特別展「関東の30年戦争・享徳の乱と千葉氏」千葉市立郷土博物館 | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

今日は、千葉市立郷土博物館の特別展「関東の30年戦争・享徳の乱と千葉氏」を見学してきました。

↑特別展「関東の30年戦争・享徳の乱と千葉氏」図録

 

 中世千葉氏は平安時代から戦国期まで血脈を保った武士です。なので以前にも申し上げた通り、武士道を通史的に知る上で千葉一族を中心に見るのが私流の探求方法だったりします。といっても、千葉氏の研究をしようというのではないです。あくまでも武士道の変転を千葉氏を通じて見たいので、千葉氏そのものの研究は地元の研究者にお任せするのが確実なのです。幸い、千葉県や千葉の人々は千葉氏を愛してやまないので、千葉氏研究は進展を続けています。そうした研究を武士道という思想史探求に利用したいというのが私の本心です。

 

↑千葉市立郷土博物館

 

 上記写真が千葉市立郷土博物館の建物です。千葉城(猪鼻城)跡に立っています。が、千葉城に天守閣はなかったはずなので、この天守閣は”なんちゃって天守”ですね。

 

↑千葉常胤像

 

 やはり中世千葉氏で一番有名なのはこの千葉常胤でしょう。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも登場しました。が、ぶっちゃけ”おいしい所”は全部上総広常にもってかれてしまい、ドラマのなかで活躍したシーンが少ない……実際には三浦一族と同等の勢力を保ち、鎌倉御家人の重鎮として数々の戦いに参加してたのですけども……。ドラマの中盤で「千葉のじーさんはどーした!」「もう死んだ!」というセリフで活躍する場のないまま瞬殺させられてしまい、全国三千万の中世千葉氏ファンが泣いたとか泣かなかったとか……。

 

 

↑売店

↑けんちんうどん

 

 とりあえず見学を始める前に、早めの昼ご飯です。併設されている休憩所的な売店で「けんちんうどん」を頂きました。寒いときに喰うけんちんうどんは最高であります♪。

 ということで、館内は撮影禁止なので展示物をお見せできないのは残念ですが、鎌倉時代から室町時代の千葉氏ゆかりの遺物や発掘された遺物などをパネルの説明とともに見学してきました。

 とにかく、メインは「享徳の乱」ということで室町時代(足利幕府)の関東管領上杉氏と古河(鎌倉)公方の戦いでの房総雄千葉一族の動きです。このとき、千葉一族は関東管領方と古河公方方に割れたあげくに本家が分家に敗れ、嫡流家が崩壊するという千葉家内紛になっていきます。一方は本拠地を佐倉に置いて下総千葉氏、嫡流の遺児は関東管領方に身を寄せて武蔵千葉氏になると。ややこしいのは、この関東管領と古河公方がそれぞれ自分に味方する千葉氏に「千葉家嫡流」を認めたため、千葉家嫡流が二つになってしまい、下総千葉氏と武蔵千葉氏で相争うという展開です。

 享徳の乱から始まる関東争乱が長期化するなか、ふと気が付くと伊豆にいた伊勢早雲という武士が小田原を奪って勢力を拡大、あろうことかかつて関東を支配していた鎌倉幕府の北条を名乗る。一方で房総半島にいる里見一族も勢力を拡大して北上し、房総半島を席巻し始めて……千葉一族はただでさえ一族の内紛と享徳の乱で弱体化しているところに、こうした新勢力の圧迫を受け……という展開です。室町・戦国期の千葉氏がいまいちマイナーなのは、こういうわかり難さもあるわけですね。説明が難しいのです。

 今回の特別展は、まさにこの享徳の乱と千葉氏がテーマなので、専門家の説明とパネル説明文がすべてのっている図録をゲットすることでした。これを参考に自分が説明するときの参考にしようと思ってたわけです。が、やはり”ややこしい”ものは”ややこしい”のが事実なので、ややこしい説明は避けられるはずもなくということで……。まー、そーだよなー。ややこしいからと話を単純化すれば、結果的に史実とは違った話になりかねない。

 というわけで、戦国期の千葉氏を他者に簡単に説明するヒントを得るには至らなかったのですが、自分がかつて史跡巡りしてきた本佐倉城(下総千葉氏本城)や赤塚城(武蔵千葉氏の本城)、志村城(赤塚城支城)、中曽根城(武蔵千葉氏と下総千葉氏の最前線)といった各城も特別展で紹介されている上、まだ自分が史跡巡りしていない千葉氏の城なども紹介されていたので、今後の史跡巡りに大いに利用できそうな展示でした。

