1️⃣🌃【2024年6月20日 (水)17時~19時まで】
🌟「恵信尼様からのお手紙」 ~『恵信尼文書』に聞く~
🌎️講師:星野親行先生 【行信教校講師・西法寺住職】
🌍️本願寺・名古屋別院
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❇️今回も新たな気付きが沢山あり、良かったです。
❇️親鸞聖人の奥様は、法然上人から、直に一緒に聴聞をしておられたみたいですね。
❇️それは御手紙の敬語の使い方から、明解に理解が出来ます。
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🌉⭐講義の走り書きメモ⭐🌉
      【前半】
⏹️恵信尼消息【原文】⏹️
🟨山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世を祈らせたまひけるに、
🟨九十五日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現に預からせたまいて候いければ、
🟨やがてそのあか月、出でさせたまひて、後世の助からんずる縁にあひまいらせんと、
🟨尋ねまいらせて、法然上人にあひまいらせて、
🟨また六角堂に百日籠らせたまいて候いけるように、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふ【大風】にも参りてありしに

⏹️恵信尼消息【一般の意訳】⏹️
🟩聖人は比叡山を下りて、六角堂に百日間こもり、 後世の救いを求めて祈っておられたところ、
🟩九十五日目の明け方に、 夢の中に聖徳太子が現れて、お言葉をお示しくださいました。
🟩それで、 すぐに六角堂を出て、後世に救われる教えを求め、 法然上人にお会いになりました。
🟩そこで、 六角堂にこもったように、 また百日間、 雨の降る日も晴れた日も、 どんなに風の強い日も、お通いになったのです。

🔷六角堂に参籠なされたことを親鸞聖人は後に恵信尼様にお語りになった。
🔶そのことによって、親鸞聖人が六角堂にお篭りになったことがハッキリすることが一つ。
🔷そして夢のお告げを受けた。その夢については、覚信尼様には、ちゃんとあった筈なのですが、
🟨「書き記して」とありますから、ついていた筈で大切な御文なので、能筆の人に書いて貰いなさいとある。

🔶色んなところから、おそらく
🟨『行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽』の偈であることが分かっている。
🔷高田派の御本山から『彼の記にいわく』というのが出てきた。
🔶それは真仏上人という方。 🔷この方は親鸞聖人が86歳の時に50歳で往生なさった方なので、だから真仏上人がお書きになったものであることが確定されれば、これは親鸞聖人が書かれたものであることがハッキリする。

🟨そこに『経釈文聞書』という真仏上人がお書きになったものがうる。
🔷その中に、この御文がある。
これにはもう一つ元になるもの『親鸞夢記』というのがある。
🔶今、存在は分かっておりません。その一部と考えられるものが高田派の御本山から出てきた。あそこは何でも出てくる。

🟨それは涅槃経の「この肉を食べてはあきまはんでー」というのが書いてある。
🔷蛇とか、象とか、猪とか、人の肉とかについて、食べてはいけない。その写しを親鸞聖人が残されている。

🟨もう一つは『三種の不浄肉』がある。
🌃自分の目の前で殺された肉
🌃自分のために殺された肉
🌃お前のために殺してきた肉と聴かされた肉を食べたら、いかん!
🔶それ以外の供養としてあげた肉は、食べてもいい。これは嗜みとして。

🔷これで関係があるから、思い出しましたが、梯和上から、聴きました。

🟨肉を供養として頂いた時に、御弟子を呼ばれる。
「自分の子供の肉だと思って食べなさい」とおっしゃる。美味しくないでしょうね。

🔶親鸞聖人にしても、肉食妻帯というけれども、何でもかまへんのや!ということではない。
🟨涅槃経の御文をちゃんと引いて、その通りにされている。
🔷お釈迦様が最後に供養を受けたチュンダが供養したのは、もしかしたら、豚肉かも知れない。
🔶キノコ、もしくは豚肉を干したものという説があります。

🔷お釈迦様が供養を受けたスーカラマッタ【豚肉?】を召し上がっているけれども、これは私だけが頂きましょうと言われて、私が食べきれなかったものを土を掘って埋めて下さいと言われる。
🔶もしかしたら、これは、もう食べれないものであるとお分かりになったかも知れない。
🔷供養をされたものを断らない。供養して下さった方の徳を損なうことはしない。だから、頂いたものはそのまま頂く。

🔶もう一つは、阿難も呼ばれたけれども、阿難はどうもなかった。🔷最後は食中毒の症状であったことは、恐らく間違いない。

🟨『ブッダ最後の旅』を拝見しますと、ブッダの尊師の身体から、血がほとばしり出た、とあります。
🔶80歳というお身体ですから。
若者はどうもない。
🔷阿難も若いといっても55歳ですから。
🟨涅槃経の十種の不浄肉のメモの反対側に『行者宿報設女犯』の偈が書かれている。
🔶ですから、恐らく間違いない。あと、熊の皮の御影、
🔷親鸞聖人の御影は、
✡️安城の御影と、
✡️鏡の御影と、
✡️熊の皮の御影と、
代表的なものが三つ。

🔶熊の皮の御影は、恐らく親鸞聖人が往生なされてからのものといわれる。
🔷熊の皮の御影には、この『宿報偈』がここに書かれている。
🔶書いた人も分かっています。青蓮院のご門跡なのです。
🔷当時、青蓮院門跡は能筆家として、とても有名な方だったのです。青蓮院門跡に書いて貰えるという、繋がりは何だったのか?と思える。

🟨山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世を祈らせたまひけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現に預からせたまいて候いければ、やがてそのあか月、出でさせたまひて、後世の助からんずる縁にあひまいらせんと、尋ねまいらせて、法然上人にあひまいらせて、また六角堂に百日籠らせたまいて候いけるように、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふ【大風】にも参りてありしに、

