幕末ヤ撃団 -4ページ目

幕末ヤ撃団

勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 前九年の役より20年後の1083年、再び奥六郡で後三年の役が勃発する。はじまりは前九年の役によって奥六郡を支配することになり、出羽と陸奥の二ヶ国に跨がる広大な地域を支配した清原氏の内紛からだ。
 この時代は、前回の前九年で活躍した源頼義や清原武則の子の時代となっており、河内源氏の惣領も頼義の子たる源義家に、清原氏も清原武則から武貞、次いで真衡へと世代交代している。

↑源義家像(東京都府中)

↑源義家像説明

 さて、清原氏の内紛・御家騒動について説明しておこう。前九年の役で活躍した清原武則には、清原家を次ぐべき後継者として直系の武貞、孫に当たる真衡がいる。ただし、武貞は前九年の後に陸奥進出のために安倍頼時の娘と再婚した。陸奥国の元々の支配者である安倍氏の血を清原氏に入れ、出羽の清原氏が安倍氏の奥羽支配を引き継いだ形としたのである。しかし、この安倍氏の女性は元々は藤原経清の妻であり、経清との間に清衡という子をもうけていた。経清は源氏を裏切っての敗北によって断罪されたが、子の清秀は母の清原氏への再婚で罪を免れ、清原氏へ連れ子養子として迎えられていた。
 安倍氏の女性と結婚した清原武貞の方も、元々の妻との間に子・真衡をもうけている。元々の妻がどうなったのかは解らないが、結局安倍氏の女性とは再婚であった。つまり、清原真衡は清原氏の血を受け継ぐ跡取り長男だが、安倍氏の血は入っていない。一方、再婚した安倍氏の女性の連れ子たる清衡は、安倍氏と秀郷流藤原氏の血を引いているが、清原氏の血は入っていない。この真衡と清衡が義理の兄弟という関係である。さらにややこしいことに、武貞と安倍氏の女性は再婚後に新たに子を作っている。これが家衡だ。家衡は安倍氏と清原氏双方の血をひいている。しかも清原氏当主となっている真衡は子に恵まれず、結局養子として国香流常陸平氏の一門から養子・清原成衡を向かえて清原氏後継者候補としていた。これが清原氏の三兄弟の関係であり、御家騒動を起こしてくれと言わんばかりの後継関係である。


【安倍氏と清原氏の関係系図】

 安倍頼時-貞任
     |
     ⊥宗任
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     | 藤原経清
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     |  ⊥清衡(奥州藤原氏)
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     ⊥頼時の娘
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        ⊥家衡
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清原光頼-武則-武貞-真衡成衡(養子・御家後継予定)
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       ⊥武衡
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       ⊥女
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       吉彦秀武

 事の発端は、清原氏の重鎮吉彦秀武が真衡の態度に激怒したことだった。実は当時、河内源氏の源義家が陸奥守に任官して陸奥国府たる多賀城に着任していた。真衡は養子の成衡にハクを付けさせる意味もあり、源頼義の娘と成衡の結婚を取り付ける。源頼義も承諾して婚約は成立、清原家は河内源氏惣領家と縁続きになることが確定した。簡単に言えば成衡と源義家は義兄弟という間柄になるということだ。清原惣領家の祝い事だから、一族の重鎮吉彦秀武も祝いに真衡の元にやってくる。ところが真衡は惣領として威勢を張るところがあり、一族の家衡や清秀から良く思われておらず、一族の重鎮吉彦秀武とは特に険悪な仲だったのである。それでも惣領家の祝いということで、我慢してやってきた吉彦秀武を放り、真衡は囲碁に勤しんで無視したのである。この態度に吉彦秀武は怒り、手土産に持参した砂金を庭にぶちまけて帰ってしまったという。
 この秀武の態度に逆ギレしたのが真衡だ。不仲になって三年後の1083年、真衡は吉彦秀武討伐の軍を起こし、両者の争い合戦に発展した。兵力的には清原惣領の真衡が勝っている。不利な吉彦は、日頃仲が悪かった清原家秀と清原清衡に支援を要請、これを受け入れた家衡と清衡の二人は、吉彦秀武討伐に出向いて留守になっている真衡の本拠を攻めようと出兵を開始した。かくして、清原家一族の内紛は大規模な合戦に発展してしまう。
 当初は有利だったはずの真秀だったが、家衡や清衡まで敵となる事態を前に、縁続きとなっていた河内源氏の支援を仰ぐべく、陸奥守として陸奥国府に入っていた源義家の元を訪れて協力を要請する。義家もこれを受け、真衡を支援すべく国府から出兵した。源氏軍の援軍を得た真衡は、後顧の憂いなく吉彦秀武討伐の軍を再び起こすのだが、出兵の最中に突然病気を発病させ死去してしまった。
 この戦いは、元々清原真衡と吉彦秀武の戦いである以上、片方の真衡が死んでしまえば戦う理由がなくなる。家衡と清衡も陸奥国守たる源義家相手に戦う気はなく、二人とも義家の軍門に素直に下ったことで、この内紛は一旦は収まることになる。

