2022年2月27日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第8回の感想です。

完全ネタバレなので、ご注意ください。

 

NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。

 

 

 

 

 

なお、キャストの順番は以下の通り。

第8回「いざ、鎌倉

北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、亀(江口のりこ)、畠山重忠(中川大志)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、伊東祐清(竹財輝之助)、仁田忠常(高岸宏行)、江間次郎(芹澤興人)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、武田信義(八嶋智人)、千葉常胤(岡本信人)、土肥実平(阿南健治)、三浦義澄(佐藤B作)、平宗盛(小泉孝太郎)、梶原景時(中村獅童)、首藤経俊(山口馬木也)、岡崎義実(たかお鷹)、平知康(矢柴俊博)、弁慶(佳久創)、藤平太(大津尋葵)、野武士(慈五郎)、大姫(難波ありさ)、くま(田中なずな)、平清盛(松平健)、上総広常(佐藤浩二)、大庭景親(國村隼)、丹後局(鈴木京香)、伊東祐親(浅野和之)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順です。37名です。

 

第1回と第2回は安元元年(1175年)伊豆国での源頼朝と八重の騒動

第3回はその5年後の治承4年(1180年)5~6月、以仁王の挙兵のころ

第4回は主に治承4年(1180年)8月16~17日、山木襲撃事件直前

第5回は治承4年(1180年)8月17~23日、山木襲撃事件後から石橋山合戦まで

第6回は治承4年(1180年)8月23~29日、石橋山合戦敗北から安房国へ

第7回は9月2~9月19日、安房国で再挙

第8回は9月19~10月10日、武蔵国から相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流まで

が描かれています。

 

治承4年(1180年)当時の登場人物の年齢を再確認しておきましょう。

 

北條時政 保延4年(1138年)生 42歳
北條政子 保元2年(1157年)生 23歳
北條宗時 不明 21歳?
北條義時 長寛元年(1163年)生 17歳
源頼朝 久安3年(1147年)生 33歳
小野田盛長 保延元年(1135年) 45歳
三浦義澄 大治2年(1127年) 53歳
三浦義村 仁安3年(1168年) 12歳
伊東祐親 元永2年(1119年) 61歳
和田義盛 久安3年(1147年)生 33歳
大姫 治承2年(1178年)生 2歳
平清盛 永久6年(1118年)生 62歳
大庭景親 保延6年(1140年)生 40歳
土肥実平 天永元年(1110年) 70歳
岡崎義実 天永3年(1112年) 68歳
佐々木秀義 天永3年(1112年) 68歳
工藤茂光 天仁3年(1110年) 70歳?
仁田忠常 仁安2年(1167年) 13歳
上総広常 保安元年(1120年) 60歳
千葉常胤 永久6年(1118年)生 62歳


 

9月2日に平家の追手から逃れるため、伊豆山権現を脱出して文陽坊覚淵(諏訪太朗)の計らいで秋戸郷の民家に移って潜伏していた北條政子(小池栄子)のもとに手紙が届き、鎌倉へ向かうことになります。『吾妻鏡』によれば8月19日から9月2日にかけて伊豆山神社にいたことになります。一説によると文陽坊覚淵加藤景員の子(加藤光員加藤景廉の兄弟)ともいわれており、そうなるとこのころ齢20代の若者ということになります…。なお、仁田忠常(高岸宏行)が度々知らせに来ていますが、源頼朝が安房国へ渡ったことは史実では土肥実平(阿南健治)の子早川遠平が伝えに来ていたとされています。

 

 

上総広常(佐藤浩市)を先陣に武蔵国へ進軍する源頼朝軍。その規模は都にはまだ伝わっていないとナレーションが入ります。このドラマでは珍しく伝わるのが遅いです。ドラマ上では9月27日のことです。

上総国から下総国をどのように経由していたのかはドラマでは第7回の9月13日に千葉常胤(岡本信人)が下総国目代の首を刎ねて、9月17日に源頼朝へ土産として首を持参した件以外はすっ飛ばされてしまいましたが、9月14日に結城浜合戦千葉常胤上総広常連合軍が下総守藤原親政を撃破して以降もしばらくは上総国や下総国で平家方と戦っており次第に形成が変わっていきました。第7回では9月19日に下総国衙で上総広常源頼朝に「礼儀知らずは帰れ」といわれた件がありましたが、実際にはもうこのころは上総広常はすでに上総国で平家方と戦っており、単に上総広常を陥れるだけのエピソードです。

