🟥🟦🌏🌟【6月24日(月)】9時00分より、岡崎市にて聴聞
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【1️⃣質問】

仏縁がある人、また仏縁の深い人とはどんな人ですか?

【1️⃣回答】

仏縁がある人というのは、基本的には死を意識する心がある人です。
だから、仏縁のある人は、人生には終わりがある、ということを意識して生きるようになります。

仏縁の深い人とは、その死に対する感じ方が重い人です。

それに対して、仏縁の薄い人は、あまり死に対して、ピンと来ない。だから、我(が)を死ぬまで保とうとします。

自分を振り替えると、同じようなことを繰り返してきた自分が分かります。何も成長していない、歳だけ取ってきた自分が知らされます。
      【終了】
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【2️⃣質問】

人が褒められると、自分はまるで悪人であるかのように思えてしまうのは、どうしてですか。

【2️⃣回答】

それは、あなたに分別心、比較する心があるからです。
どちらかを善人にすると、どちらかを悪人にする。
両方とも、善人でもいい筈なのです。どちらかを善人にすると、出来ていない自分は悪人だと思ってしまう。

🟨でも、今は教えて頂いたお陰で、以前よりは半分ぐらい、分別心は減ったと思います。

      【終了】
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【3️⃣質問】

自分は出来ているところに立つと、なぜいけないのですか?

【3️⃣回答】

出来ているところに立つと、何の反省も出来なくなるからです。

     【終了】
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【4️⃣質問】

以下の御文の解説をお願い致します。【教行信証化土巻】
❇️法に依りて、人に依らざるべし、
❇️義に依りて、語に依らざるべし、
❇️智に依りて、識に依らざるべし、
❇️了義経に依りて、不了義に依らざるべし。
🟨法に依るとは、法に十二部あり、この法に随うべし、人に随うべからず。
🟨義に依るとは、義の中に好悪・罪福・虚実を諍(あらそ)うことなし、故に語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。
🟨人、指をもって月を指す、もってわれを示教す、指を看視して月を視ざるが如し。人、語りていわん《われ指をもって月を指す、汝をして、これを知らしむ、汝、何ぞ指を看て、しかうして月を視ざるや》と。これまたかくの如し。
語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもっての故に、語に依るべからず。
🟨智に依るとは、智はよく善悪を籌量(ちゅうりょう)し分別す。
識は常に楽を求む、正要に入らず。この故に、識に依るべからず、といえり。
🟨了義経に依るとは、一切智人、います、仏第一なり。一切諸経書の中に仏法、第一なり。一切衆の中に比丘僧、第一なり〉と。
🟨無仏世の衆生を、仏は、これを重罪としたまへり、見仏の善根を種(う)ゑざる人なり」と。
🟨しかれば、末代の道俗、よく四依を知りて、法を修すべきなりと。

【回答】

🟨「法に依りて、人に依らざるべし」
法とは、三世十方を貫くものです。⭕⭕会でいうならば、⭕⭕先生がこういわれた、ああいわれた、というのは、ここでいう人なのです。
⭕⭕会は人に依る団体なので、法に対する意識が薄い。
例えば、法とは嘘をつくことを仏教では悪と教えられる。悪を作らないようにしていくことが大事。

仏法は法を説く。⭕⭕会の長い人は、組織が徹底しているものが法になっています。

法に対する意識はとても大切です。
例えば、⭕⭕会では、⭕⭕会を謗るものが謗法罪になっている。

私の例で言うならば、わざとビデオデッキを壊されて、罪をなすりつけてきた。
組織を守るためになら、嘘をつき、悪をしても、いいことになっている。
でもやっている行為は法を破っています。これを謗法罪という。
法はどんな都合であっても、曲げてはならないものなのです。

