幕末ヤ撃団 -3ページ目

幕末ヤ撃団

勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

まず最初は、ゴールデンウィーク連休中のサークル「幕末ヤ撃団」出店告知です。

 

サークル「幕末ヤ撃団」サークル参加告知

イベント:スーパーコミックシティ31

日にち:5月5日(日)

場所:東京ビックサイト

ブース:東5ホール・ぬ19a

 

 ということで、5月5日にビックサイトで開催される同人誌即売会「スーパーコミックシティ31」にサークル参加して参ります。既刊紙の頒布を行う予定で、新刊はないです。というか、新刊は現在絶賛制作中なんで(苦笑)。8月の夏コミケ合わせで新刊の完成を目指しております。

 

 以上、サークル参加告知でした。で、まぁ新刊となる『歴史企画研究叢書11輯』ですが、掲載記事の校正作業と編集の真っ最中でありまして、原稿そのものはすでに揃っている状況。あさくら先生が世に出そうとして出せていなかった”千葉さな”の史料『千葉の名灸』は、これまで『歴史企画叢書』の各号に連載という形で紹介されてきました。しかし、後半の部分を紹介する前にあさくら先生が他界されてしまい、無念であったろうと思います。それで、今回の最後となる『歴史企画研究叢書11輯』で、史料の最後まで掲載すべく、もっか編集作業中です。

 元々”おまけ”という形で始まった史料連載だったので、これまで写真などもまったく掲載していなかったのですが、今回は最後ということもありますので、ぜひ”千葉さな”に関する史跡の写真も掲載せねばと思い、今日史跡巡りに出発したわけです。

 明日は東京は雨だというので、晴れてる今日しかチャンスなかったしなということで(苦笑)。

 

↑千葉灸治院跡地

↑千葉灸治院跡地

 

 足立区の千住にある千葉さなが開業した「千葉灸治院跡地」です。さなのお灸は父から教わった烈公徳川斉昭直伝のお灸で、これが評判を呼び、「千葉灸治院」は非常に繁盛したという話。なお、よく坂本龍馬の許嫁だったとされ、未婚のまま死去したみたないな俗説がありますが、さなは結婚もしていますし子孫もいます。

 また、「佐那」と漢字の名前も俗説らしく、正確には「さな(ひらがな)」もしくは子が付いて「さな子」だそうです。故あさくら先生も、千葉さなに関する研究論文を書かれてまして、私もあさくら先生に連れられて何度かココに来ています。が、その時は掲載用の写真撮りではなく、史跡来た記念に撮影したレベルのもの。この写真を掲載用にするのは不満があったので、今回改めて撮影し直したわけです。

 

↑案内版??

 

 以前は史跡に説明板が張ってあったような気がしますが、今はなくなっちゃったのかのう??。なお、故あさくら先生から聞いたところでは、「知らない間にいろんな物が建ってるなぁ」とおっしゃっていたので、跡地に建てられている説明板等にあさくら先生はノータッチっぽかったです。

 

 で、一応同人誌掲載用の写真撮影は終わりなわけですが、せっかくここまで来たのだからということで、以前から行こうと思っていた武蔵千葉氏の城を見に行きます。

 

↑石濱神社(石浜城跡推定地)

 

 南千住というか足立区から荒川区ですが、そこに石濱神社があります。この周辺に下総の千葉を追われた千葉宗家子孫千葉実胤が入った石浜城があったといいます。石濱神社はその推定跡地とされてます。

 以前、当ブログで紹介した「中曽根城」は、この石浜城の支城に位置づけられまして、本城はこちらの石浜城らしいです。板橋の赤塚城には千葉実胤の弟千葉自胤が入りました。そして武蔵千葉氏となり、仇たる佐倉城の下総千葉氏を倒して千葉城を取り戻す再挙の地となったわけですが、まぁそう上手くはいかず、享徳の乱とか小田原北条氏の勢力拡大とか色々とあって、石浜城を維持できずに……という勢力減退の一途を辿っていくという感じ。

 でも、下総千葉氏も似たり寄ったりで、こちらはこちらで南から里見という勢力に追い立てられてたからねぇ(苦笑)。ともあれ、この隅田川を挟んだこの地が、下総千葉氏と武蔵千葉氏の勢力争いの最前線であったことは間違いないと思われます。

↑石濱神社社殿

↑案内版

↑案内版

↑石浜城跡全景

 

 石濱神社は隅田川のほとりにあり、近隣は開発されまくってますので城跡の遺構などはまったくありません。

 

↑隅田川

 

 石浜城跡付近の土手から隅田川の望むと「白鬚橋」があります……っていうか……あの高い建物は「リバーサイド墨田ビル」という名で、私が20年前に派遣されてた大手ゼネコンで設計図書いて建てたビルじゃん……。しかも、完成後は大手ゼネコンがこのビルに入ったので、私もここに毎日出勤してた……。道理で見覚えのある場所だなぁと思ったわけだわ……。もっぱら、白鬚橋を渡ってこちらがわに来ることがあまりなく、逆方向に曳舟駅方面から通ってたからなぁ。気づかなかったわ。

 

↑白鬚橋たもと付近

↑三条実美別荘跡説明

↑橋場の渡し跡説明

 

 白鬚橋周辺には「三条実美の別荘」があったらしいです。知らなかったな~。偶然の発見しちゃいました。で、ここが白鬚橋なら、川を渡った向こう側に榎本武揚絡みの史跡があったはずだ。ということで、久しぶりに行ってみることにしました。

 

↑懐かしいステーキ屋

 

 白鬚橋を渡ってすぐの交差点にあるステーキ屋。20年前の若い頃に、給料日のお昼ご飯はここのステーキでした。レアのステーキの美味さを知ったのもこのお店です。懐かしい~。まだ営業してたんだねぇと感慨深いです。

 

↑榎本武揚像

↑榎本武揚像案内版1

↑榎本武揚像案内版2

 

 榎本武揚は、晩年にこの隅田川周辺に屋敷を持ち、よくこの周辺を散歩していたんだそうです。ということで、屋敷跡も見に行ってみますか~。と、予定外の史跡巡りに発展(苦笑)。

 ということで、再び白鬚橋の方へ……。時刻はお昼の11時をまわったところ……ということで……

↑お昼ご飯のレアステーキ

 

 入っちゃいましたステーキ屋(爆)。これこれ、給料日ステーキです!(爆)。約20年振りか~懐かしいのう~。昔と変わらぬ味で御座る。相変わらず美味いです。普段であれば行列ができるようなお店でして、お昼時は並ぶんですが今日は少し早めだったこともあり、すんなり入店できましたわ~。あ~やっぱステーキはレアだねぇ~。美味いわ~♪。

 

↑榎本武揚旧居跡

↑榎本武揚旧居跡説明

 

 ということで、榎本武揚邸跡です。晩年の榎本は、ここから隅田川の土手を散歩していたらしいです。で、案内版の史跡案内によると「依田学海邸跡」も近いらしい(汗)。なので、さらに足を伸ばします。

 

↑依田学海旧居

↑依田学海旧居跡説明

 

 依田学海は文学者として有名ですが、幕末期は譜代佐倉藩士として活躍しており、戊辰戦争勃発時には江戸城にいて情報収集していました。京都から帰還した直後の新選組近藤勇や土方歳三から鳥羽伏見での戦いの様子を聞き、土方は「什器は砲に非ざれば不可。僕、剣を佩び槍を執り、一も用いる所無し」と答えています。この土方の言葉は、戊辰戦争が武士による刀槍主体の合戦ではなく、銃砲主体の戦争だったことを示す有名な言葉となって今日に伝わっています。

 

↑成島柳北住居跡案内

 