 戦後処理として、源義家は仲介者となって両軍の間に立ち、真衡の遺領陸奥六郡を三郡づつの二つに分け、家衡と清衡の二人に均等に分け与えることにした。
 ところが二年後の1085年、この遺領配分に納得いかなかった家衡が兵を挙げ、叔父である清原武衡と連合して清衡への攻撃を開始する。彼らの不満は、遺領の半分を受け継いだのが、養子ではあっても清原氏の血をまったく受け継いでいない清衡が継承したことだった。清原家から見れば、前九年の役で滅んだ安倍氏の遺児に領地を奪われたようなものだったのである。
 家衡は武衡支援の元に清衡と激しい戦いを行い、ついに清衡の本拠・館を襲撃して清衡の妻子、従者をことごとく殺戮してしまう。滅んだ安倍氏の一族である清衡では、清原氏総力をあげて攻撃には耐えられない。窮した清衡は陸奥国府に逃げ込み、窮状を国守源義家に訴えて助けを乞うた。自分が仲介した遺領配分を巡ってのいざこざが原因となれば、義家も黙ってはいられない。自身の裁定に文句があるのかと言わんばかりに清衡に味方し、家衡・武衡連合軍を叩きつぶすべく、1086年の秋に一千騎を率いて国府を出陣する。

 義家の出陣を知った家衡は、出羽の沼柵に立て籠もり徹底抗戦した。沼柵に攻めかかった義家軍だったが地の利がないこと、季節は晩秋から冬であったために降雪にも悩まされて難戦を強いられ、戦局が泥沼化して長期戦になると兵粮不足にも陥った。美濃・三河・坂東から招集している兵たちも疲弊しきってしまい戦闘継続が困難となる。やむなく義家は兵を引き、国府多賀城へ撤収する他なくなってしまう。
 義家が撤退すると、家衡支援のために来援した叔父の武衡が沼柵に到着。河内源氏惣領たる義家を撃退した家衡の武勇を絶賛する武衡だが、義家の再来攻に備えてさらに堅固な金沢柵への転陣を提案。家衡はこれを受け入れて金沢柵に移った。

 一方、義家は1087年の夏になっても腰をあげようとはしない。次の失敗は河内源氏惣領として許されないからだ。十分な兵力と軍備が整うまで力を充填し続けていたと考えられる。京都に居た義家の弟、源義光は兄の苦戦を知り、朝廷での官職を投げ打って援軍として奥羽に駆け付けた。兄義家が感激したことは言うまでもない。かくして1087年秋、清衡義家連合軍に義光軍も合流、一万騎を越えるほどの大兵力を動員し、河内源氏の総力をもって金沢柵に向け出陣を開始することとなる。

 金沢柵での戦いは激戦となった。堅固な金沢柵に家郷・武衡連合軍が籠城し、義家軍はこれを包囲したものの攻め倦ねている。再び季節も冬に移り、降雪や寒さが義家軍を悩ませたのだ。苦戦に陥った義家軍だが、義家軍に従っていた吉彦秀武が義家に力攻めをやめて兵粮攻めにしたらどうかと提案する。これを受け入れて義家は兵粮攻めに方針を転換した。ちなみに、これが日本史上初の兵粮攻めとされる。
 今度は金沢柵に籠もっている家衡・武衡が兵粮不足に苦しむ番であった。戦いは長期戦になっていたが突如金沢柵内部で出火が起こる。出火原因は判然としないが、籠城側の兵が火事を理由に脱出を試みようとして自ら火を放ったとも言われる。すでに城内の兵粮は尽きており、餓死者が続出している状態で、籠城している兵たちも精神的に追い詰められていたのだろう。
 この城内の異変を見逃さなかった義家は、金沢柵への総攻めを開始した。籠城軍にもはやこの攻撃を耐えるだけの体力はなく、城内は阿鼻叫喚の殺戮劇場と化す。家衡も脱出を試みるも失敗して討死。武衡は捕縛されて義家の前に引きずり出された後、斬首されたという。

 この時代の合戦では、捕虜を取るということをしない。敵の首を取れば取るほど手柄になるからだ。だから傷ついた敵であろうが、死んでいる敵であろうが構わず首を取って手柄にしてしまう。長期籠城中に飢餓に耐えられず脱出して降伏を願い出てきた敵兵は、すべて殺されている。当然総攻撃に際しては敵兵一人残らず殺すという殲滅戦の様相となる。深手を負って助けを求める敵でも殺して自身の手柄とするのがこの時代の武士道「兵(つわもの)の道」であり、一般常識だった。

