邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、一から始める日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。


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 前回までの継体天皇編で、清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇、継体天皇の即位年および治世を、暫定的にではありますが決定しました。それに関連して、隅田(すだ)八幡神社の人物画像鏡に記された銘文について考えてみたいと思います。

 

 隅田八幡神社は和歌山県橋本市にあります。神社には、出土地不詳の直径約20センチメートルの青銅鏡が所蔵されています。人物画像鏡といわれるタイプのもので、鏡背には古代中国の伝説上の人物が描かれ、周縁部に48文字の銘文が鋳出しされています。

 

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

 

 この銘文には実にさまざまな解釈があります。そもそもこの漢字自体を同定することも難しいという理由からです。だから、上に書かれた一般的な漢字の羅列が本当に正しいのかも疑わしいのです。それでも、ほぼ一般的に用いられている読み方は次のようになります。

 

「癸未年(みずのとひつじのとし)」の八月、「日十大王」の年、「男弟王」が「意柴沙加宮」におられる時、「斯麻」が長寿を念じて、「開中費直」「穢人今州利」の二人らを遣わして、白上同(上質の白銅)二百旱でこの鏡を作る。

 

 ですが、この読みを認めるとしても、謎が解けるわけではありません。いきなり文頭の「癸未年」から、完全特定には至っていないからです。西暦443年と503年の二説があります。さらに、「日十大王」、「男弟王」とは誰? 「意柴沙加宮」とはどこ? さまざまな解釈が提示されています。その中で、現在最も広く支持を受けているのが次の解釈だと思います。

 

503年8月、仁賢天皇の治世、継体天皇が忍坂宮におられた時、百済の武寧王が(継体天皇の)長寿を祈って、河内直と穢人今州利の二人らを遣わして、白上同(上質の白銅)二百旱でこの鏡を作る。

 

 根拠の詳細は理解できていませんが、「日十大王」をヲシ大王と読み、諱(いみな)が大脚(おおし)である仁賢天皇とし、「男弟王」をヲホド王と読み、男大迹王(おおどのおおきみ)である継体天皇とする説です。「意柴沙加宮」は允恭天皇(いんぎょうてんのう)の皇后で、雄略天皇の母である忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の宮であった忍坂宮であり、「斯麻」は斯麻王(しまおう)と呼ばれた百済の武寧王であると考えるのです。

 

 しかし、継体天皇についてみてきた前回までの考察では、503年に継体天皇が大和の忍坂宮におられたということは考えられません。継体天皇が大和に遷られるのは、即位20年の526年です。また、当時密接な交渉が百済との間にあったとしても、鏡の製作指示者として武寧王を想定するのは、突飛な印象を受けます。つまり、この通釈はかなり苦しいものであると思われます。

 

 では、先に作成した編年表から考えていきます。503年は清寧天皇の5年となります(表1)。

 

■表1 継体天皇朝と仁賢天皇・武烈天皇朝の二王朝並立による編年表

 

 

 これによれば、「癸未年」503年説を採用すると、「日十大王」は清寧天皇ということになるのでしょうか。ところが、そうすんなりとは決められません。実は、清寧天皇は即位5年の1月16日に崩御されているのです。

 

 すると、8月の時点で大和はどのような状況だったのでしょうか。『日本書紀』では、清寧天皇崩御の後、億計王(後の仁賢天皇)と弘計王(後の顕宗天皇)がともに譲り合って皇位を継がなかったため、飯豊青皇女(いいどよのあおのひめみこ)が朝政を執ったとされています。天皇になったとは記されていませんが、亡くなったことを「崩」、葬ったところを「陵」と、天皇同様の敬意をもって表記しています。だから、実は即位したとする説も強く語られている女帝なのです。

 この飯豊青皇女については、履中天皇の子であるという記述(青海皇女を一曰く飯豊皇女とする)と、雄略天皇に殺された市辺押磐皇子の子であるという記述(顕宗天皇・仁賢天皇の妹とする記述と姉とする記述が混在している)があります。

 

 飯豊青皇女の執政期間は短く、同年11月に崩じられるのですが、即位説を信じると8月には天皇(大王)であったことになります。そして、飯豊青皇女は忍海飯豊青尊(おしぬみのいいどよのあおのみこと)を自称され、宮は忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや)だったとされています。

 通釈に従って「日十大王」をヲシ大王と読むならば、まさに「忍(おし)」はぴったりと当てはまります。また、私は、「日十大王」の「日」は「曰」ではないかと思っています。曰く(いわく)の「曰」です。古代の読みについては、まったく専門知識はありませんが、「曰十」は「イイド」と読めるのではないかと考えています。

 

 どちらにしても、「日十大王」が飯豊青皇女であるなら、「男弟王」「斯麻」は誰かという謎は一気に氷解します。「男弟王」は弘計王(後の顕宗天皇)以外に考えられません。顕宗天皇紀を信じると、飯豊青皇女には二人の兄弟(億計王と弘計王)がいて、その弟の方が弘計王だからです。さらに考えると、飯豊青皇女が「女」だから、わざわざ男弟王と「男」を付したのかもしれません。そして、「斯麻」はその兄である億計王(後の仁賢天皇)で決まりです。まさに、億計王のまたの名は嶋稚子(しまのわくご)であると『日本書紀』に明記されているのです。

 

 そして、以上のように、「日十大王」=飯豊青皇女、「男弟王」=弘計王、「斯麻」=億計王であると考えると、男弟王が「意柴沙加宮」=大和の忍坂宮におられたとしても何ら不思議ではありません。通釈のように、即位前の継体天皇を忍坂宮に存在させたり、遠く百済の武寧王を連れてきたりしなくても、銘文が疑問なく解釈できるのです。

 

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参考文献:『日本書紀』の現代語訳。上下巻です。

 

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参考文献:『日本書紀』の原文と読み下し文。全5巻です。

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)

 

 

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