 依田学海と同じ地区に居を構えていたっぽい儒者成島柳北の史跡です。依田学海住居跡と同じ場所に案内版がありました。彼は儒者から出発しますが、福沢諭吉などと親交を結んで開明的になっていき、明治政府からも招かれましたが断って民間から日本の近代化に貢献した人物です。

 

 以上、荒川区から墨田区界隈をうろうろし終わったので、石浜城跡の次の本来のターゲット史跡に向かいたいと思います。今度は江戸の国学関係ですね。

 

↑賀茂真淵県居の跡

↑案内版

 

 国学創生期の荷田春満から国学を学び、『万葉集』の研究をした賀茂真淵の住居跡です。中央区に史跡があります。さすがに開発されまくっている地区なので、遺構や当時の雰囲気を留めるものは何もないビジネスビル群のなかにあります。

 この賀茂真淵の弟子が本居宣長で、本居は『古事記』の研鑽を行って『古事記伝』を著し、国学というジャンルを大成しました。この本居に影響を受け、「没後の門人」と称したのが平田篤胤となります。

 

 ここから神田明神へ向かいます。

 

↑神田明神

↑神田明神門前にある「国学発祥の地」標柱

 

 神田明神は国学と縁深い神社で、京都から来た荷田春満や賀茂真淵が国学を広めた拠点でもあります。なので、「国学発祥の地」と記されていますが、どう考えても国学発祥地は”京都”なので、正確には「江戸での国学発祥の地」となります(苦笑)。

↑国学発祥の地碑

↑国学発祥の地碑文

 

 京都にいた荷田春満が国学普及を訴え、勅使に従って江戸に下向した際に、この江戸に留まって国学を教えた場所に由来します。江戸滞在中に荷田から教えを受けた者のなかに賀茂真淵もいました。その意味では江戸での国学普及はこの地からはじまったと言えましょう。

 この国学発祥の地碑の写真は、以前にも撮影してたはずなのですが、どこかに行って見つからない(汗)。なので、今日改めて立ち寄って撮影してきた次第です。

 

↑昌平坂学問所跡

↑説明板

 

 神田明神に行く途中の聖橋のたもとにありますので、行きがけの駄賃として撮影。幕府の学校・昌平坂学問所跡ですね。横に湯島聖堂がありますが、今回はスルーしました。さすがに足にダメージが溜まってきたので~。

 

 以上、隅田川界隈の史跡巡り立ち寄りが思ってたより多くなり、午前中で終わると見込んでいたのに午後三時まで史跡巡りしまくったという結果となりました。何分、足に腱膜炎を抱えている身の上なので、長時間歩くのが辛いのでござる。一年以上患っているのですが、なかなか治らんのう……(泣)。

 

 以上、久々の史跡巡りでした。GW連休になったらまたどっか行こうと思います。

 

↑神田川の桜並木

 

 昨日、夜桜花見を行ってきました。去年に比べて今年の桜は咲くのがやたら遅かった。去年は三月の終わり頃にもう咲いていたが、今年は四月の頭はまだつぼみで、今週に入ってようやく咲いたという感じ。咲いた時点でもう葉が出てしまって、満開だが葉桜だというのが残念。

 さらに残念は続き、コロナ流行直前で死去してしまった親友大久保氏に研究家あさくらゆう先生が加わった形での追悼花見でもあります。大久保氏は私が就職で東京に出てきたその日から知り合いで、何でも相談できる間柄で、コミケで幕末ヤ撃団ブースの手伝いなどもしてもらっていた人です。研究家あさくらゆう先生は言うまでもなく歴史研究に関し、色々と助言を頂いたり歴史調査を手伝ったり、手伝って貰ったりと非常に仲良くさせて頂きました。

 両人ともコロナ流行の前後で他界され、ようやく普通に花見ができるというのにご一緒して歴史談議に花を咲かせられないのが無念で仕方がない花見です。さらに大久保氏やあさくら先生と並ぶ大親友のK氏も二度目の脳卒中によって命は取り留めたものの、介添えなしでは家の外に出られない状態で身障者となってしまって花見には出てこれず。幕末ヤ撃団の仲間のなかで、五体満足なのが私一人というサークル運営の危機でもあります。

 コロナ前までは、この花見で歴史談議する楽しい会だったのですけども、だんだん友人に思いを馳せる慰霊の会みたいになってきちゃったなぁ~と。一人で飲んでたから会でも何でもないですけども(汗)。

 

↑夜桜

 

 私に花を愛でる趣味はまったくといっていいほど無いんですが、この藍色の空の夜桜は綺麗だと思わずにはいられない。これ見たさで一人でも花見に出向く気になるというわけで。まぁ、この花見会場が近所の上に、隠れた花見の名所ということで場所取りをせずとも楽に場所が取れるので、花見に対する気軽さもありますが。

 ともあれあさくら先生の癌というヤツは、ある意味で防ぎようがなく、早期発見以外に助かる手はないからやむを得ない面もありますが、大久保氏やK氏はメタボリックシンドロームが主原因かと思われます。メタボだと油断してると史跡巡りもできない体になってしまうことをしみじみと感じました。もっとも、近年はデジタルアーカイブが充実し、インターネットができれば多くの史料を見ることができますので、無理に現地に赴かなくても歴史研究はできます。このあたりが、私とあさくら先生の姿勢の違いでもありまして、あさくら先生は現地主義で新発見をしちゃう人ですが、私の方は新発見よりは”なぜそうなった?”という歴史論に重点を置いているため、まだ誰も見ていない新史料というよりは、すでにある史料の再精査して、新しい歴史の見方を提示するのが主となります。なので、必ずしも現地主義ではないんですね。人の考えの歴史たる思想史はテキスト史料があってナンボ。史跡や遺物を眺めていても、史跡や遺物は人間の考えを語ることありません。人間の考えや思いは、日記史料や文書書簡史料に綴られていますので、こうしたテキスト(文字)史料を読み説き、新しい解釈を提示するというのが重要ではないかと思うわけです。

 もちろん、現地に赴いて新しい事実を発見することがすべての基礎ですので、そちらも重要なのですけども。

 

↑大久保さんとあさくら先生にもお酒をということで。

 

 この後、両人の冥福をお祈りして杯のお酒を神田川へ……。

 

 

 完全に暗くなって夜桜が映えます。さて、ここで歴史の小ネタでもということで、今回は会津戦争に関することを述べようと思います。私は近年は関東を中心に歴史探究しようと考えていますので、東北会津藩は範疇外と思い定めてあまり論じないようにしていました。が、それ以前は割と東北戦争や会津戦争に関して調べまくっていたので、多少は知識があります。

 以前から会津戦争と言えば、「会津死謝」を叫ぶ長州藩世良修蔵が暗殺されて白河戦争が始まり、会津鶴ヶ城の降伏開城で終わるというストーリーが定着しているわけです。ドラマでも会津藩主だった松平容保が鶴ヶ城開城して戦争は終わったという描き方です。会津戦争の解説一般書もそんな感じのものが多いのですが、謎なのは「会津死謝」なのに、元藩主松平容保(会津戦争直前に隠居して藩主は松平喜徳になっている)は処刑されていないという事実です。

 

 そもそもこの会津死謝という方針は、よく「薩長が会津藩を恨み」決定されたものとされていますが、長州藩はともかく薩摩藩に会津藩を恨む理由はないんですね。一時は会薩同盟を結んでたほどの協力関係だったのですから。『戊辰役戦史』で著者の大山柏は会津死謝方針決定の経緯を記しています。

 

