陽明学等の江戸時代思想学問を論ずる際の注意点 | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 いやいや、プログ更新が滞って申し訳ない。しかし、そのかわりに新刊同人誌の作成作業はガンガン進んでおりますので(苦笑)。まー、私がプログ書く時は、それこそ書く内容についてガッツリ調べた上で書く&出し惜しみせずに1記事に1テーマでまとめ、続き物にしない(「武士道論」のように日本史全体を扱う通史の場合は、各時代各テーマごとに分割はしますけども)ようにしています。なので、時間も掛かるわけで。そのプログに掛ける時間を新刊同人誌作成の方に廻しているとき、当然のようにプログ更新が止まるわけですハイ。

 で、ようやく新刊のなかで最大の記事になるであろう宮地先生の原稿テキスト化が完了しました。このあと、各執筆者の皆様とやり取りし、校正チェックを経て印刷へ。今回は今までのように安上がりなコピー本ではなく、幕末ヤ撃団では数年振りのオフセット印刷本として量産ということになります。今のところ、製作は順調に進んでおりますので乞うご期待ください。

 

 ということで、今回は同人誌作成の合間に頭に浮かんだ小ネタを書いていこうと思います。

 

↑江戸・佐久間象山塾跡

↑案内版

 

 さて、一応書いておかねばと思っていたのは「陽明学」という学問について。前回、水戸学は陽明学ではないという話をさせていただきました。そこでは触れなかった”江戸時代の陽明学者について”少々書いておかねばと思った次第です。

 で、「陽明学」に限らず「朱子学」も「水戸学」も同様ですが、こうした学問を専門とする江戸時代の学者は、正しくは「儒学者(漢学者)」です。つまり、陽明学者とか朱子学者、水戸学者と名乗っている学者は基本的にはいません(爆)。むしろ、陽明学者とか朱子学者、とりわけ水戸学者は「水戸学」という学問名すら嫌って認めていません。なぜか?。彼らはみな、自分の学問を「孔子より始まる正統な儒学」と考えているからです。だから、自分は「儒学者である」という立場です。水戸学者の場合、水戸学(水府の学)という名称は、まるで”水戸という一部地域の方言的な学問”と見られるのを嫌っており、かつ天保学(水戸学の別名)という名称も、天保年間に作られた学問という意味になり、孔子の学問とは違う学問と受け止められるため嫌います。彼らは孔子の学問を正しく継承したという意味で儒学者であることを誇りにしていますから。

 つまり、我々”現代人”が、便宜上”陽明学者・朱子学者・水戸学者”と区別して使っているだけなんですね。そうしないと、儒学者だといっても、それが陽明学的なのか、朱子学的なのか、はたまた水戸学的なのかわからんので。さらに言えば、荻生徂徠の徂徠学(古文辞学)や伊藤仁斎の古義学も加わってきます。これらも儒学ですが、徂徠や仁斎は陽明学や朱子学の解釈を廃し、『論語』や『孟子』などの経書に立ち返って、正しく解釈し直そうという古学派という学問になります。兵学者である山鹿素行も同様に古学派の祖です。彼等はみな独自の学派をひらいていきますが、みんな厳密には「儒学者」になります。これだと、学問学派の違いがわからないため、現代の研究者は便宜上、陽明学を最も重視する儒学者を”陽明学者”という形で便宜上呼び分けているわけです。

 

 さらにややこしいのは、こうした儒学は明治維新後に官民一体となって行われた日本人の意識改革”文明開化”によって、滅んではいませんが衰退してしまったこと。これは武士道も同様です。衰退してしまうと、今度はその反動が起こってくる。明治十五年から二十年代に発せられた教育勅語や軍人勅諭など、天皇から発せられたお言葉が儒学道徳的だったところから儒学や武士道精神の見直されるようになります。これは文明開化政策によって西洋は文明的で日本は野蛮、洋学に偏った価値観から脱却し、日本の良さも認めていこうという運動でした。明治初年度の西洋偏重の反動でもあったでしょう。ここから、儒学や武士道が見直され、日清日露戦争で勝利を得た明治三十年代頃に最高潮に達していきます。新渡戸稲造の『武士道』もこの頃に書かれ読まれた明治武士道書の一つで、他にも多くの武士道書が書かれています。

