ふる里の山、夏の北アルプス。
雪をいただいてないと、なんか物足りないような。
「おめぇ、甘粕近江守って、聞いたことあるか?」
「あ・ま・か・す~? だれだ、それ? 有名か?」
もう十年以上も前の、友人との会話。
ま、今もって同じような会話になるだろうな。
甘粕近江守景持とは、謙信四天王の一人と称せられた勇将。
曰く、「謙信秘蔵の侍大将のうち、甘粕近江守はかしら也」。
曰く、「(甘粕は)勇気知謀兼備せる侍大将」
昔、松本第一高校美術工芸コース生徒が描いてくれた景持のイメージ画。
上越市パンフの景持さん。
景持の武名を天下にとどろかせたのは、第四次川中島合戦。
永禄4(1561)年、9月9日深更。
謙信は武田の「啄木鳥の戦法」を見破り、長く陣を置いていた妻女山を急きょ引き払い、ひそかに山を下り、「鞭声粛々」、夜、千曲川を渡った。
「景持、ぬしにここを任せる。鉄砲隊と兵一千を置いていく。
武田は妻女山がもぬけの殻と知り、一気呵成に山を下り、遮二無二渡河してくる、そこをねらえ。
敵は大軍ぞ。出来うる限り武田をここで食い止めるのじゃ」
「殿(謙信)、委細承知、存分に働きまする。殿も必ずや信玄が首を!」
「頼んだぞ!」
そう言い残すと謙信は、闇に消えて八幡原へ向かった。
息を殺し、渡河してくる武田の軍勢を待ち構える甘粕隊。
甘粕隊が潜んで武田を待ち構えていた陣あたりの千曲川対岸から、妻女山を望む。
妻女山から眼下の千曲川、そして八幡原(中央左右にのびる森)を望む。
早暁。
案の定、作戦を見破られ仰天した武田別働隊(妻女山攻撃隊)は、妻女山を駆け下り、千曲川を強引に渡って来た。
そこを甘粕隊が一斉射撃!
左右から鉄砲を撃ちかけ、すぐさま敵味方入り乱れての白兵戦に。
景持自ら、半月のような大長刀を振りかざして戦ったという。
武田隊は、満を持して待ち構えていた甘粕隊の急襲にてこずった。
だが甘粕隊にかかわっていては信玄本隊が危ない。
大軍をもってここを強引に押し切って八幡原へ。
この間に上杉軍は、山本勘助や武田信繁などの名だたる宿将を討ち取っていたが、武田別動隊が八幡原へ駆け付けると状況は一変、上杉方は一転守勢に。
直ちに撤退せねば自軍が危ない。
謙信は、千曲川河畔から駆け付けた景持に、
「景持、今度は殿軍を頼む!」
追撃する敵と戦いながら退き、退きつつ戦うという殿軍は、難しく危険な役目。
景持はこの殿軍の役目をみごとにやってのけた。
武田の猛烈な追撃を受けつつ、自らの手勢を失いながらも、犀川河畔に景持は踏みとどまり、殿軍の役目を果たした。
この時の景持の差配は実に沈着にして手際がよく、常に馬上にあって味方を励まし続け、帰陣させたという。
信玄は「あっぱれの勇士なり、捨て置くべし」と、攻めるをとどめたという。
武田の史書ともいうべき「甲陽軍鑑」は次のように記す。
「近江守崩れず。雑兵四五十連れて犀川を越し、犀川のあなたに三日逗留仕り、敗軍の越後勢を集め帰陣仕る」
「近国他国にほめざるはなし。謙信秘蔵の侍大将の内、甘粕近江守はかしらなり」
戦は双方とも自軍の勝利を謳っているが、前半は上杉、後半は武田の勝ちというところか。
謙信は越後へ帰る前に、須坂市の米子不動寺へ景持や柿崎景家と立ち寄り、戦勝祝いとして不動明王立像を本尊として安置、現在に至っている。
景持は、この合戦での活躍で、謙信の重臣の地位をますます不動のものとした。
上杉氏居城の春日山城(上越市)には、高田平野を広く望める地に、景持の屋敷址の碑が立っている。
景持は、謙信死後、後継者の景勝に仕え、越後国内での抗争・新発田重家の乱では越後中央部の三条城(三条市)を任され、乱の平定に戦功をあげるなどしている。
その後の上杉家の会津、さらに米沢へ移封には景持も従い、米沢で没した。上杉家一筋に忠節を尽くした景持の生涯だった。