 なお今一つ述べておかねばならぬ重要な案件がある。それは奥羽総督に沢三位が任命された。まだ九条任命以前のことである。総督府は鎮撫に当たり、会津と荘内(酒井)とは如何ように措置すべきかとのお伺いを、予め二月十六日付をもって大総督府に提出した。同日有栖川宮はすでに大津に進まれておったが、翌十七日をもってその答信が発せられた。それによると「会津は実々死謝を以ての外に之れなく、松山、高松などとは同日の論には之れなく候。酒井においては松山、高松同様の御取計らい死然るべしと存じ候」と明瞭に指示している。面して、この十六、十七日頃大総督府におった下参謀は林通顕一人だけで、西郷隆盛は遠く名古屋に在って、十七日には先遣兵団と東下している。以上の指令は下参謀たる林の負うべき責任であり、寛典論者西郷が合議してないために「会津は死謝」と強硬な回答をしたのである。これが奥羽総督府の根本方針になるのだから、その後現地でいくら謝罪しても承知できず、ついに以下に述べるような大変乱を惹起してしまったのである。(『戊辰役戦史 上』大山柏著一七七頁)

 

 林通顕は伊予宇和島藩士で薩長人ではありません。京都留守居として勤王派と交わってはいたが、会津藩を目の敵にするほどの理由は伊予宇和島藩はもちろん彼にもないはずです。私が思うに、「天地入れざる朝敵」という尊王派の一般認識のまま深い考えもなく、天皇に逆らったら処刑という安易な思考の元、形式的に軽く出した命令に思えてなりません。

 奥羽鎮撫使の世良修蔵は、この大総督府からの命令を実現させる責務にあるのだから、頑なに会津の謝罪を拒否し続けた。何しろ彼は大総督府の命令に逆らう権限を持っていないのだからです。

 個人的には、窮した世良が「奥羽皆敵」と見て、大総督府から大援軍出させようとし、それをさせんとして仙台藩が世良を暗殺してしまうのだが、むしろ世良を江戸の大総督府に行かせてしまった方が会津藩にとっては良かったかと思います。この時、大総督府は上野彰義隊三千に対して、江戸の官軍二千しかなく、北関東や房総半島にも大鳥脱走軍三千や徳川義軍府二千があって対応に追われていました。江戸近郊に佐幕派約八千に対し江戸の官軍はたったの二千。とにかく兵力が足りなさすぎなんですね。

 世良が江戸に来て「奥羽諸藩を攻めるだけの大兵力をくれ」と言ったところで、無い袖は振れない。奥羽皆敵と見て戦えるだけの兵力など無いと世良の要請はあっけなく蹴っ飛ばされただろうと。となれば、大総督府の定めた「会津死謝」の方針を改めて、仙台藩主導の会津寛典論で行く他ない。大総督府命令を改められるのは大総督府なのだから、世良が江戸で大総督府の西郷隆盛に相談を持ち込めば、案外会津戦争は避けられたのではなかろうかと思うわけです。

 まぁ、これは「もしも論」だから私の身勝手な想像でしかないのだけれども。

 

 結局のところ会津戦争は勃発して明治元年九月二十二日に降伏。会津恨んでいた長州藩士たちが軍門に降った松平容保の命を奪うのかと言えば、ぶっちゃけまったく逆の行動を起すのですね。新政府軍の総力を相手に一藩で戦い抜いた会津藩はさすが会津だという評価になり、逆に仙台米沢藩は自身の領地に踏み込まれる前に降伏した仙台米沢は武士らしくないという話し。

 ぶっちゃけ、この時に会津藩と戦った薩長将兵は皆「会津同情論」になってしまったと。

 しかし、依然として「会津死謝の方針撤回」が宣言されたわけではないわけで、この命令を撤回しないことには容保の命はないわけで。

 会津藩降伏開城後、松平容保は東京へ護送され十一月三日に東京に到着。そして、十二月七日に詔が下って会津死謝は一気に吹っ飛びます。この詔は別の意味で重要なものかと思います。

 

詔書

 賞罰ハ天下之大典、朕一人之私スヘキニ非ス、宜ク天下之衆議ヲ集メ、至正公平、毫釐モ誤リ無キニ決スヘシ、今松平容保ヲ始メ、伊達慶邦等ノ如キ、百官将士ヲシテ議セシムルニ、各小異同アリト雖、其罪均シク逆科ニアリ、宜ク厳刑ニ處スヘシ、就中、容保ノ罪天人共ニ怒ル所、死尚余罪アリト奏ス、朕、熟ラ之ヲ按スルニ、政教世ニ洽ク、名義人心ニ明ナレハ、固ヨリ乱臣賊子無ルヘシ、今ヤ、朕、不徳ニシ教化ノ道未タ立タス、加之、七百年來紀綱不振、名義乖乱、弊習之由テ来ル所久シ、抑容保ノ如キハ門閥ニ長シ、人爵ヲ假有スル者、今日逆謀、彼一人ノ為ス所ニ非ス、必首謀ノ臣アリ、朕、因テ斷シテ曰、其ノ実ヺ推テ、其ノ名ヲ怒シ、其情ヲ憐ンテ、其法ヲ假シ、容保ノ死一等ヲ宥メ、首謀ノ者ヲ誅シ、以テ非常ノ寛典ニ處セン、朕、亦将ニ自今親ラ勵精、圖治教化ヲ國内ニ布キ、徳威ヲ海外ニ輝サンコトヲ欲ス、汝百官将士、其レ之ヲ體セヨ。(『復古記 第八冊』東京大学史料編纂所編七六一頁)

 

 この詔の中で、明治天皇は容保を「門閥ニ長シ、人爵ヲ假有スル者、今日逆謀、彼一人ノ為ス所ニ非ス」と語ります。つまり、朝廷に逆らうような人ではないと。だから会津藩と容保に道を誤らせた「首謀ノ臣アリ」とした上で、真に罰すべきはこの首謀ノ臣だと宣言します。つまり、会津藩主松平容保は叛逆の主犯ではないので、死一等を弛めるとしてその命を救いました。これが天皇のご意志であり、百官将士はこれを体現せよとある以上、大総督府から出されていた会津死謝の命令は立ち消えるということになります。

 これで松平容保の命は保たれることになるわけですが、別の意味で重要だというのは「朕、不徳ニシ」という文面があることです。これは「天皇に不徳があった」ということなわけですが、戊辰戦争当時幼少だった明治天皇が自発的にこのように考えて元会津藩主松平容保の命を救おうとしたとは思えないわけですね。では、薩長の誰かでしょうか??。少なくとも長州藩桂小五郎(木戸)は、会津藩の処罰に関しては”朝敵を法的に捌き、今後の前例とする”という意味で単純な寛大論ではなく、むしろ死罪とまではいかないまでも厳罰論側に立ちます。では薩摩か?。謎です。ただ、長州にしろ薩摩にしろ自分たちが担ぐ明治天皇自身に「朕に不徳があった」などと言わせるなど到底認めがたかったはずです。下手をすれば尊王討幕派が聖戦と位置づける戊辰戦争の正義すら、「天皇の不徳から発生した戦争」になってしまえば崩れざるを得ないわけで。

 では、何者かが薩長両藩に秘密にして電撃的に出した詔かというと、そんなことが可能とも思えない。実際、会津救済処分に関する朝廷会議は行われていますから、薩長が反対するような内容の詔をクーデター的に詔を出すことは無理ではなかろうかと。

 さらにこの「朕、不徳」の文言には、暗に”天皇は人であって神ではない”という意味も持っているのです。神に不徳があろうはずがないからです。つまり、この時期の明治政府を司る人々は、少なくとも天皇を神とは思っておらず、人だという認識なんですね。人だからこそ不徳もある。人は徳を積まねばなず、王ならなおさらというのが儒学の考え方ですから。

 第二次長州征伐の際には、当初は薩摩藩も幕府軍側で参加させるつもりで幕府が天皇の勅命を受けた上で薩摩へ出兵要請しました。この時、薩摩藩大久保利通は「不義の勅は勅にあらず」と言い切り、薩摩藩は長州征伐を拒否しています。通説では薩長同盟を結んでいたからと言われますが、幕府の長州征伐は孝明天皇から節刀を受けて行われていますから、長州征伐は勅命でもあったのです。これを蹴るとは天皇の命令に反する行いでもありました。天皇を神だと思っていたら、こんなことはできませんから幕末・戊辰戦争当時は天皇は人だという認識なんです。

