ジャンヌ・ダルク
どうやら日本きってのジャンヌ・ダルク研究家らしい著者の岩波新書本。ジャンヌについて、けっこう知らなかったことがいろいろ出てきて、「へー、そうだったの?」と感心しつつ読んでいった。
たとえば、彼女についての最も大切な資料として、彼女を処刑する際に残された『処刑裁判記録』と、死後、彼女の名誉を回復するために開かれた復権裁判の記録が両方残っていること。これがあるために、裁判においてジャンヌがどんな態度をとり、またどういう経緯で火刑に処された後に名誉が回復されて行ったのかが、ある程度までよくわかるらしい。また、裁判では、ただの「田舎娘」が神学の権威たちがズラッと並ぶ裁判官たちと堂々と対峙し、裁判官たちが「生意気だ!」とプライドを傷つけられていく様子も想像できた。裁判記録がキッチリ残っているために、小説やドラマなど、彼女を主人公にしたものは、戦場で戦っている姿より、裁判シーンがメインになったものが多いらしい。
実は、男装した美少女のイメージがあとになってできたもので、彼女がどんな顔だったかなど、はっきりわかっていないのも意外だったし、彼女が「国民的英雄」になったのは国民意識が高まった19世紀以降で、それまではそんなには全国的な知名度が高い存在ではなかったらしいのも意外だった。火刑になる前、一度はそれを恐れて「神の声を聞いたのはウソ」と「改悛」し、牢獄で獄吏の暴行を受けて、再び「自分は神の声を聞いた」と主張を戻したのも、私は知らなかった。
実は処刑されたのは替え玉で、本人はその後も生きのびた話、本当は王家の血をひく娘だった話などは、よくある「英雄伝説」。すべてが神の意志のもとで自発的に動いていたのか、後ろに操る人間がいたのか、といったミステリーもある。それこそ、ジャンヌ関係の本が数えきれないくらい出ているのも当然と思えるくらい、彼女の存在が「ロマン」なのはよくわかる。
あと、彼女を裁いて処刑台に送ったとされる司教ピエール・コーションなる人物にも興味をそそられた。宗教界のエリート中のエリートが「イモ娘が、エラい私たちに逆らいやがって」とすごくアタマ来たんだろうな。
バカ論
今から9年前にビートたけしが、世の中にのさばる様々な「バカ」について語った本。えらそうに中身のないコメントをするバカなテレビコメンテーターやら、相変わらず「自分探し」みたいなことを言ってる「バカ」な迷い人やら、出てくる。中にはバランスをとる意味で「オレの好きなバカ」として、「教養なき天才」さんまや、「若い頃に放送事故寸前の事件を何度も起こした鶴瓶の話をはさんだりして。
ただ、私としては、その中で、弟子志願の「バカ」な若者たちの話が最も興味があった。「どうしたら漫才師になれますか?」「どうしたら売れますか?」と聞いてくるバカや、「ビ-トたけしの弟子」という肩書だけでもう満足してしまっているバカ。それとともに自分が師匠・深見千三郎からの教え、たとえば芸人は会った瞬間にこの人は面白い、と思わせるために師匠から「肩を揉め」といわれてわざと頭を叩くみたいな、ちょっとしたギャグを常にイメージしておけ、みたいな話も気になった。『浅草キッド』にも出てくるけど。
「お笑い芸人」を目指す人間なら、世の中をこんなふうに見ていったらいいんじゃないかと思わされる、一種の教科書みたいな本。た だ、別にこれが「正解」とは限らないが。
お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで
さすがに最近は聞かなくなったものの、数年前にちょっと出てきた「お笑い第七世代」という言葉にはずっと違和感があった。
いったいどんな根拠で世代分けが行われて、そもそも分けることにどんな意味があるのか?
