幕末ヤ撃団

幕末ヤ撃団

勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

↑品川台場跡

 

 ゴールデンウィーク中に行われる大規模同人誌即売会「SUPER COMIC CITY 33 -day1-」に、サークル参加します。今回はその告知です。

 

サークル「幕末ヤ撃団」

イベント名:SUPER COMIC CITY 33 -day1-

日時:2026年5月5日 10:30~15:30

会場:東京ビックサイト

ブース:東2ホール て36b

↓イベント公式サイト

 

 

 今年のスーパーコミックシティも例年通り5日~6日の2日間行われます。我が幕末ヤ撃団が出店するのは、その一日目の5日となります。去年の冬コミケは落選して出店していませんので、半年以上頒布機会がなかったので、久々の同人誌即売会となります。新刊はありませんので、既刊誌を中心に頒布予定となっております。スーパーコミックシティは、超混み合うコミケと違って立ち話ぐらいできる程度の余裕がありますので、お暇な方はお立ち寄りくださいませ。

 

 さて、業務連絡は以上となりますが、折角なので今年の夏コミケの新刊内容予告でも……。

 

 現在、夏コミケでの新刊として、オフセット製本『新選組の武士道 幕末総集編』を作成中です。これは、以前から頒布していた一連の新選組の武士道探求本(コピー&ホッチキス製本)の再録編集して一冊にまとめたものとなります。その意味では、新しい記事があるというわけではないですが、一番の特長はまとまった形でオフセット製本する点かなと。

 コピー製本は、コミケに間に合わせるための締め切りがあり、校正チェックは行っているものの、どうしても悪文が出来てしまう。今回は、これらを修正し、かつ考えを改めたところなど小さな修正を加えた上で再編集しております。

 以前にも言った通り、本来なら戊辰戦争も含めた全記事をまとめたかったのですが、私が使っている印刷所のセット印刷は、100ページが限界で、それ以上の製本となると価格が倍に跳ね上がる。なので、安さ重視で100ページに収まるよう、今回は戊辰戦争に関わらない幕末京都時代の新選組記事をまとめました。

 

内容

●素行不良の武士道 新選組筆頭局長 芹沢鴨

●豪農の武士道 新選組局長 近藤勇

●新選組の武士道 新選組隊士 永倉新八

●倒幕の武士道 新選組参謀 伊東甲子太郎

●庶民の武士道 新選組副長 土方歳三

●新選組から読み取れる武士道(追加新記事)

 

 以上のような内容になる予定。メイン部分は以前に発行していた記事の修正再録で、最後に掲載記事から読み取れる新選組の武士道を総括し結論を出したいと思います。ただ、余った数ページで書くということで、厳しい文字数制限になっているため、どこまで書けるか……といった感じです。

 また、ページ数圧縮のために行間や文字間詰めを徹底的に行った上、コピー誌で掲載していた史跡写真なども省く感じになっているので、かなり読み辛いかもしれませんがお許しの程を。逆に言うと、読み安さや史跡写真も見たい方は、コピー本の方が合うかも知れません。内容的にも大きな解釈変更などはないので、総集編発行でコピー本の価値がなくなるというわけではないと思いますので。

 

 そしてこれは最後の新記事でどこまで述べられるかわかりませんが、新選組の武士道を俯瞰して見た時の感想として、”農民や庶民も武士道を知っている”ということかなと。通説では武士道は武士の精神とされていましたが、別に武士でなくても武士道を身に付けられるという事実の実証を新選組が示しているわけです。これは当然と言えば当然で、討幕派なら伊藤博文や大村益次郎、佐幕派なら天野八郎や大鳥圭介らがおり、彼らは元は武士じゃない。それでも武士道を発揮した人々であり、幕末・戊辰戦争ではこうした武士階級以外の人々が歴史を動かしているんですね。その代表的な団体が新選組ということになります。

 むろん、由緒正しい武家に生まれれば、幼少期から武士としてのしつけを受け、藩校などで武士たる者の倫理や精神を叩き込まれる。しかし、それも儒教道徳倫理であって士道とよばれる精神でした。もちろん士道と並行して戦闘者としての精神性、これが士道と区別され武士道と言われる精神ですが、これも教え込まれます。例えば、藩校などでは「喧嘩」をしろとは言いませんが、いざ喧嘩になってしまった時は、逆に喧嘩から逃げてはならないとします。喧嘩を吹っかけられて逃げ出すような弱者は武士ではないし、そのような軟弱者は藩や主君も不必要だから。実は、こうした行為は儒学倫理道徳では否定されています。

 儒学では「韓信の股くぐり」のような逸話から、”大望のある者は、下らない争いは恥を忍んでもしないもの”とされているのですね。下らない争いや、つまらない諍いで怪我をしたり、命を失うことほどつまらないものはない。これが儒学倫理や道徳からの主張です。しかし、武士教育では「武威・武名」の思想が受け継がれているため、恥は絶対許さない。特に弱者と言われる恥は徹底して忌避する。その精神性こそが武士道精神の根幹になっているわけです。だから、いかに大望を持っていても「股をくぐらせる」ような恥辱を与えられるぐらいなら斬り死にする方を選べ。と、武士教育の場では教えられることになります。実際に適用されることはほとんど無かった武士の特権「無礼討ち」も、幕府法で認められ廃止されなかったのはこのためです。

 ただし、これは絶対のルールというわけではないので、儒教道徳的な士道と戦闘者として武威武名にこだわる武士道をいかに折衷するかは個人に任されていました。故に武士道は、個人個人で違っていたわけです。

 芹沢鴨や伊東甲子太郎、永倉新八は地位身分は低いものの武士の家の生まれ育ったので、こうした教育を受けていた。これに対し、近藤勇や土方歳三は違うんですね。ただ、近藤は若い内に天然理心流三代目近藤周斎の養子に入っているので、主君こそ持っていないものの辛うじて武士の何たるかを義父の周斎先生から教えられてきたと思われます。が、土方歳三は違うわけです。土方の若い頃は商家に丁稚奉公に入り、商人の修行をしていた。彼が奉公先から実家に戻ってくるのは二十代になってからで、天然理心流に正式入門するのも遅く、入門して数年後にはもう新選組での活動に入ってしまっている。武士教育なんて全然受けていないのです。しかし、彼が武士道を発揮していたことは、皆さんも良く知るところかと思います。土方歳三はどこで武士道や士道を身に付けたのでしょうか?。

