平田神社と国学という学問 | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 思想学問が幕末史に多大な影響を与えたことは言うまでもありません。儒学と並び国学もまた無視してはいけない江戸期の学問です。特に志士の間で強く支持されたのが平田国学でした。平田国学を創始した平田篤胤を祀る平田神社が、何気に自宅から三駅ぐらいの近場にあることを今更のように知ったので、今日お参りに行って参りました。

 

↑平田神社(東京・代々木)

 

 現在、以前にもお知らせしたとおり、『歴史企画研究叢書11輯』の編集作業を進めている最中ですが、まぁネタバレになってしまうけれども、この号は”国学(思想学問)”に焦点を当てた特集号でした。研究家あさくらゆう先生と最後の史跡巡りとなってしまった去年の今頃3月、車のなかで『歴史企画研究叢書11輯』であさくら先生が目指していたテーマについて語り合っていたのですね。この時、あさくら先生は思想学問が幕末史や当時を生きた人々に与えた影響は非常に大きいと語られ、幕末の人物を語る上で、当時の志士たちが習い覚えた学問知識を得なければ、彼らを論ずることができないと言われていたことが思い出されます。そこで、本書のテーマとして国学が選ばれ、これから国学に関する知識を覚えていく上での注意点や展望などについて、平田国学研究の第一人者たる東京大学名誉教授の宮地正人先生に原稿を依頼したと語っておられたのです。

 私もついに国学の記事を書くか~と思っていたら、先生から与えられたテーマが儒学(朱子学)だった……。まぁ……私は長く武士道を探求しており、儒学道徳と武士道(士道)は密接に関わってますので、結果的に儒学を探求しまくってるという経緯をあさくら先生も知ってたからなぁと(苦笑)。とはいえ、私はこれまでも同シリーズで朱子学や水戸学、陽明学と儒学の記事を書いてきましたからな。ここで私以外の参加著者さんたちには国学を、私が儒学を書けば、バランス良く明治維新期に影響を与えた学問に関する記事が出そろうという感じをあさくら先生は意図していたのだろうと思います。

 

 あさくら先生が死去されてから、私にとっては『歴史企画研究叢書11輯』を世に出すことが使命となりました。それが、あさくら先生との最後の約束ですので。ということで、編集に勤しんでいるところですが、同書に掲載する国学関係の写真が無い(苦笑)……。儒学や水戸学関係の資料写真はならいっぱいあるんだがなぁ~。ということで、とりあえず近場にあって短時間に行ってこれるところの写真ぐらいは撮ってこようと思ったのですね。ということで、平田神社にはじめてのお参りとなりました。

 

↑平田神社

↑平田神社

↑平田神社由緒

 

 先にも記した通り、祭神は国学者平田篤胤です。儒学(朱子学)から派生した水戸学が武士階級の学問であるならば、国学は庶民の間に広まった学問と言えるでしょう。というのも、「忠孝の道」を説く儒学の目指すのは「徳治政治」による平穏な世です。そのために聖人君子を目指し、かつ徳を人の間に広めようとします。つまり、政治と密接な関係があり「平穏な世を作る」あるいは「徳ある人になって世を治める」ための学問。だから帝王学なんですな。支配階級である武士が身に付けるべき学問だったわけです。

 これに対して国学は儒学に対抗する形で成立してきた学問です。元々は『万葉集』や『源氏物語』といった歌や古典文学、俳句など日本古来の文化文芸の技術を深化させていく学問でした。

 

 歌(短歌)や俳句などは、人の心や心情を詠みます。そうした日本独自の文芸には日本古来の精神を知ることが一番だとされ、『万葉集』や『源氏物語』にある歌や文章、その内容の研鑽が学問になっていきます。上手い歌や俳句を詠んだり作ったりするための学問ですね。京都伏見神社の神職荷田春満が創始者となり、弟子の賀茂真淵が『万葉集』などの古典文学から日本古来の精神性を探ろうという学問を深化させていきました。

 後に賀茂真淵は江戸に下り、神田明神社家の芝崎邸内に国学の教場を設けて広めたため、国学は江戸でも根を張って広まりました。東京の神田明神にも碑が建てられております。

↑神田明神

↑神田明神門脇にある碑。拝殿側面にも碑石があります。

 

 この賀茂真淵の弟子に本居宣長がいます。本居宣長は『古事記』の研鑽に励み、大著『古事記伝』を完成させ、日本の神々を体系的に位置づけました。これを本居国学と言います。本居はあくまでも歌など文芸文化のための日本古来の精神を探求研鑽ということで、政治的に動くといったことはなく徳川幕府は支持の立場です。また、歴史に対しては実証主義でもありました。