🔷百か日、降るにも照るにもの前が、六角堂なのです。
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🌃【配布資料】🌃
🌠〖山本摂叡先生の論文より〗🌠
■「山を出でて・・・」の意味
🔶まず言葉の用法から考えましょう。「山を出でて」の「て」という接続助詞は、辞書に次のように説明されています。
🟨前の事態に後の事態が順に続くことを示す。・・・て。そして。
   (『旺文社全訳古語辞典』)

🔷ここの文に、この解釈を当てはめると、まず「山を出る」という行為が、第一の事態です。
🔶それに続く第二の事態が「六角堂参籠」に当たります。短い言葉ですが、恵信尼さまは正確に、聖人の行動を描写してくださったのです。

🔷端的にいうと「山を出る」という決意は、示現によるものではなく、聖人自らのものであったのです。
🟩山を出る、六角堂に参籠される、法然聖人のもとに行かれる。
🔶これらのすがたを、恵信尼さまは具体的に、精緻な描写で描いておられます。

🔷それは恵信尼さまが、間近にその姿をご覧になっていたから、できることだったのです。
🔶私が『恵信尼消息』について初めて書かせていただいた論文があります。
(「恵信尼文書 再読」『行信学報』通巻第十号〉)

🔷この論文の中で私は、文法的な考察をよりどころとして、恵信尼さまが、京都におられたということを論証してみたのです。
🔶「過去」のことを表す言葉には「き」と「けり」という、二つの助動詞があります。

🔷言葉というのは極めて合理的なものですから、全く同じ意味を表すものが、漫然と二つ並ぶことはありません。
🔶まず、端的に「き」と「けり」という二つの助動詞の違いを述べてみます。

🟩②「き」は、自分自身が体験した過去を表す場合に使います。
🟩②「けり」は、伝聞などによって知った過去を表す場合に使われます。

🔷このことから「けり」は「気づき」「発見」「詠嘆」などのニュアンスをも表すようになりました。
🔶恵信尼さまの時代には、この二つの語の使い分けは、極めて厳格なものでした。

🔷第三通(一)には、親鸞聖人が比叡山を出て、六角堂に参籠し、法然聖人のもとへ行かれる様子が描写されています。
🔶今、『註釈版』の本文を用いて、この部分に「き」と「けり」 が、どのように使い分けられているか見てみましょう。

🔷わかりやすいように「き」には〈〉 を、「けり」には【】を付してみます。

【「き」(直接経験の過去)と「けり」(過去伝聞)の活用】

🌎️【き】🌎️
✴️基本形 き
✴️未然形  (せ)
✴️連用形 ○
✴️終止形  き
✴️連体形 し
✴️已然形 しか
✴️命令形 ○

🌎️【けり】🌎️

✴️基本形 けり
✴️未然形  (けら)
✴️連用形 ○
✴️終止形 けり
✴️連体形 ける
✴️已然形 けれ
✴️命令形 ○
      【-4-】

山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世をいのらせたまひ【ける】に、九十五日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひ【けれ】ば、やがて、そのあか月、出でさせたまひて、後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんと、たづねまゐらせて、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも、まゐりてあり〈し〉に、ただ後世のことは、よき人にも、あしきにも、おなじやうに、生死出づべき道をば、ただ一すじに仰せられ候ひ〈し〉を、うけたまはりさだめて候ひ〈しか〉ば、「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひ【けれ】ばこそありけめ、とまで思ひまゐらする身なれば」と、やうやうに人の申し候ひ〈し〉ときも仰せ候ひ〈し〉なり。

🔷ここでは「き」は五回、「けり」は四回、使われています。
🔶その上で、伝聞の「けり」が使われている箇所に注目してください。

🔷六角堂参籠に関する記述には必ず「けり」が使われています。
それ以外の箇所は、例外なく「き」です。
🔶六角堂参籠というのは、親鸞聖人が一人でなさったことです。
恵信尼さまが、ご覧になっていたのではありません。

🔷間違いなく、参籠の様子は、後になって、親鸞聖人の口からお聞きになったのでしょう。
🔶ここでは聖人の言葉によって、参籠の様子を聞かれたのですから、伝聞の「けり」が使われているのです。

🔷ただし「世々生々にも迷ひ【けれ】ばこそ、ありけめ」の部分は例外です。
🔶ここの「けり」 は解釈上、極めて重要な問題がありますので、後で考えることにします。
🔷六角堂参籠以外の記事は「き」が使用されていて、これは恵信尼さまが、直接、体験された過去の経験だったのです。

🔶傍線部の直前まで、恵信尼さまは、親鸞聖人の行為に対して、例外なく敬語を使っておられます。
🔷しかし傍線部の「また百か日・・」からは一転して、親鸞聖人に対する敬語はなくなり ます。

🔶そして傍線部の後「人はいかにも申せ」から、また敬語が使われます。
🔷ここからは 「人々の」法然聖人や親鸞聖人に対する批判と、それに対する答えですから、それを第三者としての恵信尼さまが、敬語を使って描写されているのです。

🔶先の描写の中、法然聖人のもとへ通われる記事にだけ、親鸞聖人に対する敬意が省かれていることになります。
🔷これまで恵信尼さまは、自分の経験した過去については、
🟨助動詞の「き」を使い、
また親鸞聖人に対しても、
🟨例外なく尊敬語を使用されていることを見てきました。

🔶ところが先の文で、傍線を引いた箇所、具体的には、法然聖人のもとへ通われる記事の部分のみ、描写法が異なっているのです。
🔷自分の経験である過去を「き」で表現されていることは同じですが、親鸞聖人に対する尊敬語がありません。
      【-5-】
      【終了】