⭕⭕会は都合によって、コロコロと法が変わっていく。
人とは、言った言葉、人の言った教えに対して、⭕⭕会は依っている。
だから、⭕⭕会は⭕⭕会以外の教えを聴いてはいけないとなっている。なぜ聴いてはいけないのかとなると毒されるから、という。

それは⭕⭕会は法を説いていないからで、法を説けば、どこへいっても、法の正しさしか、分からない筈なのです。

でも⭕⭕会は⭕⭕会の教えなのです。法を説くのが、仏法ですから。その法に対する意識が非常に大切です。

🟨「義に依りて、語に依らざるべし」
例えば、仏法が大事だとして、教えを説いたとします。
すると言葉に私達はとらわれる。
例えば、責めてはダメだ!となれば、責めないようにと自分を責める。責めている自分をまた責める。

それは言葉にとらわれていて、その言葉に対して、従っているだけで、法は自分であっても、人であっても責めてはいけない。
その意味が大事であって、言葉にとらわれている。

よくあるのは、浄土真宗は、
「極重の悪人は他の方便は更になし!」とある。だから、私達は善をやらなくてもいいんだ!と語にとらわれている人がいます。

意味は極重の悪人だと知らされたものは、他の方便は更になしとありますが、それは極重の悪人と知らされるまで善を実践した人のことで、そういうのがなくて、言葉だけで遊んでいる。言葉遊びをしている。
本当の心みたいなものが分かっていない。ただ書かれているから、そうなんだ、としているのが、
🟨「義に依りて、語に依らざるべし」ということです。

🟨「智に依りて、識に依らざるべし」とは、身体を通した知らされた智慧に依って、ということで、実際に知らされたことではなく、頭だけで依っている。

浄土真宗では、すべての人は悪人だと聴くと、そうだよ、悪人は善が出来ないから、念仏しかないんだよ、と言われる。
では、あなたは、悪人だと知らされているのですか?
ここに書いてあることの本当の意味を分かっているのですか?
分かっていないのに、頭だけで、悪人はこうなんだ!と言われているのが、
🟨「智に依りて、識に依らざるべし」です。

🟨「了義経に依りて、不了義に依らざるべし」とは、これは、善知識がいないと難しいです。自分の中で、これが正しいと善知識に確認をして、そうですよ、とちゃんと言われたものだけを正しいと思って、実践する。
ここは、私達にとって経典を解釈することは中々、出来ない。だから、善知識に一つ一つ確認をして、こうですよ、と言われたものを真だと信じることが大事だと思います。

私達は法も、義も、智も分からないので、善知識が大切になります。

🟨法に依るとは、法に十二部あり、この法に随うべし、人に随うべからず。

法については、法が分かった人から聞いていく。

🟨義に依るとは、義の中に好悪・罪福・虚実を諍(あらそ)うことなし、故に語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。

義とは本当の意味のことです。
だから、好き嫌いではない。
罪福とは、正しいか、間違っているかにとらわれてはいけない。
虚実とは、これが正しいんだ、間違っているんだと争うのではなくて、それは言葉で表したものだから、真理ではない。
よくあるのが親鸞会と本願寺との争いがある。それは、本当のところを知って争っているのですか?

「ここにこう書いてあるから、こうだぞ!」と相手を言い負かしたとして、それが何の意味があるのか?
その教えの中身を本当によく理解をすることが大事であって、
「極重の悪人は他の方便は更になし!」と本当に実践しているなら、いいです。
そういわれている人は、おそらく実践はしていない。
もう私は救われたんだ、という所に立って、有り難い教えだと念仏もしていない。
オプションみたいなことを少し言うだけで、義が分かっていない。分かっていないのに、これが本当の意味なんだ、ということで、これが正しい、間違っていると争うっている。
だから、語は言葉に表したものは本当に分かっている人は、意味をちゃんと分かって話をしている。
だけど、本当の意味は、どんな言葉をもってしても表すことは出来ないから、その言葉だけで、書いてあるじゃないか!と、そこに書いてあることをもって、自分の主張をするとかは、よくないことなんだ。

