1️⃣🟦✡️🌃【2024年6月22日 (土)】
▶別院さんの土曜法話会
🌟第三回歎異抄第5章「亡き人を偲ぶこころ」15:00~17:00
🌟真宗大谷派・三河別院・庫裡
🌟【講師】市野智行 同朋大学准教授
………………………✴️…✴️……………………
✡️【配布資料】✡️
🌠【別院さんの土曜法話会】
🌃『歎異抄』第五章「亡き人を偲ぶこころ」
       同朋大学 市野智行
【第五章】
🟥【本文】🟥【供養】
🟨親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、未だそうらわず。その故は一切の有情は、皆もって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて、助けそうろうべきなり。
わが力にて励む善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をも助けそうらわめ。
ただ自力を捨てて、急ぎ浄土のさとりを開きなば、六道四生の間、いずれの業苦に沈めりとも、神通方便をもつて、まず有縁を度すべきなりと云々
『聖典』628/769~770頁

⏹️【語句説明】⏹️
⭕孝養⇒ 追善供養。孝行の意から転じて、亡き親への追善供養をいうようになった

⭕有情⇒ 生きているものすべて
★親鸞聖人は84歳の頃から、新訳を見られるようになって、使われるようになる。
🟦衆生から、有情に
🟦天親から、世親へ

⭕世々生々⇒ 生死(迷い)を繰り返す時間

⭕順次生⇒ 次の世、ただし単に死後という意味だけではない

⭕たすけそうらわめ⇒ お助けいたしましょう

⭕六道四生⇒ 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天、胎生・卵生・湿生・化生

⭕有縁⇒ 自分に縁のある者

🟥【口語訳】🟥
🟩私親鸞は、父母の追善供養のために念仏申したことは今まで一度もありません。その理由はこうであります。

①一切の生き物は、今まで刻んできた命の永い歴史の中で、そのいずれかの生において、父母になったり、兄弟になったりしたのです。それ故、そのいずれをも、この次に受ける生において、仏となって救わねばなりません。

②念仏が自己の力で励む善業でありますならば、その念仏の功徳を振り向けて、亡き父母を救いもしましょうが、他力の念仏は、そのようなものではありません。
ただひたすら自力を捨て、まずもって浄土のさとりを開いたならば、六道・四生といった如何なる迷いの境涯にあって、どのような業苦の底に沈んでおろうとも、不可思議な仏の力をもって、まず縁のある者を救うことができるのであります」と親鸞聖人は仰せになりました。
【神戸和麿 『歎異抄に聞く 本願の生活者』 285~286頁】

🌏【いまだそうらわず】🌏
🔳三つのテーマ
■①父母に限った孝養のためではない・・・①
⭕父母の追善供養のために、念仏申したことは一度もない
⭕一切の生き物は永い歴史においては父母であり、兄弟であるから

⇒ ここの解釈だけで言えば、念仏は追善供養の為でもいいが「父母」に限定することに問題があるようにも読み取れる。

■②念仏は不回向の行であり、追善供養の善行ではない・・・②

⭕『教行信証』「行巻」結釈『聖典』189/209頁
🟨明らかに知りぬ。是れ凡聖自力の行に非ず。故に「不回向の行」と名づくるなり。

⇒ 念仏とは自らの善根を「回向」差し向けるものでない

■③孝養とは何か・・・そもそも浄土真宗における孝養とは何か?

⭕第五章の「孝養」 → 追善供養を意味している

⭕『観経』世福 → 孝養とは父母に尽くす孝行を意味している

⇒ 孝養は必要であるが、本来(観経所説の)それは亡き人にむける追善供養ではない

【②:念仏とは不回向の行である】
■行巻の展開
⭕経文引用 ⇒ 経文結釈(破闇満願と転釈)
⭕上五祖の引用 ⇒ 名号釈(如来回施の行)
⭕中国祖師と下二祖の引用 ⇒ 結釈 (不回向の行) 念仏の伝統を「不回向の行」として押さえていく。

■『蓮如上人御一代記聞書』180 聖典887/1060頁
🟨他宗には、親のため、また何のため、なんどとて、念仏を使うなり。聖人の御流には、弥陀をたのむが念仏なり。その上の称名は何ともあれ、仏恩になるものなり。

⇒ 念仏とは弥陀をたのむことを内容とする。念仏を「~~のため」と使うことは、当流においてはないと記されている。

🙆‍♂️◎親鸞聖人は人の命終を、どのように捉えていたのか? (追善の必要性は?)

