山中伊知郎の書評ブログ -5ページ目

魔女裁判

 ドイツを舞台に、16~17世紀あたりに吹き荒れた「魔女裁判」の嵐について言及した本。

 「魔女」といっても、けっこう男も含まれていたことや、かえって中世よりも近世に入ってからの方が魔女裁判で処刑される人間が圧倒的に多かったなんてことは、以前から知っていた。

 だが、魔女裁判がキリスト教会よりも世俗の王権などが強くなってから、その世俗側がけっこうリーダーシップを持って魔女狩りが進んだ話、何より、上からの指示というより、民衆側の「あいつは魔女だ」とする告発から罪に落とされたケースが多かったのは初めて知った。それ以上に、体制側はそんなに魔女摘発に乗り気でもなかったのを、「村社会」のようなところで、まるでリンチのように気に入らないヤツを血祭りにあげるケースがけっこうあったらしい。つまり「お上」よりも「隣り近所」の方が怖かったわけ。

 それと、拷問に耐え抜いたら釈放されたり、村を追放されるくらいですむようなことも、比率としては少ないながら、なくはなかったらしい。一度「魔女」の烙印を押されたらみんな火あぶりのイメージがあっただけに、これは意外。「魔女」と「呪術師」とがどう違うか、なんて話も、完全に違いがよくわからない点で、かえって興味を引かれた。

 集団が、異分子とみなしたものをよってたかって血祭りにあげるのは、今でもどんな社会にもあることだし、「魔女裁判」はそれが極端なくらいにわかりやすく現れた事例だ、と私は理解した。

安倍晴明の一千年

 いまや、平安時代を代表するスーパーヒーローともいえる陰陽師・安倍晴明の、その実像、ならびになぜ今になって脚光を浴びているかなどについて書かれた本。

 まあ、予想通りというか、そりゃそうだろうというか、実像でいうなら、当時は迷信ではなく「技術」の一つだった陰陽道を司る割に真面目に「宮仕え」に終始した官人、であるらしい。そんな、「オカルト都市・平安京」で、襲い来る魔物たちと死闘を繰り広げるとか、そういう派手な活躍をした人ではない。それが、全国各地に「我が源流は安倍晴明」と名乗る占い師やら祈祷師やらの類が増えていったことなどもあって、名前だけどんどんポピュラーになってしまったらしい。全国行脚なんてしてないのに「漫遊記」で有名になった水戸黄門みたいなもんか。

 さらにやがては「狐の子」だったとの伝説まで生まれて、江戸時代の歌舞伎にも登場し、今はまた小説『陰陽師』やマンガなどを通じて、美貌の貴公子のイメージが定着したらしい。

 結局、世の中の人達は、歴史の中で、自分たちがオモチャにして遊べそうな人間を見つけてきちゃ、その「人間像」をいじくりまわして楽しんでいるわけで、安倍晴明もそんなふうに選ばれた人物の一人ってことか。

 

死後の世界

 細かい理論的なところは、ほぼスルー。ただ、ところどころ、気になる記述があって、それはちょっとこだわった。「インドやネパールには、日本のような墓がない」とか、「「世界」や「自然」なんて言葉はごくごく最近に出来たもので、聖書でさえも、「世界」ではなくて「天と地だった」とか、「「いのち」とは何か? そもそも「いのち」には目的があるのか?」とか。「草や木に成仏はできるのか?」なんて問いかけも、ちょっとひっかかった。

 著者が、世間的に言う「尊厳死」に対して否定的だったのも、気にはなった。

 著者自身が、自分が「死」と向かい合った時にどんな対応をしたらいいのか真剣に考えている様も伝わって来た。

 私ももうすぐ70。「死」との向かい合い方を考え始めてはいる。、

一芸一談

 かつてラジオの対談番組で、人間国宝の落語家・桂米朝が聞き手になって、芸界の「レジェンドたち」と語り合った話をまとめた対談集。まあ、登場人物のほとんどが20世紀のうちに亡くなったような方々。藤山寛美、片岡仁左衛門、かつて吉本の会長だった林正之助のような馴染の名前もあれば、文楽の吉田玉五郎、「人間ポンプ」の安田里美のようなそんなにはよく知らない名前もある。だいたいは明治か大正生まれで、「戦時中に戦地に慰問でいった『わらたい隊』なんか、ろくにカネにならん」みたいな昔話が次から次へと出てくる。

