中島岳志さんに聞く、『パール判決を問い直す 「日本無罪論」の真相』刊行当時のこと(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

 

 

中島岳志さんに聞く、『パール判決を問い直す 「日本無罪論」の真相』刊行当時のこと

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今年、講談社現代新書は創刊60周年を迎えました。これを記念して、現代新書の著者の方々に、自著と、ご自身にとって特別な現代新書についてお話を伺うインタビューシリーズ「私と現代新書」。3回目に登場していただくのは、政治学者の中島岳志さん(東京工業大学教授)です。 

 

【写真】ある年の8月15日、靖国神社の風景

 

現代新書から刊行されている中島さんの著書は、中島さんが師匠と呼ぶ西部邁さんとの共著『パール判決を問い直す 「日本無罪論」の真相』(2008年刊)です。前年に出版された中島さんの著書『パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社)(以下、『パール判事』)が呼び起こした論争を受けて、西部さんと中島さんが対談した内容が収められています。 『パール判決を問い直す』が刊行されるまでの経緯、そして、あらためてパール判決についてお話を伺いました。​前後編に分けてお届けします。(以下、敬称略)【前編】

「パール判決」を「日本無罪論」とする解釈を批判

東京裁判の様子。中央に、被告の一人である東条英機元首相(GettyImages)

――『パール判決を問い直す』は、中島さんの著書『パール判事』が呼び起こした論争を受けて、西部さんから中島さんに呼びかけた対談だそうですね。あらためて、『パール判事』でお書きになったことと、対談に至る経緯についてお聞かせいただけますか。 中島岳志(以下、中島):パール判事は、東京裁判に出廷した判事の中でただ一人、被告人に対して刑事上の無罪を主張したインド人の裁判官です。当時、パール判事の反対意見書、いわゆる「パール判決書」を「日本無罪論」と解釈し、大東亜戦争肯定論の根拠として使う「保守」の人たちがいました。その文脈で靖国神社にパール判事の記念碑まで建てられています。しかし、そうした「パール判決書」の解釈はパールの本意ではなく、そのような文脈で「パール判決書」を援用するべきではないことを書いたのが、『パール判事』という本です。 ――「パール判決書」をそのように解釈する「保守」の人々を、本書では「自称保守派」と書かれています。そうした解釈は、パールの本意とどのように違っているのでしょうか。 中島:まず、パールが「刑事上無罪」と主張したのは「日本」についてではなく、東京裁判で裁きを受けている「A級戦犯容疑者」についてです。 次に、パールの「無罪」の主張はあくまで「刑事上無罪」という意味に限定されます。「道義的に無罪」とは言っていません。むしろ、日本軍の「残虐行為」を事実と認定し、「鬼畜のような性格」をもっていた、日本の指導者たちは「おそらく間ちがっていたのであろう。」「みずから過ちを犯したのであろう。」と非難しているのです。 ――日本の戦争指導者たちを道義的に非難しながら、法的には無罪と主張したのですね。どのような論理構成なのですか。 中島:パールが「刑事上無罪」と主張した理由は、罪刑法定主義です。 東京裁判では、日本の戦争指導者たちが、「平和に対する罪」「人道に対する罪」「通例の戦争犯罪」という3つの罪について裁きを受けました。しかし、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は、当時の国際法上は成立していない事後法的性格があり、罪刑法定主義の原則からの逸脱であって、そもそも裁判の管轄外だ、とパールは主張します。 そして、連合国側は、日本の戦争指導者たちは一貫した「共同謀議」を行って、「平和に対する罪」を犯し続けたと主張しましたが、パールは、「共同謀議」の存在を認めず、連合国側が無理やり作り上げたストーリーだと批判しました。 しかし、「パール判決」の論旨は、日本はアメリカと同様、帝国主義の時代に大きな過ちを犯したのだ、というものです。つまり、日本だけでなく、アメリカをはじめとする戦勝国側をも批判しているのです。 そもそもパールは東京裁判そのものを批判していました。戦勝国が、法が存在しないところで敗戦国日本を一方的に裁くことはおかしい、と。ただし、東京裁判が成立していないとは言っていません。捕虜の虐待などの「通例の戦争犯罪」は、当時の国際社会において間違いなく成立しているからです。 ただし、A級戦犯とされた政治指導者たちは、現場で直接捕虜の虐待などを命じたり、行ったりしたわけではありません。問題は、虐待などが起きているにもかかわらず、それをとめなかったという「不作為の責任」が問えるかどうかですが、これも証拠不十分で立証できないとしました。

