原日本紀の復元054 垂仁天皇・景行天皇・成務天皇の時代〈1〉『日本書紀』年代観の再確認 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 「原日本紀の復元」の前記事までの結論として、「同日生まれ」の成務天皇(せいむてんのう)と武内宿禰(たけのうちのすくね/たけしうちのすくね)は334年に誕生したのではないかと考えました。原日本紀年表では垂仁天皇(すいにんてんのう)32年にあたります。

 『日本書紀』によると、その後、成務天皇は景行天皇(けいこうてんのう)46年に24歳で皇太子になられます。ところが景行天皇46年は無事績年ですので、原日本紀年表には存在しません。『日本書紀』は景行43年から51年まで飛んでいるのです(図1参照)。

 

■図1 原日本紀年表(垂仁天皇〜成務天皇)

 

 しかし、景行43年は357年にあたり、それは成務天皇が334年生まれだとしたら24歳になられる年です。また、『日本書紀』が稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)(後の成務天皇)立太子を記しているのは景行51年で、それは原日本紀年表では358年です。どちらが正しいか判断がつきませんが、皇太子になられたのは357年か358年だったとみてよいでしょう(ここでは357年24歳説を採用して話を進めます)。

 

 そして、景行天皇崩御(景行60年:366年)をうけて、翌367年に即位されます。即位時の年齢は34歳です。残念ながら成務天皇の在位期間は短く、7年の治世の後、373年(成務60年)に40歳で崩御されてしまいます。

 成務天皇の重要な事績としては、地方行政区画として国郡(くにこおり)、県邑(あがたむら)を定めて、それぞれの長として造長(みやつこおさ)、稲置(いなき)を任命したことが記されています。

 

 以上は、無事績年を除いた「原日本紀年表」に基づく成務天皇に関する概略です。

 

 さて、成務天皇および武内宿禰を調べるときに、年代的には誕生年の垂仁天皇32年までさかのぼりましたが、第12代景行天皇以前を考えるにあたって、その時代の『日本書紀』が描く年代観を再確認しておきたいと思います。

 

 まず、崇神天皇から仲哀天皇にいたる系図を記します(図1)。

 

■図1 第10代崇神天皇から第14代仲哀天皇まで

 

 崇神天皇から成務天皇までは父子相続となっています。

 しかし、成務天皇には後を継ぐ子がいませんでした。そこで、異母兄の日本武尊(やまとたけるのみこと)の子である仲哀天皇に後を継がせます。それにより、同世代間の兄弟相続などをはさむことなく、次世代への皇位継承が続けられることになりました。

 ちなみに、『日本書紀』は初代神武天皇から16代仁徳天皇までを、基本的に父子世代間での皇位継承であると記しています。

 

 この時代の天皇は、全員がとても長寿に設定されています。その年齢も含めて『日本書紀』の設定を図示したのが図2です。

 

■図2 『日本書紀』の設定する各天皇の生存期間

 

 ここで、少しおかしなことに気がつきます。『日本書紀』の記す各天皇の崩御時の年齢と、同じく『日本書紀』の記す各天皇の立太子年齢から導かれる崩御時の年齢には相違がみられるのです。

 

〈崇神天皇〉日本書紀の崩御時年齢:120歳

(図2には表記されていませんが)「開化天皇28年に19歳で立太子」を基準にすると、52歳で即位され、68年の治世ののち119歳で崩御されたことになります。差異は1年です。

 

〈垂仁天皇〉日本書紀の崩御時年齢:140歳

「崇神天皇48年に24歳で立太子」を基準にすると、45歳で即位され、99年の治世ののち143歳で崩御されたことになります。差異は3年です。

 

〈景行天皇〉日本書紀の崩御時年齢:106歳

「垂仁天皇37年に21歳で立太子」を基準にすると、84歳で即位され、60年の治世ののち143歳で崩御されたことになります。差異は37年です。

 

〈成務天皇〉日本書紀の崩御時年齢:107歳

「景行天皇46年に24歳で立太子」を基準にすると、39歳で即位され、60年の治世ののち98歳で崩御されたことになります。差異は9年です。

 

 どういう理由でこの差異が生じたのかはわかりませんが、多少記述内容が混乱しているのがわかります。

 また、各天皇が誕生された時点の前天皇(父)の年齢は次の通りです。

 

・垂仁天皇は崇神天皇が77歳の時の子

・景行天皇は垂仁天皇が58歳の時の子

・成務天皇は景行天皇が69歳の時の子

 

 絶対にありえない年齢ばかりではありませんが、相当に無理のある年齢設定だと思います。生存期間および治世期間は大幅に延長されているとみてよいでしょう。

 

 そして、図2のなかで、『日本書紀』の記述に決定的な矛盾が生じている部分があります。

 

 一つは、日本武尊と仲哀天皇の親子関係です。

 先にも述べたように、第13代成務天皇には後を継ぐ子がいなかったため、兄である日本武尊の子の足仲彦天皇(たらしなかつひこのすみらみこと)を立太子させます。それが、第15代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)です。

 しかし、『日本書紀』の語る二人の生存期間には大きな齟齬(そご)があります。日本武尊は景行天皇43年に30歳で崩御されたと記されています。一方、仲哀天皇の「成務天皇48年に31歳で立太子」という記事から誕生年を算出すれば成務天皇18年となります。

 『日本書紀』が設定する景行天皇43年は西暦113年、成務天皇18年は148年です。つまり、仲哀天皇は日本武尊の崩御後35年を経て誕生されたことになっているのです。それなのに一方では、父子関係を公言しているのです。

 どういう理由でこの明らかな食い違いが生じたのかわかりませんが、これも大幅な紀年延長の弊害だと思われます。

 

 それと関連するもう一つの矛盾は、日本武尊と結婚して仲哀天皇を生んだ両道入姫皇女(ふたじのいりびめのひめみこ)の年齢です。

 『日本書紀』が日本武尊の「皇后」と記す両道入姫皇女は、垂仁天皇の女(むすめ)だとされます。すると、もうこれ以上ないというところまで譲歩して、垂仁天皇が74歳の時に両道入姫皇女が生まれたとします。それは西暦1年(垂仁天皇治世30年)になります。

 仲哀天皇の誕生年は西暦148年ですから、両道入姫皇女が生きておられたとしても148歳です。もはや、『日本書紀』の記述による垂仁天皇、両道入姫皇女、仲哀天皇の系譜が成り立たないのは明白です。

 

 このように、古代天皇の在位期間については、明らかに紀年延長がなされていることがみてとれます。

 それを「原日本紀年表」で検証してみると何がみえてくるでしょうか。日本武尊と仲哀天皇はどういう関係になるのでしょうか。(続く)

 

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