邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、一から始める日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。


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 倭の讃は、421年に宋の高祖(武帝)に貢を修めて官職を得たとされています。

 実は、これより先の413年にも讃(『梁書』では賛)が晋に朝貢したという説もあり、それについては賛否両論があります。

 『晋書』安帝紀の義熙(ぎき)9年(413年)に「この歳、高句麗、倭国および西南夷銅頭大師(せいなんいどうとうたいし)、並びて方物を献ず」とあり、後の『梁書』倭伝にも、「晋の安帝の時(397〜418年)、倭王賛有り」という記述がみられるからです。

 しかし、当時の高句麗の状況をみれば疑問が生じます。高句麗では412年に好太王(こうたいおう)が亡くなり長寿王が即位し、414年にはかの有名な好太王碑が建てられます。碑文からも読み取れるように、この時期、高句麗と倭国は互いに敵視し合っているのです。その二国が並んで朝貢するのは不自然です。私も「413年の朝貢には疑義あり」とする説を支持したいと思います。

 

 そうすると、421年の讃による朝貢が、266年に倭女王(通説では壹与だとされます)が朝貢して以来、約150年の空白を経ての交渉再開であったとみることができます。そして、それは時期も非常に的確なものだったのです。

 中国では、420年に劉裕(りゅうゆう)(高祖武帝)が東晋の恭帝から禅譲(ぜんじょう)を受け、宋王朝を開きます。その翌年に、永年通交の途絶えていた倭国が貢を奉ってきたのです。悪い気のするはずがありません。それは、『宋書』に残る高祖武帝の「倭讃が万里はるばる貢を修めた。遠方からの忠誠にこたえて官職を与えるべし」というねぎらいを含む言葉にもあらわれています。そして、ここには具体的に記されてはいませんが、讃にはおそらく倭国王および安東将軍などの爵号が授けられたと思われます。

 

 では、讃はなぜ、宋建国の翌年に時機を逃さずに通交を再開することができたのでしょうか。それが、讃が菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)だと考えると無理なく説明できそうな気がします。

 菟道稚郎子は若い頃から、百済の使いの阿直岐(あちき)や優れた学者の王仁(わに)を師として、多くの典籍に通じたとされます。『論語』や『孟子』など儒教的なものが中心だったかもしれません。しかし、皇太子として次期天皇を約束されていたとしたら、広く帝王学を学んでいたはずです。それは、国や民を治めるための方法や心得などです。加えて、当時対立していた高句麗との関係上、朝鮮半島の支配地域の経営は喫緊(きっきん)の課題だったと思われます。

 菟道稚郎子は、そういったことを百済人の王仁や阿直岐から事細かに学んでいったのではないでしょうか。百済は下記のように、早くから中国王朝の柵封体制(さくほうたいせい)の中に入って爵号を得ていたのです。宋の建国と同時にも遣使を行っています。

 

『晋書』372年、百済王「余句」が鎮東将軍領楽浪太守

    386年、百済王世子「余暉」が使持節都督鎮東将軍百済王

    416年、百済王「余映」が使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王

『宋書』420年、鎮東将軍百済王扶「余映」を鎮東大将軍に進号

 

 「原日本紀年表」では王仁が来朝したのは408年となります。その後、何年まで倭国に滞在したのかは不明ですが、応神天皇崩御(418年)までいたとすれば、416年の「余映」の東晋への貢献を倭の地で聞いたことでしょう。そして、王仁は菟道稚郎子に中国王朝の柵封体制に入る意義などを説いたはずです。朝鮮半島では、高句麗も早くから中国王朝に使いを送って爵号を得ています。混乱していた朝鮮半島に権威を示すために、倭国にも中国王朝からの爵号が必要となっていた時期といえます。

 

 そういう教育を受けて育った菟道稚郎子が、中国王朝との通交を再開させるのは必然のような気がします。それも、応神天皇を継いで419年に即位した直後、420年に中国では新王朝の宋が建国されたわけです。菟道稚郎子にとって、まさに絶好のチャンスが巡ってきたと考えておかしくありません。

 ちなみに、讃による2回目の遣使は425年です。

 宋を建国した高祖武帝はその後まもなくの422年に崩御し、少帝が第2代皇帝となります。しかし、少帝は帝としての資質に乏しく国内が乱れたため424年に廃位され、第3代皇帝文帝が擁立されます。そして、文帝の治世は453年まで続くことになります。讃=菟道稚郎子が少帝に対して使いを送ったかどうかは不明ですが、425年の遣使は明らかに文帝即位に対応して送られたものだと思います。

 

 さて、ここまで「原日本紀年表」に合った形で倭の五王の「讃」を考えると、菟道稚郎子皇子が讃だったと考えるのが妥当なのではないかということをみてきました。結論としてその可能性は小さくないのではないかと思います。あくまでも「原日本紀年表」の年代観を信じるとすればですが、『日本書紀』に描かれた人物像から類推しても、中国王朝との通交を再開した讃は菟道稚郎子皇子だったことが濃厚だと思います。そして、その根底には、菟道稚郎子皇子は幼少時から帝王学をたたきこまれ、その結果、倭、朝鮮半島、中国を俯瞰(ふかん)できる視野が養われていたことがあると考えられます。

 

 すると、菟道稚郎子は『日本書紀』には記されていませんが、当然即位されたことになります。『播磨国風土記』にあらわれる「宇治天皇」です。

 そして、即位されたと考えると、大山守皇子が帝位を狙って菟道稚郎子を殺そうとしたという記事も真実味を帯びてきます。

 大山守皇子は母が高城入姫(たかきのいりびめ)です。名前に「入(いり)」があることからいわゆる「イリ王朝」と関係する姫だと思われます。大和の三輪山近辺に拠点を持っていた勢力です。一方、菟道稚郎子は奈良盆地北部に拠点を持つ和珥氏(わにうじ)に関係する人物です。菟道の地も当然のことながら和珥氏の勢力圏だったと思われます。

 両者の間で皇位継承をめぐる争いがあり、宇治川で一戦を交えた記録あるいは伝承が、『日本書紀』に説話として残ったのだと考えられます。

 

宇治川は淀川水系の中流部分の別称です。

琵琶湖を水源として、古代ではこのあたりにあった巨大な巨椋池(おぐらいけ)に流れ込んでいたようです。

撮影当日は上流のダムからの放流で特に水量が多かったようですが、

当時も豊富な水量で一帯の水運を担っていたことでしょう。

 

宇治神社から平等院方面に向かう道に、オレンジ色がまぶしい朝霧橋があります。

そのたもとには、源氏物語のモニュメントがありました。

宇治十帖の有名なシーンのようですが、源氏物語にはちょっと疎いもので…。

 

 ところで、このあたりの時代までさかのぼると、多くの無事績年があります。つまり、年代がかなり延長されているということです。それを縮めていくと、人物の年齢関係に矛盾が生じてきます。親子関係とされていても年齢的にそれは成立せず、兄弟関係であったと考えざるを得ないようなケースです。応神天皇、大山守皇子、仁徳天皇、菟道稚郎子皇子においても、絶対的ではありませんが系図的に疑わしいところがあります。そういうことも考えつつ、「原日本紀の復元」を続けたいと思っています。(続く)

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)

 

 

 

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