●家康家臣伝 石川数正 本多作左 高力清長 天野康景 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

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熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

「猿飛佐助はなぜ家康を殺さないんだ?」 悔しかった、不思議だった。

「たぬきじじぃ、肥大漢、ケチ親父!」と、にくらしかった家康。

が、山岡荘八氏の大作「徳川家康」を完読したころから、しだいに見方が変わった。

大河ドラマ「徳川家康」(1983年)も面白かった。

特に、家康を支える多くの家臣団がみなかっこよかった。

 

来年の大河ドラマ主役は、家康。

「徳川四天王、徳川十六神将、三奉行」

などと称される、家康を支える家臣団の描かれ方が楽しみ。

ドラマでの家臣たちの配役がすでに発表されている。

酒井忠次 役 大森南朋    本多忠勝 役 山田裕貴    榊原康政 役 杉野遥亮
井伊直政 役 板垣李光人   鳥居元忠 役 音尾琢真    服部半蔵 役 山田孝之

      石川数正 役 松重 豊     大久保忠世 役 小手伸也 などなど。

 

というわけで、一路、三河の国へ。

我信州人なれば、家康の家臣として真っ先に行くところはこの人、石川数正の墓所。

国宝松本城の建立者。

岡崎城から南へ3キロほどの本宗寺、ここに「石川数正供養塔」が立っている。

「数正さんの史跡となれば、三河ではここだけですか」

「そうでしょうね(当然!)」

と、いささか冷たい口調だったご住職。

さもありなん、裏切者・数正と、三河では強く伝えられると聞く。

 

因みに数正は、松本市内の兎川寺に静かに眠っている。

かつて「松本石川会」(石川氏子孫・関係者の顕彰会)の方に、

「数正は家康の大忠臣という見方もあるんですよね」

というと、本当に嬉しそうだったことを思い出す。

 

大河ドラマ「徳川家康」では、数正役・江原真二郎さん本多作左衛門重次役を長門裕之さんが、家康を支える両輪の重臣の役どころを見事に演じていた。

 

数正は、家康の駿河人質時代からずっと付き添っていた譜代の家臣。

危なかった伊賀越えの窮地でも行動を共にした

 

なのになぜ、数正は秀吉のもとへ奔ったのか?

本多作左衛門、いや家康との何か暗黙の了解があったのか?

はたして、数正は、大忠臣だったのか? いや最悪の叛臣だったのか?

来年大河ドラマでは数正がどのように描かれるのか楽しみである。

 

数正とともに家康を支えたのが、本多作左衛門重次。

通称、「鬼作左」

「一筆啓上 火の用心 おせん泣かすな 馬肥やせ」

という日本一短い手紙を書いた人物としても有名。

だが、秀吉の母・大政所が岡崎へ事実上人質としてやってきた時には、大政所の宿舎周囲に高く薪木を積み、秀吉を不快にさせたという話などが残っている。

岡崎城

 

お城から南へ6キロほど、市内宮地町の糟目犬頭神社

 

この境内に、「三河三奉行 本多作左衛門重次誕生地之碑」が立っている。

「三河 三奉行」とは?

家康の治政を支えた三人の能吏として称えられた家臣のこと。

曰く、

「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野康景

ほとけ様のようにやさしい高力清長、鬼のように恐い本多重次、そして万事公平な裁きをする天野康景、と三人の奉行を人々は評価したという。

家康の絶妙な家臣配置だったのだろうか。

 

額田郡幸田町高力は、岡崎城から南へ9キロほど。

鬼作左の誕生地から2キロほど先となる

高力氏の高力城址には「高力神明宮」が立てられていた。

残念ながら、特に清長についての史跡などはなかった。

境内一帯が高力城址という。

 

高力清長の際立った武辺話などを知らない。

だが、姉川の合戦、三方ヶ原にも従軍、また伊賀越え逃避行では殿軍を務め、負傷したという。

なかなかの武将でもあったようだ。

その功もあってか、その年、円形の堀跡で有名な駿河田中城1万石を与えられたという。

家康が関東移封となった際は、関東平野かなめの岩槻城2万石の城主を命ぜられた。

家康の信頼が厚かったのである。


「どちへんなしの天野康景」の居宅跡は、高力神明宮近くで驚いた。

となると、三奉行は岡崎城の南一帯の地に住み、小豪族ながら早くから松平氏の譜代の家臣として従っていたのだろう。

「忠義一徹の三河武士、雲霞のごとし」。

まさに天下人家康を支えた家臣団だったといえようか。

 

幸田町坂崎の高台、ここに「天野康景邸址」の碑が立っていた。

 

 

 

天野康景を顕彰する説明板。古今無双の高潔居士とある。

 

康景は、家康誕生時から駿河人質時代も付け人として従い、5つほど年長だったという。

 

かつて富士南麓に、かの北条早雲が初めて得たという興国寺城を訪ねた折、記憶に残っていた天野康景の名を見ておどろき、懐かしかったことを思い出した。

康景は、家康関東移封後、ここに1万石城主として命ぜられた。

 

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刊行当時の信濃毎日新聞の書評です。