2024お花見と会津戦争での松平容保処分の謎 | 幕末ヤ撃団

幕末ヤ撃団

勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

↑神田川の桜並木

 

 昨日、夜桜花見を行ってきました。去年に比べて今年の桜は咲くのがやたら遅かった。去年は三月の終わり頃にもう咲いていたが、今年は四月の頭はまだつぼみで、今週に入ってようやく咲いたという感じ。咲いた時点でもう葉が出てしまって、満開だが葉桜だというのが残念。

 さらに残念は続き、コロナ流行直前で死去してしまった親友大久保氏に研究家あさくらゆう先生が加わった形での追悼花見でもあります。大久保氏は私が就職で東京に出てきたその日から知り合いで、何でも相談できる間柄で、コミケで幕末ヤ撃団ブースの手伝いなどもしてもらっていた人です。研究家あさくらゆう先生は言うまでもなく歴史研究に関し、色々と助言を頂いたり歴史調査を手伝ったり、手伝って貰ったりと非常に仲良くさせて頂きました。

 両人ともコロナ流行の前後で他界され、ようやく普通に花見ができるというのにご一緒して歴史談議に花を咲かせられないのが無念で仕方がない花見です。さらに大久保氏やあさくら先生と並ぶ大親友のK氏も二度目の脳卒中によって命は取り留めたものの、介添えなしでは家の外に出られない状態で身障者となってしまって花見には出てこれず。幕末ヤ撃団の仲間のなかで、五体満足なのが私一人というサークル運営の危機でもあります。

 コロナ前までは、この花見で歴史談議する楽しい会だったのですけども、だんだん友人に思いを馳せる慰霊の会みたいになってきちゃったなぁ~と。一人で飲んでたから会でも何でもないですけども(汗)。

 

↑夜桜

 

 私に花を愛でる趣味はまったくといっていいほど無いんですが、この藍色の空の夜桜は綺麗だと思わずにはいられない。これ見たさで一人でも花見に出向く気になるというわけで。まぁ、この花見会場が近所の上に、隠れた花見の名所ということで場所取りをせずとも楽に場所が取れるので、花見に対する気軽さもありますが。

 ともあれあさくら先生の癌というヤツは、ある意味で防ぎようがなく、早期発見以外に助かる手はないからやむを得ない面もありますが、大久保氏やK氏はメタボリックシンドロームが主原因かと思われます。メタボだと油断してると史跡巡りもできない体になってしまうことをしみじみと感じました。もっとも、近年はデジタルアーカイブが充実し、インターネットができれば多くの史料を見ることができますので、無理に現地に赴かなくても歴史研究はできます。このあたりが、私とあさくら先生の姿勢の違いでもありまして、あさくら先生は現地主義で新発見をしちゃう人ですが、私の方は新発見よりは”なぜそうなった?”という歴史論に重点を置いているため、まだ誰も見ていない新史料というよりは、すでにある史料の再精査して、新しい歴史の見方を提示するのが主となります。なので、必ずしも現地主義ではないんですね。人の考えの歴史たる思想史はテキスト史料があってナンボ。史跡や遺物を眺めていても、史跡や遺物は人間の考えを語ることありません。人間の考えや思いは、日記史料や文書書簡史料に綴られていますので、こうしたテキスト(文字)史料を読み説き、新しい解釈を提示するというのが重要ではないかと思うわけです。

 もちろん、現地に赴いて新しい事実を発見することがすべての基礎ですので、そちらも重要なのですけども。

 

↑大久保さんとあさくら先生にもお酒をということで。

 

 この後、両人の冥福をお祈りして杯のお酒を神田川へ……。

 

 

 完全に暗くなって夜桜が映えます。さて、ここで歴史の小ネタでもということで、今回は会津戦争に関することを述べようと思います。私は近年は関東を中心に歴史探究しようと考えていますので、東北会津藩は範疇外と思い定めてあまり論じないようにしていました。が、それ以前は割と東北戦争や会津戦争に関して調べまくっていたので、多少は知識があります。