 しかし、古典文学の最高峰とされた『源氏物語』が、仏教界からは「淫乱の書」とされ、儒学界からは光源氏は天皇の家臣でありながら天皇の女御に手を出す物語であることから「不忠不道徳の書」とし、儒仏二大勢力から「焚書にして抹殺すべき」という排撃にあいます。本居はこれに猛然と反論し、「異国の学問価値観(仏教はインド・儒学は中国)で、日本独自の文芸文化を評価すべきではない」とし、『源氏物語』にある「もののあはれ(悲劇などを哀れむ心)」の心情をそのまま受け取ればいいのであって、仏教道徳や儒教道徳の価値観で批評すべきではない」と主張します。こうして、儒仏道徳と文芸は別であるという考え方が広まりました。以後、道徳の善悪で文芸作品を排撃するのはナンセンスであり、文芸は道徳から自由でなければならないという現代の「表現の自由」にも通じる思想が、江戸時代の国学の中で成立していきます。

 余談ですが、何十年か前に東京都が「青少年育成条例改正」を理由に、漫画に描かれる実在しない架空の登場人物たちのエロエロ描写があれば、架空で実在しない漫画の登場人物であっても実在する人間と同じように扱い、都の職員のチェックの上で”有害図書指定”して流通を制限するという条例を制定させています。実在する人間の人権が守られることは当然のことながら、実在しない架空世界の人間の人権って何だ??。エロ漫画が有害だというのは改正するまでもなく今までもそうだったではないか。実在しない架空の人間の人権を守る暇があるなら、実在する人間の人権を守るのが先だろと。

 早い話が、これまでは「描かれてはならない部位が描かれていたら有害」とされてきたものを、これからは「エロい想像が出来てしままうだけで恣意的に有害とできるようにしたい」と。例えば、「水着の少女の絵」があるだけで、審査員が「エロい想像をしてしまったので有害!」とできるようにしたいという話。ぶっちゃけ、東京都職員の頭の中がピンク色なだけであって、作品そのものはエロくなくても恣意的に有害発禁できるような法整備など改悪という他ない。どこまでが良く、どこまでがダメなのかの線引きを曖昧にするための法改正だったのです。

 このとき、「表現の自由」の観点からコミケットは条例反対を宣言し、私も反対を唱えて東京都に問い合わせています。私が「『源氏物語』も対象になるのか?」と問えば、都の職員は「内容によっては『源氏物語』も有害図書にします」と答えていたことを記憶しています。今、NHKの大河ドラマの主人公は『源氏物語』の著者たる紫式部であり、ドラマ中でも『源氏物語』からのオマージュ的シーンもあります。ドラマ中で花山天皇の寵愛受ける藤原忯子の手に、天皇自らが縄を縛り「緊縛プレイ」を彷彿させる夜寝シーンもありました。私に『源氏物語』も有害図書にと答えていた東京都庁は、今どのような気持ちでNHK大河ドラマを見ているのだろうなと。江戸時代に決着が付いた「表現の自由問題」を現代で”まったく同じ論争”をしている東京都や国会の頭の中は、未だに江戸時代と同じで進歩してねぇなぁと思ったものです。以上、閑話休題。

 

 ということで、日本の独自文化文芸は優れたものであり、異国の宗教や学問の価値観や道徳で評価するなという論陣を張った国学者。その中から、この考え方をさらに発展させて「日本古来の文物こそが優れており、劣っているのは唐モノ(異国の文物)だ」という考え方をしたのが平田篤胤です。平田は本居宣長の没後にその著書に影響を受け、「没後の門人」として本居門人と称しました。実際には本居宣長の長男・二代目の春庭に入門しています。

 本居国学が、あくまでも文芸界に留まったのに対し、平田は神道の宗教的完成を目指しました。というのも、神道は自然崇拝から始まっため、仏教にあるような”死後の世界”に関しての部分がないのですね。人は死んだらどうなるのか?。これに答えられねば宗教として完成しないわけです。神道がキリスト教や仏教に及ばないのはこの面なんですね。仏教なら西国浄土、キリスト教なら天国(あるいはハルマゲドンの後に出現する神の国に生き返る)があり、死後の安住の地になる。ところが神道では「穢れた黄泉の国に行く」というだけ。黄泉の国は『古事記』に記されているように醜女がいるなど、恐ろしい世界というイメージがあり、これでは死ぬ時に恐怖しかない。奈良・平安時代に神道が宗教的成長をする前に仏教が渡来してきてしまったために、神道は死後の世界観を定めることなく、この部分に関しては仏教に任せてしまっていたのです。だから、結婚という目出度い時や作物の豊穣、子供の無事な成長など現世利益的な願いは神道、死ぬ時は仏教でお葬式という文化に日本はなっていったわけで。