 こうした部分に着目して、新選組隊士達個々人の行動を考察し、士道と武士道とを分けて考察してきたものが、新選組の武士道シリーズ(コピー本)となります。これをオフセット製本で編集し直した時、何が見えるのか?。最後の大まとめを新記事で書こうと思っています。

 

 さて、では戊辰戦争編はどうなるのか?。ということになりますが、これはまた後日「戊辰戦争 総集編」として発行したいと思っています。戊辰戦争となると官軍賊軍という新しい区分けで色分けされてしまい、王道主義(これが日本では尊王主義になる)をとる儒学の順逆論に基づいて賊軍とされた側の士道が一切認めて貰えない、論理として成立しない状態になってしまう。このため、幕末時代の士道や武士道とはまた違った見方が必要になってきます。なので、総集編も幕末編とは別になっても大きな問題にはならないし、むしろ別々の方が理解しやすいだろうと思いますので。

 

 ということで、今年の夏コミケは新選組で行きたいと思いますので、乞うご期待ください。

 

↑開花

 

 昨日のことになりますが、恒例のサークル「幕末ヤ撃団」花見を行ってきました。

といってもコロナ流行前はサークルの仲間たちと和気あいあいにやっていた花見も、コロナ終息後は非常に寂しくなってしまっておりますが……。

 

↑神田川と桜並木

 

 場所は去年と同じ神田川沿いの桜並木がある土手沿いの公園です。

 

↑ビール2缶とお供え用お酒

 

 これまで通り、茶碗が2つありますが、一つは研究家故あさくらゆう先生の分と、もう一つは我が大親友であったマジンガー大久保氏の分。両人ともコロナ流行前後に他界してしまいました。コロナに殺されたわけではなく別の病気によるものです。コロナに罹ったのは幕末ヤ撃団では私だけやからなぁ……。

 もう一人の親友K氏は、脳卒中に倒れること数度……ってか何度も脳卒中を起こしながらも生きていることが奇跡ではありますが、その奇跡と引き替えに身体障害を抱えて家から遠くに出歩くことができない体になってしまっております。結果として、幕末ヤ撃団でサークル売り子に活躍してもらっていた友人が、私を含めて4人いたわけですが、現在五体満足で動けるのが私一人になってしまっているという状況。コロナが終熄し同人誌即売会も再開されたものの、サークルで運営や売り子ができるのが私一人って何コレっていうね……。

 

↑夜桜

 

 やはり桜は夜桜ですなぁ。これを見たいだけで毎年花見してます。

 

 ということで、とりあえずここからはサークル「幕末ヤ撃団」の告知コーナーです。

 2026年5月のゴールデンウィークに開催される「スーパーコミックシティ」にサークル出展予定となっております。

 

イベント名: SUPER COMIC CITY 33

開催日時:2026年5月5日~6日(二日間)

会場:東京ビックサイト

 まだサークルブースの配置連絡が来ていないので、情報が到着したら再度告知したいと思います。

新刊はなく、既刊誌を頒布予定です。

 なお、一般入場に千円前後の入場券が必要となります。今まで入場無料だったコミックマーケットも、コロナ後は一般入場者からも入場料を取るようになってしまったため、スーパーコミックシティとコミケも入場コストが同じになってしまいました。が、参加者がやたら多く、参加するだけでも覚悟しなきゃならないコミケと比べれば、まだ参加者は少ないスーパーコミックシティの方が楽に参加できるのではなかろうかと思います。

 

 そして大本命は2026年夏のコミックマーケットでしょう。

 

イベント名: コミックマーケット108(夏コミケ)

開催日時:2026年8月15日~16日(二日間)

会場:東京ビックサイト

新刊予定:同人誌『新選組の武士道(総集編)』

 

 前回に続き、東館の半分が改修中のためサークル参加の枠が減っている状況です。前回は落選で泣いたが、今回こそは当選参加したいところ。新刊予定としては、これまで分冊で作成してきた「新選組の武士道」に関するコピー本の内、戊辰戦争中心記事を抜いた幕末中心記事をオフセット一冊にまとめた本を出します。新選組を通して幕末時代の武士道とはどのようなものかを示したいと思います。武士という存在だけでなく、志士という存在の精神性を提示してみたいと思っています。このため、単なる過去記事を改修まとめだけに留まらず、それらを統合した新記事も書いて掲載する形で考えています。

 ちなみに、新選組の戊辰戦争に関しては、先に述べた『新選組の武士道 幕末総集編』とは別に、来年あたりに『新選組の武士道 戊辰戦争総集編』として出したいと考えています。

 ホントは幕末の混乱期と戊辰戦争を全部まとめて一冊にと思っていたのですが、私が使っている同人誌印刷所のセット印刷だとページ上限が100pなので、ちょっと無理でした(苦笑)。なので上下巻の2冊になるかなと。また、戊辰戦争が始まると新選組は朝敵になってしまい、儒学的には薩長両藩は官軍として絶対正義になってしまう。逆賊とされた側は学問論理的には正当性がなくなってしまう上に絶対悪・罪人にされてしまうため、その精神性や武士道も幕末の混乱期とはまた別のものに変化せざるを得ないんですね。なので、別冊にした方がテーマとしてもわかりやすいということもあります。

 余談ですが、こうした官軍賊軍という考え方の根底には、儒学の「順逆論」が関係してくる。だから、ここをしっかり押さえないといけないんですが、順逆論を重視すると”天皇側が絶対正義(官軍が正しい)、天皇に逆らう側は逆賊(賊軍は悪)”となり、いわゆる徳川宗家と幕臣、会津藩、新選組の行動は間違っているという論理になってしまう。これを嫌った会津贔屓系作家や新人物往来社系のライターによる運動が展開され、「順逆論で考えてはならない」という理屈が一般の歴史ファン層に埋め込まれました。結果として、順逆論無視して歴史を評価するというのが定番になってしまった。会津藩や新選組など敗者の側に立ちたいという気持ちは理解するが、こうした順逆論を無視した結果、土方歳三や奥羽越列藩同盟が明治新政府を否定する論理(それは順逆論に対する対抗論理であり、彼らが苦しみながら考え出したアンチテーゼ)をも無視して歴史的評価を与えることになってしまっております。幕末ヤ撃団というか私ですが、それは違うだろうという観点からあえて薩長両藩が振りかざした順逆論にどう佐幕派諸藩が抵抗したのかを私としては史実として捉え直し、それをある程度は提示できた。なので、『新選組の武士道 戊辰戦争総集編』ではこの考え方で新選組や榎本武揚、奥羽越列藩同盟の戦いを捉え直し、総括したいと思っております。