 これが明治維新以降は神格化されていき、いわゆる明治から昭和初期の”現人神”として”天皇は間違わない(天皇無謬説)”になっていきます。天皇は神だから間違わない。だから天皇のお言葉は絶対であると。しかし、幕末・戊辰戦争時代を生きた元勲達はそう思っていなかったなによりの証明でもあります。

 このような文面の詔を薩長両藩の尊王派が出せたとは思えないんですね。そして薩長に秘密にして出された詔とも思えない。薩長両藩を黙らせて出させたとしか考えられないわけですが、では誰がこの詔の文面を考え明治天皇に言わせたのか??。会津藩松平容保の命を救うためにです。これがわからない。まったくの謎なんです。誰か知っていたら是非教えてくださいませ~。

 ということで、会津戦争はこの詔をもって終結というのが正しいわけで、会津鶴ヶ城開城ですべての始末がついたわけではないのですね。しかも、松平容保の命を救う課程で、天皇の神格化にもかかわる重大な詔も出されており、これは天皇制国家の歴史を考える近代史でも重要な意味をもっていると私は思います。もっと注目されるべきだと思いますので、今回はお花見にかっこつけて記してみました。

 

 以上、今年のお花見は友人への思いに馳せながら、こじんまりと飲んで終わったという感じでした。

 

追記

 そうそう。奥羽越列藩同盟は賊軍ではないのでご注意を。奥羽越列藩同盟盟主である仙台藩に奥羽鎮撫総督の九条総督がおり、錦旗も仙台藩は持っていました。つまり、奥羽越列藩同盟に従わない藩が朝敵になります。なので、庄内藩も会津藩も当初は奥羽越列藩同盟に加盟していません。

 奥羽越列藩同盟が賊軍とされるのは、錦旗を持つ九条総督が仙台藩領を脱して秋田藩に逃走したあとです。なので、よく守山藩や三春藩、秋田藩が官軍側になったことを「裏切り」非難する論調も見られますが、守山三春秋田はむしろ最初から最後まで官軍でしたよ。むしろ奥羽で戦争をさせないための会盟だったはずの奥羽列藩同盟が、薩長両藩排除のための戦争に踏み切った行為こそ、守山や三春、秋田から見れば裏切り行為なわけであり……。

 そんなわけで、ガンダムに例えるならZガンダムの世界観ですね。地球連邦軍内の軍閥ティターンズとエゥーゴが戦ってたという話に似てて、東北戊辰戦争は明治新政府内の薩長主戦派軍閥と仙台米沢を中心とする東北穏健派軍閥の戦い。でも戦争期間が一年足らずという意味では一年戦争なのでファーストガンダムにも似ていたり?。

 

 いやいや、プログ更新が滞って申し訳ない。しかし、そのかわりに新刊同人誌の作成作業はガンガン進んでおりますので(苦笑)。まー、私がプログ書く時は、それこそ書く内容についてガッツリ調べた上で書く&出し惜しみせずに1記事に1テーマでまとめ、続き物にしない(「武士道論」のように日本史全体を扱う通史の場合は、各時代各テーマごとに分割はしますけども)ようにしています。なので、時間も掛かるわけで。そのプログに掛ける時間を新刊同人誌作成の方に廻しているとき、当然のようにプログ更新が止まるわけですハイ。

 で、ようやく新刊のなかで最大の記事になるであろう宮地先生の原稿テキスト化が完了しました。このあと、各執筆者の皆様とやり取りし、校正チェックを経て印刷へ。今回は今までのように安上がりなコピー本ではなく、幕末ヤ撃団では数年振りのオフセット印刷本として量産ということになります。今のところ、製作は順調に進んでおりますので乞うご期待ください。

 

 ということで、今回は同人誌作成の合間に頭に浮かんだ小ネタを書いていこうと思います。

 

↑江戸・佐久間象山塾跡

↑案内版

 

 さて、一応書いておかねばと思っていたのは「陽明学」という学問について。前回、水戸学は陽明学ではないという話をさせていただきました。そこでは触れなかった”江戸時代の陽明学者について”少々書いておかねばと思った次第です。

 で、「陽明学」に限らず「朱子学」も「水戸学」も同様ですが、こうした学問を専門とする江戸時代の学者は、正しくは「儒学者(漢学者)」です。つまり、陽明学者とか朱子学者、水戸学者と名乗っている学者は基本的にはいません(爆)。むしろ、陽明学者とか朱子学者、とりわけ水戸学者は「水戸学」という学問名すら嫌って認めていません。なぜか?。彼らはみな、自分の学問を「孔子より始まる正統な儒学」と考えているからです。だから、自分は「儒学者である」という立場です。水戸学者の場合、水戸学(水府の学)という名称は、まるで”水戸という一部地域の方言的な学問”と見られるのを嫌っており、かつ天保学(水戸学の別名)という名称も、天保年間に作られた学問という意味になり、孔子の学問とは違う学問と受け止められるため嫌います。彼らは孔子の学問を正しく継承したという意味で儒学者であることを誇りにしていますから。

 つまり、我々”現代人”が、便宜上”陽明学者・朱子学者・水戸学者”と区別して使っているだけなんですね。そうしないと、儒学者だといっても、それが陽明学的なのか、朱子学的なのか、はたまた水戸学的なのかわからんので。さらに言えば、荻生徂徠の徂徠学(古文辞学)や伊藤仁斎の古義学も加わってきます。これらも儒学ですが、徂徠や仁斎は陽明学や朱子学の解釈を廃し、『論語』や『孟子』などの経書に立ち返って、正しく解釈し直そうという古学派という学問になります。兵学者である山鹿素行も同様に古学派の祖です。彼等はみな独自の学派をひらいていきますが、みんな厳密には「儒学者」になります。これだと、学問学派の違いがわからないため、現代の研究者は便宜上、陽明学を最も重視する儒学者を”陽明学者”という形で便宜上呼び分けているわけです。

 

 さらにややこしいのは、こうした儒学は明治維新後に官民一体となって行われた日本人の意識改革”文明開化”によって、滅んではいませんが衰退してしまったこと。これは武士道も同様です。衰退してしまうと、今度はその反動が起こってくる。明治十五年から二十年代に発せられた教育勅語や軍人勅諭など、天皇から発せられたお言葉が儒学道徳的だったところから儒学や武士道精神の見直されるようになります。これは文明開化政策によって西洋は文明的で日本は野蛮、洋学に偏った価値観から脱却し、日本の良さも認めていこうという運動でした。明治初年度の西洋偏重の反動でもあったでしょう。ここから、儒学や武士道が見直され、日清日露戦争で勝利を得た明治三十年代頃に最高潮に達していきます。新渡戸稲造の『武士道』もこの頃に書かれ読まれた明治武士道書の一つで、他にも多くの武士道書が書かれています。

 このような日本武士道の復興復活は、西洋人・白人にも日本人は負けてはいない。対等だという自信と共にあります。そして、西洋哲学に対抗する意味で、日本的哲学としての武士道が、キリスト教道徳に対比する形で儒学道徳が見直されます。朱子学はもちろんですが、特に「心学」に特化していた陽明学が「良知」という良心を根幹とする道徳理論だったことで、キリスト教道徳に引けを取らない道徳として注目され、西洋哲学や道徳同様に学問として認識されるようになっていきます。

