邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、一から始める日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。


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 前記事で「珍」候補の筆頭は隼別皇子(はやぶさわけのみこ)であることを考えました。それについてはまだ確定とするには不確実な要素が多いことを認めつつも、これで、「讃」は菟道稚郎子皇子(うじのわきのいらつこのみこ)、「珍」は隼別皇子、「興」は允恭天皇(いんぎょうてんのう)、「武」は雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)ということになりました。残る倭の五王は「済」のみです。

 済については、早くから仁徳天皇(にんとくてんのう)以外にいないと決めていましたが、改めて詳しくみていきたいと思います。

 

 まず、仁徳天皇は『宋書』に登場する「倭隋(わずい)」もしくはそれに準ずる人物だったのではないかということについて考えます。

 『宋書』倭国伝は425年の讃の遣使と443年の済の遣使の間に、年代不明の次のような記事を記しています。

 

讃死して弟珍立つ。使いを遣わして貢献す。(中略)詔して珍を安東将軍(あんとうしょうぐん)・倭国王に除す。珍、また倭隋ら十三人を平西(へいせい)・征虜(せいりょ)・冠軍(かんぐん)・輔国(ほこく)将軍の号に除することを求む。詔して並びにゆるす。

 

 これは、同じ『宋書』の文帝紀に「438年、倭国王珍をもって安東将軍となす」とあることから、438年の遣使とされています。

 注目したいのは、珍ではなく、ここに突然登場する倭隋ら13人です。いったいどういう人たちだったのでしょうか。

 彼らは珍を支える勢力の長たちだと思われます。つまり、珍は倭国の王として安東将軍号を授与されるわけですが、同時にその配下である13人にも将軍号が許されたということです。この『宋書』に記された将軍号の中で最初に記される「平西将軍」が気になります。これは、倭国という領域の中で、珍王のいる都の西の地域を管轄する官職を意味します。

 いま私が最も珍の可能性が高いと考えている隼別皇子が、どこに都を置いたのかは不明です。しかし、讃=菟道稚郎子の異母妹である雌鳥皇女を妃(皇后)としたなら、当時強力な勢力を保っていた和珥氏の本拠地である奈良盆地北東部および北部地域ではなかったかと思われます。そこから西というと、生駒山地の西側、当時の河内湖周辺に広がる平野部になります。当時はそれほど広くはなかったでしょうが、まさに仁徳天皇が高津宮を造られる地です。また、隼別皇子と雌鳥皇女への刺客となった吉備品遅部雄鮒(きびのほむちべのおふな)と播磨佐伯直阿餓能胡(はりまのさえきのあたいあがのこ)の「吉備」「播磨」という瀬戸内海沿岸部もそれに当たります。つまり、この辺りを統轄していたのが平西将軍だと考えられるのです。

 このように『日本書紀』が記す仁徳天皇像と重なります。仁徳天皇(当時は大鷦鷯尊(おおさざきのみこと))が倭隋だったのか、倭済として他の12人に名を連ねていたのかはわかりませんが、平西将軍のような号を授かったのは確かではないでしょうか。そして、その後、仁徳天皇は443年までに珍を継いで倭国の王となり、「済」として宋へ使いを送ることになるのです。

 

 次に、仁徳天皇は応神天皇の子ではなく、兄弟だったのではないかということについてみておきたいと思います。

 これは、「原日本紀年表(無事績年を除いて縮めた年代表)」にもとづいての話になりますので、それに信ぴょう性を認めてもらうことが前提となります。仲哀天皇崩御から宇治天皇(菟道稚郎子/倭王讃)即位までの年表は表1のようになります。暫定版としているのは、神功皇后摂政紀、応神天皇紀についてはまだ未検討であり、今後修正する可能性があるからです。

 

■表1 神功皇后・応神天皇の年代表(暫定版)

 

 『日本書紀』で仁徳天皇の父親とされる応神天皇の年齢の基準年は、377年(神功皇后摂政3年)です。応神天皇紀に「皇太后摂政之三年 立為皇太子(神功皇后の摂政3年に皇太子となられた)」という記事があるからです。神功皇后紀の誕生年とは1年のずれがあるのですが、それはここでは無視して進めます。