 

 なお、続けて冬コミケにも参加する予定で考えておりますが、それは夏コミケが終わったら告知したいと思います。

 

 

 このお花見会場は、だいたい夜8時ごろに警官が「今日は終了~」と言いながら巡回するので、その前の7時に撤収します。あさくら先生と大久保さんに捧げていたお酒は、彼らが飲んだということで神田川へ。

 

 

だいぶ暗くなってきたので、これで今年のお花見は終了としました。これぐらい暗くなると夜桜が映えますなぁ。

 

以上、告知メインとなりましたが、皆様も健康に気をつけて頂いて、イベント会場でお目に掛かりたいと思います。今後ともサークル「幕末ヤ撃団」をよろしくです。

↑新選組屯所「八木邸」

 

 しばらく「武士道」や儒学といった思想精神史の把握のために、中世史を中心に調べ物をしてきた。でも、たまには専門である幕末史に関することもしてみたい。ということで久々に新選組テーマのネタを書こうと思う。

 新選組に関する史料のなかに『行軍録』と称するものがある。今回はこれについて論じてみたい。

 

まずは史料の紹介から……

 

『文久四年甲子異聞録 巻之七』に記載されている文久四年(元治元年)頃に作成された『行軍録』

 

以下は史料をテキスト化したもの。ウェブ上のテキストだと縮小や改行で形が崩れてしまうので、画像として貼っている。


↑元治元年頃の行軍録から作成

 

陣法
一番貝 兵糧食
二番貝 兵装
揃太鼓 外張へ出
三番貝 並ヲ立
迎貝
押太鼓 旗ヲ前ム

一、武頭之面々、当番人左ヲ押而敵変ヲ司リ、非番ハ右を立テ味変ヲ司ル。
一、諸手共行軍中兵糧草鞋ヲ腰ニ付、甲ヲ高紐ニ掛ケ、得物ヲ引付ケ次第ヲ不乱押出スべシ。
  但、行列定ッテ後私語ヲ交申ユベカラズ。押止居敷之相図ヲ心ニ掛ル事肝要ナリ。
一、行軍中、火縄長器ニ心ヲ附、武頭之振ニ眼ヲ付、不時之変ヲ忘ルベカラズ。進退頭之采弊を守ルベシ。
一、行軍変候時、右ヨリ始ル。暴風雨之節、心得兼而心得ベシ。
一、戦地ニ致物見、武者地形ヲ見切、備ヲ畳。尤、備ヲ立ル事隊長之采弊ニ従フベシ。

 これは元治元年頃に作成された新選組の行軍録だ。伊東甲子太郎をはじめとする伊東一派の加入直後の時期となる。土方歳三が日野の佐藤彦五郎に知らせたものとされるので、土方歳三が北条流(甲州流)軍学者の武田観柳斎や局長近藤勇と共に考案しまとめたものだろうと思う。

 

 これは余談になるが、軍学者武田観柳斎は北条流か甲州流かという議論がある。これはどちらでも良いというのは語弊があるが、北条流は甲州流から生まれてきた流派であり、軍学としては同じと言っていい。

 甲州流軍学は、江戸初期に小幡景憲よって創始された日本初の軍学で、戦国の気風を色濃く残した流派である。これが徳川幕府のお家流に採用された。その際、幕府の命令で幕臣北条氏長に甲州流の秘伝を含め、すべてを伝授している。小幡景憲からすれば家伝として子孫に相伝し、甲州流の家元として子々孫々これを資産としたかったろう。だが幕府はそれを良しとせず、幕臣だった北条氏長に甲州流のすべてを相伝させて幕府のものにしたのだ。

 ところが甲州流は武田信玄の軍法として戦国の気風を残していた。天下泰平を目指す幕府としては、戦国の気風や精神(武士道精神)のままでは困る。このため、こうした甲州流の精神思想面に儒学の倫理道徳を注入、解釈変更などが行われた。その結果、生まれたのが北条流兵法だ。したがって徳川幕府のお家流は甲州流とされているが、厳密には北条流だったろう。ところが依然として徳川幕府は甲州流がお家流と言い続けているので、北条流=甲州流と考えて良いのだろうと思う。

 また余談の余談になるが、武田家滅亡の際に徳川家が甲州武士を家臣として迎え入れ、後に家臣の石川数正が徳川家を出奔して豊臣秀吉の元に走ったという事件がある。この時に家康は徳川の軍法その手の内が秀吉に知られたとして、徳川の軍法を甲州流軍学に切り替えたと言われてきた。だがこの逸話は学術的に否定されている。徳川家が甲州流をお家流にしたのは、前述したように甲州流軍学の小幡景憲が、幕府の命令で北条氏長に甲州流のすべてを伝授した時からだとするのが、日本軍学研究界隈からの回答だ。

 前述したことから甲州流と北条流は同じ軍学という認識が江戸時代にあり、せいぜい精神面(武士道・士道)解釈部分に違いがある程度だろう。軍を率いるノウハウは同じと思われる。したがって武田観柳斎の軍学流派が甲州流か北条流かで悩むのは意味がないと思って良い。ちなみに北条流からさらに儒学倫理道徳を大規模に導入して発展させた軍学が、忠臣蔵で有名な山鹿流兵法であり、「士道」という儒教倫理道徳の影響を受けた武士精神も、山鹿流兵法開祖の山鹿素行が生み出したものである。

 

 話を戻そう。この行軍録が作られた時期は、元治元年は水戸天狗党が筑波で挙兵して京都へ進撃しつつあった時期であり、京都でも禁門の変で戦争が起こった時期となる。新選組も京都市中警備だけでなく、軍隊として動かねばならない状況への対応として、このような行軍録が考案されたのだろう。

 

 この行軍録は、もちろん行軍時の編成を記したものだが、行軍は戦時下での軍隊行動として重要なものだ。敵と遭遇した時には、ただちに行軍隊形から戦闘展開し、戦闘を開始しなければならない。つまり、行軍の編成はそのまま戦闘隊形になっている。通常は二列縦隊で、戦闘態勢になった際は素早く横隊に展開する。だから、行軍編成を見れば新選組が戦闘時にどのような陣形になるかがわかるのだ。なので、このような行軍録は、通常「陣立書」という。

 もちろん、陣形は魚鱗や鶴翼といった三国志や川中島合戦などで用いられた陣形があり、新選組がどのような陣形で戦おうとしていたのかまではわからない。なので、一番単純な横隊陣形をした場合の陣形を想像して示そうと思う。