 つまり、江戸時代であれば儒学のなかのひとつの解釈でしかなかった”陽明の学”が、陽明学として独立した哲学になっていったわけです。が、先にも記した通り、江戸時代に陽明学者という存在は基本的にはいません。陽明学を重視するが朱子学にも精通する儒学者がいただけなんですね。これだと明治中期にようやくひとつの学問として独立したのに、誇るべき陽明学者や紹介すべき日本での陽明学の功績が説明できない。で、明治時代に陽明学を広め普及しようとした人々の手によって、明治維新の志士や江戸時代の学者で、陽明学書を読んでいた人間を”片っ端から陽明学者あるいは陽明学を体現した人物”にして紹介してしまった。これが混乱に拍車を掛けてまして、現在江戸時代の陽明学者あるいは明治維新に活躍した志士とされている人物のなかに、陽明学者でも何でもないのに陽明学から多大な影響を受けたことにされた人々が多くいます。

 

 例えば佐久間象山。彼は朱子学と陽明学の二刀流で「陽朱陰王」とも言われた佐藤一斎門下です。山田方谷と合わせて「佐門の二傑」とまで言われましたが、方谷と違って陽明学を徹底的に嫌い、朱子学を正学と定めていた人物でした。それこそ師である一斎に対して、陽明学は習いたくないと言い放って授業拒否するほどで、これは終生変わっていません。後に蘭学を習い、西洋砲学や西洋科学にも精通するようになるのですが、これも朱子学流の「格物致知(物事の理を極めることで知を極める)」に従った結果そうなったわけです。(物事のことわり)は、西洋で考えれば学ですから。今でも「理科」という科目があるぐらいで。

 そんなわけで、佐久間象山は徹底して朱子学でした。陽明学は徹底的に嫌い、排撃までしている。にもかかわらず、「陽朱陰王」佐藤一斎の弟子だったこと。幕末期には活動的に行動した学者だったことから、その行動が一見「知行合一」的行動に見えたことを理由に、明治期に江戸時代の代表的陽明学者として佐久間象山が加えられてしまったらしい(汗)。その佐久間象山から教えを受けていた吉田松陰や、吉田松陰の弟子たる高杉晋作も非常に行動的だったために、これまた”陽明学の知行合一の教えを受けた”のだろうという思い込みで、陽明学者や陽明学の影響を受けた人物とされ、同様に十中八九、西郷隆盛や渋沢栄一、もっと言えば山田方谷や河井継之助も陽明学の影響を受けていたというだけで陽明学の徒とされています。が、彼らは陽明学だけでなく朱子学や他の学問の影響も同様に受けた上で自ら考え、行動した人物だったはずです。

 このように、各学問の良いとこ取りして使うことを折衷学派とも言いますが、江戸時代の学問は基本的に折衷学しかないと言って良いほどですので、まず陽明学だけを重視する儒学者や志士はいないと思って良いだろうと。

 なので、ときどき幕末史の本や解説などに「陽明学者」とか「陽明学の影響を受けた」といった文章を見かけますが、陽明学に関して言えば、陽明学だけ習った人はいないので他の学問の影響も同様に受けた人物と考えた方が良いでしょう。

 たとえば、西郷隆盛は江戸時代の代表的陽明学者とされる大塩平八郎の書『洗心洞劄記』や佐藤一斎の『言志四禄』を読み、陽明学の影響を受けたとされています。しかし、佐藤一斎は陽明学だけでなく朱子学の理論も採用していますし、比較的陽明学的だった大塩平八郎でさえ陽明学の「知行合一」と朱子学の「先知後行」について、「知行を後先に分けるようだが、ものごとはまず知ることに始まり、それを行うことで知に到達するのである。ようするに知るところを行い、行うことで本当の知となるのだ」と「知行合一」を説明しています。であれば、朱子学の「先知後行(先に知り、後に行動する)」となんら変わらないんですね。よく浅はかな歴史ライターが「知行合一」だから「思ったら即行動→だから暗殺テロも乱・戦争も衝動的に起こす」という説明を書いてますが、まったく間違った説明です。西郷隆盛もこうした学問の影響を受けていたのであれば、同様に「知行合一」「致良知」と言えども、思い付きや衝動的に戦争をするという思考はしていなかったと思われるわけです。幕末の志士活動家と言っても人間です。人間は考える生き物ですから。

 

↑佐藤一斎が官儒として勤めた幕府の昌平坂学問所と並ぶ儒学の聖地「湯島聖堂」

 

 また、このように衰退した後に明治時代に再び復活してくる儒学は、文明開化で西洋文化文明を受け入れた日本人にも適用できるものになっています。江戸時代には実学が重視され、虚学とされた儒学のなかの心学(良心などの心を解明する学)は重視されていない。これが明治期は西洋哲学と対抗する意味で心学が重視されるようになってきます。陽明学が注目されたのも、この陽明学の心学が特徴的だったからです。従って、明治期を経た現代日本でも、このように明治期に時代にあった学問解釈を踏襲する思想学問も多いです。特に武士道は明治以降の忠君愛国武士道が、一度は占領軍たるGHQによって衰退させられたあと、戦後に復活した形のために明治期に作られた忠君愛国武士道が、江戸時代以前からある古来からの伝統的武士道とされて紹介されています。が、江戸時代以前に「御家のために命を捨てる武士」はいますが、「国のために命を捨てる武士」は居ません。大名は”国替え”されるもの(大名の鉢植え)でしたからね。領国・支配地は変わるものだったのです。
 このように武士道だけで無く、明治期に復興してきた儒学、陽明学や朱子学も同様のことが言えます。このあたりが、江戸時代の学問史を論ずる際の歴史に仕掛けられた罠みたいな感じになってますので注意しなければならないところなのです。

 さらに儒学は中国と日本で解釈が違って発展したため、その解釈が中国や韓国と日本で違います。経書が同じなので似通ってはいるものの、文化や伝統、生活習慣が違うため国によって当然違ってくるのです。日本ならば先に述べた徂徠学といった古学は、日本独自解釈の儒学で、こうした古学など日本独自の解釈も影響を受けて折衷した形に朱子学や陽明学も発展していきました。なので、ウェブマガジン「武将ジャパン」のライターたちが良くやってる間違いですが、中国的解釈で幕末日本の陽明学や朱子学、こうした学問に影響を受けた志士や人物を説明し、かつ批評していますがアレは間違いです(苦笑)。ライター自身が漢籍に詳しいと自称していますが、とてもそうとは思えない解説なんだけど……。なので、中国と日本で国は違うけど、同じ学問だから同じ学問解釈でいいだろうと思い込むのは危険。ましてや、儒学は中国発祥なのだから中国で行われてきた解釈理解が正統で正しく、日本での解釈や理解が間違いだという思い込みの元に儒学や幕末期の思想学問を解説するのは大間違いと言えましょう。科挙があった中国と、科挙試験がない日本では儒学解釈が違っていて当然。それが江戸時代初期の鎖国から二百年以上経過して発展してきた幕末期に至ってはm違っていることが当たり前なのです。

 よく初心者が間違うのは、現代の朱子学解説書や陽明学解説書を読み、なるほど江戸時代の学問とはこういうものなのだなと思っていたら、それは明治時代の学問であって江戸時代の学問解釈じゃなかったとか、日本的解釈ではなく中国的解釈で見ていたといったパターンですね。そもそも儒学そのものが現代ではマイナーなために間違いに気づきにくく、間違いに気づかないままで居続けることが多いです。なので、解説書で解説されていても、江戸時代の実例があり、実際に江戸時代にも同様の解釈がされていたかどうかを確かめながら、現代に書かれた解説を読むといった一手間が必要になります。

 まぁ、歴史ライターではなく研究論文を書かれているキチンとした研究者の論文は大丈夫なんですが、歴史雑誌やウェブ記事だけで歴史を論じるのは危ないですよという話でした(苦笑)。最も間違いだらけで危険極まりないのがユーチューブをはじめとするネット動画だけどなと。