 こうして後三年の役は終了する。陸奥六郡は勝者となった清原氏最後の一人たる清原清衡に与えられ、後に鎮守府将軍の地位を与えられた。清衡は姓を清原から本来の藤原に戻し、藤原清衡とする。こいうして奥州藤原氏初代となり、ここから奥州藤原氏の栄華がスタートした。一方、清原氏は血を受け継ぐ後継者の多くを失ってしまったため、滅亡の道を歩むほかなくなっている。
 一方、戦乱を鎮めた義家は、朝廷に戦勝の報告して恩賞を得ようとした。恩賞を得て、それを奮闘してきた部下の兵たちに分け与えなければならなかったからだ。ところが、清原氏は朝廷に納税を続けており、内紛に陥ったのも清原氏の私的な問題で朝廷には関係がなかった。この時代の中央政府たる朝廷は、地方に求める納税が滞らねば良く、地方の内紛や戦乱など問題視しないのだ。だから、後三年の役も同様で納税を続けていた清原氏は、朝廷に楯突いたわけではないという判断がされる。後三年の役は、本来は気清原氏の内紛に過ぎず、そこに源義家が国守の立場で勝手に介入したに過ぎない。つまり、朝廷が命じた公戦ではなく、清原氏と源氏の私戦と朝廷は見なしたのである。結果、勝手にはじめた私戦に朝廷が恩賞を出す理由はなく、義家への恩賞はなしと決まってしまう。
 困ったのは義家である。共に戦ってくれた部下たち、武士・兵(つわもの)たちに与える恩賞が朝廷から出されなかったのだから。義家は軍事貴族、武家の棟梁として合力した部下たちに恩賞を与える義務があった。これが中世の忠義「ご恩と奉公」の関係だからだ。主君として恩賞を部下に与えなければ、部下たちも主君に奉公しなければならない義理もなくなり、武士や兵たちは自分の元を去ったり、主君としての信頼を失って次の戦いの際に兵を出し渋り、合力しなくなってしまう。それでは困るので、何が何でも部下に恩賞を与えなければならないのが河内源氏惣領源義家の立場だ。
 結局、前九年の役で父源頼義がそうしたように、義家も私財を投げ打ち、自身の支配地を自分に従ってきた武士・兵(つわもの)に分け与えたりして部下へ与える恩賞をひねり出して与えた。義家に付き従う武士・兵(つわもの)たちは感激し、朝廷や天皇よりも自身が主君と思い定めた源氏に信頼を寄せる決定だとなっていく。特に坂東の武者たちは頼義・義家と二代に続く重代の信頼となって不動のものにったのである。

後三年の役で語られた武士道「兵(つわもの)の道」

 さて、後三年の役の概略を前述の通りだが、武士道論の見地から見逃せないことは、明確に武士の倫理精神たる「兵(つわもの)の道」が語られたことだろう。
 金沢柵籠城戦の最中、義家に従っていた十六歳の若武者鎌倉權五郎景正は、戦いの最中に敵の矢を右目に受けて負傷する。景正は刺さった矢を折り、矢が顔に刺さったままで戦闘を継続し、敵を倒している。その後、自陣に帰って来た景正は「傷を負った」と言って倒れてしまった。同じ相模の武士三浦の平太郎為次が近寄り、顔に刺さった矢を抜こうと景正の頭を足で踏んで固定した途端、突然景正が為次を掴み、刀を抜いて突こうとする。為次が驚いて「何をする!」と言うと、景正は「弓箭にあたりて死するはつはものののぞむところなり。いかでか生きながら足にてつらをふまるる事あらん。しかじ汝をかたきとしてわれ爰にて死なん(『奥州後三年記』より抜粋)」と答えた。為次は舌をまいて言い返すこともせず、ただ今度は膝をもって顔を固定し矢を抜いたという。
 弱冠十六歳の武士にして、この覚悟である。たとえ同郷の出身、味方旧知の仲であっても顔を踏まれる恥は許さないという武士精神が理解できよう。名前に鎌倉、三浦とあり両人共に相模の兵(つわもの)とされているので二人とも坂東武者である。鎌倉權五郎景正は鎌倉の在地豪族と思われ、義家の直下に従っていたと考えられる。
 なお、三浦為次の父は三浦為通といい、源頼義に従って前九年の役に出陣、その戦功によって三浦の地を与えられ三浦性を名乗り、相模の武士団三浦党の祖となった。為次(為継)は為通の後を継いだ二代目である。ただし、領地を与えられたというと語弊があるかもしれない。この時代、私有地の所在を確定できるのは朝廷であり、武家貴族である平氏や源氏の棟梁といえども土地を与える権限は持っていないからだ。従って、自身の領する土地を分け与えたか、その土地の利権を管理する権限もしくや職を彼らに与え、その地位立場を保証したとするほうが正確なのかもしれない。
 鎌倉・三浦の両者ともに祖先は国香流平氏、もしくは良文流平氏の末裔とされる。諸説あるのはそれぞれ異なる系図があるためにどちらが正しいか判断が付かないためだ。どちらにせよ、鎌倉が源氏に譲られてから河内源氏に従った坂東平氏の兵(つわもの)であり、坂東平氏が河内源氏を主君としていることの証明と言えよう。

↑三浦氏三代の墓所(中央が三浦平太郎為次(継)の墓石)

↑三浦氏三代の墓所説明

 さらに金沢柵の戦いが終わった時、捕らえられた清原武衡は源義家に「一日だけでも」と命乞いをしている。義家はこの懇願を拒否し、即刻武衡の斬首を行った。まさに斬首される直前に、副将を勤める弟源義光が兄義家に「つわものの道。降人をなだむるは古今の例なり。しかるを武ひら一人あながちに頸をきらるる事。その心いかが」と問い質している。義家は、この問いに対して「降人といふは。戦の場をのがれて人の手にかからずして後に咎をくひて首をのべてまいるなり。所謂宗任等なり。武衡はたたかひの場にいけどりにせられてみだりがましく片時のいのちをおしむ。かれをば降人といふべしや。君この禮法を知らず『奥州後三年記』より抜粋」と義光をたしなめて武衡の処刑を行っている。