↑元治元年行軍録から想像する戦闘陣形

 

 単純に横隊と考えた場合、こんな感じなのだろうと思う。ぶっちゃけ、戦闘を意識した効率的な行軍編成ではないことだけは確かだ(苦笑)。まず一番から六番の各組の兵装が書かれていない。これは従来の副長助勤体制(市中見回りが主任務の編成)を、単純に一番隊から六番隊という分隊に組み分けしただけだろう。したがって主兵装は刀槍と考えられるが、これが大砲隊の前に展開する形になってしまっている。これでは大砲を撃つ際に味方が手前にいるから邪魔になってしまう。兵装が刀槍なら集団突撃しか手がなく、後方から大砲が援護射撃するだけとなる。

 主兵装が小銃と仮定した場合、三列の密集隊形を一列か二列の横隊銃陣にする手もあるかなと思うが、今度は逆に刀槍部隊がないと射撃戦しか出来ず、敵の斬り込みや白兵戦になると困る。もっとも、幕末戊辰戦争では斬り合いはあまり行われなかったから、もっぱら射撃だけで良いという考えもあろう。しかし元治元年から慶応年間頃は、徳川幕府の軍制改革の最中で過渡期に当たっている。つまり、日本の兵法軍学と西洋兵学が折衷された高島流兵学といったものの全盛期であり、新選組もまだ過渡期というべき時期だったはずだ。過渡期の銃陣は日本兵法と西洋兵学の折衷となっている。具体的には、銃隊と大砲の他、刀槍隊もあって銃撃戦の後は刀槍部隊が敵陣を崩す、あるいは逆に敵の突撃されたときは刀槍隊が防禦するという戦い方が想定されていた。また新選組が金の掛かる洋銃の数が少なくて足りていないと考えた場合、依然として剣術集団としての密集刀槍突撃陣形しかなかったのではと思われる。にしても大砲軽視の隊形だなぁ(苦笑)。というよりは従来と同様に”大砲は門などを破壊する攻城兵器扱い”と考えれば、まあ対人用ではないから中軍配置になるという感じなのかな?。

 

 ただ疑問に思うことが一点。陣法にある「武頭之面々、当番人左ヲ押而敵変ヲ司リ、非番ハ右を立テ味変ヲ司ル」という一文が変なのだ。この部分は左側の分隊長が当番で敵と出会った際に指示を出し、右側の分隊長は平時に列を整えるといった補助的任務に当たるといったことの指示だと思われる。ところが北条流兵法の『兵法雄鑑』には、「武者奉行(軍奉行とも言う)二騎、是は当番は右に乗て。備の下知をなす。非番は左に乗て、敵に近づけば物見に出て、可動様子を見計なり」とあり、甲州流・北条流の系譜にある山鹿流の『武教全書 二の巻』でも、「一、武者奉行左右に乗て可押、但当番は右、非番は左に押、敵近くば物見に出る事」とある。新選組の陣法だけが何故か「当番が左、非番が右」で北条流や山鹿流とは当番配置が逆なのだ。

 北条流も山鹿流も元を正せば甲州流だから、当然甲州流も同じと思われる。軍学兵法の流派なので、こうした部分は継承されているはずであり、北条流(甲州流)兵学者の武田観柳斎が陣法考案に関わっていないはずがないから、当然陣法や陣立ても甲州流か北条流の影響を受けているはずだが、なぜ当番を慣例的な右配置を無視して左配置にしているのだろうか??。これが全然わかりません……。

 もしかすると、日本は伝統的に左を上座にする(例えば、朝廷官職の左大臣と右大臣では、左大臣の方が格上。これを「左方上位」という)ので、新選組ではアレンジを加えて整合性を取ったのかな?とも思うが、そのためにわざわざ兵法兵学の伝統慣例を無視するというのもなぁ……。この部分はちょっとわからんですハイ。

 どちらにせよ、元治元年頃に考案された行軍録の編成は、戦闘展開時に変な陣立てになってしまう。これは戦闘を想定せず、これまでの市中警備体制を分隊に分けて行軍し安くしただけの間に合わせ編成と考える方が良いのかもなぁ。

 

 この元治元年頃の編成に対し、慶応元年の方の行軍録は洗練されてきたと言えるものだ。

 

 『元治乙丑異聞録 巻之八』に記載されている慶応元年九月頃に作成された『行軍録』を下記に示す。

 


↑慶應元年頃の行軍録より作成

 

 この行軍録は、長州征伐への参戦を意識して編成されたものと思われる。結局、新選組は長州征伐に参加せず、会津藩と共に京都市中警備専念ということになったので、この行軍録も使用されなかった。

 やはり目を引くのは新選組中剣の腕では一番か二番かと言われてきた沖田総司と永倉新八が揃って小銃隊組頭になり、小縦隊を率いている点で、小銃隊編成の人数も多くなっている。西洋銃陣を意識しつつも刀槍を捨てられないところは、まだ日本兵学と西洋兵学の中間にあってその過渡期であることを伺わせるところだ。というのも、日本兵学でも銃・弓が隊列の前衛にあり、戦闘展開時は第一陣の先鋒として最初に戦闘開始。敵陣が崩れたところで後方にいた槍隊や騎馬隊が突撃して敵陣を破るのが基本であり、参勤交代の大名行列もこの基本に習って銃隊や弓隊が大名行列の先頭を歩く。この点は西洋兵学も同じで、やはり行軍時は小銃隊が先頭だ。まぁ西洋兵学となると全員銃を持ってるわけだが……(汗)。

 この慶応元年の行軍録を参考に、単純に横隊での戦闘展開したと仮定して私が勝手に考えた陣立てが下記のような感じとなる。

↑慶應元年の行軍録から推定した戦闘展開陣形

 

 元治元年の行軍録とは違い、大砲隊が最前列にいるのでこの大砲隊を中心に小銃隊が両翼に展開。大砲・小銃隊は前衛の土方歳三が指揮を取る。その後方、中軍にいる槍隊が小銃隊の後方に位置し、射撃戦で敵陣が崩れた時に突撃して敵陣を破る。近藤勇は部隊全体を指揮する。