 

 

 

なぜパール判事について書こうと思ったか

2016年8月15日、靖国神社でパール判事のポスターを掲げ持つ男性(Gettyimages)

中島:私がパールのことを書こうと思ったきっかけは、東京裁判は世界平和につながらない、戦争には勝たなければならないという教訓しかもたらさない、と言っているからです。 東京裁判は、戦争に勝った連合国が自分の都合のいいように存在しない法律を制定し、相手を裁く場だった。それを見た世界中の為政者たちは、戦争をやめておこう、ではなく、戦争に是が非とも勝たなくてはならないとしか考えないだろう、だから世界平和につながらないのだ、とパールは言います。さすがのロジックです。これこそが、世界平和主義者だったパールがこの判決書で本当に言いたかったことなのです。 それなのに、パールのこの東京裁判批判は読み飛ばされたまま「大東亜戦争肯定論」の根拠として利用されていました。それはいかがなものか、と思って書いたのが『パール判事』で、論争的であることは承知の上でした。 ――論争を仕掛ける本だったわけですね。『パール判事』では、「パール判決書」を「大東亜戦争肯定論」の論拠として利用している例として、小林よしのりさんの『戦争論』を挙げて批判なさっています。それに対して、小林さんは、雑誌「SAPIO」連載の「ゴーマニズム宣言」で中島さんへの反論と批判を書かれ、中島さんと小林さんの論争が始まりました。「ゴーマニズム宣言」での中島先生の描かれ方はなかなか激しいですね。 中島:最初は、取り上げてくださったことをありがたいと思っていました。子どものころに小林さんの「おぼっちゃまくん」を読んでいましたから、小林さんに私の絵を描いて頂けるのは、大変光栄でした。だけど、僕が人を刺している絵が描いてあったりして、ちょっと待ってくださいよ、と…(笑)。 『パール判事』に対してそうした反応はあるだろうと思っていました。小林さんと是非、直接話をしたくて、対談をお願いしたのですが、当時はお断りの返事がありました。なので、講談社の「月刊 現代」に一文を書きました。 ――2008年2月号掲載「著書『パール判事』への誹謗中傷に反論 小林よしのり氏にガチンコ討論を申し込む」という寄稿ですね。 中島:タイトルは編集部がつけたもので、激しいトーンですが(笑)、中身を読んで頂けると、かなり丁寧に論点を明示して、私なりの反論を示したはずです。 このやりとりを見ていた西部先生が、じゃあ僕と対談をしよう、講談社でやろう、と声をかけてくださって、それで生まれた対談が、この『パール判決を問い直す 「日本無罪論」の真相』です。 対談にあたり、西部先生はこうおっしゃいました。この対談は小林さんに対しての批判ではない。右派全体がパール判決書を誤読していること、そもそも東京裁判とは何なのかという問題と全くリンクしていない議論が横行していることについて問題提起しよう。「保守」という立場からパール判決書を読むとどうなるのかということを二人で論じようではないか、と。喜んでお受けしました。 のちに小林さんから声をかけて頂いて、トークイベントでご一緒させて頂きました。内容は、安倍内閣に対する批判だったと思いますが、思いのほか議論がかみ合って、楽しい時間でした。歴史認識の問題では、私の議論に賛同は下さっていないと思いますが、いつかじっくりと対話できる機会があればと思っています。

 

 

 

 

 

保守思想家・西部邁氏との出会い

エドマンド・バーク(GettyImages)