 以前から会津戦争と言えば、「会津死謝」を叫ぶ長州藩世良修蔵が暗殺されて白河戦争が始まり、会津鶴ヶ城の降伏開城で終わるというストーリーが定着しているわけです。ドラマでも会津藩主だった松平容保が鶴ヶ城開城して戦争は終わったという描き方です。会津戦争の解説一般書もそんな感じのものが多いのですが、謎なのは「会津死謝」なのに、元藩主松平容保(会津戦争直前に隠居して藩主は松平喜徳になっている)は処刑されていないという事実です。

 

 そもそもこの会津死謝という方針は、よく「薩長が会津藩を恨み」決定されたものとされていますが、長州藩はともかく薩摩藩に会津藩を恨む理由はないんですね。一時は会薩同盟を結んでたほどの協力関係だったのですから。『戊辰役戦史』で著者の大山柏は会津死謝方針決定の経緯を記しています。

 

 なお今一つ述べておかねばならぬ重要な案件がある。それは奥羽総督に沢三位が任命された。まだ九条任命以前のことである。総督府は鎮撫に当たり、会津と荘内(酒井)とは如何ように措置すべきかとのお伺いを、予め二月十六日付をもって大総督府に提出した。同日有栖川宮はすでに大津に進まれておったが、翌十七日をもってその答信が発せられた。それによると「会津は実々死謝を以ての外に之れなく、松山、高松などとは同日の論には之れなく候。酒井においては松山、高松同様の御取計らい死然るべしと存じ候」と明瞭に指示している。面して、この十六、十七日頃大総督府におった下参謀は林通顕一人だけで、西郷隆盛は遠く名古屋に在って、十七日には先遣兵団と東下している。以上の指令は下参謀たる林の負うべき責任であり、寛典論者西郷が合議してないために「会津は死謝」と強硬な回答をしたのである。これが奥羽総督府の根本方針になるのだから、その後現地でいくら謝罪しても承知できず、ついに以下に述べるような大変乱を惹起してしまったのである。(『戊辰役戦史 上』大山柏著一七七頁)

 

 林通顕は伊予宇和島藩士で薩長人ではありません。京都留守居として勤王派と交わってはいたが、会津藩を目の敵にするほどの理由は伊予宇和島藩はもちろん彼にもないはずです。私が思うに、「天地入れざる朝敵」という尊王派の一般認識のまま深い考えもなく、天皇に逆らったら処刑という安易な思考の元、形式的に軽く出した命令に思えてなりません。

 奥羽鎮撫使の世良修蔵は、この大総督府からの命令を実現させる責務にあるのだから、頑なに会津の謝罪を拒否し続けた。何しろ彼は大総督府の命令に逆らう権限を持っていないのだからです。

 個人的には、窮した世良が「奥羽皆敵」と見て、大総督府から大援軍出させようとし、それをさせんとして仙台藩が世良を暗殺してしまうのだが、むしろ世良を江戸の大総督府に行かせてしまった方が会津藩にとっては良かったかと思います。この時、大総督府は上野彰義隊三千に対して、江戸の官軍二千しかなく、北関東や房総半島にも大鳥脱走軍三千や徳川義軍府二千があって対応に追われていました。江戸近郊に佐幕派約八千に対し江戸の官軍はたったの二千。とにかく兵力が足りなさすぎなんですね。

 世良が江戸に来て「奥羽諸藩を攻めるだけの大兵力をくれ」と言ったところで、無い袖は振れない。奥羽皆敵と見て戦えるだけの兵力など無いと世良の要請はあっけなく蹴っ飛ばされただろうと。となれば、大総督府の定めた「会津死謝」の方針を改めて、仙台藩主導の会津寛典論で行く他ない。大総督府命令を改められるのは大総督府なのだから、世良が江戸で大総督府の西郷隆盛に相談を持ち込めば、案外会津戦争は避けられたのではなかろうかと思うわけです。

 まぁ、これは「もしも論」だから私の身勝手な想像でしかないのだけれども。

 