 なんにせよ、戦国時代の発端になったと有名な「応仁の大乱」は、足利幕府本体を弱体化させたという意味で西国での戦国時代到来の発端になったことで有名です。が、関東は応仁の乱よりも早くに始まった「享徳の乱」以降は戦乱続きとなります。その意味では関東の戦国時代は享徳の乱からと言っても過言ではないので、この乱に関する書籍や図録が買えたのは大助かりでした。応仁の乱の解説本は多く売られてますが、享徳の乱の解説本は圧倒的に少ないですからのう。

 

 ということで、特別展「関東の30年戦争・享徳の乱と千葉氏」の見学を終え、ついでに千葉城(猪鼻城)の遺構を見学します。

↑千葉城(猪鼻城)説明

↑博物館が建つ本丸から二の丸を遠望

↑二の丸土塁跡

↑二の丸土塁跡にある発掘物説明

 

 今回の特別展でも取り上げられていましたが、これまで通説であった「千葉城(猪鼻城)が昔からの千葉嫡流家本城」という説が、近年の発掘調査や歴史研究の結果覆って15世紀の戦国期に築城されたものであり、戦国期以前の千葉城(千葉家館跡)ではないということが判明とのこと。上記の発掘物説明でも戦国期以前は祭祀の場(埋葬地など)である可能性が高いらしいです。実際、千葉氏の菩提寺でもあった大日寺も、本来はこの近辺にあったということもあります。

 

↑堀切跡

 

 とはいえ、戦国期に城として再整備されて猪鼻城になったということで、土塁などの遺構は戦国期の争乱時築城の面影があります。

 

↑台地上の戦端にある社。見張り台跡とされており、戦国期は城下町から江戸湾(東京湾)が一望できたと言われます。

 

↑猪鼻城址石碑

 

 ここに猪鼻城址の碑石が立っています。ということで、千葉城址(猪鼻城址)をあとにして、次の目的地「千葉神社」へ向かいました。

 

↑千葉神社門

↑千葉神社拝殿

 

 千葉神社は竜宮チックな社殿です。千葉氏の守護神「妙見菩薩」を祀ります。武家の棟梁源氏が八幡大菩薩を守護神にしていますので、それを真似たのか千葉氏は妙見菩薩を守護神にしました。神社の由緒にも平将門と絡んだ物語として千葉氏が登場します。なので、千葉氏の流れをくむ武士は、基本的に妙見信仰になります。幕末期に千葉氏の末裔とされた北辰一刀流の千葉周作や千葉定吉・重太郎父子も妙見菩薩を信仰していました。流派の名前である「北辰」は北斗七星から取った名であり、妙見菩薩は北斗七星を神格化した神仏で、別名として「北辰菩薩」とも言われていました。

 ここで妙見様の御守りを五年ぶりに頂き、次の史跡に向かいます。

 

↑大日寺

 

 千葉氏の菩提寺とも言うべき大日寺です。

 

↑史跡を示す石碑

 

 このお寺には千葉氏初代から16代までの千葉家嫡流のお墓があります。

 

↑歴代千葉氏の墓石群1

 

 元々は、初代とも言うべき千葉常胤は千葉山に葬られたという記録があるので埋葬地ではありません。また、大日寺自体が第二次世界大戦の戦禍によって移動を余儀なくされており、墓石(お墓)のみこちらに移動ということらしいです。刻まれた碑文などは摩耗しきってまったく見えずですが、鎌倉期から室町期の墓石の特徴が良く現れており貴重とされます。

 そんなわけで、碑文がまったく見えないため、どれが誰のお墓なのかはまったくわからないらしいです。

 

↑歴代千葉氏の墓石群2

↑史跡説明

 

 このあと、千葉一族の内紛によって千葉嫡流が二派に分裂、佐倉の下総千葉氏と赤塚の武蔵千葉氏に別れ、本拠も移動してしまうので歴代千葉氏の墓所もそちらに作られていきます。

 

 以上、本日の史跡巡りはここで終了と相成りました。実はここから35分あるけば千葉常胤埋葬地とされる千葉山があるのですが、残念ながら腱膜炎の足が悲鳴をあげつつあったので、片道30分往復で60分以上の徒歩移動は悪化しかねず、断念して駅に向かうということに。

 

↑子供が怖がり、「来ないで-!」と泣け叫んでも無視してやってくるロボットという漫画を見たことがある。

 

 駅前のファミレスでしばし休憩したあと、電車にて帰宅しました。今日の戦果は下記の通り。

↑図録類

 

 いやぁ、さすが千葉市立郷土博物館。千葉氏に関連する書籍が揃っています。とりあえず、今回の特別展図録はもちろん、その他の書籍類もゲットしておきます。

 

 以上、今年最初の博物館見学となりましたが、やはり関東武士を中心に武士道を考察するものとして、坂東武士の名族千葉氏ははずせませんなぁ。

 

↑大日寺にて撮影

 

 もう春も近いということで、お花の写真も撮影。