 最後尾は原田左之助ら小荷駄隊が固め、撤退時は彼らから退く。小荷駄隊に関して元治元年の行軍録も同様である。

 やはり大砲隊および小銃隊が横隊陣形を取った際、持てる全火力を敵に向けることが可能になっており、白兵戦に備えた槍隊も中軍に配置してある。最初の銃撃戦で敵陣が乱れれば、すかさず槍隊が突撃して勝負を決する形だ。逆に敵の騎馬隊や歩兵の白兵突撃を受けた時は、この槍隊が槍衾を作って防禦する。小銃・大砲・刀槍の連携を考えた行軍録であり、この点に西洋兵学を取り入れつつある新選組の姿が見て取れるのかなと思う。

 とはいえ、これで長州征伐に参戦していたら新選組が暴れまくれたかというと……まぁ長州奇兵隊には勝てないかなぁ(苦笑)。貝太鼓奉行がいるから法螺貝を吹き、陣太鼓を叩いて行進するのだろう。幕府軍の彦根藩井伊家の藩兵も戦国時代さながらに法螺貝と陣太鼓を叩きながらの進軍したところを長州藩諸隊の待ち伏せを受けて大敗北になっている。新選組も同じ失敗を起こす可能性が高かったろう。もっとも兵力が少なすぎて陣立ても薄い……。

 やはり、この陣容で長州藩兵の大村益次郎仕込みの散兵戦術を食らったら負けるだろうなぁと思う(苦笑)。第一次長州征伐時なら勝負できたかもだが、第二次長州征伐時は大村益次郎が軍制改革しちゃった後であり、長州藩は完全西洋兵学式の軍隊になってしまっている。これに対抗するには、やはり幕府歩兵か幕府伝習歩兵でないとちょっと無理だろうなぁと思う(苦笑)。

 

 あと、ちょっと気になったので記しておくが、菊池明氏をはじめとする新人物往来社系の歴史ライターらがこうした行軍録から新選組の組織編成の変転を説明していたが、行軍録を新選組の組織変更と考えてはいけないと思うぞ。

 行軍録は、あくまでも戦闘時の陣立てを畳んだ形で、通常の組織編成とは違うから。平時の時は従来からの副長助勤体制で、戦時の時は一番隊から十番隊といった戦時編制になり、平時の通常任務ば副長助勤体制で警備・治安維持を行うと考える方が自然だろう。

 沖田総司や永倉新八が平時から小銃隊を連れて京都市内を歩き回るというのは非合理的だし、屋内での斬り合いで小銃が武器では弾丸装填中に斬られてしまう。宿改めなどで屋内戦闘が多いのだから、刀の方が小銃よりも利便性は高い。しかも小銃持って京都中をうろうろされては物騒極まりなく、朝廷も幕府も「それはやめろ」と言うだろうしなぁ(苦笑)。

 なので新選組では平時の副長助勤体制と戦時の分隊編制の二通りが常に準備設定されており、状況に応じて編成の切り替えがすぐに出来る体制だったと考えるべきだろう。

 ちょっと『新選組実録(相川司・菊池明著 ちくま新書)』を読み返し、新選組の組織編成の変転を見ていたときに、同書では従来の副長助勤体制から突如行軍録の組織編成に変わり、さらに一番から十番の分隊編成になったあとで、元の副長助勤体制に戻したりと目まぐるしく新選組の組織編成が変わりまくっているような組織変転史が語られていた。この説明だと、戦時分隊編制時の時の新選組が平常任務の市中警備を行うときに、先に述べた通り沖田総司が小銃持って屋内戦闘想定で宿改めを行うという感じなってしまって変だ(苦笑)。

 行軍録は組織表として見るのではなく、あくまでも戦闘時の陣立て(陣形)として見るべき。行軍編成は戦闘時の陣形をそのまま畳んだ姿でしかないからね。だから行軍編成を展開すれば、そのまま戦闘陣形になるわけです。

 

 以上、新選組の行軍録から武田観柳斎が提言したであろう甲州流や北条流の特色が読み取れないかなといろいろ考えてみたのだが、結果的には西洋兵学を取り入れ始めた過渡期の新選組の姿と、戦争になったときに新選組がどのような戦い方を行おうとしていたのかを感じ取ることができたという感じとなりました(苦笑)。

 

↑自家製で静岡おでん(春になる前に我が故郷のソウルフードを食す)

 

 今週から東京国立博物館の方の刀剣展示の入れ替えがあり、太刀「童子切安綱」と刀「長曽根虎徹」が展示されております。童子切安綱の方は、以前にも拝見したおりましたが、長曽根虎徹はまだ本物を見たことがなかったので、これはぜひ見ておかねばと思い出かけて参りました。

↑「倍返しだぁー!」という銀行員の居る銀行本社ではなく、東京国立博物館ですw。

 

 人が多く来館する前に行きたいということもあって、開館直後を狙って出発。ちと早く着きすぎて開館20分前でした。なので、博物館のすぐ隣にある「東叡山輪王寺」に行ってお参り&上野戦争の弾痕跡を見学します。

 

↑輪王寺本堂

↑寛永寺旧本坊表門

↑案内版

 

 まずはお参りを済ませて寛永寺表門の方へ。

 

↑扉にある上野戦争時の弾痕跡

↑左側の小さい穴は小銃弾跡、右側の大きな穴は大砲跡なのでしょう。

 

 他にも何カ所かに弾痕跡が残っております。弾痕跡を見学している間に博物館の開館時間が近づいてきたので、そちらに向かいました。

 門を潜って博物館に入ると、一目散に刀剣展示の場所へ向かいます。

 

↑「童子切安綱」

↑「童子切安綱」

↑説明

 

 早速、太刀「伯耆安綱(童子切安綱)」を見学&撮影。酒呑童子の首を切った太刀という伝承と共に伝えられてきた太刀です。もちろん、酒呑童子という鬼が実際に存在しているはずはないので、取って付けた話ではあるはずです。が、やはり試し切りをしてみると抜群の切れ味だったとされ、天下五剣の筆頭とされる太刀ととして伝えられてきました。

 この太刀とともに源家重代の太刀として「髭切(鬼切)」も京都北野天満宮に保管されており、こちらも安綱作として童子切安綱とは兄弟的な名刀として現存しています。童子切安綱は源頼光が、髭切は頼光四天王の筆頭たる渡辺綱が佩刀し、共に大江山で酒呑童子を討ち取ったとされておりますな。

 

↑童子切安綱の拵

↑説明

 

 こちらは童子切安綱の鞘になります。これに関しては私も始めて拝見させて頂きました。以前見に行った時には、太刀は展示していましたが鞘は展示されてなかったので。

 ただし、鞘の方は江戸時代初期の作で平安時代のものではなないとのこと。作らせたのは徳川宗家のようですので、江戸時代といっても由緒あるものとなります。

 