 思想学問が幕末史に多大な影響を与えたことは言うまでもありません。儒学と並び国学もまた無視してはいけない江戸期の学問です。特に志士の間で強く支持されたのが平田国学でした。平田国学を創始した平田篤胤を祀る平田神社が、何気に自宅から三駅ぐらいの近場にあることを今更のように知ったので、今日お参りに行って参りました。

 

↑平田神社(東京・代々木)

 

 現在、以前にもお知らせしたとおり、『歴史企画研究叢書11輯』の編集作業を進めている最中ですが、まぁネタバレになってしまうけれども、この号は”国学(思想学問)”に焦点を当てた特集号でした。研究家あさくらゆう先生と最後の史跡巡りとなってしまった去年の今頃3月、車のなかで『歴史企画研究叢書11輯』であさくら先生が目指していたテーマについて語り合っていたのですね。この時、あさくら先生は思想学問が幕末史や当時を生きた人々に与えた影響は非常に大きいと語られ、幕末の人物を語る上で、当時の志士たちが習い覚えた学問知識を得なければ、彼らを論ずることができないと言われていたことが思い出されます。そこで、本書のテーマとして国学が選ばれ、これから国学に関する知識を覚えていく上での注意点や展望などについて、平田国学研究の第一人者たる東京大学名誉教授の宮地正人先生に原稿を依頼したと語っておられたのです。

 私もついに国学の記事を書くか~と思っていたら、先生から与えられたテーマが儒学(朱子学)だった……。まぁ……私は長く武士道を探求しており、儒学道徳と武士道(士道)は密接に関わってますので、結果的に儒学を探求しまくってるという経緯をあさくら先生も知ってたからなぁと(苦笑)。とはいえ、私はこれまでも同シリーズで朱子学や水戸学、陽明学と儒学の記事を書いてきましたからな。ここで私以外の参加著者さんたちには国学を、私が儒学を書けば、バランス良く明治維新期に影響を与えた学問に関する記事が出そろうという感じをあさくら先生は意図していたのだろうと思います。

 

 あさくら先生が死去されてから、私にとっては『歴史企画研究叢書11輯』を世に出すことが使命となりました。それが、あさくら先生との最後の約束ですので。ということで、編集に勤しんでいるところですが、同書に掲載する国学関係の写真が無い(苦笑)……。儒学や水戸学関係の資料写真はならいっぱいあるんだがなぁ~。ということで、とりあえず近場にあって短時間に行ってこれるところの写真ぐらいは撮ってこようと思ったのですね。ということで、平田神社にはじめてのお参りとなりました。

 

↑平田神社

↑平田神社

↑平田神社由緒

 

 先にも記した通り、祭神は国学者平田篤胤です。儒学(朱子学)から派生した水戸学が武士階級の学問であるならば、国学は庶民の間に広まった学問と言えるでしょう。というのも、「忠孝の道」を説く儒学の目指すのは「徳治政治」による平穏な世です。そのために聖人君子を目指し、かつ徳を人の間に広めようとします。つまり、政治と密接な関係があり「平穏な世を作る」あるいは「徳ある人になって世を治める」ための学問。だから帝王学なんですな。支配階級である武士が身に付けるべき学問だったわけです。

 これに対して国学は儒学に対抗する形で成立してきた学問です。元々は『万葉集』や『源氏物語』といった歌や古典文学、俳句など日本古来の文化文芸の技術を深化させていく学問でした。

 

 歌(短歌)や俳句などは、人の心や心情を詠みます。そうした日本独自の文芸には日本古来の精神を知ることが一番だとされ、『万葉集』や『源氏物語』にある歌や文章、その内容の研鑽が学問になっていきます。上手い歌や俳句を詠んだり作ったりするための学問ですね。京都伏見神社の神職荷田春満が創始者となり、弟子の賀茂真淵が『万葉集』などの古典文学から日本古来の精神性を探ろうという学問を深化させていきました。

 後に賀茂真淵は江戸に下り、神田明神社家の芝崎邸内に国学の教場を設けて広めたため、国学は江戸でも根を張って広まりました。東京の神田明神にも碑が建てられております。

↑神田明神

↑神田明神門脇にある碑。拝殿側面にも碑石があります。

 

 この賀茂真淵の弟子に本居宣長がいます。本居宣長は『古事記』の研鑽に励み、大著『古事記伝』を完成させ、日本の神々を体系的に位置づけました。これを本居国学と言います。本居はあくまでも歌など文芸文化のための日本古来の精神を探求研鑽ということで、政治的に動くといったことはなく徳川幕府は支持の立場です。また、歴史に対しては実証主義でもありました。

 しかし、古典文学の最高峰とされた『源氏物語』が、仏教界からは「淫乱の書」とされ、儒学界からは光源氏は天皇の家臣でありながら天皇の女御に手を出す物語であることから「不忠不道徳の書」とし、儒仏二大勢力から「焚書にして抹殺すべき」という排撃にあいます。本居はこれに猛然と反論し、「異国の学問価値観(仏教はインド・儒学は中国)で、日本独自の文芸文化を評価すべきではない」とし、『源氏物語』にある「もののあはれ(悲劇などを哀れむ心)」の心情をそのまま受け取ればいいのであって、仏教道徳や儒教道徳の価値観で批評すべきではない」と主張します。こうして、儒仏道徳と文芸は別であるという考え方が広まりました。以後、道徳の善悪で文芸作品を排撃するのはナンセンスであり、文芸は道徳から自由でなければならないという現代の「表現の自由」にも通じる思想が、江戸時代の国学の中で成立していきます。

 余談ですが、何十年か前に東京都が「青少年育成条例改正」を理由に、漫画に描かれる実在しない架空の登場人物たちのエロエロ描写があれば、架空で実在しない漫画の登場人物であっても実在する人間と同じように扱い、都の職員のチェックの上で”有害図書指定”して流通を制限するという条例を制定させています。実在する人間の人権が守られることは当然のことながら、実在しない架空世界の人間の人権って何だ??。エロ漫画が有害だというのは改正するまでもなく今までもそうだったではないか。実在しない架空の人間の人権を守る暇があるなら、実在する人間の人権を守るのが先だろと。

 早い話が、これまでは「描かれてはならない部位が描かれていたら有害」とされてきたものを、これからは「エロい想像が出来てしままうだけで恣意的に有害とできるようにしたい」と。例えば、「水着の少女の絵」があるだけで、審査員が「エロい想像をしてしまったので有害!」とできるようにしたいという話。ぶっちゃけ、東京都職員の頭の中がピンク色なだけであって、作品そのものはエロくなくても恣意的に有害発禁できるような法整備など改悪という他ない。どこまでが良く、どこまでがダメなのかの線引きを曖昧にするための法改正だったのです。

 このとき、「表現の自由」の観点からコミケットは条例反対を宣言し、私も反対を唱えて東京都に問い合わせています。私が「『源氏物語』も対象になるのか?」と問えば、都の職員は「内容によっては『源氏物語』も有害図書にします」と答えていたことを記憶しています。今、NHKの大河ドラマの主人公は『源氏物語』の著者たる紫式部であり、ドラマ中でも『源氏物語』からのオマージュ的シーンもあります。ドラマ中で花山天皇の寵愛受ける藤原忯子の手に、天皇自らが縄を縛り「緊縛プレイ」を彷彿させる夜寝シーンもありました。私に『源氏物語』も有害図書にと答えていた東京都庁は、今どのような気持ちでNHK大河ドラマを見ているのだろうなと。江戸時代に決着が付いた「表現の自由問題」を現代で”まったく同じ論争”をしている東京都や国会の頭の中は、未だに江戸時代と同じで進歩してねぇなぁと思ったものです。以上、閑話休題。

 