 すると、396年の応神天皇即位年には22歳です。そして、注目すべき記事は応神天皇13年条(405年)にあります。

 応神天皇は11年に、日向国(ひむかのくに)に髪長媛(かみながひめ)という美しい嬢子(おとめ)がいることを知り、娶ろうとして13年に使いを送って呼び寄せられます。髪長媛は13年の秋月に日向から来て、桑津邑(くわつのむら)に一時住まわれます。桑津邑は現在の大阪市東住吉区にありました。そこで、大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)が髪長媛をみて気に入られてしまいます。そして、それを知った応神天皇は、髪長媛を大鷦鷯尊に譲り、二人の結婚を認められるのです。

 

 この話が真実だったのか、それとも仁徳天皇が強引に媛を横取りしたのかはわかりませんが、問題はその時の仁徳天皇の年齢です。

 応神天皇の妻(皇后、妃)についてみていくと、まず高城入姫(たかきのいりびめ)を娶り、次にその妹で皇后となる仲姫命(なかつひめのみこと)を娶られます。そして、仲姫命が2番目に生まれるのが仁徳天皇なのです。そこから計算すると、応神天皇の子である仁徳天皇が、応神天皇13年(405年)に髪長媛を娶る年齢だったとは思えないのです。

 

 応神天皇の最初の結婚をできるだけ早く設定して、15歳としてみます。389年(神功皇后55年)に高城入姫を娶ることになります。その翌年、390年に仲姫命を妻にしたとします。そこから、二人目の子である仁徳天皇が生まれるのを3年後とすれば、393年(神功皇后65年)が誕生年となります。ちなみに応神天皇は19歳です。そして、髪長媛を娶ったとされる405年、仁徳天皇は何歳かというと、13歳です。現代の満年齢では12歳、小学6年生です(表1参照)。

 

 このような話が絶対に成立しないとは断言しませんが、かなり無理があるような気がします。そして、もうひとつ、仁徳天皇が応神天皇の子であったということを否定する材料があります。それは、木菟宿禰(つくのすくね)に関する記事です。

 ここで詳しくは書きませんが、木菟宿禰は武内宿禰(たけのうちのすくね/たけしうちのすくね)の子であり、仁徳天皇と同日に生まれたとわざわざ明記されている人物です。当然、二人の年齢は同じはずです。

 その木菟宿禰に関する記事が、応神天皇紀に2か所あります。

 ひとつは、3年条にある「百済(くだら)の辰斯王(しんしおう)が天皇に失礼だったので木菟宿禰らを派遣してそれを責めた。すると、百済は辰斯王を殺して謝った」という記事です。もう一つは、16年月条にある「木菟宿禰らに精兵を与えて加羅(から)へ派遣し、新羅(しらぎ)を討たせた」という記事です。

 その年齢をみると、応神天皇3年(398年)は6歳、応神天皇16年(408年)は16歳です。6歳で百済を責めるために派遣されるなどということはありえませんし、16歳で精兵を率いて新羅を討つというのも考えがたいことです。

 もちろん、木菟宿禰の記事については朝鮮半島側の文献史料との整合性もみていかなくてはいけないと思っています。ただ、朝鮮半島の史料で全面的に信用できるのは広開土王碑文(こうかいどおうひぶん)(好太王碑文(こうたいおうひぶん))のみです。『三国史記』については12世紀の編纂であり、逆に『日本書紀』も参考にしているのではという説もあるほどです。そうであれば、年代観は当然ながら『日本書紀』に似てきます。それを本来の年代観に戻そうとする「原日本紀の復元」とは根本的に相容れないものです。なかなか難しい問題だと感じていますが、今後少しずつでも解決できればと思います。

 

 ですが、以上のように「原日本紀年表」を信じるなら、仁徳天皇は応神天皇の子ではない可能性が高いといえます。私は兄弟だったのではないかと推察します。すると、珍=隼別皇子と済=仁徳天皇の関係は、甥(おい)・叔父(おじ)(または伯父)の間柄となります。若い甥から一世代逆戻りして叔父が皇位を継いだという複雑な皇位継承が、『宋書』に珍と済の関係が記されなかった原因かもしれません(図1)。

 

■図1 仁徳天皇・応神天皇兄弟説からみる讃・珍・済

 

 次回はこの応神天皇と仁徳天皇の兄弟説について考えたいと思います。(続く)

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)

 

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