↑名刀「長曽祢虎徹」

↑名刀「長曽祢虎徹」

↑名刀「長曽祢虎徹」

↑説明

 

 そしてお目当ての「長曽祢虎徹」です。新選組局長近藤勇が所持し、後に講談などで「今宵の虎徹は血に飢えている」というセリフで有名になった刀かなと。実際に、近藤勇が池田屋事件で討ち入った時の様子を知らせる書簡でも言及されており、近藤勇の佩刀は虎徹とされてきました。しかし、近藤の持っていた刀には名が入っておらず贋作(偽物)だったとされるのが近年の通説かと思われます。まぁ、このあたりに関しては私は刀剣研究家ではないのでよくわからんです(苦笑)。たぶん、偽の虎徹を掴まされた近藤勇が、偽物と気づかないまま虎徹だと信じ切っていたということなのかなと。

 当時は攘夷論が流行し、異国のと戦争が現実味を帯びており、結果として実践向きの新々刀が多く生産されておりました。この新々刀は、鎌倉~戦国期の刀のように実戦向きの古刀を目指して製造された”復古刀”というものだそうです。なので、新々刀の上級物の方が、美術的価値の高い”名刀”よりも実戦向き(折れず・曲がらず・よく切れる)なので、近藤勇が騙されても仕方ないかと思われます(苦笑)。

 

 以上、お目当ての刀剣見学が終わったので、これで帰宅しても良かったのですが、折角なので他の展示も見て回ってみます。

 

↑一休禅師筆の「不立文字」

↑説明

 

 「不立文字」とは「言葉にして伝えられない&教えることができない」という意味で、悟りの境地といったものを指します。実はこれ歴史家の「歴史観」と同質なものだと私は思っています。以前より私は歴史研究者や歴史ライターには歴史観が必要だと主張してきました。歴史知識が肉ならば、歴史観は骨です。どんなに歴史に詳しくなっても、その知識をしっかりと論理立てて組み立てる骨がなければ歴史を他者に説明することができない。歴史の本や動画、番組を見る度に影響を受け、クネクネと自身の意見もなく読んだ歴史本や動画の代弁者となるような人は、大抵歴史観のない人です。歴史観という骨がある人は、新しい知識の影響を受けてもそれを自分のものとして咀嚼消化し、自分の意見や考えとして論じることができます。それはその人が歴史観という骨を持っているからできることなんです。だから歴史本や歴史動画のただの代弁者&宣伝者にはならないんですね。

 で、この歴史観をどうやって身に付けるのか?。これが私にもよくわからんです(苦笑)。なぜなら、歴史観とは個々人が色々勉強していく内に勝手に身に付き、ある日「神キター!」的な感じて、「これが俺の歴史観か」と気づくので。当然、他者に教えることはできませんし、文字に書いて説明することも出来ないんです。仏教の「悟り」と同じで。自分で修行して悟れとしか言えないわけです。つまり「不立文字」なのです。

 簡単な例を言えば、例えば「司馬史観」と良く皆が言うけれど、具体的に司馬史観とはどんな史観なのか説明してと言われても、たぶん誰も説明できないんですね。なぜなら司馬史観とは司馬遼太郎という小説家が歴史というものをどう見ているかという話で、司馬本人にしかわからんから。司馬遼太郎がエッセイなどで断片的に「歴史とはこーゆーものなのだろう」と語ることはあります。が、それは断片でしかなく司馬史観の全容は語っていないんです。しかし、司馬の語る歴史には何か”一貫性(これが骨)”のようなものは感じます。つまり、具体的な中味はよくわからないけど、筋の通った(骨のある)歴史観ということはわかるんです。もっとも、司馬遼太郎は細部において間違いや勘違い、思い違いが多いので史実としては扱えない。しかし歴史観が確立できているので、些末な間違いが多くても歴史全体を俯瞰し”歴史とは何か”を考える場合は、耳を傾けるべきところがあるということになるわけです。

 ただし、歴史観という骨さえあれば良いというものでもなく、骨そのものが歪んでいてはいけないのです。歪んでいる骨にどんなに良い肉を付けても歪んだままだから。それはそれで問題なのです。例えば政治思想として極端な右派だったり極左さったりする場合、そこに正しい歴史知識を入れて見ても、右派なら右に曲がった歴史になるし左派なら左に曲がった歴史になってしまいます。そしてそれは酷く”偏っている”が故に正しい歴史たり得ない。左派や右派、或いは極端に佐幕派を贔屓したり討幕派贔屓に対しては何を教えても、その人の思想信条に都合の良い歴史解釈が行われてしまい、結果として歪んだ歴史を史実と受け止めているというケースが見受けられるのですね。

 なので、歴史観の有る無しはもちろんのことですが、歪んでいない歴史観を身に付けなければならないわけです。

 ということで、この「不立文字」という言葉は、個人的にとても大切な言葉だと思いますので撮影しておきました。

 

↑上杉八将図

↑説明

↑上杉謙信の書状

↑説明

 

 関東管領職を引き継いだ上杉謙信が房総里見家へ送った書状です。戦国期の関東は古河公方や関東管領の争いと長期化によって鎌倉時代から続いた名門武士が弱体化していました。そこに付け入ったのが小田原北条家です。関東を席巻する北条の前に立ち塞がったのが房総の雄里見家でした。江戸湾(東京湾)を挟んで北条と里見の激闘が続いていたわけですが、さすがに里見単独では難しい。里見家としては関東管領家の支援が欲しかったということで上杉謙信とつながっており、連携を取っていた様子が書状から窺えます。まぁ、とはいえ上杉謙信の本拠地は越後ですからなぁ。関東は遠すぎなわけですね。雪が降ったら来れなくなるので(苦笑)。

 

↑豊臣秀吉の兜

↑説明

 

 現在絶賛放送中の大河ドラマ「豊臣兄弟」にあやかっての展示かと。なんかめっちゃ”動き辛くね?”という兜が多いですよね戦国期は。もっと必要な機能だけにすれば性能アップするだろうにと思っても、目立ってナンボの武士の世界でもあるので大仰な装飾も必要なのでしょうなぁ。このあたりに軍事一辺倒・合理主義だけでは語れない日本武士の姿があるという感じかなと。

 

 以上、他にも色々見ていましたが今回ご紹介するのはここまでといたしましょう。

 

