まず最初は、ゴールデンウィーク連休中のサークル「幕末ヤ撃団」出店告知です。
サークル「幕末ヤ撃団」サークル参加告知
イベント:スーパーコミックシティ31
日にち:5月5日(日)
場所:東京ビックサイト
ブース:東5ホール・ぬ19a
ということで、5月5日にビックサイトで開催される同人誌即売会「スーパーコミックシティ31」にサークル参加して参ります。既刊紙の頒布を行う予定で、新刊はないです。というか、新刊は現在絶賛制作中なんで(苦笑)。8月の夏コミケ合わせで新刊の完成を目指しております。
以上、サークル参加告知でした。で、まぁ新刊となる『歴史企画研究叢書11輯』ですが、掲載記事の校正作業と編集の真っ最中でありまして、原稿そのものはすでに揃っている状況。あさくら先生が世に出そうとして出せていなかった”千葉さな”の史料『千葉の名灸』は、これまで『歴史企画叢書』の各号に連載という形で紹介されてきました。しかし、後半の部分を紹介する前にあさくら先生が他界されてしまい、無念であったろうと思います。それで、今回の最後となる『歴史企画研究叢書11輯』で、史料の最後まで掲載すべく、もっか編集作業中です。
元々”おまけ”という形で始まった史料連載だったので、これまで写真などもまったく掲載していなかったのですが、今回は最後ということもありますので、ぜひ”千葉さな”に関する史跡の写真も掲載せねばと思い、今日史跡巡りに出発したわけです。
明日は東京は雨だというので、晴れてる今日しかチャンスなかったしなということで(苦笑)。
↑千葉灸治院跡地
↑千葉灸治院跡地
足立区の千住にある千葉さなが開業した「千葉灸治院跡地」です。さなのお灸は父から教わった烈公徳川斉昭直伝のお灸で、これが評判を呼び、「千葉灸治院」は非常に繁盛したという話。なお、よく坂本龍馬の許嫁だったとされ、未婚のまま死去したみたないな俗説がありますが、さなは結婚もしていますし子孫もいます。
また、「佐那」と漢字の名前も俗説らしく、正確には「さな(ひらがな)」もしくは子が付いて「さな子」だそうです。故あさくら先生も、千葉さなに関する研究論文を書かれてまして、私もあさくら先生に連れられて何度かココに来ています。が、その時は掲載用の写真撮りではなく、史跡来た記念に撮影したレベルのもの。この写真を掲載用にするのは不満があったので、今回改めて撮影し直したわけです。
↑案内版??
以前は史跡に説明板が張ってあったような気がしますが、今はなくなっちゃったのかのう??。なお、故あさくら先生から聞いたところでは、「知らない間にいろんな物が建ってるなぁ」とおっしゃっていたので、跡地に建てられている説明板等にあさくら先生はノータッチっぽかったです。
で、一応同人誌掲載用の写真撮影は終わりなわけですが、せっかくここまで来たのだからということで、以前から行こうと思っていた武蔵千葉氏の城を見に行きます。
↑石濱神社(石浜城跡推定地)
南千住というか足立区から荒川区ですが、そこに石濱神社があります。この周辺に下総の千葉を追われた千葉宗家子孫千葉実胤が入った石浜城があったといいます。石濱神社はその推定跡地とされてます。
以前、当ブログで紹介した「中曽根城」は、この石浜城の支城に位置づけられまして、本城はこちらの石浜城らしいです。板橋の赤塚城には千葉実胤の弟千葉自胤が入りました。そして武蔵千葉氏となり、仇たる佐倉城の下総千葉氏を倒して千葉城を取り戻す再挙の地となったわけですが、まぁそう上手くはいかず、享徳の乱とか小田原北条氏の勢力拡大とか色々とあって、石浜城を維持できずに……という勢力減退の一途を辿っていくという感じ。
でも、下総千葉氏も似たり寄ったりで、こちらはこちらで南から里見という勢力に追い立てられてたからねぇ(苦笑)。ともあれ、この隅田川を挟んだこの地が、下総千葉氏と武蔵千葉氏の勢力争いの最前線であったことは間違いないと思われます。
↑石濱神社社殿
↑案内版
↑案内版
↑石浜城跡全景
石濱神社は隅田川のほとりにあり、近隣は開発されまくってますので城跡の遺構などはまったくありません。
↑隅田川
石浜城跡付近の土手から隅田川の望むと「白鬚橋」があります……っていうか……あの高い建物は「リバーサイド墨田ビル」という名で、私が20年前に派遣されてた大手ゼネコンで設計図書いて建てたビルじゃん……。しかも、完成後は大手ゼネコンがこのビルに入ったので、私もここに毎日出勤してた……。道理で見覚えのある場所だなぁと思ったわけだわ……。もっぱら、白鬚橋を渡ってこちらがわに来ることがあまりなく、逆方向に曳舟駅方面から通ってたからなぁ。気づかなかったわ。
↑白鬚橋たもと付近
↑三条実美別荘跡説明
↑橋場の渡し跡説明