 結局のところ会津戦争は勃発して明治元年九月二十二日に降伏。会津恨んでいた長州藩士たちが軍門に降った松平容保の命を奪うのかと言えば、ぶっちゃけまったく逆の行動を起すのですね。新政府軍の総力を相手に一藩で戦い抜いた会津藩はさすが会津だという評価になり、逆に仙台米沢藩は自身の領地に踏み込まれる前に降伏した仙台米沢は武士らしくないという話し。

 ぶっちゃけ、この時に会津藩と戦った薩長将兵は皆「会津同情論」になってしまったと。

 しかし、依然として「会津死謝の方針撤回」が宣言されたわけではないわけで、この命令を撤回しないことには容保の命はないわけで。

 会津藩降伏開城後、松平容保は東京へ護送され十一月三日に東京に到着。そして、十二月七日に詔が下って会津死謝は一気に吹っ飛びます。この詔は別の意味で重要なものかと思います。

 

詔書

 賞罰ハ天下之大典、朕一人之私スヘキニ非ス、宜ク天下之衆議ヲ集メ、至正公平、毫釐モ誤リ無キニ決スヘシ、今松平容保ヲ始メ、伊達慶邦等ノ如キ、百官将士ヲシテ議セシムルニ、各小異同アリト雖、其罪均シク逆科ニアリ、宜ク厳刑ニ處スヘシ、就中、容保ノ罪天人共ニ怒ル所、死尚余罪アリト奏ス、朕、熟ラ之ヲ按スルニ、政教世ニ洽ク、名義人心ニ明ナレハ、固ヨリ乱臣賊子無ルヘシ、今ヤ、朕、不徳ニシ教化ノ道未タ立タス、加之、七百年來紀綱不振、名義乖乱、弊習之由テ来ル所久シ、抑容保ノ如キハ門閥ニ長シ、人爵ヲ假有スル者、今日逆謀、彼一人ノ為ス所ニ非ス、必首謀ノ臣アリ、朕、因テ斷シテ曰、其ノ実ヺ推テ、其ノ名ヲ怒シ、其情ヲ憐ンテ、其法ヲ假シ、容保ノ死一等ヲ宥メ、首謀ノ者ヲ誅シ、以テ非常ノ寛典ニ處セン、朕、亦将ニ自今親ラ勵精、圖治教化ヲ國内ニ布キ、徳威ヲ海外ニ輝サンコトヲ欲ス、汝百官将士、其レ之ヲ體セヨ。(『復古記 第八冊』東京大学史料編纂所編七六一頁)

 

 この詔の中で、明治天皇は容保を「門閥ニ長シ、人爵ヲ假有スル者、今日逆謀、彼一人ノ為ス所ニ非ス」と語ります。つまり、朝廷に逆らうような人ではないと。だから会津藩と容保に道を誤らせた「首謀ノ臣アリ」とした上で、真に罰すべきはこの首謀ノ臣だと宣言します。つまり、会津藩主松平容保は叛逆の主犯ではないので、死一等を弛めるとしてその命を救いました。これが天皇のご意志であり、百官将士はこれを体現せよとある以上、大総督府から出されていた会津死謝の命令は立ち消えるということになります。

 これで松平容保の命は保たれることになるわけですが、別の意味で重要だというのは「朕、不徳ニシ」という文面があることです。これは「天皇に不徳があった」ということなわけですが、戊辰戦争当時幼少だった明治天皇が自発的にこのように考えて元会津藩主松平容保の命を救おうとしたとは思えないわけですね。では、薩長の誰かでしょうか??。少なくとも長州藩桂小五郎(木戸)は、会津藩の処罰に関しては”朝敵を法的に捌き、今後の前例とする”という意味で単純な寛大論ではなく、むしろ死罪とまではいかないまでも厳罰論側に立ちます。では薩摩か?。謎です。ただ、長州にしろ薩摩にしろ自分たちが担ぐ明治天皇自身に「朕に不徳があった」などと言わせるなど到底認めがたかったはずです。下手をすれば尊王討幕派が聖戦と位置づける戊辰戦争の正義すら、「天皇の不徳から発生した戦争」になってしまえば崩れざるを得ないわけで。