 そして帰宅ついでに上野公園にある銅像を撮影しておきました。西郷さんではないです。

↑小松宮親王銅像

↑説明

 

 この小松宮彰仁親王は、戊辰戦争時は「仁和寺宮嘉彰親王」と呼ばれており、鳥羽伏見の戦いが起きると、明治天皇から錦旗と節刀を与えられ、征討大将軍に任じられました。つまり、鳥羽伏見の戦いのときの明治新政府軍の総大将ということになります。後に会津(東北)戦争時は会津征討越後口総督でした。ちなみに新政府軍が江戸へ進軍した時の東征大総督は有栖川宮親王なので、これとはまた別となります。

 今まで西郷隆盛像ぱっかり撮影しててこちらを撮影していなかったことを思い出したので、来たついでに撮影しました。

 

以上、話を戻しまして童子切安綱と長曽祢虎徹は5月17日まで展示するようなので、気になる人は行ってみると良いと思われます。

 

追記

 これは余談ですが、最近財務省だかなんだかよくわかりませんが、ともかく行政の方から「採算の取れない博物館は閉館も含めて考える」ための指針みたいなものが示されたらしい。要は採算が取れない体質をナントカしろという御達しなのだろうけど、それは変じゃね?。確かに私的経営をしている小さな博物館は経営を見直さねばという話はわかるが、国立や市立といった博物館は”儲からないけど、後世に残し伝えていかねばならない物を所蔵”する施設として行政が運営し、そこに税金を投入しているわけで。儲からない&採算取れないのは当然なのだ。採算が取れる&儲かるなら行政がやらなくても民間業者がやるんだから。

 採算取れないを理由に”天皇陵古墳を更地にしてマンション建てよう”という考え方で良いのか?と行政に言いたいな。一旦更地にしたら、もう二度とその遺跡から知識は得られないぞ。過去の人間の叡智を”儲からない”を理由に消滅させてええのか?。そんな事を思いながら、国立博物館の募金箱に札を投入してきましたよ。行政側には、今一度よく考えて貰いたいものです。

昨日のことになりますが、千葉の方に行って参りました。

 目的は千葉市立郷土博物館で開催されている特別展「千葉氏と城館」の見学です。千葉氏というと源頼朝と関係が深い武士団であり、当然千葉城(猪鼻城)も千葉氏の本拠地として頼朝と関係している城とされていました。が、近年の研究成果と実証主義に基づくと千葉城と源頼朝の関連が見いだせないという話になり、学術界で論争段階に入っていたわけです。

 この疑問に関して、千葉氏の研究といえば千葉市郷土博物館ですから、まずここの公式見解は如何ということで、文字道理「城館」の特別展ですから、現時点での公式見解を知ることが出来るはずと思い、見学に出向いて参りました。

 で、特別展見学だけだと物足りないので、ついでに幕張にある史跡も巡ってきた次第です。

 

 ということで早朝に家を出まして8:30頃に千葉に到着。郷土博物館の開館が9:00なので時間があります。そこで胤重寺へ向かいました。

↑胤重寺

↑案内版

↑武石胤重の供養塔

 

 胤重寺は、胤重の後裔である雲巌上人が、祖先である胤重の菩提を弔うために開山した寺院となります。武石胤重は、源頼朝に従った千葉常胤の孫にあたり、千葉一族の分家として武石氏を名乗る千葉武士団、鎌倉時代前期の武将です。武石の名も幕張にある武石地区を所領としたことから名乗っています。

 ということで、郷土博物館の開館時間になりましたので、そちらの方に向かいます。

↑千葉市立郷土博物館

 

 千葉市郷土博物館は千葉城(猪鼻城)跡にあります。まずはこちらで特別展を見学して参りました。特別展は撮影禁止なのでお見せできませんが、常設展示の方は撮影可で、一分の撮影禁止マークのある展示のみ撮影禁止となっております。

↑平安・鎌倉時代の日本馬模型

 

 よく考えたら千葉市立郷土博物館は改装リニューアルしていたようで、リニューアル後はじめて入館してました。なので久しぶりに常設展示も見学して参りました。

 上記は中世の日本馬で、現代のサラブレッド系の大きくスタイリッシュな馬とは違い、体高は低くずんぐりしております。どちらかというと太くどっしり系かな。明治維新後の明治期より、サラブレッド系を導入して整備した日本騎兵とは違い、江戸時代以前の日本武士達は、このような体高の低い馬を駆使していたわけです。

↑千葉城土塁跡

 

 現在、千葉城では改修工事が進行しているようで、土塁上の木々が伐採されておりました。その結果、土塁の跡がハッキリ見る事ができる状態です。千葉市立郷土博物館の天守閣から見下ろすと全体を見ることができました。

↑土塁跡

 

 郷土博物館を出て千葉城の遺構を巡ってみました。これは先ほど郷土博物館の屋上から見ていた土塁です。樹木が伐採され、草も除かれているので土塁形状が非常に見やすくなっておりました。

 

↑千葉城(猪鼻城)の説明板

↑堀切跡

↑猪鼻城址碑

 

 特別展でも解説されていましたが、この千葉城(猪鼻城)と鎌倉時代(もしくは平安時代)を結びつける遺構や遺物は発掘されておらず、現時点では鎌倉時代の武将千葉常胤と結びつけて千葉城を論じることは難しいという感じでした。むしろ、室町戦国期の武将で千葉一族の執権であった原氏(原氏も千葉氏の分家)が築城した城と考える方が自然のようです。

 平安・鎌倉時代のこの場所は死者を葬る埋葬地であり、寺などがあった可能性が高いとのこと。その後に享徳の乱などを受け、室町時代に城郭化されたと考えるのが妥当かもしれません。

 其のほか、鎌倉時代の武士の居館が方形城郭(屋敷が方形の形に掘や土塁で防禦されている形態)だったとされてきた通説が近年変更された事などが特別展で紹介されていました。これは以前にもブログで書いておりますが、「蒙古襲来絵詞」といった鎌倉時代に書かれた武士の居館の絵に”掘”が描かれておらず、単純に簡単な木柵で囲っているだけの絵が多いんですな。そこから鎌倉時代の武士の館には掘といった防禦構築物は無かったのではという論争があったわけです。こちらもやはり屋敷を堀などで囲って防禦を高めるのは室町戦国時代の武家館であって、それ以前の武家館はさほど防禦されていないということが最新研究の成果から変更されており、これまでの通説が変更された部分となります。