武蔵国へ進軍するにあたって、武蔵国の豪族を味方に引き入れることは必至で、9月3日に小山氏、下河辺氏、豊島氏、葛西氏に密書が送られ、また、9月28日に江戸重長に密書を送り、9月29日には葛西清重中原維茂が派遣され、9月30日には新田義重に密書が送られています。特に9月28日の密書には江戸重長に「秩父重能や小山田有重らが在京している今、汝が武蔵国の棟梁であり、最も頼りにしている」と伝えている一方で、9月29日に葛西清重には「江戸重長を誘い出して討ち取れ」と密書を送っています。この辺りは真実の密事と同じようにそれぞれに「お前だけが頼りだ」と送っていたと思われます。

10月2日に大井川、隅田川を渡り武蔵国に入ると、足立遠元豊島清元葛西清重らが出迎えました。隅田川の陣には源頼朝の乳母寒河尼の子で12歳の小山宗朝(小山朝光)も参じており、源頼朝が烏帽子親となって元服しています。寒河尼の弟八田知家もおそらくこのときに一緒に参じていると思われます。また下野国小山氏の一族で源頼政配下の下河辺行平も麾下に加わっています。

 

8月17日に伊豆国で挙兵して伊豆国滞在は3日間

8月20日に相模国土肥に入って8月23日に石橋山合戦で敗れ、椙山で潜伏して8月28日に真鶴岬から脱出するまで相模国滞在は9日間

8月29日に安房国平北郡猟島に到着して9月10日に丸御厨を巡視し、9月13日に下総国へ向けて出兵するまで安房国滞在は16日間(上総国に4日間)

9月19日に下総国国衙に入って10月2日に大井川・隅田川を渡って武蔵国に入るまで下総国滞在は14日間

平家方の抵抗が全くなかったらむしろ34日もかかるわけがありません。房総半島にいて形勢逆転を果たしたこの34日間こそとても重要だと思うのです。もっと丁寧に細かく着目したいと思いますので、この辺りは別でブログを書きます。

 

9月27日、平清盛(松平健)がなぜ1か月以上も出陣しないのかと怒ります。それもそのはずで源頼朝挙兵を知らせる早馬は9月2日には福原に到着しており、9月4日には源頼朝追討の官符が発せられていたのです。平宗盛(小泉孝太郎)が明後日9月29日の吉日に出陣しますと答えて怒られていますが、平宗盛の失態ではありません。これは平維盛(濱正悟)はすぐに出兵すべきだと主張していたにも関わらず、伊藤忠清が吉日を選んですぐに出陣しべきではないと内輪もめしており、遅れに遅れていたのです。

しかし史実では、すでに9月19日の時点で福原を発って京都に入っており、9月29日に京都を発つまでの間のこととすれば平清盛はわざわざ福原から京都へ来ていたことになります。ここはドラマ上での矛盾点です。

 

源義経(菅田将暉)が登場します。騙し討ちをする辺り、今後の活躍の伏線となっています。

源頼朝のもとへ向かっていたにも関わらず、急に思い立って富士山へ行ってしまったり、腰越までたどり着いて鎌倉はすぐ目の前なのに海へ出てしまったりといった源義経のキャラクター像がなかなか素晴らしいです。ただ史実では10月18日の黄瀬川の陣で初対面しており、まだこのころは近くにたどり着いていなかったはずです。

10月9日に伊豆国から鎌倉へ向かっていた北條政子が稲瀬川付近の民家に宿泊しており、10月9日にはすでに腰越に源義経が到着していた(実衣(宮澤エマ)が目撃した)とドラマ上では描かれていますが、次回どのように対面するのかが楽しみです。

 

 

 

10月2日の隅田川の陣において、すでに鎌倉入りした後に鎌倉御所をどこにするかの話が出ています。まだ鎌倉を攻め落としていないのに気が早い。なお、岡崎義実(たかお鷹)が「源義朝様の館があった亀谷に御堂を建ててずっと源義朝様の御霊を祀ってきた」と言っていますが、これは事実とは考えられません。「上総御曹司」と称された源義朝の拠点は上総国にあり、また鎌倉郡沼浜で三浦義明の娘との間に生まれた源義平が育っています。源義朝の館が敵地である鎌倉のど真ん中の亀谷にあるはずがありません。勝手に出入りできるような場所ならわざわざ攻め込む必要もないのです。勝者が勝者の都合のいいように歴史を塗り替えてしまっている典型で、滅ぼされた側の鎌倉氏にとって屈辱以外の何物でもありません。

悲しいことに、亀谷に源義朝の館があり、岡崎義実源義朝の菩提を弔う御堂を立てていたが、狭いため鎌倉御所は別の場所に建設し、御堂跡に後に北條政子が寿福寺を建立したという話が定説となってしまっています。勝者側ではなく敗者側からみたら史実は全く異なります。

なお、10月1日に阿野全成(新納慎也)が源頼朝と対面を果たしています。

 