🟨人、指をもって月を指す、もって、われを示教す。指を看視して月を視ざるが如し。人、語りていわん《われ指をもって月を指す、汝をして、これを知らしむ、汝、何ぞ指を看て、しかうして月を視ざるや》と。これまたかくの如し。

月とは、真理のことで、月を見なさいということで指差す。
私達は月が分からないから、指だけを見て、こういう風にいっていると、とらわれている。
指差すものが真理であって、その指にとらわれてしまう。これは真理がわからないので、仕方ないことですが。

言葉だけで判断をしているから、あなたが心の中で思っているものが、言葉を通して思っている義なのです。その義と、この言葉の本当の義とは違うのです。
「極重の悪人は他の方便は更になし」の義は、本当に知らされるまで善に励んだ意味なのです。
それを初めから、私は善をやりたくないから、極重の悪人と思い込んで、善はやらなくていい。

それは、あなたが怠慢という心があるのです。何もしなくても救われるんだ、という気持ちがある。
それは、そういう心は、どういう法に照らされた真理なのか、を分析する必要があります。
あなたは、どういう心を持っているのか。これはこういう心が奥底にあって、それが法にあたる。
そこを理解して初めて、その言葉が理解できる。

あなたが念仏だけでいいんだ、と言っている気持ちは、どこから来るのか、そこを掘り起こして話をしてくれるのが本当の説法で、それが法なんだ。
いかにあなたは間違った考えを持っているのかを知ることが大事なのです。
私達はどうしても、都合のいいように教えを聴いてしまう。
どうしても、自分は救われているところに立ちたい気持ちがある。
それは自分の我を崩したくないから。
🟨語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもっての故に、語に依るべからず。

🟨智に依るとは、智はよく善悪を籌量(ちゅうりょう)し分別す。
識は常に楽を求む、正要に入らず。この故に、識に依るべからず、といえり。

智は何が正しいか、何が間違っているか、この場合なら、これを行うことによって、幸せになれるものが善なのです。
それを行うことによって、苦しみを生み出すものが悪なのです。
それが正しく理解していることを智という。
でも、私達の識は都合のいいように思ってしまう。目先の楽を思っている。人間は楽な方へ、楽な方へと流れていく。苦しみを抜くことが善です。

🟨識は常に楽を求む、正要に入らず。この故に、識に依るべからず、といえり。

頭での理解であったならば、これを浄土真宗では、地獄には胴だけがいく『どう【胴】じゃ!』という話があります。
頭は極楽だけど、胴は地獄に行く、という話がある。頭だけの理解になってしまっている。

🟨了義経に依るとは、一切智人、います、仏第一なり。一切諸経書の中に仏法、第一なり。一切衆の中に比丘僧、第一なり〉と。

経典を読んで、私達は理解が中々、出来ない。

🟨無仏世の衆生を、仏は、これを重罪としたまへり、見仏の善根を種(う)ゑざる人なり」と。

仏にあえないことが罪なんだ。
仏法を知らないから、色々な問題が起きている。だから、真実を求める心が大事になります。

🟨しかれば、末代の道俗、よく四依を知りて、法を修すべきなりと。

善知識がいるかどうかが、とても大事です。私達は言葉に依ったら、勝手に解釈をしてしまう。
法が私達には分からない。だから、法がわかることが大切になります。
法と言っているものが、私達は人になっている。
⭕⭕先生の教え、それが法だと思いこんでいる。
例えば、除名になった人に対しては、呼び捨てにして、冷たくしろ!という法、教えになっている。
除名になった人には、その人を「さんづけ」してはならない。
「呼び捨て」にしなければならないことになっている。

それは法ではなく、人なのです。つまり悪人だから、冷たくしていい、という法が仏法にあるのかどうか。
仏法の団体は、人でなく、法に依らねばならない。
      【終了】