 ということで、日本の独自文化文芸は優れたものであり、異国の宗教や学問の価値観や道徳で評価するなという論陣を張った国学者。その中から、この考え方をさらに発展させて「日本古来の文物こそが優れており、劣っているのは唐モノ(異国の文物)だ」という考え方をしたのが平田篤胤です。平田は本居宣長の没後にその著書に影響を受け、「没後の門人」として本居門人と称しました。実際には本居宣長の長男・二代目の春庭に入門しています。

 本居国学が、あくまでも文芸界に留まったのに対し、平田は神道の宗教的完成を目指しました。というのも、神道は自然崇拝から始まっため、仏教にあるような”死後の世界”に関しての部分がないのですね。人は死んだらどうなるのか?。これに答えられねば宗教として完成しないわけです。神道がキリスト教や仏教に及ばないのはこの面なんですね。仏教なら西国浄土、キリスト教なら天国(あるいはハルマゲドンの後に出現する神の国に生き返る)があり、死後の安住の地になる。ところが神道では「穢れた黄泉の国に行く」というだけ。黄泉の国は『古事記』に記されているように醜女がいるなど、恐ろしい世界というイメージがあり、これでは死ぬ時に恐怖しかない。奈良・平安時代に神道が宗教的成長をする前に仏教が渡来してきてしまったために、神道は死後の世界観を定めることなく、この部分に関しては仏教に任せてしまっていたのです。だから、結婚という目出度い時や作物の豊穣、子供の無事な成長など現世利益的な願いは神道、死ぬ時は仏教でお葬式という文化に日本はなっていったわけで。

 で、平田篤胤はこの部分を完成させ、宗教としての神道を完成させようとして独自の国学に発展していきます。これが平田国学です。つまり、日本の文芸文化だけでなく、すべての面で日本は世界で最も優れた国であり、日本の神々こそ真の神であると。神仏習合では「神は仏が姿を変えて現れたもの」でしたが、平田国学では「仏は神が姿を変えて現れたもの」と主張します。また、唐物(異国の文物)排撃の立場から、「漢字」や漢字をくずして出来た「ひらがな」も批判対象とし、日本の神代に使われていたという日本独自の文字「神代文字」を発見(開発?)し、これを日本人は使うべきだという急進的姿勢を取りました。

 神道での死後の世界に関しても、死人返りして生き返ったという人物の語るところを参考に、死後の世界を設定して神道の宗教化に尽力し、神道的な霊的世界を構築、復古神道という新宗教を完成させていきます。

 このように急進的な国粋主義に走った平田篤胤でしたが、けっして徳川幕府を否定・批判するものではありませんでした。が、古来の日本の姿を至上とすれば、それは天皇親政の古代日本になります。そこから発せられた復古思想・尊王思想と急進的な唐物排撃姿勢の前にさすがに放っておけなくなった幕府は、ついに平田篤胤に江戸追放を言い渡します。また、本居国学派の学者も宣長依頼の実証主義に基づき、霊的な幻想世界を説く平田篤胤を批判排撃しました。

 

 こうして平田国学は江戸を追われ地方に根を張ることになります。それは武士階級ではなく、庶民の間で学問の血脈を保っていく道であり、平田国学は庶民、特に潤沢な資金がある豪農層の文芸(歌や俳句)といった趣味人の世界で広まっていきます。

 実は新選組とも無縁ではないのです。文久元年に近藤勇天然理心流四代目襲名披露の野試合が、武蔵府中の六所宮(現在の大國魂神社)行われました。この六所宮の神主猿渡盛章は歌人であり国学者でした。猿渡は学問修行の頃に平田篤胤に会い、復古神道に傾倒しています。つまり平田国学系に属する宗教家なのですね。こうした人々から近藤勇や土方歳三も国学に入門こそしていませんが、国学に関する知識を仕入れていたであろうと思われるのです。近藤勇の生家や土方歳三の生家も豪農層なのです。

 

↑大國魂神社(武蔵国府跡でもあります)

 

 この平田国学が庶民の知識層の間で広まり、かつ黒船来航によって攘夷開国問題が起こってくると庶民の間から志士になって国事に奔走しようとする者が出てきます。いわゆる草莽の志士というやつです。また、幕末期には江戸に私塾を開いていた平田国学派も学問の普及と攘夷開国問題に関わって、こうした志士のネットワークを作り出していきました。

 尊王攘夷活動は初期には水戸学からはじまりますが、幕末史のなかでこうした平田国学派から出てきた志士とも交わり、影響を受け、水戸学と平田国学の折衷によって志士たちも知的活動をしつつ政治活動を行っていったというわけです。特に平田国学のなかから出てきた思想で重要なものが「一君万民」思想です。一人の天皇の元に人々は皆平等だとする思想で、こうした考え方は支配階級の武士からは出てこない。水戸学の尊王思想にもないんですね。長い間、この「一君万民思想」はどこから出てきたのか不思議で、調べ続けていたのです。ようやく平田国学者平田延胤が著した『復古論』が「一君万民」思想を生み広めたものだとわかりました。

 こうした思想の元で倒幕と王政復古・明治維新が行われ、明治新政府の元で武士階級が解体されて「天皇親政・一君万民」の国家体制になっていきます。ただし、文明開化の元で西洋化しようとする薩長藩閥と唐物排撃を唱えて西洋を毛嫌いする平田国学派は明治政府のなかで上手くいくはずもない。当初は神祇官という祭祀を司る国家機関の下に太政官(政治を司る)が置かれていましたが、早い段階で太政官が上に神祇官は下に機関の上下関係が変わり、かつ神祇官の役を担っていた平田国学派は明治政府から職を解かれて政府内から追いやられていくことになります。

 

 ということで、平田国学派水戸学と双璧をなすと言って良いのだろうと思うほどの影響がありますので、幕末史を知る上では重要な国学なのです。

 

↑お守りを頂きました。

 

 ということで同人誌掲載用の写真を撮影し、せっかくですのでお守りも頂いてきました。でも、史跡巡りで神社やお寺行くたびに、記念にお守りを……という癖は直さないとなぁ(苦笑)。携帯しているお財布の中が神様(お守り)だらけになってきた……(うーむ)。そうそう、御朱印は「神代文字」で書かれるようなので、御朱印コレクションしている人はお参りすべきかと思います(苦笑)。

 

↑配られていた「案内」

今日は、千葉市立郷土博物館の特別展「関東の30年戦争・享徳の乱と千葉氏」を見学してきました。

↑特別展「関東の30年戦争・享徳の乱と千葉氏」図録

 

 中世千葉氏は平安時代から戦国期まで血脈を保った武士です。なので以前にも申し上げた通り、武士道を通史的に知る上で千葉一族を中心に見るのが私流の探求方法だったりします。といっても、千葉氏の研究をしようというのではないです。あくまでも武士道の変転を千葉氏を通じて見たいので、千葉氏そのものの研究は地元の研究者にお任せするのが確実なのです。幸い、千葉県や千葉の人々は千葉氏を愛してやまないので、千葉氏研究は進展を続けています。そうした研究を武士道という思想史探求に利用したいというのが私の本心です。

 

↑千葉市立郷土博物館

 

 上記写真が千葉市立郷土博物館の建物です。千葉城(猪鼻城)跡に立っています。が、千葉城に天守閣はなかったはずなので、この天守閣は”なんちゃって天守”ですね。

 

↑千葉常胤像

 

 やはり中世千葉氏で一番有名なのはこの千葉常胤でしょう。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも登場しました。が、ぶっちゃけ”おいしい所”は全部上総広常にもってかれてしまい、ドラマのなかで活躍したシーンが少ない……実際には三浦一族と同等の勢力を保ち、鎌倉御家人の重鎮として数々の戦いに参加してたのですけども……。ドラマの中盤で「千葉のじーさんはどーした!」「もう死んだ!」というセリフで活躍する場のないまま瞬殺させられてしまい、全国三千万の中世千葉氏ファンが泣いたとか泣かなかったとか……。

