●謙信軍殿軍は、甘粕近江にて候! | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

ふる里の山、夏の北アルプス。

雪をいただいてないと、なんか物足りないような。

「おめぇ、甘粕近江守って、聞いたことあるか?」

あ・ま・か・す~? だれだ、それ? 有名か?」

 

もう十年以上も前の、友人との会話。

ま、今もって同じような会話になるだろうな。

 

甘粕近江守景持とは、謙信四天王の一人と称せられた勇将。

曰く、「謙信秘蔵の侍大将のうち、甘粕近江守はかしら也」。

曰く、「(甘粕は)勇気知謀兼備せる侍大将」

 

昔、松本第一高校美術工芸コース生徒が描いてくれた景持のイメージ画。

上越市パンフの景持さん。

 

景持の武名を天下にとどろかせたのは、第四次川中島合戦

永禄4(1561)年、9月9日深更。

謙信は武田の「啄木鳥の戦法」を見破り、長く陣を置いていた妻女山を急きょ引き払い、ひそかに山を下り、「鞭声粛々」、夜、千曲川を渡った。

 

景持、ぬしにここを任せる。鉄砲隊と兵一千を置いていく。

武田は妻女山がもぬけの殻と知り、一気呵成に山を下り、遮二無二渡河してくる、そこをねらえ。

敵は大軍ぞ。出来うる限り武田をここで食い止めるのじゃ

 

「殿(謙信)、委細承知、存分に働きまする。殿も必ずや信玄が首を!」

「頼んだぞ!」

 

そう言い残すと謙信は、闇に消えて八幡原へ向かった。

息を殺し、渡河してくる武田の軍勢を待ち構える甘粕隊。

 

甘粕隊が潜んで武田を待ち構えていた陣あたりの千曲川対岸から、妻女山を望む。

 

妻女山から眼下の千曲川、そして八幡原(中央左右にのびる森)を望む。

 

早暁。

案の定、作戦を見破られ仰天した武田別働隊(妻女山攻撃隊)は、妻女山を駆け下り、千曲川を強引に渡って来た。

 

そこを甘粕隊が一斉射撃! 

左右から鉄砲を撃ちかけ、すぐさま敵味方入り乱れての白兵戦に。

景持自ら、半月のような大長刀を振りかざして戦ったという。

 

武田隊は、満を持して待ち構えていた甘粕隊の急襲にてこずった。

だが甘粕隊にかかわっていては信玄本隊が危ない。

大軍をもってここを強引に押し切って八幡原へ。

 

この間に上杉軍は、山本勘助や武田信繁などの名だたる宿将を討ち取っていたが、武田別動隊が八幡原へ駆け付けると状況は一変、上杉方は一転守勢に。

直ちに撤退せねば自軍が危ない。

 

謙信は、千曲川河畔から駆け付けた景持に、

「景持、今度は殿軍を頼む!」

追撃する敵と戦いながら退き、退きつつ戦うという殿軍は、難しく危険な役目。

景持はこの殿軍の役目をみごとにやってのけた。

武田の猛烈な追撃を受けつつ、自らの手勢を失いながらも、犀川河畔に景持は踏みとどまり、殿軍の役目を果たした

 

この時の景持の差配は実に沈着にして手際がよく常に馬上にあって味方を励まし続け、帰陣させたという。

 

信玄は「あっぱれの勇士なり、捨て置くべし」と、攻めるをとどめたという。

武田の史書ともいうべき「甲陽軍鑑」は次のように記す。

 

「近江守崩れず。雑兵四五十連れて犀川を越し、犀川のあなたに三日逗留仕り、敗軍の越後勢を集め帰陣仕る」

 

「近国他国にほめざるはなし。謙信秘蔵の侍大将の内、甘粕近江守はかしらなり」

 

戦は双方とも自軍の勝利を謳っているが、前半は上杉、後半は武田の勝ちというところか。

 

謙信は越後へ帰る前に、須坂市の米子不動寺景持や柿崎景家と立ち寄り、戦勝祝いとして不動明王立像を本尊として安置、現在に至っている。

 

景持は、この合戦での活躍で、謙信の重臣の地位をますます不動のものとした。

上杉氏居城の春日山城(上越市)には、高田平野を広く望める地に、景持の屋敷址の碑が立っている。

 

景持は、謙信死後、後継者の景勝に仕え、越後国内での抗争・新発田重家の乱では越後中央部の三条城(三条市)を任され、乱の平定に戦功をあげるなどしている。

 

その後の上杉家の会津、さらに米沢へ移封には景持も従い、米沢で没した。上杉家一筋に忠節を尽くした景持の生涯だった。

 

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