 ということで、午前中は特別展と千葉城遺構を見てまわっていました。これだけだと食い足りないので、午後は幕張の方へ移動して千葉惣領家を滅ぼしてしまった馬加氏の城を見学しに行きました。

↑馬加康胤首塚

↑馬加康胤首塚上にある供養塔

 

 馬加康胤(まくわり やすたね)は、室町戦国期の武将で、やはり千葉氏より分かれた千葉一族の有力者でした。享徳の乱に際しては古河(鎌倉)公方足利成氏を支持し、幕府方である関東管領上杉氏を支持した千葉宗家千葉胤直・胤宣父子と対立。ついに合戦によって千葉宗家を攻め滅ぼしてしまっております。ここで千葉宗家が一旦滅亡。複数の分家の中から宗家を引き継ごうとしたため、千葉一門が分裂していきます。こうして馬加系の一門が下総千葉氏として宗家を名乗る一方、関東管領側だった千葉実胤・自胤らは下総を追われて武蔵に移り、赤塚城や石浜城に入って武蔵千葉氏となっていきます。下総千葉氏は古河公方から、武蔵千葉氏は関東管領から”千葉氏宗家”とそれぞれ認められてしまったため、千葉一族は宗家が二つ存在するという奇妙な状態に陥っていきます。必然的に下総の雄であった千葉武士団も分裂することになり、その勢力は衰退せざるを得ない。その後は、それぞれ関東管領や古河公方の配下となり、最終的には漁夫の利を得て勢力を広げた小田原北条氏の家臣の立場に甘んじていくことになります。戦国時代の千葉氏が、パッとしないマイナー武将になっているのは、こうした千葉氏内の内紛から衰退に至っているためでしょう。鎌倉時代・南北朝時代では有名な有力武士団だったのですが、室町・戦国には大名になり損ねた名族というのが千葉氏だったのだろうなぁと思います。

 ちなみに現在の「幕張(まくはり)」という地名も、この馬加(まくわり)が語源となっております。

↑馬加城址(遠くに見えるマンションの場所が城址となります)

↑馬加城址

 

 馬加氏の居城馬加城跡となります。現在は巨大なマンションが建っており、城の遺構などは開発によって完全に失われています。せいぜい地形として高台だということがわかる程度。辛うじて低地と高台を分けている崖状地形に戦国期の城跡の面影を見る程度でしょうか。

 次に同地区にある武石氏の史跡を見学すべく「長胤寺」に向かいます。

 

↑長胤寺

↑長胤寺由緒

 

 長胤寺は、鎌倉時代の武士武石長胤の館跡だった場所にあり、鎌倉時代の武士の居館跡となります。長胤は武石氏の四代目当主であり、最初に紹介した武石重胤は武石氏の初代となります。

↑長胤寺の後ろ側ある墓域。館跡とされる場所

↑辛うじて土塁跡があります。

 

 高台に立地していること、土塁跡などから鎌倉時代の武家屋敷の特長が見て取れます。続いて武石神社に向かいました。

 

↑武石神社

↑武石神社。千葉氏の家紋があり、千葉氏との関係を見て取れます。

↑神社由緒

 

 武石神社は戦国期の武将武石胤親の居館跡とされる場所にあります。もちろん武石氏の血統で、戦国時代に小弓公方足利義昭に味方して第一次国府台合戦に参戦しましたが、足利義明ともども討ち死にしてしまいます。ここで下総の武石氏が滅亡することになってしまいます。

 

↑土塁跡か?

↑堀切跡か?

 

 神社の周りを探ってたところ、土塁跡っぽいものがありますが、考古学の専門家ではないのでよくわからないです。とりあえず写真だと撮影しておきました。

 

↑真蔵院

↑真蔵院由緒

 

 由緒が非常に読みにくいですが、海上氏や武石氏が寺の創建に関わっているようです。このお寺が「武石城址」とされております。武石城は千葉常胤の三男武石胤盛によって築城され、遺構は武石氏の居城として利用されます。武石氏は後に東北に移り、戦国期の武将伊達政宗の家臣たる亘理氏の祖先となっています。一方、下総に残っていた武石氏は先に述べた通り、国府台合戦で滅んでいくことになります。

↑本堂の隣にある不動堂

 

 不動堂の裏側が城跡かと思いますので上の方に向かってみると土塁跡がありました。

 

↑土塁跡

↑平場。曲輪跡か武者走跡かと思われ。

 

 不動堂の裏側に高地があり、上ってみると城郭らしい地形があります。

↑武石城主郭と思われる平場

 

 辛うじて土塁跡や曲輪跡っぽいものを確認できますが、まぁ私は専門家ではないので間違いないかどうかはわかりません。城の主郭と思われる平場は笹が生い茂っており見渡せない状態です。まぁ冬場は害虫や草が少なく、城跡見学にはもってこいの季節ではありますが、冬でも枯れない竹や笹はいかんともし難い。しかも大抵密集しているので、地形もわからなくなっているケースがあります。ただ、幕張地区の城跡は総じて未整理かつ無造作に開発されまくっている印象が強いです。行政が史跡保護にまったく力を入れていないんだろうなぁ。この点、非常に残念に思う次第です。

 東京に近いのでベットタウンとして開発されまくるのは仕方が無いのだけれども、城跡が多くあるのに城があるという認識度が極端に低い。寺や神社の敷地に辛うじて残っている程度で、これらの遺構も小規模故にいつ破壊されてもおかしくない条々でした。非常に残念です。

 

以上、特別展「千葉氏と城館」の見学と幕張地区の史跡巡りでした。

↑ゲットしてきたもの

 

 せっかく史跡巡りに来たのだから、やはり地元にお金を落としてくるべきだと思い、図録はもちろん千葉県銚子で取れたイワシと房州のり佃煮を買ってきました。そして図録は通販でも手に入れられるものなのですが、先週の段階では受け付けていたのに現在は完売で通販が止まっていたのです。手に入れられないかもと戦々恐々としていたのですが、特別展現地販売分は残してくれていたようで、郷土博物館の方で買うことができてひと安心でした。特別展を見ただけでは、記事の原稿を書くときに利用できないですからね。「私の記憶によれば……」という書き方はよろしくない。記憶というものはあやふやなものなので。だから特別展示を見た後はかならず図録を買うようにしています。図録をあとで見返せる状態であることが、歴史記事を書く上での根拠となりますので。

 

 ということで千葉氏の研究も進んできており、今後がとても楽しみと思える特別展でした。