 この史料『奥州後三年記』のなかで、明確に「つわもの(兵)の道」と武士・兵(つわものの)の倫理道徳としての「道」が語られており、義家が敵将の処断に関して「武家の礼法」一般常識としてそれに従っていること。義光のように敵に憐れみ、その感情に流されて敵将を助けようとする態度は、一見すると温情ある武将の態度で仏教や儒教道徳に即した行いではあったが、武士としての慣例礼法を破ることになってしまう。これは武士として取るべき行動ではないと義家は言うのだ。
 この記述から、当時に「兵(つわもの)の道」という、武家独自の倫理道徳が存在して武士の間で用いられていたことが解る。さらに、当時の武士の間での認識では、降伏とは罪を謝罪して敵の軍門に降ることだが、敵に捕縛されて逃れられない状態になってから見苦しく降伏を口にするのでは降伏者とは認めないという厳しい武士の認識がわかる。武士は「恥」を極度に嫌うし、戦場において逃げたりする臆病者や卑怯な振る舞いをする者は武士であっても武士とは認めないのだ。まして戦場で苦し紛れに自身の命乞いするなどもってのほかであり、武士として生かす価値もないという判断が当時の「つわものの道」にあることが認められる。
 武士にとって、戦場は自身の武名をあげるハレの場であり、そのハレの場で虚勢であっても強さを見せようとするのが兵(つわもの)の道だ。逆に弱さを見せることは恥となる。恥を恥と思わない者は武士・兵(つわもの)とはいえないのである。このような武士精神を持っていない者は、たとえ武士身分であっても武士と認めず、武士としての待遇は行わないのだ。こうした事例から、武士・兵(つわものの)の社会では、仏教や儒教道徳よりも「兵(つわもの)の道」の倫理が優先される。ただし、こうした認識は武士同士が戦う合戦の場、武士がすべてを支配する戦場の倫理ルールかと思われる。合戦ではない平時であれば、「兵(つわもの)の道」を意識しつつも、武士としての振る舞いに反しない限り仏教儒教道徳も意識され、これら異質の倫理道徳の共存がはかられたものと考えられる。

↑三浦氏の居城・衣笠城

↑衣笠城説明。前九年の役の戦功で三浦氏の祖となる村岡為通が三浦の地を得て築城されたと伝わる。

 

【主要参考文献】

『群書類従 第二十輯(続群書類従完成会編)掲載史料「奥州後三年記」』
『平安王朝と源平武士(桃崎有一郎著・ちくま新書)』
『戦争の日本史5 東北の争乱と奥州合戦(関幸彦著・吉川弘文館)』
『小学館ウイ-クリ-ブック週刊戦乱の日本史29 新説前九年・後三年の役(小学館)』

 

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永承6年(1051)から康平5年(1062)にかけて、陸奥むつの豪族安倍頼良(頼時)とその子貞任・宗任らが起こした反乱を、朝廷が源頼義・義家を派遣して平定させた戦役。後三年の役とともに源氏が東国に勢力を築くきっかけとなった。

↑源義家画

【前九年の役概略】
 「前九年の役」とは、1051年から1062年にかけて起こった奥州での戦争のことを指す。ことの発端は、陸奥六郡に根を張っていた豪族安倍氏が、税を朝廷に納めることをせず、かつ衣川柵の境界線を越えて南進に兵を進めてその勢力範囲の拡大を試みたことにある。
 安倍氏については『陸奥話記』によると「陸奥六箇郡の司に、安倍頼良といふ者あり。是れ同忠良の子なり。父祖忠頼は、東夷の酋長なり。威名大いに振ひ、部落皆服す。六郡に横行し、人民を劫略す。子孫尤も滋蔓せり。漸く衣川の外に出て、賦貢を輸さず、徭役を勤むることなし」とある。
 安倍氏の素性に関しては、元々は東夷(蝦夷・大和朝廷に従わない地方豪族)のリーダー、在地の有力者として成長し、後に大和朝廷に従って陸奥六箇郡を委され地方郡司層(司)として安倍氏を名乗ったのだろう。安倍頼時がなぜ突然税を納めることを止め、支配地域を広めようとしたのかは解らない。ただ平安時代初期から中期にかけての地方行政に関し、中央の朝廷の態度は冷淡であり、受領(国司)を派遣して規定の税を納めさえすれば、あとは受領(国司)が中間搾取をしようとしまいと構わないといった態度である。地方で災害が起ころうが治安が乱れようが、規定の税さえ納めているなら関心を持たないのだ。こうしたことから、在地の有力者が地方の治安維持や安全保障を行うようになり、地域のリーダーとして振る舞うがゆえに中央の朝廷と対立してきたことは、「平将門の乱」や「平忠常の乱」で説明した通りである。
 当然ながら、中央から陸奥国多賀城(陸奥国衙)に派遣されていた国司陸奥守藤原登任は安倍頼良の討伐に動き、出羽にいた平重成と連携しながら数千の兵たちを動員して安倍頼良討伐に打って出た。この時、藤原登任が動員した兵(つわもの)は、国司の権限で近隣の豪族を動員したもので国衙兵であったろう。
 鬼切部での戦いでは、俘囚(蝦夷)を駆使して戦う安倍頼良に国衙軍は苦戦を強いられ、ついに敗北を喫してしまう。この結果を受けて、中央の朝廷では藤原登任に替えて河内源氏惣領源頼義を新任の陸奥守兼鎮守府将軍とし、安倍氏討伐に向かわせることとなる。このことは、これまでのように純然たる官人を国司(受領)として地方に送り込んでも、地方の有力者の武力が強ければ侮られて納税が滞ることを示唆している。地方で勢力を強める豪族や有力者・郡司層を威圧できるだけの武力を持つ武家でなければ、地方を治めて税を取ることができない状況になってきたと考えられ、必然的に「平忠常の乱」を鎮圧した源頼信の子たる源頼義に白羽の矢が立ったということだろう。頼義の妻は坂東国香流(貞盛流)平氏の平直方(平将門を討った平貞盛の子孫)の娘であり、平直方から鎌倉を譲られ、ここを拠点に河内源氏でありながらも坂東に勢力を築きつつあった源氏の棟梁こそ源頼義である。
 この頼義の子こそ、源氏最強伝説を打ち立てる坂東平氏と河内源氏のハイブリッド血統たる源義家だ。この義家も父頼義に従い、父子ともに陸奥国へ出陣していくことになる。むろん、源頼義や源義家の思惑は別にある。それは坂東に続いて奥羽にも源氏勢力を扶植することだった。陸奥守(受領・国司)への任官で陸奥の行政を、鎮守府将軍の地位で奥羽における軍事権を握れるわけで、これほど良い条件はなかったはずだ。特に奥羽は平安の昔から金の産出国であり、ここを押さえられれば軍事貴族としての源氏の地位は確固たるものとなる。源氏と並ぶ軍事貴族である平氏は、房総の戦乱「平忠常の乱」を鎮圧できなかったことや、平将門や平忠常ら反乱を起こした者が皆平氏だったことで、軍事貴族としての信頼性を落としていた。つまり、平安時代初期においては、平氏同志の内紛によって朝廷内でその信頼を失いつつあったのであり、そのスキを突いて後発の源氏が勢力を伸ばしてきたと言えるだろう。

