馬舎があり、中には木造の黒駒と調子丸の像が安置されています。(どちらも江戸時代作)
同僚の美人ガイドのAさんはこの馬舎の前で、
「聖徳太子は、この馬に乗って3日間で富士山に登って帰って来たんですよ」と簡潔に話をすると、大変うけるそうです。
また、山中湖の水陸両用バス「カバ号」では、ガイドさんが「日本で最初に富士山に登ったのは誰でしょうか」とクイズを出しているそうです(答えは聖徳太子)
法隆寺東院の絵殿の襖 絵(国宝、現在東京国立博物館・法隆寺館にあり)には富士山を越えて行く聖徳太子と黒駒の絵が描かれています(平安後期、秦致貞筆、かなり劣化していますがはっきりわかります)。
富士山絵の10の傑作選を放映したNHKの日曜美術館(7月21日)によると、この絵は富士山を描いた日本最古の絵だそうです。
この時代、都 は飛鳥にあり、斑鳩宮で暮していた聖徳太子が推古天皇の摂政として政務をとるため、斑鳩と飛鳥の間約20キロ余を黒駒に乗って往復したと伝えられています。
いまも太子が通ったと言われる「太子道」の一部が残っていますが、これも「黒駒」伝説が広がっていった一つの要因かもしれませんね。
明日香村の橘寺に非常に立派な黒駒像が造られてあります。寺の関係者の話では、最初につくられたのは、いつの頃が不明ですが、2代目は大正2年の木製像、現在の像は3代目で平成13年製作の銅製像だそうです。達磨太子の化身といわれています。
この橘寺は聖徳太子の生地といわれ、境内には、會津八一が黒駒を詠んだ歌の歌碑が残されています。
くろこまの あさの あがきに ふませたる をかのくさねと なづさひぞ こし
「あがき」とは、馬が地面をけって進むこと。「なづさひぞこし」は、懐かしく思ってやってきた。「くさね」は、草のこと
(歌意)太子が黒駒の、あさのあがきで踏ませた
岡の草だなあと懐かしく思ってやってきた。
古墳にまでなった黒駒たち
黒駒と調子丸は、法隆寺から東1キロほどのところに、それぞれ古墳に埋葬されています。黒駒の古墳を駒塚古墳(全長49メートル、高さ4・8mの前方後円墳)、後者を調子丸古墳(直径15メートルの円墳)といいます。
駒塚古墳の方がかなり大きいのが面白い。
駒塚古墳 調子丸古墳 両者の位置(向こうが駒塚)
2002年、二つの古墳を発掘調査したところ、年代が全然合わないため(古墳は4世紀後半から5世紀に造られた。黒駒や調子丸が活躍したと伝えられる時代は7世紀)、黒駒や調子丸の古墳ではないことがはっきりしました。ただ、調子丸古墳の北側で馬の頭部の骨が発掘されています。
二基とも、誰か別の人物の古墳と推定されますが、しかし、土地の人は、いまでも親しみを込めて、駒塚古墳・調子丸古墳と呼んでいます。太子信仰がこのような形で広がったのでしょうね。