 これ、青春18きっぷで仙台行って帰ってくる間の電車の中でタラタラと読んだり居眠りしたりしていたのだが、実に本のペースとピッタリ合う。「功なり名とげた」ジーサンたち(中に女性も二人いたけど)がのんびりと茶をすすりながら語り合う席の横に侍っているようで、なかなか心地いいのだ。新幹線では、こうはいかない。

神隠しと日本人

図書館で借りた本なんだが、なぜか表紙に「水漏れ跡りあり」と貼り紙がしているのが気にかかった。いかにもホラー映画っぽいデザインにこの貼り紙が付いてると、何か深い意味がありそうで、気になる。ポタリポタリと異界と通じる井戸の水が落ちる音が聞こえてくるみたいで。

 それにもう一つ。読んでいる最中、寝る前に読もうかとつい枕元に置いてしまったのだが、それを忘れて、入っていたはずのカバンの中や机の上を捜し回ってしまった。で、なかなか見つからず、「これは本自体も神隠しにあったんじゃないか」と思ったりした。

 というわけで、どうもいろいろあったわけだが、本の中身自体は、割に意外なものだった。もっとファンタジーとしての「神隠し」にどっぷりつかっているものかと思いきや、けっこう理知的に「神隠し」を分析している。本人が帰って来たが異界の記憶がある物とないもの、失踪したまま戻ってこなかったもの、死体になっていたものと分類し、それぞれ、残された物語を紹介しつつ、どんな事態が起きていたのかなどを推察する。また人をさらう「隠し神」として代表的な「天狗」「狐」「鬼」「山姥」などがどのように生まれ、どんな現象を引き起こしたかについても言及していく。浦島太郎の話も出てくる。

 要するに、けっこう学術っぽいのだ。しかも、この「神隠し」のほとんどは、実際にあった家出、殺人、誘拐などを隠ぺいし、自分たちの共同体の秩序を守るために作られた約束事であった、と著者は考えている。誰かが村からいなくなった、でもそれは「神隠し」だった、とすればみんな傷つかずに済むのだ。とはいえ、それだけではどうにも割り切れない、不思議な「神隠し」も、当然、あるわけだが。

 「神隠し」にあって、現世に戻って来た人間の体験談が案外、類型的で貧弱だとのエピソードは、納得できるところがある。これ、臨死体験なんかも似てる。人々がもともと持ってる「死の世界」「異界」のイメージがあって、みんなそれにとらわれ過ぎているのかもしれない。

 隠れんぼをしていると、隠れていた子供で誰も見つけてくれなくて、とうとう一人残されてしまうとか、「神隠し」にあった人間をなかなか発見できないと、最後は村人総出で鉦や太鼓を叩いて呼びかけ、それでも発見できないと捜索を断念するとか、まさにホラー映画のワンシーンみたいで、印象強烈であった。

 そして著者が最後に出した結論としては、「神隠し」が消えてしまった現代こそ、新たな装いをまとった神隠しが必要なのではないか、というものだった。家庭生活、学校、会社勤めなどで疲れ切った現代人にこそ、一時的に社会から離れ、またスムーズに復帰できる仕組みがあったらいいと言う。これ、私も同感。欧米とかだと、2、3年 、バッグパッカーとして世界をブラブラした後でも、また案外あっさりと現場に戻れるみたい。日本ではそれが難しい。

 認知症などが原因の「失踪者」は年々増えているのに、「神隠し」はなくなってしまった日本が、幸せな国になっていっているのかどうかはよくわからない。