🙆‍♂️◎真宗における愛別離苦や供養は、一体どのように位置づける事ができるのか?

【①③:孝養とは何か?親鸞の死に対する理解】

■親鸞の最後
⭕『本願寺聖人伝絵』(覚如は親鸞没後34年)『聖典』736/892頁
🟨聖人弘長二歲仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。
自爾以来、口に世事をまじえず、 ただ仏恩の深きことをのぶ。
声に余言あらわさず、専ら称名たゆることなし。第八日午時、頭北面西、右脇に臥し給いて、遂に念仏の息絶えましまし終わりぬ。

⭕『親鸞聖人正明伝』(江戸期・高田派の学徒によって) 『真宗史料集成』7巻118頁
🟨同二十八日午のなかばに至りて、頭北面西、右脇に臥して念仏の息と共に還化したまいぬ

★この本は江戸時代のベストセラーといわれる。『正当伝』とも言われる。

⇒ 念仏を称える、その一息(一念)とともに亡くなっていった。

⇒ 親鸞の死に関しては、特に注視すべき「死」に関する記述は見当たらない。

■親鸞の死に対する記述
⭕『改邪鈔』(覚如親鸞没後76年)『聖典』690/840頁
🟨某(それがし)親鸞、閉眼せば、賀茂河に入れて魚に与うべし

⇒ 少なくとも門弟に対して、親鸞自身の死に対し、畏敬の念を持つ必要のないことを示している。

⭕『末燈鈔』「第六通」(親鸞88歳)『聖典』603/738頁
★最後の親鸞聖人のお手紙
🟨何よりも、去年(こぞ)今年(ことし)老少男女、多くの人々の死にあいて 【死にあいて】 候らんことこそ、哀れに候え。
ただし、生死無常の理(ことわり)詳しく如来の説きおかせおわしまして候上は、驚きおぼしめすべからず候。
まず、善信が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定の人は、疑いなければ、正定聚に住することにて候なり。

⇒ 死は悲しむべきものであるが、驚くべきことではない(生死無常)

⇒ 死に対して善悪 (来迎の有無) を問うことはしない

★親鸞聖人の死に対して、一番確かなもの。

■臨終行儀
⭕『恵信尼消息』聖典619/757頁
🟨風邪、心地、少しおぼえて、その夕さりより臥(ふ)して、大事におわしますに、腰・膝をも打たせず、天性、 看病人をも寄せず

★天性➡全く

⇒「大事におわします」・・・命に関わるような病であったのではないか

⇒「看病人をも寄せず」・・・臨終行儀を必要としなかった

★親鸞聖人は最後まで、臨終来迎に関わることをされなかった。

🙆‍♂️◎なぜ「追善供養」が必要なのかと言えば、亡者の苦を除くために、生者が善根を修めて功徳をたむけるため。

🙆‍♂️◎しかし親鸞は、そもそも現生における住正定聚を重視し、臨終の善悪を問わず、また臨終行儀も 必要としていない。

【①③:孝養とは何か、愛別離苦について】

■真宗では死別をどのように捉えているか
『口伝鈔』聖典670/817頁
🟨愛別離苦におうて、父母妻子の別離を悲しむ時、仏法をたもち、念仏する機、言う甲斐なく嘆き悲しむこと、しかるべからずとて、彼を恥しめ、諌むること、多分、先達めきたる輩、皆かくの如し (中略) 浄土真宗の機教を知らざるものなり。

🟦《口語訳》🟦
🟩愛するものとの別離の苦しみにあって、父母妻子などとの別れを悲しむ時、「仏の教えを守り、念仏を称えるものが、歎き悲しんではならない」と言って、悲しむ人を辱しめさすことが多いが、先輩ぶった人たちは、皆こうなのであろう。浄土真宗の機教を知らないのだろう。