――中島さんと西部さんの師弟関係はどのような始まりだったのですか? 中島:僕が2005年に書いた『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義​』という本が朝日新聞と毎日新聞で賞をいただいたのですが、それをきっかけに毎日新聞で僕の対談連載が始まりました。僕が話したい人と対談できる企画だったので、絶対にこの人と、とお願いしたのが、西部先生と吉本隆明さんでした。この対談をきっかけに、西部先生との個人的なおつきあいが始まりました。このときの対談シリーズは『中島岳志的アジア対談』という本にまとめられています。 そこから、西部先生が出されていた「表現者」という雑誌の編集委員にしていただいて、編集会議や座談会でお会いするほか、僕が住む札幌にもご自身の塾の仕事でいらっしゃることがあったので、1ヶ月に1回は先生と夜、深い時間までお酒をご一緒させていただくというお付き合いが続きました。 ――なぜ、ぜひ対談したい相手として西部さんを希望したのでしょう。 中島:僕が大学に入った頃に読んだ、西部先生の『リベラルマインド 歴史の知恵に学び、時代の危機に耐える思想』(93年刊)という本が、僕の人生にとって決定的だったのです。 ――2021年に『再刊 リベラルマインド』というタイトルで再刊され、中島さんが「再刊のための解説」を書かれています。 中島:この本で、西部先生は、保守こそがリベラルであるとおっしゃっています。 近代主義的なの左派の人たちは、人間の理性でもって世界の設計図をつくり、それを革命によって実現し、よき社会をつくっていくのだと考えます。これを設計主義といいます。 これに対し、エドマンド・バークを嚆矢とする保守の立場は、近代主義的左派の人間観を疑います。人間というものは間違いやすいものであり、人間がつくる社会は永遠に不完全なまま推移せざるをえない。そして、世の中は変わっていくものであるから、グラジュアルに手入れをしていかなくてはいけない。これを「保守するための改革(Reform to Conserve)」と、バークは言います。 そうした改革で指標にすべきものは、特定の思想家のイデオロギーではなく、無名の人たちによって、長年、歴史の風雪に耐えながら残されてきた見地や良識、慣習、それが形になった伝統といったものだ、と。それが保守思想なのだ、と。 保守の懐疑的人間観は、当然、自分にも向けられます。自分の主張にはほころびや誤認が含まれているかもしれないのだから、自分と異なる意見も聞かねばならない。闊達な議論をし、相手に分があるならば認め、そうやって合意形成をしていく。それが保守政治というものであり、保守こそがリベラルである。そのリベラルマインドを捨ててはならない、と。

 

 

 

 

若い僕にとって、「保守」は敵だった

非自民・非共産の8党派によって、細川護熙日本新党代表(右から2人目)を首相候補として推すことが合意された。1993年7月29日撮影(GettyImages)

中島:この『リベラルマインド』が書かれた当時、日本では政治改革が進んでいましたが、リベラルマインドを棄損するものだ、と西部先生は批判していました。 ――1993年の細川内閣による政治改革ですね。自民党が1955年の結党以来初めて下野し、日本新党代表の細川護熙氏が内閣総理大臣に就任、非自民・非共産の連立政権である細川内閣が誕生し、自民党長期政権時代を一新する政治改革に着手しました。その一つが選挙制度改革で、「小選挙区比例代表並立制」が導入されました。 中島:西部先生は、小選挙区制を導入してしまうと、闊達な議論が行われず、個人が消え、上意下達の「党人(とうじん)」しかいなくなる、と言います。小選挙区は一選挙区から一人しか当選しないので、党幹部が「公認」という大きな力を持ち、議員たちは党幹部の顔色ばかりうかがって異論を唱えない群れになっていく。そこでは闊達な議論など起きず、合意形成はすべてトップダウンになってしまう。だから、政治改革には断固反対である、と。 それを読んで、僕は強烈な冷や水を浴びせられました。当時の僕は、政治改革をもっとやれ、としか考えていませんでした。しかし、西部先生が書かれていることを読んで、なるほどな、と認めざるをえなかった。 とはいっても、「『保守』かぁ。まいったな…」と、とまどいました。当時、自分の力を過信し、何でも変えることができると思っていた若い僕にとって、「保守」は敵であり、旧態依然としたおじさんたちのものというイメージでしたから。 ですが、『リベラルマインド』を読んだことをきっかけに、西部先生が挙げていらっしゃるエドマンド・バークをはじめとするいろいろな保守思想家の本を読み始め、僕なりに保守に接近していきました。 けれど、接近すればするほど、同時代の「保守」と主張している人たちへの違和感が募っていきました。あの戦争は正しかったと主張していたり、新自由主義にのっかっていたり…。「そんなのが保守なのか?」と思うにつれ、より、西部先生の考えが僕の指標になっていきました。 ――まさにそうした「保守」の人たちをを、『パール判事』で批判なさっています。