白鬚橋周辺には「三条実美の別荘」があったらしいです。知らなかったな~。偶然の発見しちゃいました。で、ここが白鬚橋なら、川を渡った向こう側に榎本武揚絡みの史跡があったはずだ。ということで、久しぶりに行ってみることにしました。
↑懐かしいステーキ屋
白鬚橋を渡ってすぐの交差点にあるステーキ屋。20年前の若い頃に、給料日のお昼ご飯はここのステーキでした。レアのステーキの美味さを知ったのもこのお店です。懐かしい~。まだ営業してたんだねぇと感慨深いです。
↑榎本武揚像
↑榎本武揚像案内版1
↑榎本武揚像案内版2
榎本武揚は、晩年にこの隅田川周辺に屋敷を持ち、よくこの周辺を散歩していたんだそうです。ということで、屋敷跡も見に行ってみますか~。と、予定外の史跡巡りに発展(苦笑)。
ということで、再び白鬚橋の方へ……。時刻はお昼の11時をまわったところ……ということで……
↑お昼ご飯のレアステーキ
入っちゃいましたステーキ屋(爆)。これこれ、給料日ステーキです!(爆)。約20年振りか~懐かしいのう~。昔と変わらぬ味で御座る。相変わらず美味いです。普段であれば行列ができるようなお店でして、お昼時は並ぶんですが今日は少し早めだったこともあり、すんなり入店できましたわ~。あ~やっぱステーキはレアだねぇ~。美味いわ~♪。
↑榎本武揚旧居跡
↑榎本武揚旧居跡説明
ということで、榎本武揚邸跡です。晩年の榎本は、ここから隅田川の土手を散歩していたらしいです。で、案内版の史跡案内によると「依田学海邸跡」も近いらしい(汗)。なので、さらに足を伸ばします。
↑依田学海旧居
↑依田学海旧居跡説明
依田学海は文学者として有名ですが、幕末期は譜代佐倉藩士として活躍しており、戊辰戦争勃発時には江戸城にいて情報収集していました。京都から帰還した直後の新選組近藤勇や土方歳三から鳥羽伏見での戦いの様子を聞き、土方は「什器は砲に非ざれば不可。僕、剣を佩び槍を執り、一も用いる所無し」と答えています。この土方の言葉は、戊辰戦争が武士による刀槍主体の合戦ではなく、銃砲主体の戦争だったことを示す有名な言葉となって今日に伝わっています。
↑成島柳北住居跡案内
依田学海と同じ地区に居を構えていたっぽい儒者成島柳北の史跡です。依田学海住居跡と同じ場所に案内版がありました。彼は儒者から出発しますが、福沢諭吉などと親交を結んで開明的になっていき、明治政府からも招かれましたが断って民間から日本の近代化に貢献した人物です。
以上、荒川区から墨田区界隈をうろうろし終わったので、石浜城跡の次の本来のターゲット史跡に向かいたいと思います。今度は江戸の国学関係ですね。
↑賀茂真淵県居の跡
↑案内版
国学創生期の荷田春満から国学を学び、『万葉集』の研究をした賀茂真淵の住居跡です。中央区に史跡があります。さすがに開発されまくっている地区なので、遺構や当時の雰囲気を留めるものは何もないビジネスビル群のなかにあります。
この賀茂真淵の弟子が本居宣長で、本居は『古事記』の研鑽を行って『古事記伝』を著し、国学というジャンルを大成しました。この本居に影響を受け、「没後の門人」と称したのが平田篤胤となります。
ここから神田明神へ向かいます。
↑神田明神
↑神田明神門前にある「国学発祥の地」標柱
神田明神は国学と縁深い神社で、京都から来た荷田春満や賀茂真淵が国学を広めた拠点でもあります。なので、「国学発祥の地」と記されていますが、どう考えても国学発祥地は”京都”なので、正確には「江戸での国学発祥の地」となります(苦笑)。
↑国学発祥の地碑
↑国学発祥の地碑文
京都にいた荷田春満が国学普及を訴え、勅使に従って江戸に下向した際に、この江戸に留まって国学を教えた場所に由来します。江戸滞在中に荷田から教えを受けた者のなかに賀茂真淵もいました。その意味では江戸での国学普及はこの地からはじまったと言えましょう。
この国学発祥の地碑の写真は、以前にも撮影してたはずなのですが、どこかに行って見つからない(汗)。なので、今日改めて立ち寄って撮影してきた次第です。
↑昌平坂学問所跡
↑説明板
神田明神に行く途中の聖橋のたもとにありますので、行きがけの駄賃として撮影。幕府の学校・昌平坂学問所跡ですね。横に湯島聖堂がありますが、今回はスルーしました。さすがに足にダメージが溜まってきたので~。
以上、隅田川界隈の史跡巡り立ち寄りが思ってたより多くなり、午前中で終わると見込んでいたのに午後三時まで史跡巡りしまくったという結果となりました。何分、足に腱膜炎を抱えている身の上なので、長時間歩くのが辛いのでござる。一年以上患っているのですが、なかなか治らんのう……(泣)。
以上、久々の史跡巡りでした。GW連休になったらまたどっか行こうと思います。