10月3日、隅田川の陣に馳せ参じなかったことから謀反の疑いありとして、千葉常胤伊北常仲を攻め滅ぼしています。

伊北常仲伊西常景(上総広常の兄)の子であり長狭常伴の甥にあたります。上総広常にとっても甥にあたります。上総国では初めて源頼朝に謁見したものの、隅田川の陣に参上しなかったことで滅ぼされてしまいました。

 

10月4日、畠山重忠(中川大志)、河越重頼江戸重長らが参陣します。

畠山重忠によって8月27日に三浦義明が攻め殺されており、三浦義澄(佐藤B作)や和田義盛(横田栄司)は畠山重忠への恨みごとを言いますが、「味方になりたいといってきた者を斬るわけにはいかない」「大義のため畠山重忠が欠かせぬかどうか」という話になります。

岡崎義実も子真田義忠を討った長尾定景を後に許していますし、北條義時が「佐殿は降伏してきた者には寛大だ」と言っているように、降伏してきた者は基本的には処罰しませんでした。

なお、江戸重長は武蔵国の在庁官人などを統率して国の諸雑事を沙汰する権限を与えており、「江戸重長が武蔵国の棟梁だから最も頼りにしている」という内容の密書が事実だったことが分かります。

 

 

史実では9月8日に北條時政(坂東彌十郎)と北條義時(小栗旬)は甲斐国へ向かってそのまま甲斐国にいるはずですが、ドラマ上ではその後も北條義時は上総国に残っていました。ところが10月4日に急遽また甲斐国へ向かうことになります。北條時政が油を売っていて武田信義(八嶋智人)と交渉が進んでいないためでした。そしてあっさり北條義時が交渉を終えると、なんと10月5日のうちには武蔵国へ帰ってきているのです。隅田川の陣から甲斐国まで片道で直線距離でもおよそ130kmほど、往復で260kmです。早馬で走っても7日はかかる道のりをたった1日で日帰りしてきてしまうのです。ドラマとはいえさすがに…。

そして武田信義が南北朝時代の足利尊氏の褄取縅の鎧を着ている…この時代にはまだない鎧です。

なお、北條義時が任されたという御家人の屋敷の構想図。敵から奪った所領を誰にどのように分配するかという大事なことを17歳の北條義時に決めさせるってすごいですね。ドラマ上功労者と考えられている武士たちの名前がこの図で明らかです。第7回にも「安達殿」と呼んでいましたが、今回も「安達」と書かれた石が置いてあります。小野田盛長(野添義弘)が安達姓を称するのは、文治5年(1189年)の奥州合戦での恩賞として陸奥国安達郡を拝領してからなので、この時点では安達姓ではありません

 

 

10月5日には源頼朝軍は武蔵国から相模国へ入り、鎌倉郡世野郷の相辺沢の鎮守諏訪明神に一泊しています。

武衛」の件はドラマとしてはとても笑えましたが、上総広常をどこまでコケにするのか、あまりに上総広常をおバカなキャラクターに描いており、その点については非常に残念です。

 

 

10月6日、畠山重忠飯田家義を先陣に、千葉常胤を殿にした軍勢は相模国を進軍し、鎌倉(化粧坂)で六本松合戦となります。

大庭景親(國村隼)、俣野景久梶原景時(中村獅童)らの最期の抵抗でした…が、あっさりと省かれていました。

なお、六本松古戦場は『相模国鎌倉郡村誌』にも記されているように、鎌倉道(武蔵路)上にあり化粧坂のすぐ近くの山地で、梶原丘(葛原岡)と化粧坂の間に位置します。いまでいう源氏山公園の一角です。応永23年(1417年)の上杉氏憲の乱上杉氏定源満隆20,000騎の攻撃を防戦した地としても知られています。

10月5日に鎌倉郡世野に入っていますので、その後鎌倉道(武蔵路)を南下し上飯田、和泉、俣野、村岡、洲崎、梶原、六本松という順路で10月6日に六本松合戦となります。これは元弘3年(1333年)に新田義貞が鎌倉攻めをした順路と同じです(新田義貞は六本松にたどり着けませんでしたが)。

 

ドラマ上では源頼朝軍は総勢3万騎とのことです。

しかも大庭景親の従弟である梶原景時が「それがしは大庭殿の家人ではござらん、ここまででござる、では御免」とさっさと見限って出て行ってしまいました。「大庭殿とは袂を分かった、粗暴な者は苦手でな」と言わせていましたが、梶原景時は最期まで一族とともに戦い、一族たちが次々降伏していっても潜伏しつづけ、10月26日に大庭景親が斬首されてから1か月以上経ってようやく12月になって土肥実平を頼って降伏してきています。一族としてはこんな裏切り者として描かれるのは残念でなりません。