 このような日本武士道の復興復活は、西洋人・白人にも日本人は負けてはいない。対等だという自信と共にあります。そして、西洋哲学に対抗する意味で、日本的哲学としての武士道が、キリスト教道徳に対比する形で儒学道徳が見直されます。朱子学はもちろんですが、特に「心学」に特化していた陽明学が「良知」という良心を根幹とする道徳理論だったことで、キリスト教道徳に引けを取らない道徳として注目され、西洋哲学や道徳同様に学問として認識されるようになっていきます。

 つまり、江戸時代であれば儒学のなかのひとつの解釈でしかなかった”陽明の学”が、陽明学として独立した哲学になっていったわけです。が、先にも記した通り、江戸時代に陽明学者という存在は基本的にはいません。陽明学を重視するが朱子学にも精通する儒学者がいただけなんですね。これだと明治中期にようやくひとつの学問として独立したのに、誇るべき陽明学者や紹介すべき日本での陽明学の功績が説明できない。で、明治時代に陽明学を広め普及しようとした人々の手によって、明治維新の志士や江戸時代の学者で、陽明学書を読んでいた人間を”片っ端から陽明学者あるいは陽明学を体現した人物”にして紹介してしまった。これが混乱に拍車を掛けてまして、現在江戸時代の陽明学者あるいは明治維新に活躍した志士とされている人物のなかに、陽明学者でも何でもないのに陽明学から多大な影響を受けたことにされた人々が多くいます。

 

 例えば佐久間象山。彼は朱子学と陽明学の二刀流で「陽朱陰王」とも言われた佐藤一斎門下です。山田方谷と合わせて「佐門の二傑」とまで言われましたが、方谷と違って陽明学を徹底的に嫌い、朱子学を正学と定めていた人物でした。それこそ師である一斎に対して、陽明学は習いたくないと言い放って授業拒否するほどで、これは終生変わっていません。後に蘭学を習い、西洋砲学や西洋科学にも精通するようになるのですが、これも朱子学流の「格物致知(物事の理を極めることで知を極める)」に従った結果そうなったわけです。(物事のことわり)は、西洋で考えれば学ですから。今でも「理科」という科目があるぐらいで。

 そんなわけで、佐久間象山は徹底して朱子学でした。陽明学は徹底的に嫌い、排撃までしている。にもかかわらず、「陽朱陰王」佐藤一斎の弟子だったこと。幕末期には活動的に行動した学者だったことから、その行動が一見「知行合一」的行動に見えたことを理由に、明治期に江戸時代の代表的陽明学者として佐久間象山が加えられてしまったらしい(汗)。その佐久間象山から教えを受けていた吉田松陰や、吉田松陰の弟子たる高杉晋作も非常に行動的だったために、これまた”陽明学の知行合一の教えを受けた”のだろうという思い込みで、陽明学者や陽明学の影響を受けた人物とされ、同様に十中八九、西郷隆盛や渋沢栄一、もっと言えば山田方谷や河井継之助も陽明学の影響を受けていたというだけで陽明学の徒とされています。が、彼らは陽明学だけでなく朱子学や他の学問の影響も同様に受けた上で自ら考え、行動した人物だったはずです。

 このように、各学問の良いとこ取りして使うことを折衷学派とも言いますが、江戸時代の学問は基本的に折衷学しかないと言って良いほどですので、まず陽明学だけを重視する儒学者や志士はいないと思って良いだろうと。

 なので、ときどき幕末史の本や解説などに「陽明学者」とか「陽明学の影響を受けた」といった文章を見かけますが、陽明学に関して言えば、陽明学だけ習った人はいないので他の学問の影響も同様に受けた人物と考えた方が良いでしょう。

 たとえば、西郷隆盛は江戸時代の代表的陽明学者とされる大塩平八郎の書『洗心洞劄記』や佐藤一斎の『言志四禄』を読み、陽明学の影響を受けたとされています。しかし、佐藤一斎は陽明学だけでなく朱子学の理論も採用していますし、比較的陽明学的だった大塩平八郎でさえ陽明学の「知行合一」と朱子学の「先知後行」について、「知行を後先に分けるようだが、ものごとはまず知ることに始まり、それを行うことで知に到達するのである。ようするに知るところを行い、行うことで本当の知となるのだ」と「知行合一」を説明しています。であれば、朱子学の「先知後行(先に知り、後に行動する)」となんら変わらないんですね。よく浅はかな歴史ライターが「知行合一」だから「思ったら即行動→だから暗殺テロも乱・戦争も衝動的に起こす」という説明を書いてますが、まったく間違った説明です。西郷隆盛もこうした学問の影響を受けていたのであれば、同様に「知行合一」「致良知」と言えども、思い付きや衝動的に戦争をするという思考はしていなかったと思われるわけです。幕末の志士活動家と言っても人間です。人間は考える生き物ですから。