この、5年くらい前に出た、「第七世代」についてもろ肯定し、分析している本を読んでも、ますますよくわからなくなった。
「テレビ芸」を確立したドリフ、欽ちゃんが第一世代で、師匠の下に修業したが、そこから跳ねて当たったたけしやさんまが第二世代、さらに師匠もなくお笑い学校やシロートから飛び出したダウンタウンやとんねるずが第三世代。そこまでは、まあ、わかる。だがそれ以降ナインティナインやロンドンブーツらを「第四世代から第五世代」、キングコングやオリエンタルラジオなど「第六世代」と区切って、霜降り明星などを「第七世代」にもってくる分類は、あまりに強引に「第七世代」という言葉を使いたいためのこじ付けみたいで、まったくしっくりこない。天皇家の歴史を2500年にしたいために、強引に架空の天皇を何代も作ってつじつま合わせた『日本書紀』みたいなもんだ。
あくまで、70過ぎの私の実感ではあるが、ダウンタウンやとんねるずから下の世代は、そんなに細かく分けるほど、タテの世代差は感じない。それよりNSC出身か、それ以外のお笑い学校出身か、大学のお笑いサークル出身か、といったヨコの差の方が大きい気がする。
さらに、読みつつ、なんで世の中は激変しているのに、お笑い業界が、いまだに「第二世代」と呼ばれるたけしやさんまが現役トップにいられるんだろう、とそっちの方が気になった。30年以上前だったか、よく知り合いと、「時間が止まっているのはプロレスとお笑い。プロレスのトップはいまだに馬場・猪木で、お笑いのトップはいまだにたけし・さんま」なんて話をしてたのを思い出す。そのたけし・さんまが、「まだいる」のだ。
この本の著者は、なんとか「第六世代」や「第七世代」を持ち上げようと、「第六世代の代表」と推す千鳥について、
「「千鳥はこれから天下を取れるのか」といった話題が持ち上がることがあるが、私に言わせれば、千鳥はもうすでに天下を取っている」
とまで書いているが、そのへん、まったくわからない。若い層の人たちなら、そう感じるのだろうか。
今年、『お笑い芸人になるには』という本を出そうと考えていて、少しでもお笑い界の現状を知っておこうと読んだ本。この世代論に合わせようとすると、かえって頭が混乱してくる。世代論で切ればとっくに古くなっていなくなるはずのさんまがバリバリにやっていて、世代論のラチ外にいるタモリがマイペースで悠々と存在しているのだから、より、よくわからなくなる。
タモリと戦後ニッポン
まあ、祖父が満州に住んでいた、とか、ちょうど学生紛争の時代に学生生活を送った、とか、タモリと「昭和史」を強引にシンクロさせようとしたあたりはちょっと鼻についたものの、「テレビお笑い史」の中で、タモリがどんなポジションにいたか、についての分析はうなずけるところが多い。「お笑いタレントでありながら文化人としての側面をもった存在」として新たな領域を開拓したのは確かだろう。タモリ本人は森繁を尊敬していたらしいが、森繁が「お笑いから大物俳優」になりあがったパイオニアなら、タモリは「お笑いから大物文化人」になりあがったパイオニアとはいえる。しかも「ゲテモノ芸人」でスタートして。
しかし、彼自身はほぼ本は書いていないのに、よくもこんなに「タモリ論」的な本がいろいろあるものだ。それだけまわりが語りたくなってしまうのか。私自身は、昔、関根さんについての本を出すとき、推薦文をいただきたいんで、『笑っていいとも!』のタモリさんの楽屋に挨拶に行った。そこでお会いしたことしかない。「あ、はいはい、関根くんのことね」と気軽に引き受けてもらった記憶だけある。自分につい てはあまり語らなくても、人についてはけっこう語る人なのかな。
歴史の表舞台に立った天皇
古代の崇神天皇から、天智天皇、後醍醐天皇などをへて近代の明治天皇、昭和天皇など、歴史の表舞台に立った天皇を、一人10ページずつくらいでまとめた本。新書版の、よくある「お手軽ライト歴史本」の類なのだが、ちょくちょく、意外にひっかかる箇所が出てきたりもする。
たとえば大和の纏向遺跡は大和朝廷のもので、三世紀はじめ、吉備から移住してきた有力な集団が朝廷を開いたのに違いない、と言い切ってたり。こうなると「大和朝廷=邪馬台国=大和」ってことになる。また本能寺の変についても「皇室に思いを寄せる一部の公家が、天皇にとって代わろうとする織田信長を消すために、明智光秀を動かした」と、堂々と「公家陰謀説」を語っている。おいおい、そこまで断言して大丈夫かい、ってもんだ。
ただ、そういうところがあるからこそ、平均的なライト歴史本よりは引きが強いかな。