 こうして1052年に陸奥国に着任した源頼義父子であったが、このタイミングで朝廷が大赦を行い、討伐対象であった安倍頼良の罪が消滅してしまう。この大赦は「上東門院の御病悩よる大赦」とされる。時の70代後冷泉天皇が、先代の天皇である69代後朱雀天皇や68代後一条天皇の母たる上東門院の病気が悪化しており、その平癒を願っての大赦だった。
 なお、この上東門院とは66代一条天皇の皇后で、藤原道長の長女・藤原彰子のこと。現在放送中の紫式部を主人公とする大河ドラマ『光る君へ』で、一条天皇の中宮として入内し、御所のなかでいつでもボケっとしている(苦笑)藤原彰子その人である言えば解りやすいだろうか。大河ドラマ作中では、いまのところパッとしない中宮として描かれているが、歴史上では自身が生んだ二人の子が二連続で天皇となっており、「天下第一の母」との名望を得て歴史に名を残す人物となっている。

 かくして安倍氏との戦争は戦わないうちに終わり、安倍頼良は以前のように朝廷に納税を行うかわりに、これまで得てきた利権や領地は保全されることとなる。一方の源頼義は陸奥国守のまま戦いを収めた。この時、安倍頼良は源頼義と名前の読みがおなじであることを憚って安倍頼時と名を改め、朝廷へ臣従の姿勢を現したという。
 何事もなく五年の歳月が過ぎた1056年、源頼義の国守任期も切れようとする時に事件が起こった。源頼義一行が府務を行うために胆沢にある鎮守府に入った。その後、多賀城の陸奥国府に戻るのだが、この帰路において野宿していた源頼義配下の武将藤原説貞の子、光貞・元貞らが何者かに夜襲され、人馬を傷つけられてしまう。
 源頼義は、藤原光貞を呼び、襲撃犯に心当たりはないかと問うたところ、光貞は「頼時が長男貞任、先年光貞が妹を娉せんと欲するに、其の家族を賤むるを以て之を許さず。貞任深く恥となす。之を推すに、貞任が為る所ならん。此の外に他の仇なし(『陸奥話記』より抜粋)」と答えた。これを聞いた源頼義は安倍頼時に長子貞任の引き渡しを要求する。安倍頼時は、この要求に対して「人倫の世に在るは、皆妻子の為なり。貞任愚なりと雖も、父子の愛棄て忘るる事能はず。一旦誅に伏せば、吾れ何ぞ忍びんや」と語り、源頼義の要求を拒絶、衣川の関を閉じて源頼義軍の来攻に備えた。
 源頼義は、安倍頼時の態度に激怒し、坂東の地から兵(つわもの)たちを呼び寄せて大軍を組織、かつ朝廷からも安倍氏追討の宣旨を出され、ここに本格的な戦争へと発展していく。
 なお、この襲撃事件に関して現在は安倍貞任が犯人だとは言い切れず、実際には陸奥国守任期切れ間近だった源頼義の自作自演の事件を起こし、安倍氏再追討を理由に陸奥国守再任を狙ったものとの説が有力視されている。頼義の真意は不明ながら、当時のこの地域は、日本で唯一と言って良いほどの豊富な金の産出地域だ。この金が有る限り、奥羽六郡の価値ははかりきれないほど巨大なものと思われ、源頼義がこの地域の覇権にこだわる理由としては十分であったろう。

