「徳川十六将」とは、家康を支えた主要な武功派の家臣たち。
「四天王・十二神将」とは、仏敵を守護する神々像。
家康を守り抜いた忠臣たち…。
居並ぶ十六将の中で際立つは、鳥居そして大久保兄弟。
それぞれ兄弟二人が列座している。
両氏とも岡崎城近隣の地にて、早くから松平・徳川家に随従した。
▼岡崎城大手門
鳥居元忠の父・忠吉は、家康が駿河に人質として送られ、岡崎城が今川に支配されている頃から、
「いつか竹千代君が岡崎城主として戻ってきたら…」と、その日のために倹約・蓄財していた。
桶狭間後、十年ぶりに岡崎城へ入った家康に、こっそり貯め続けてきた蓄財を見せ、家康を感涙させた話は、何度かドラマ場面に。
その子・元忠は、関ケ原前哨戦で、伏見城に立てこもり、西軍にを徹底抗戦、ついに憤死、武名を挙げた。
▼伏見城模擬天守
戦前、家康が元忠から死を覚悟しての籠城戦の決意の忠節をきかされ、涙する場面もまたよく描かれる。
岡崎城から矢作川を渡って南へ数キロという田園の地に、鳥居家発祥の地の碑が立っているという。
「赤い鳥居」が目印と教えられ、あちこちウロウロするもなかなか見つからず。
通りかかった方に、「あのう…」と聞くと、「あ、私の家です、鳥居です」
よかった、やったぁ!
そして大きな石碑。
鳥居氏発祥の地一帯は、当時矢作川岸で水運・舟運が盛んだった地という。
鳥居元忠の伏見城忠死に報いるため、家康は元忠嫡子・忠政に、奥州磐城平十万石を、さらにその後、山形城二十二万石の大藩を与えた。
弟の忠広も、兄と同じく武勇で知られた。
姉川の合戦でおおいに活躍した後、三方ヶ原合戦にて味方敗走の中、殿軍を務めた。
▼三方ヶ原古戦場碑
武田の猛攻をよく防ぎ、よく戦ったが、無念武田の猛将・土屋昌続と壮烈な一騎討ちの末に討死した。
この戦いで、家康の身代わりとして憤死した夏目吉信とともに、忠広は岡崎市・法蔵寺に並んで眠っている。
さて、続いて大久保忠世・忠佐兄弟を生んだ大久保一族の発祥の地へ。
岡崎城から南へ3~4キロの市内上和田の公民館敷地に立てられていた。
鳥居氏の発祥の地からは、矢作川を挟んで向かいのあたりとなる。
大久保一族は、忠世が当主となったころからその武勇が目覚ましくなった。
特に長篠の合戦では、
「われら大久保一族がまずオトリになりまする」
と、馬防柵の前に躍り出て武田勢を誘い込み、引いては押し、押しては引くという粘り強い戦いぶりを発揮した。
これを見て信長は、「貼り付いたら離れぬよき膏薬のごとき侍よ」と、大久保兄弟の武勇をほめちぎったという。
天正18(1590)年、忠世は小田原城四万五千石の城主に任ぜられた。
ある時、家康が忠世の功労に報いようと官位を朝廷に奏上しようとした。
しかし「忠世はみどもは徳川家に仕えた身、朝廷の官位など入り申さぬ」と固く辞退したという。
生涯徳川家一筋に忠誠を貫いたもののふであった。
小田原市城山の大久寺は忠世が開基した寺で、忠世はじめ一族はここに眠っている。
中央の高い墓塔が忠世、小田原城主となった四年後に死去した。
なお弟の忠佐は、沼津四万石の城主となっている。