 

↑佐藤一斎が官儒として勤めた幕府の昌平坂学問所と並ぶ儒学の聖地「湯島聖堂」

 

 また、このように衰退した後に明治時代に再び復活してくる儒学は、文明開化で西洋文化文明を受け入れた日本人にも適用できるものになっています。江戸時代には実学が重視され、虚学とされた儒学のなかの心学(良心などの心を解明する学)は重視されていない。これが明治期は西洋哲学と対抗する意味で心学が重視されるようになってきます。陽明学が注目されたのも、この陽明学の心学が特徴的だったからです。従って、明治期を経た現代日本でも、このように明治期に時代にあった学問解釈を踏襲する思想学問も多いです。特に武士道は明治以降の忠君愛国武士道が、一度は占領軍たるGHQによって衰退させられたあと、戦後に復活した形のために明治期に作られた忠君愛国武士道が、江戸時代以前からある古来からの伝統的武士道とされて紹介されています。が、江戸時代以前に「御家のために命を捨てる武士」はいますが、「国のために命を捨てる武士」は居ません。大名は”国替え”されるもの(大名の鉢植え)でしたからね。領国・支配地は変わるものだったのです。
 このように武士道だけで無く、明治期に復興してきた儒学、陽明学や朱子学も同様のことが言えます。このあたりが、江戸時代の学問史を論ずる際の歴史に仕掛けられた罠みたいな感じになってますので注意しなければならないところなのです。

 さらに儒学は中国と日本で解釈が違って発展したため、その解釈が中国や韓国と日本で違います。経書が同じなので似通ってはいるものの、文化や伝統、生活習慣が違うため国によって当然違ってくるのです。日本ならば先に述べた徂徠学といった古学は、日本独自解釈の儒学で、こうした古学など日本独自の解釈も影響を受けて折衷した形に朱子学や陽明学も発展していきました。なので、ウェブマガジン「武将ジャパン」のライターたちが良くやってる間違いですが、中国的解釈で幕末日本の陽明学や朱子学、こうした学問に影響を受けた志士や人物を説明し、かつ批評していますがアレは間違いです(苦笑)。ライター自身が漢籍に詳しいと自称していますが、とてもそうとは思えない解説なんだけど……。なので、中国と日本で国は違うけど、同じ学問だから同じ学問解釈でいいだろうと思い込むのは危険。ましてや、儒学は中国発祥なのだから中国で行われてきた解釈理解が正統で正しく、日本での解釈や理解が間違いだという思い込みの元に儒学や幕末期の思想学問を解説するのは大間違いと言えましょう。科挙があった中国と、科挙試験がない日本では儒学解釈が違っていて当然。それが江戸時代初期の鎖国から二百年以上経過して発展してきた幕末期に至ってはm違っていることが当たり前なのです。

 よく初心者が間違うのは、現代の朱子学解説書や陽明学解説書を読み、なるほど江戸時代の学問とはこういうものなのだなと思っていたら、それは明治時代の学問であって江戸時代の学問解釈じゃなかったとか、日本的解釈ではなく中国的解釈で見ていたといったパターンですね。そもそも儒学そのものが現代ではマイナーなために間違いに気づきにくく、間違いに気づかないままで居続けることが多いです。なので、解説書で解説されていても、江戸時代の実例があり、実際に江戸時代にも同様の解釈がされていたかどうかを確かめながら、現代に書かれた解説を読むといった一手間が必要になります。

 まぁ、歴史ライターではなく研究論文を書かれているキチンとした研究者の論文は大丈夫なんですが、歴史雑誌やウェブ記事だけで歴史を論じるのは危ないですよという話でした(苦笑)。最も間違いだらけで危険極まりないのがユーチューブをはじめとするネット動画だけどなと。