【質問】

信心決定した人は、五つの畏怖がなくなると聞いたことがありますが、有名なお坊さんで、五畏怖(いふ)を語っている箇所がありましたら、教えて下さい。

【回答】

最近、読んだ本の中で『正信偈講座』【梯実円師・著】【p.99】に以下のように書かれていましたので、紹介します。

例えば『大毘婆沙論』には、畏怖心の去らぬものが凡夫、畏怖心がないのが聖者だと言ってあります。

畏怖というのは、畏れおののく心です。その畏怖心とは、具体的にどういうものかというと、
『大毘婆沙論』の中に五つの畏怖心が言われています。

 ①不活畏②悪名畏③怯衆畏④命終畏⑤悪趣畏です。

①「不活畏」とは、生活の畏れです。うまく生きていけるかどうか、という生活上の畏れです。

②「悪名畏」とは、悪口を言われてはしないかという畏れです。誰か三人ほど向うで話しをしていて、その内の一人が、こちらを向いて、ニヤッと笑っていると、何か悪口を言っているのではないかと、すぐに気が回るのは悪名です。

③「怯衆畏」とは、人目を怯(おび)える、人を畏(おそ)れることです。これは自信がない、ということです。

④「命終畏」とは、命の終ることを怯える、死を怯える訳です。
死の怖(こわ)さというものは、実は死が怖い訳ではないのです。

死ぬこと自体よりも、死への無知によるものです。死が何であるか我々には理解できません。理解できないものは受容できないし、怖いのです。

また「死ぬのは何ともない」と言うのも、いい加減なものです。
むしろ死ぬことが怖いというのは、良いことなのです。だから、死にどんな意味を与えるか、生と死の意味づけが宗教の大事な役割なのです。意味のある生を生き、意味のある死を死ぬ。

そういうことで、死がある意味で死を超えるということがある。
生死を超えた所から、生と死に意味づけをして頂く。これで初めて私達は、命終畏から解放される訳です。

⑤「悪趣畏」とは、悪い所に行きはしないか、という畏れです。

凡夫は、このような畏(おそ)れを持っているのです。聖者には、そういう畏れはない。死に対する畏れもない。

しかし、凡夫も聖者も、本願の海に入れば、平等一味となる。
淀川もあれば、大和川もあり、いろいろな川の流れがあるけれども、海に流れこんでしまえば、一つの海の味わいに変る。それが「衆水海に入りて一味なるがごとし」ということです。

🟨浄土真宗講義【28年3月17日】①五怖畏(十住毘婆沙論)
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🟥https://youtu.be/Z6gFZiJONmA?si=dHQAA6sqzW94hvQb
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