 

 

 

 

西部さんが言葉にしなかったこと

中島:この本は、最初はいろいろな方が書評してくださって、評価されていたのですが、小林よしのりさんからの批判が始まって以降、右派の各所から一斉に攻撃され始めました。

 

 ――そうして、西部さんから対談が持ち掛けられたのですね。

 

 中島:

西部先生は、僕の置かれた状況を見かねて、助けてやろうと思われたのだと思います。そのことを、西部先生は言葉にしなかったけれども、僕はよくわかっていました。 表面的には、「保守」の立場からパールを「批評」しよう、とおっしゃいましたが、それは僕に大変な気遣いをしてくださったのだと思います。助太刀せねばという気持ちを僕に伝えるのは押しつけがましいことだと思われたのでしょう。西部先生のやさしさだったのだと思います。

 

 

 ――『パール判決を問い直す』の終章で、中島さんは、「パール判事は保守派の友たりえない」と総括します。

世界連邦を目指すパールの思想は、

人間も社会も「完成」可能であるという設計主義の発想であり、

保守の立場とは全く相容れない、と。

 

 ただし、戦勝国側の不公正を合法化する「政治」の場であった東京裁判を、

判事という立場で引き受け、

法実証主義を盾にA級戦犯全員無罪と主張することによって

東京裁判の不公正を

たった一人で批判したパールの態度は立派だった、と評価します。

 

 一方、西部さんは、「パール判決書」に乗っかった「自称保守」だけでなく、

大東亜戦争や東京裁判について

自分自身で考えようとしない日本人の「無思想」を強く批判しています

 

 本書の刊行から16年、本書が生まれるきっかけとなった『パール判事』の刊行から17年がたちます。

 

当時からお考えが変わった部分などはありますか?

 

 中島:

一つも変わっていません。『パール判事』は、一連の論争が終わったあと新書版にしたのですが、

そのときも表記の修正以外は何も書き換えていません。

あれほど論争を招いたのになぜ直さないんだ、という批判まできました。

しかし、僕は、修正すべきところがあるとは今も思っていません。

 

 ――『パール判決を問い直す』への反響はどのようなものでしたか。

 

 中島:

思ったより反響がありませんでしたね。ちょうどこの本と同じ頃、小林さんが、「SAPIO」での連載をまとめた『ゴーマニズム宣言SPECIAL パール真論』という本を出されました。私への批判がたくさん書かれています(笑)。

 

ですが、『パール判決を問い直す』で西部先生と私で応答したことによって、

議論は盛り上がるよりむしろ収束してしまいました。

もう少し議論が続いてもいいのに、と思ったのですが。

 

 

 ――中島さんは、まだまだ受けて立つという姿勢だったのですね。論争当時は大変だったと思うのですが。

 

 中島:

ひとつは、当時、僕は北海道にいたので。もし東京にいたらいろんな声が耳に入ってきたと思いますが。

その頃、僕は札幌のシャッター通り化した商店街の問題に取り組んでいて、

コミュニティ・カフェを作ったりしていました。

「東京のほうは騒がしいな」という感じで受けとめていました。

東京に行くと、常にこの論争の話を振られましたが。

 

 ――当時はまだSNSが今のように普及していない時代でしたから、

物理的距離によって論争の渦からある程度離れることができたのですね。

今だったら論争は違う様相を呈したかもしれません。

 (聞き手:伏貫淳子) 

 

【後編では、中島さんが「特別な現代新書」として挙げた

『〈わたし〉とは何だろう 絵で描く自分発見』(岩田慶治著、1996年刊)と、新書のありかたについてお聞きします。】

中島 岳志(東京工業大学教授)

 

 

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