🟦『口伝鈔』聖典672/819頁🟦
🟨人間の八苦の中に、先にいうところの愛別離苦、これ最も切なり

🟦《口語訳》🟦
🟩人間の根本苦の中で、愛別離苦の苦しみは、最も切実である。

⇒ 愛別離苦は人間にとって最も深い苦しみ・悲しみであり、切実な問題である。

⇒ 愛別離苦は浄土真宗の教えを聞いていく、大切な機縁となる。つまり、頭ごなしに供養(亡き人を想うこと)を否定している訳ではない。

【①③:孝養とは何か】

■孝養の意味
⭕孝養・・・孝行を尽くし、父母に仕えて、父母を養うこと
⭕善導の理解
『観経疏』の注釈・真聖全489~490頁
🟨孝養父母というは、
⏹️①これ一切の凡夫、皆、縁に籍(よ)りて生ずることを明かす。
云何が縁に籍る。或いは化生あり、或いは湿生あり、或いは卵生あり、或いは胎生あり。(中略)
⏹️②恩孝を行ぜざれば、即ち畜生と異なることなし。

🔳①自分自身が如何なる縁によって、生を受けたのかを明らかにすることが父母孝養の内容となる。
⇒ 私→父母でなく、父母→私という視点で「孝養」を考えていく

⇒ ここに世々生々の父母兄弟という実感が伴ってくるのではないか

🔳②父母を縁として、自らの誕生を明らかにする ➡ 畜生ではない

⇒ なぜ畜生なのか?
⭕四生(卵生/湿生/胎生/化生)のうち、同じ胎生のカテゴリーに入る

⇒ 生まれを同じくするが、人間と畜生では異なる。人間であること、つまり畜生とは異なる点を仏教では、どのように説いているのか。➡ 恩孝を行じること

■六師の教説と耆婆(ぎば)の勧導
⭕六師の教説 金子大栄『教行信証総説』322頁~
💮罪悪否認 ➡ 罪悪など存在しないという考え方
💮王者無罪論 ➡ 善悪を権力意志で決めていくという考え方
💮来世の否認 ➡ 宗教的なものを否認する

★六師の教えをまとめると三つになる。
★私達は、原因を無因・他因【慰め】にしがちである。自分に原因を求めることは難しい。

⭕耆婆(ぎば)の言葉『涅槃経』聖典258/293頁
(耆婆が阿闍世を釈尊のもとへ勧導する)
🟨王、罪を作すといえども、心に重悔を生じて慙愧を懐けり。(中略)
🟨二つの白法あり、よく衆生を救 く。一つには慙、二つには愧なり。

🟨A🌍️慙は自ら罪を作らず、愧は他を教えて作さしめず。
🟨B🌍️慙は内に自ら羞恥す、愧は発露して人に向かう。
🟨C🌍️慙は人に羞(は)ず、愧は天に羞ず。これを慙愧と名づ く。
🟨無慙愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。

⇒ 慙と愧が、ABCから説明されている。
🟨無慙愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす

⭕慙愧がなければ、人と呼べず、畜生と同じであると記されている。

🙆‍♀️A: 慙は自ら罪を作らず、愧は他を教えて作さしめず。

➡ 罪を作らず、他者にも作らせないこと

🙆‍♀️B: 慙は内に自ら羞恥す、愧は発露して人【おおやけ】に向かう

➡ 罪に対して自ら恥じ、隠さずに打ち明けること

🙆‍♀️C: 慙は人に羞ず、愧は天に羞ず

➡ 人に向かい、天に向かい、罪を恥じること

⇒ ABCの共通点は「自らの罪と向き合うこと」「罪を自分の中に閉じ込めないこと」この二つ

★他者に罪を認め、言うことが大事。ここに慚愧の大きな意味がある。

⇒ 罪に向き合い、誰かの責任にしない。これが畜生でなく、人間だから、できること。

🟩【亡き人を偲ぶ】🟩
■【聞法供養(法を聞くという供養)
➡(1) 生きている私たちが亡き人を縁として、仏法に出遇っていくということ

➡ (2) 仏法を縁として、亡き人ともう一度、出遇っていくということ

■キサーゴータミーと恐山
⭕キサーゴータミーの説話として知られており、『ダンマパダ・アッタカター』や『雑譬喩経』
🟩巻下に、その下敷きとなる説話が収録されている。

➡ けしの実を死者を出していない家庭から貰ってくる。

➡ 自分だけが苦しい思いをしているわけではない。誰もが愛別離苦の苦しみの中を生きているので ある。

⭕恐山 ⇒ 南直哉「恐山というのは、死者を媒介にして、生きている人間にその欠落を気づかせてしまう場所なのです」

⇒ 人は生きて、そして命終わるという、その当たり前への気づき
     【終了】