 

 

↑売店

↑けんちんうどん

 

 とりあえず見学を始める前に、早めの昼ご飯です。併設されている休憩所的な売店で「けんちんうどん」を頂きました。寒いときに喰うけんちんうどんは最高であります♪。

 ということで、館内は撮影禁止なので展示物をお見せできないのは残念ですが、鎌倉時代から室町時代の千葉氏ゆかりの遺物や発掘された遺物などをパネルの説明とともに見学してきました。

 とにかく、メインは「享徳の乱」ということで室町時代(足利幕府)の関東管領上杉氏と古河(鎌倉)公方の戦いでの房総雄千葉一族の動きです。このとき、千葉一族は関東管領方と古河公方方に割れたあげくに本家が分家に敗れ、嫡流家が崩壊するという千葉家内紛になっていきます。一方は本拠地を佐倉に置いて下総千葉氏、嫡流の遺児は関東管領方に身を寄せて武蔵千葉氏になると。ややこしいのは、この関東管領と古河公方がそれぞれ自分に味方する千葉氏に「千葉家嫡流」を認めたため、千葉家嫡流が二つになってしまい、下総千葉氏と武蔵千葉氏で相争うという展開です。

 享徳の乱から始まる関東争乱が長期化するなか、ふと気が付くと伊豆にいた伊勢早雲という武士が小田原を奪って勢力を拡大、あろうことかかつて関東を支配していた鎌倉幕府の北条を名乗る。一方で房総半島にいる里見一族も勢力を拡大して北上し、房総半島を席巻し始めて……千葉一族はただでさえ一族の内紛と享徳の乱で弱体化しているところに、こうした新勢力の圧迫を受け……という展開です。室町・戦国期の千葉氏がいまいちマイナーなのは、こういうわかり難さもあるわけですね。説明が難しいのです。

 今回の特別展は、まさにこの享徳の乱と千葉氏がテーマなので、専門家の説明とパネル説明文がすべてのっている図録をゲットすることでした。これを参考に自分が説明するときの参考にしようと思ってたわけです。が、やはり”ややこしい”ものは”ややこしい”のが事実なので、ややこしい説明は避けられるはずもなくということで……。まー、そーだよなー。ややこしいからと話を単純化すれば、結果的に史実とは違った話になりかねない。

 というわけで、戦国期の千葉氏を他者に簡単に説明するヒントを得るには至らなかったのですが、自分がかつて史跡巡りしてきた本佐倉城(下総千葉氏本城)や赤塚城(武蔵千葉氏の本城)、志村城(赤塚城支城)、中曽根城(武蔵千葉氏と下総千葉氏の最前線)といった各城も特別展で紹介されている上、まだ自分が史跡巡りしていない千葉氏の城なども紹介されていたので、今後の史跡巡りに大いに利用できそうな展示でした。

 なんにせよ、戦国時代の発端になったと有名な「応仁の大乱」は、足利幕府本体を弱体化させたという意味で西国での戦国時代到来の発端になったことで有名です。が、関東は応仁の乱よりも早くに始まった「享徳の乱」以降は戦乱続きとなります。その意味では関東の戦国時代は享徳の乱からと言っても過言ではないので、この乱に関する書籍や図録が買えたのは大助かりでした。応仁の乱の解説本は多く売られてますが、享徳の乱の解説本は圧倒的に少ないですからのう。

 

 ということで、特別展「関東の30年戦争・享徳の乱と千葉氏」の見学を終え、ついでに千葉城(猪鼻城)の遺構を見学します。

↑千葉城(猪鼻城)説明

↑博物館が建つ本丸から二の丸を遠望

↑二の丸土塁跡

↑二の丸土塁跡にある発掘物説明

 

 今回の特別展でも取り上げられていましたが、これまで通説であった「千葉城(猪鼻城)が昔からの千葉嫡流家本城」という説が、近年の発掘調査や歴史研究の結果覆って15世紀の戦国期に築城されたものであり、戦国期以前の千葉城(千葉家館跡)ではないということが判明とのこと。上記の発掘物説明でも戦国期以前は祭祀の場(埋葬地など)である可能性が高いらしいです。実際、千葉氏の菩提寺でもあった大日寺も、本来はこの近辺にあったということもあります。

 

↑堀切跡

 

 とはいえ、戦国期に城として再整備されて猪鼻城になったということで、土塁などの遺構は戦国期の争乱時築城の面影があります。

 

↑台地上の戦端にある社。見張り台跡とされており、戦国期は城下町から江戸湾(東京湾)が一望できたと言われます。

 

↑猪鼻城址石碑

 

 ここに猪鼻城址の碑石が立っています。ということで、千葉城址(猪鼻城址)をあとにして、次の目的地「千葉神社」へ向かいました。

 

↑千葉神社門

↑千葉神社拝殿

 

 千葉神社は竜宮チックな社殿です。千葉氏の守護神「妙見菩薩」を祀ります。武家の棟梁源氏が八幡大菩薩を守護神にしていますので、それを真似たのか千葉氏は妙見菩薩を守護神にしました。神社の由緒にも平将門と絡んだ物語として千葉氏が登場します。なので、千葉氏の流れをくむ武士は、基本的に妙見信仰になります。幕末期に千葉氏の末裔とされた北辰一刀流の千葉周作や千葉定吉・重太郎父子も妙見菩薩を信仰していました。流派の名前である「北辰」は北斗七星から取った名であり、妙見菩薩は北斗七星を神格化した神仏で、別名として「北辰菩薩」とも言われていました。

 ここで妙見様の御守りを五年ぶりに頂き、次の史跡に向かいます。

 

↑大日寺

 

 千葉氏の菩提寺とも言うべき大日寺です。

 

↑史跡を示す石碑

 

 このお寺には千葉氏初代から16代までの千葉家嫡流のお墓があります。

 

↑歴代千葉氏の墓石群1

 

 元々は、初代とも言うべき千葉常胤は千葉山に葬られたという記録があるので埋葬地ではありません。また、大日寺自体が第二次世界大戦の戦禍によって移動を余儀なくされており、墓石(お墓)のみこちらに移動ということらしいです。刻まれた碑文などは摩耗しきってまったく見えずですが、鎌倉期から室町期の墓石の特徴が良く現れており貴重とされます。

 そんなわけで、碑文がまったく見えないため、どれが誰のお墓なのかはまったくわからないらしいです。

 

↑歴代千葉氏の墓石群2

↑史跡説明

 

 このあと、千葉一族の内紛によって千葉嫡流が二派に分裂、佐倉の下総千葉氏と赤塚の武蔵千葉氏に別れ、本拠も移動してしまうので歴代千葉氏の墓所もそちらに作られていきます。

 

 以上、本日の史跡巡りはここで終了と相成りました。実はここから35分あるけば千葉常胤埋葬地とされる千葉山があるのですが、残念ながら腱膜炎の足が悲鳴をあげつつあったので、片道30分往復で60分以上の徒歩移動は悪化しかねず、断念して駅に向かうということに。

 

↑子供が怖がり、「来ないで-!」と泣け叫んでも無視してやってくるロボットという漫画を見たことがある。

 

 駅前のファミレスでしばし休憩したあと、電車にて帰宅しました。今日の戦果は下記の通り。

↑図録類

 

 いやぁ、さすが千葉市立郷土博物館。千葉氏に関連する書籍が揃っています。とりあえず、今回の特別展図録はもちろん、その他の書籍類もゲットしておきます。

 

 以上、今年最初の博物館見学となりましたが、やはり関東武士を中心に武士道を考察するものとして、坂東武士の名族千葉氏ははずせませんなぁ。

 

↑大日寺にて撮影

 

 もう春も近いということで、お花の写真も撮影。