●家康家臣伝2「家康に 過ぎたるもの二つあり 唐の兜と本多平八」 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

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熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

 本多平八郎忠勝。

四天王の一人にして、家康家臣の中でも別格か。

岡崎城内に、「蜻蛉切」の名槍を携えた忠勝像が立つ。

「戦国最強の武将」と称えられた忠勝愛用の槍は「蜻蛉切(とんぼきり)」と呼ばれた。

槍先にとまったとんぼがそのまま真っ二つに切れたという鋭さで、長さは6メートル(通常4㍍)、忠勝はこれを自由自在に戦場で操ったという。

天守閣すぐ際に、家康とともに龍城(たつき)神社の祭神として祀られている。

市内西蔵前町には、巨大な「本多平八郎忠勝誕生地」の碑がそびえ立つ。

市立甲山(こうざん)中学校の校章は、忠勝の鹿角兜をデザインしているという。

生涯50余度の合戦に出陣するも、かすり傷一つ負わなかったという忠勝。だが晩年、小刀で細工をして手傷を負った。
「おれもここまでか」と苦笑したとか。
 
忠勝は戦場において常に大きな数珠を身から離さず付けていた。
自らが討った者への哀悼を籠めていたという。
▼桑名城址の忠勝像。

関ヶ原の合戦では、桃配山の家康本陣と、最前線の福島正則隊らとのほぼ中間の、いかなる戦況にも対応できる地に陣を構えた。

そして東軍が大攻勢に転じると一気に前線へ突撃、手勢わずか500ながら忠勝隊は90近くの首級をあげていた。

関ケ原古戦場の「本多忠勝陣址」を訪ねると、本多家の旗がへんぽんと翻っていた。

 

家康と忠勝の「一枚岩」といわれた主従が、なんと真っ向から激突した。

関ヶ原の戦において、敗軍の将となった真田父子の処分をめぐってのこと。

「忠勝、だめじゃ!死罪だ」

家康の拒みは頑強だった。

「殿、小松(忠勝娘)は殿の養女、養女の婿・信之殿は殿のいわば御子。

畳に頭を擦り付けて父弟の助命を懇願しておるのですぞ。忠勝からもぜひ

お願い申しまする、どうか死罪だけは!」

だが、家康は忠勝が何度懇願しても首を縦に振らなかった。

するとついに忠勝は、

「分かり申した、かくなる上はもはやこの忠勝、上田城に籠もって殿と一戦交えまする!」

忠勝の強硬さには家康も周囲も仰天!

「これは猶予ならぬ」

事態を深刻にとらえた重臣らが忠勝に同調して援護、ついに家康は折れ、

真田父子を九度山配流とした。

生涯一貫しての家康の忠義から、ただ一度の「反乱」をおこした忠勝。

それを許した家康。

二人に乾杯! 讃! 

因みに忠勝が溺愛したという娘・小松姫は、上田市内の古刹・芳泉寺に眠っている。

 

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