 で、平田篤胤はこの部分を完成させ、宗教としての神道を完成させようとして独自の国学に発展していきます。これが平田国学です。つまり、日本の文芸文化だけでなく、すべての面で日本は世界で最も優れた国であり、日本の神々こそ真の神であると。神仏習合では「神は仏が姿を変えて現れたもの」でしたが、平田国学では「仏は神が姿を変えて現れたもの」と主張します。また、唐物(異国の文物)排撃の立場から、「漢字」や漢字をくずして出来た「ひらがな」も批判対象とし、日本の神代に使われていたという日本独自の文字「神代文字」を発見(開発?)し、これを日本人は使うべきだという急進的姿勢を取りました。

 神道での死後の世界に関しても、死人返りして生き返ったという人物の語るところを参考に、死後の世界を設定して神道の宗教化に尽力し、神道的な霊的世界を構築、復古神道という新宗教を完成させていきます。

 このように急進的な国粋主義に走った平田篤胤でしたが、けっして徳川幕府を否定・批判するものではありませんでした。が、古来の日本の姿を至上とすれば、それは天皇親政の古代日本になります。そこから発せられた復古思想・尊王思想と急進的な唐物排撃姿勢の前にさすがに放っておけなくなった幕府は、ついに平田篤胤に江戸追放を言い渡します。また、本居国学派の学者も宣長依頼の実証主義に基づき、霊的な幻想世界を説く平田篤胤を批判排撃しました。

 

 こうして平田国学は江戸を追われ地方に根を張ることになります。それは武士階級ではなく、庶民の間で学問の血脈を保っていく道であり、平田国学は庶民、特に潤沢な資金がある豪農層の文芸(歌や俳句)といった趣味人の世界で広まっていきます。

 実は新選組とも無縁ではないのです。文久元年に近藤勇天然理心流四代目襲名披露の野試合が、武蔵府中の六所宮(現在の大國魂神社)行われました。この六所宮の神主猿渡盛章は歌人であり国学者でした。猿渡は学問修行の頃に平田篤胤に会い、復古神道に傾倒しています。つまり平田国学系に属する宗教家なのですね。こうした人々から近藤勇や土方歳三も国学に入門こそしていませんが、国学に関する知識を仕入れていたであろうと思われるのです。近藤勇の生家や土方歳三の生家も豪農層なのです。

 

↑大國魂神社(武蔵国府跡でもあります)

 

 この平田国学が庶民の知識層の間で広まり、かつ黒船来航によって攘夷開国問題が起こってくると庶民の間から志士になって国事に奔走しようとする者が出てきます。いわゆる草莽の志士というやつです。また、幕末期には江戸に私塾を開いていた平田国学派も学問の普及と攘夷開国問題に関わって、こうした志士のネットワークを作り出していきました。

 尊王攘夷活動は初期には水戸学からはじまりますが、幕末史のなかでこうした平田国学派から出てきた志士とも交わり、影響を受け、水戸学と平田国学の折衷によって志士たちも知的活動をしつつ政治活動を行っていったというわけです。特に平田国学のなかから出てきた思想で重要なものが「一君万民」思想です。一人の天皇の元に人々は皆平等だとする思想で、こうした考え方は支配階級の武士からは出てこない。水戸学の尊王思想にもないんですね。長い間、この「一君万民思想」はどこから出てきたのか不思議で、調べ続けていたのです。ようやく平田国学者平田延胤が著した『復古論』が「一君万民」思想を生み広めたものだとわかりました。

 こうした思想の元で倒幕と王政復古・明治維新が行われ、明治新政府の元で武士階級が解体されて「天皇親政・一君万民」の国家体制になっていきます。ただし、文明開化の元で西洋化しようとする薩長藩閥と唐物排撃を唱えて西洋を毛嫌いする平田国学派は明治政府のなかで上手くいくはずもない。当初は神祇官という祭祀を司る国家機関の下に太政官(政治を司る)が置かれていましたが、早い段階で太政官が上に神祇官は下に機関の上下関係が変わり、かつ神祇官の役を担っていた平田国学派は明治政府から職を解かれて政府内から追いやられていくことになります。

 

 ということで、平田国学派水戸学と双璧をなすと言って良いのだろうと思うほどの影響がありますので、幕末史を知る上では重要な国学なのです。

 

↑お守りを頂きました。

 

 ということで同人誌掲載用の写真を撮影し、せっかくですのでお守りも頂いてきました。でも、史跡巡りで神社やお寺行くたびに、記念にお守りを……という癖は直さないとなぁ(苦笑)。携帯しているお財布の中が神様(お守り)だらけになってきた……(うーむ)。そうそう、御朱印は「神代文字」で書かれるようなので、御朱印コレクションしている人はお参りすべきかと思います(苦笑)。

 

↑配られていた「案内」