↑多賀城(陸奥国府)ミニチュア


 この戦いに際し、源頼義は策略で安倍氏の一党の切り崩しをはかった。奥州奥地の俘囚(朝廷に従っている蝦夷)を説き、さらに安倍富忠を味方に引き入れ、安倍頼時追討に立ち上がらせている。さらに自軍内にいる武将平永衡を粛清した。平永衡は前任国守藤原登任の郎従として陸奥国に下向し、そのまま土着した人物だ。土着するにあたり安倍頼時の娘と結婚し、安倍氏の一門に連なっている。源頼義が軍を起こした時、平永衡は官軍である頼義に従い安倍氏追討軍に加わっていた。だが讒言があり、永衡は敵と内応している。ことさら煌びやかな鎧に身を包んでいるのは、頼時軍に味方である自分を攻撃させないためではないか?」という疑惑が頼義の元に届く。こうして源頼義は疑惑を持ち、裏切られる前に平永衡を討ってしまったのである。
 これに驚いたのが源頼義軍に参加していた藤原経清だ。経清は源頼義の弟源頼清の家臣であったから、必然的に源頼義軍に参陣していたのだろう。ところがこの経清もまた安倍頼時の娘と結婚していたのである。どんなに忠節を尽くしても、簡単に疑われては報われないと思った藤原経清は、私兵八百人を率いて源頼義軍を離脱、安倍氏に寝返った。ちなみにこの藤原経清は藤原秀郷から数えて五代目の子孫であり、安倍頼時の娘との間に藤原清衡をもうけている。この藤原清衡こそ後の奥州藤原氏の初代となる人物だ。

 一方、安倍頼時は北方の安倍富忠が俘囚を率いて源頼義軍に味方することを聞き、これを阻止しようと北方へ兵を向けたが、その途上の戦いにおいて流れ矢に当たり重傷を負い、この傷が元で死去してしまう。これを受け嫡子安倍貞任が後を継ぎ、安倍一党の総大将となって戦うことになる。
 
 戦いは地の利を生かして戦う安倍貞任が頑強に抵抗し、頼義軍の進軍は進まず泥沼化する。この状況を打開しようと、源頼義は手勢千八百人を率いて国府から出撃し決戦を挑もうとする。対する安倍貞任も四千を率いて出撃、黄海(きのみ)で両軍による決戦が行われた。この戦いは冬期に行われ、東北の降雪が安倍軍を利し、しかも兵力も源頼義軍の二倍だったことから官軍たる源頼義軍を安倍軍が圧倒、源頼義は窮地に立たされて脱出を試みる。この時、大活躍して父頼義の窮地を救ったのが源義家だ。義家の勇戦でなんとか脱出に成功した頼義だったが、この時に従っていたのはわずかに七騎だけだったと言われ、多くの配下を失っている。頼義軍の惨敗である。
 源頼義は、一旦軍を引きその立て直しのために長い時間を必要とすることになってしまう。このように安倍貞任が徹底抗戦に出たのは、そもそもこの戦いの原因となったのは安倍貞任の嫁取り一件からであり、それが源頼義の自作自演の策謀だったとしても安倍貞任から見れば、源氏に恥を与えられたことに違いはない。であれば、武士として源頼義に下げる頭を安倍貞任は持ち合わせてはいなかったということだろう。
 一方、源頼義も負けたとはいえ奥州を諦める気はない。軍の立て直しの間、頼義は出羽で勢力を築いている清原光頼の協力を得ようと努力を重ね続けた。黄海の戦いから四年後の1062年、ついに清原光頼が重い腰をあげ、弟清原武則を陸奥に派遣した。その兵力は一万と桁違いの兵力だ。この四年の間に当然ながら源頼義の陸奥国守の任期は切れており、新任の国守高階経重が京都から陸奥にやってきたが、任期が切れても源頼義は京都に帰ることはなく陸奥に陣取っている。この状況では、勢い在地の郡司や有力豪族達もそのまま源頼義に従っている状況で、新任の高階経重がやってきても誰も従ってはくれない。しぶしぶ高階経重は一年程度陸奥で地方行政に関わったが、為す術もなく京都へ帰り陸奥守を解任させられている。当然、次の国守には源頼義が再任され、引き続き安倍氏討伐を継続することになった。

 ともかく出羽の清原軍一万の参戦によって源頼義軍が俄然有利な状況となる。兵力にものを言わせて陸奥六郡に攻め込んでいった。安倍氏の最前線拠点である小松柵を力攻めで落として北上、途中で安倍軍の決死の反撃を受けるも、源義家らの奮戦で退け、安倍貞任を衣川柵に追い詰める。防備を固める安倍軍だが、源頼義と清原武則ら連合軍が兵力にものをいわせる総攻撃をしかけ、ついに衣川柵を打ち破った。安倍貞任は自身の本城である奥六郡最北の厨川柵に立て籠もった。この厨川柵は天然の要害であり、安倍軍はこの要害に持てる全兵力を集中させたのである。
 源氏清原氏連合軍も瞬く間に厨川柵を包囲、まずはこれまで通りの力攻めに出るが大打撃を蒙ってしまう。翌日、源頼義は力攻めから火攻めに方針を転換し、厨川柵に猛攻をかけた。風に煽られた炎は厨川柵の建物に飛び火し、中にいた人々を焼死させていく。しかし、それでも安倍貞任は頑強な抵抗を続け、降伏する気は全くない。この様子を見た清原武則は、わざと囲みの一箇所を解いて籠城軍に逃走口を作るという策を用いる。絶望的な戦いを強いられていた安倍軍は、この逃走口から脱出しようとしたが、待ちかまえていた清原軍がことごとくこれを討ち取っていった。
 かくして安倍軍は敗北掃討されることとなり、安倍貞任も重傷を負った状態で捕らえられている。貞任は宿敵源頼義を一瞥すると力尽きるように死去したという。さらに寝返っていた藤原経清も捕らえられた。源頼義はこの経清の寝返りで苦杯を舐めていたことから恨みが深く、藤原経清を斬首とする。しかも斬首に使われる太刀は技と切れ味を悪いものを使用し、苦しませるようにして殺したという。
 