 では、何者かが薩長両藩に秘密にして電撃的に出した詔かというと、そんなことが可能とも思えない。実際、会津救済処分に関する朝廷会議は行われていますから、薩長が反対するような内容の詔をクーデター的に詔を出すことは無理ではなかろうかと。

 さらにこの「朕、不徳」の文言には、暗に”天皇は人であって神ではない”という意味も持っているのです。神に不徳があろうはずがないからです。つまり、この時期の明治政府を司る人々は、少なくとも天皇を神とは思っておらず、人だという認識なんですね。人だからこそ不徳もある。人は徳を積まねばなず、王ならなおさらというのが儒学の考え方ですから。

 第二次長州征伐の際には、当初は薩摩藩も幕府軍側で参加させるつもりで幕府が天皇の勅命を受けた上で薩摩へ出兵要請しました。この時、薩摩藩大久保利通は「不義の勅は勅にあらず」と言い切り、薩摩藩は長州征伐を拒否しています。通説では薩長同盟を結んでいたからと言われますが、幕府の長州征伐は孝明天皇から節刀を受けて行われていますから、長州征伐は勅命でもあったのです。これを蹴るとは天皇の命令に反する行いでもありました。天皇を神だと思っていたら、こんなことはできませんから幕末・戊辰戦争当時は天皇は人だという認識なんです。

 これが明治維新以降は神格化されていき、いわゆる明治から昭和初期の”現人神”として”天皇は間違わない(天皇無謬説)”になっていきます。天皇は神だから間違わない。だから天皇のお言葉は絶対であると。しかし、幕末・戊辰戦争時代を生きた元勲達はそう思っていなかったなによりの証明でもあります。

 このような文面の詔を薩長両藩の尊王派が出せたとは思えないんですね。そして薩長に秘密にして出された詔とも思えない。薩長両藩を黙らせて出させたとしか考えられないわけですが、では誰がこの詔の文面を考え明治天皇に言わせたのか??。会津藩松平容保の命を救うためにです。これがわからない。まったくの謎なんです。誰か知っていたら是非教えてくださいませ~。

 ということで、会津戦争はこの詔をもって終結というのが正しいわけで、会津鶴ヶ城開城ですべての始末がついたわけではないのですね。しかも、松平容保の命を救う課程で、天皇の神格化にもかかわる重大な詔も出されており、これは天皇制国家の歴史を考える近代史でも重要な意味をもっていると私は思います。もっと注目されるべきだと思いますので、今回はお花見にかっこつけて記してみました。

 

 以上、今年のお花見は友人への思いに馳せながら、こじんまりと飲んで終わったという感じでした。

 

追記

 そうそう。奥羽越列藩同盟は賊軍ではないのでご注意を。奥羽越列藩同盟盟主である仙台藩に奥羽鎮撫総督の九条総督がおり、錦旗も仙台藩は持っていました。つまり、奥羽越列藩同盟に従わない藩が朝敵になります。なので、庄内藩も会津藩も当初は奥羽越列藩同盟に加盟していません。

 奥羽越列藩同盟が賊軍とされるのは、錦旗を持つ九条総督が仙台藩領を脱して秋田藩に逃走したあとです。なので、よく守山藩や三春藩、秋田藩が官軍側になったことを「裏切り」非難する論調も見られますが、守山三春秋田はむしろ最初から最後まで官軍でしたよ。むしろ奥羽で戦争をさせないための会盟だったはずの奥羽列藩同盟が、薩長両藩排除のための戦争に踏み切った行為こそ、守山や三春、秋田から見れば裏切り行為なわけであり……。

 そんなわけで、ガンダムに例えるならZガンダムの世界観ですね。地球連邦軍内の軍閥ティターンズとエゥーゴが戦ってたという話に似てて、東北戊辰戦争は明治新政府内の薩長主戦派軍閥と仙台米沢を中心とする東北穏健派軍閥の戦い。でも戦争期間が一年足らずという意味では一年戦争なのでファーストガンダムにも似ていたり?。