そして、平三郎景時のことを「へいぞう」と呼ぶのをやめてほしい。「へいざぶろう」の略は「へいざ」です。

 

 

10月19日伊東祐清が囚われます。鯉名泊(南伊豆町手石小稲)から駿河国へ向かおうとしていたところを天野遠景に捕えられています。

話としてはちょっと時期が早すぎなのですが、どうしても北條義時八重(新垣結衣)を助けに行かなければならないのであえて伊東祐清を早めに捕えさせたドラマ上の都合です。

 

 

仮御所の建設が進むなか、源頼朝(江口のりこ)と密会するために、北條政子の鎌倉入りを明後日にしてもらえと言います。そのことからこの件が10月8日だということが分かります。

ただ史実では仮御所(仮居所)の建設は大庭景義が奉行となって行っており、源頼朝が仮御所に入ったのは10月15日なので、まだ10月8日の時点では仮御所はありません。

 

 

10月9日、伊豆国から鎌倉へ向かっていた北條政子。稲瀬川付近の民家で宿泊しています。

北條政子らの衣服を梶原景時が用意します。盆栽…って江戸時代に庶民に伝わったもので、平安時代には上流階級の貴族ぐらいしかやらないと思います。何かの史料に登場するのでしょうか。いずれにしても、前述したようにこの時期はまだ梶原景時は平家方として潜伏しており、鎌倉郡梶原にはいないはずです。どうしても梶原景時を一族を裏切った面汚しに描きたいようで、残念でなりません。

 

なお、すでに腰越まで到着していた源義経一行。芋の件は、芋洗い勧進帳の首いっぱいの話を連想させます。

 

 

10月10日、懐島景義(42)が北條政子を鎌倉で出迎えます(『吾妻鏡』)。つまりこの『吾妻鏡』から分かることは、源頼朝が出迎えたわけではない、ということです。ドラマ上では感動的な出迎えシーンになっていますが…。

ここに源氏ゆかりの由比若宮をお遷しする、鶴岡八幡宮じゃ、この丘の下に社殿を築く、八幡神は源氏の守り神」と源頼朝が力説します。通説では元八幡(由比若宮)にもともと源頼義が建立した八幡宮があって北山に遷したというのが現在の通説となっていますが、元八幡のあたりはもともと海で通常神社を建立するような場所ではありません。源頼義と関係があったとこじつけで生まれた伝承だと考えられ、よって遷宮ではなく、石清水八幡宮を勧請し新たに建立したとみる方が妥当です。

 

10月12日、源頼朝は鎌倉郡鎌倉郷鶴岡にあった八幡宮を小林郷北山に移す造営奉行として懐島景義(43)に命じました。

10月15日、普請奉行懐島景義(42)が建設していた仮御所(仮居所)が完成し、源頼朝が御所に入りました(『吾妻鏡』)。

10月23日、懐島景義(42)が大庭景親(40)から奪った大庭御厨を所領として安堵されます。これを機に懐島景義大庭景義と称されることもあります。

12月12日、普請奉行懐島景義(42)が大蔵御所の建設を終え、源頼朝が新居に入ります。

治承5年(1181年)5月、懐島景義(43)が一品房昌寛梶原景時(41)とともに小御所、厩、若宮大路などの造営奉行をつとめます。また鶴岡八幡宮遷宮(若宮造営)にあたって懐島景義(43)が造営奉行をつとめ、鶴岡八幡宮の俗別当として境内の掃除や警護も任されるなど重用されます。

養和元年(1181年)7月18日、懐島景義(43)や梶原景時(41)らの奉行によって遷宮が行われます。

養和2年(1182年)1月、北條政子の安産祈願のため鶴岡八幡宮参道の若宮大路に段葛を造営します。

4月、鶴岡八幡宮前にあった水田を利用し放生池(源平池)を懐島景義(44)と専光坊良暹が奉行となり造営します。

9月、懐島景義(44)は鶴岡八幡宮西麓(御谷)に別当坊を建立する造営奉行となり、二十五坊の供僧の坊舎を建立します。

というように、基本的に鎌倉内の様々な普請奉行は懐島景義もしくは梶原景時といった地元鎌倉の豪族が担っていることが分かります。

 

なお、最後に亀谷の紹介がなされ、「鎌倉への北からの入口は当時は亀谷坂のみ」という話になっていましたが、武蔵路は村岡から洲崎を経由して六本松や化粧坂を経て鎌倉に入るルートが主要道です。亀谷坂ではありません。時代考証しっかりしてほしい。所詮ドラマだからといって何でも有りってわけじゃないはずです。