 その後の戦後処理に関しては、安倍氏滅亡に伴い、奥六郡の支配は功績のあった清原氏に与えられ、かつ源頼義の公認として鎮守府将軍の地位も清原氏に与えられた。これにより清原氏は出羽に続き陸奥に進出して勢力を築く権利を与えられたと言えよう。陸奥支配にあたり、安倍氏の血を引いていた藤原経清の妻を清原武貞の妻としている。これは安倍氏の血筋を清原氏に入れることで、清原氏の陸奥支配に正当性を与えるためだったらしい。この安倍氏の女と藤原経清の間に七歳の子藤原清衡がいたが、清原氏との再婚がなったことで許され、清原氏の連れ子養子となっている。これが後に清原氏の御家騒動の元となり、後三年の役を誘発させることになっていく。
 一方、源頼義の意図であったろう陸奥国に源氏の支配を扶植させることはかなわず、頼義は朝廷から伊予守を命ぜられて陸奥から転出となる。陸奥国と伊予国では伊予の方が上国だから、形の上では栄転だ。戦功のあった源義家は出羽守に任命されている。両人共に官位も上げられているから朝廷から見れば恩賞として申し分ないということだろう。義家の出羽守就任によって出羽に勢力を築いていた清原氏との関係が濃厚となり、これが後の後三年の役に源氏が絡む原因にもなっていく。
 結論から言えば、源氏の奥州支配の野望は達成できず、むしろ漁夫の利を得た清原氏の利得の方が大きかったと言えよう。ただし、源頼義・義家父子がどこまで認識していたかは解らないが、この戦いによって坂東(関東)の兵(つわもの)や武士たちの多くが源氏を主君(武家の棟梁)と認め信頼を寄せるようになった。ここが最も重要なところだ。

 

【源氏による坂東平氏&秀郷流藤原氏の郎党化経緯】
 坂東の兵(武士)たちの多くは、かつて坂東平氏に従っていたが、平将門と平国香の争いと将門の乱によって多くが将門の傘下に入っている。この時点で、朝廷の坂東支配はリセットされ、支配のバトンは将門が握った。ところが、この将門が国香の子平貞盛と藤原秀郷に討たれると、貞盛流一門と秀郷流一門が関東に勢力を築き、続いて相模に平国香の弟である平良文が入り、良文流一門が加わってくる。彼らは一応朝廷に従っていたから、坂東支配を一から作り直すバトンを朝廷から渡されたということになろう。こうして朝廷は地方としての坂東支配の再構築を彼らに任せるが、彼らはこれを大義名分に自身の勢力扶植を行っていったわけである。ところが良文流子孫の平忠常(千葉氏の祖先)が房総半島で反乱を起こした。先にも解説した「平忠常の乱」がこれである。この戦乱によって房総半島三国は亡国になったと評されるほどに荒廃してしまい、朝廷支配の基礎はまたしてもリセットされてしまう。
 当初は坂東平氏貞盛流の平直方が討伐を任されたが果たせず更迭されてしまい、変わりにこの乱を鎮めたのが河内源氏の源頼信であった。平直方はこの頼信の強さに惚れ込み、頼信の子であった頼義と自分の娘を結婚させて婿としている。同時に頼義が相模守に就任した際には、自分の拠点の一つ「鎌倉」を頼義に与え、以後は河内源氏の坂東の拠点になる。つまり、坂東平氏貞盛(国香)流平氏はこの時に源氏に組み込まれ、その坂東平氏に従う地方の武装勢力・武士たちも源氏に従うことに疑問はなかった。というよりも、坂東在地の有力者豪族は朝廷の頼りなさから、地域の治安維持・安全保障をその地域で最強の者に托そうとしてきた。最初は将門であり、次いで平忠常であったろう。彼らは必然的に朝廷と対立することになって滅ぼされてしまう。朝廷側として将門や忠常の乱を鎮圧した平貞盛や源頼信らに従うことで、将門や忠常に代わる在地の安全保障のリーダーとしたのである。ところが貞盛の末裔である直方が忠常の乱を鎮圧できなかったことで、直方はやむなく河内源氏の源頼義を娘の婿として癒着、鎌倉を彼に譲るという選択をした。結果として、坂東の在地勢力は地域のリーダーとして源氏を選ぶしかないのである。しかも、先にも記した通り、将門や忠常の乱によって坂東地域の朝廷支配はリセットされており、源氏が朝廷から坂東支配体制の再構築を任された形になっていた。こうして中央の朝廷と坂東地域の在地勢力が源氏に期待を寄せたことで、源氏は坂東の勢力扶植は非常に行いやすい状態になっていたのである。

 なお、坂東平氏であった平維衡は伊勢に移り、この地域に勢力の扶植を成功させて伊勢平氏の祖となる。この課程で伊勢支配を巡って合戦を繰り返したため、時の権力者藤原道長から一時疎遠にさせられた。大河ドラマ『光る君へ』で、道長が平維衡の伊勢守任官に大反対して一条天皇に詰め寄っていたシーンがあったが、まさにこの時に伊勢平氏が成立してくる途上だったのである。結論から言えば、伊勢で勢力を拡大した伊勢平氏が平家と呼ばれ、平正盛・忠盛が朝廷内で出世し、かつ西国の海賊討伐や太宰府赴任による宗(大陸)との貿易によって富を蓄えた。平氏の主導権は坂東平氏から伊勢平氏に移り、伊勢平氏の平清盛がこうした資産を駆使して源氏を撃破、平家一門の栄華を築いていくことになる。

 

【桓武平氏系図(略した部分あり)】

高望-国香-貞盛-維叙
  |     |
  |     ⊥維将-維時-直方-(5代略)-時政(北条)
  |     |
  |     ⊥維敏
  |     |
  |     ⊥維衡-正度-正衡-正盛-忠盛-清盛
  |     (伊勢平氏) 
  |
  ⊥良兼
  |
  ⊥良将-将門
  |
  ⊥良文-忠頼-忠常常将-常長-常兼-常重-常胤

                     (千葉)
  |              |
  |              ⊥常晴-常澄-広常

                      (上総)
  |
  ⊥良持
  |
  ⊥良茂

 さらに平良文流の子孫達は房総に勢力を築いていたが、先にも述べた通り「平忠常の乱」によって房総支配はリセット状態となっていた。また、この乱以前にも源頼信と平忠常は戦いを行っており、その際に平忠常は源頼信に負けて臣従を誓っていた。この経緯から、忠常の子忠将は頼信の元に預けられており、「忠常の乱」収束後も忠常の子平常将が父忠常の遺領を受け継ぐことが認められた。もちろん源頼信の庇護あってのことだ。こうした経緯から平良文流平氏の平忠将は源氏に従っており、源頼信の子たる頼義が安倍氏追討の際にも忠将は出兵していた。『千葉伝考記』には「頼信・頼義の常将を視ること宛も父子の如しといへり、されば、子孫代々志を通じて相睦じく交りたりき、永承年中、頼義、奥州進発の時、常将之に属して軍功を盡せり」とある。
 つまり、坂東良文流平氏もまた源氏を自身の主君と定めていたのである。結果的に、源氏にとっての前九年の役は、坂東に勢力を築いていた国香(貞盛)流平氏と良文流平氏を源氏の家臣・郎党として動員することで互いに主従関係を確認しあい、互いの立場を確定する戦いだったのである。
 

【清和源氏系図(略した部分あり)】

経基-満仲-頼光(摂津源氏・酒呑童子を退治した人)

     |

     ⊥頼親(大和源氏)

     |

     ⊥頼信-頼義義家-義親-為義-義朝-頼朝
     (河内源氏)|  |     |  |
           |  |     |  ⊥義経
           |  |     |
           |  |     ⊥義賢-義仲
           |  |
           |  ⊥義忠
           |  |
           |  ⊥義国-義重(新田氏)
           |     | 
           |     ⊥義康(足利氏)
           |        
           ⊥義綱

           |

           ⊥義光-常陸源氏・佐竹氏へ

              |

              ⊥甲斐源氏・武田氏へ

              |

              ⊥信濃源氏・平賀氏へ

 


 こうして坂東の平氏は源氏の郎党になっていったのだが、坂東に勢力を築こうとしていたもう一派藤原秀郷の子孫達はどうだろうか。下野で勢力を築いた秀郷は、将門を討ち取って軍事貴族になり、後に武蔵国司になって武蔵にも進出しようとしていた。ところが後になってから源満仲(源頼信の父)が、武蔵権守となって割って入ってくる。すでに秀郷は死去していたので、後を継いでいた秀郷流二代目藤原千晴と源満仲は武蔵国を巡って対立、両人とも京都に住んでいたから京都でも暗闘を繰り返していたという。ここで源満仲は一計を立て、「安和の変」の引き金を引く。969年に起きたこの安和の変は、摂関家である右大臣藤原師尹(藤原道長の祖父の弟)が左大臣源高明を失脚させた他氏排斥事件で、次期皇太子を巡って対立していた源高明が謀反を企てていると源満仲に密告させ、失脚させた一件である。この時、検非違使に命じて藤原千晴とその子久頼を捕らえるのだが、この検非違使というのが満仲の弟源満季だったのだ。藤原摂関家の陰謀に源満仲が乗り、源高明を失脚させるついでに自身のライバルである秀郷流藤原氏も巻き込んだと考えられる。

 この政変に連座する形で藤原千晴とその一族は失脚してしまい、満仲は軍事貴族としての秀郷流を衰退させることに成功した。
 結局、秀郷流藤原氏は平氏や源氏のように武家の棟梁として存続することができず、以後は源氏か平氏の傘下に入って生き延びる道を選ばざるを得なくなったようだ。

 これは余談になるが、前述の安和の変で失脚した源高明の子が、道長の手足となって働く源俊賢と道長の妾妻になっている源明子であり、現在放送中の大河ドラマ『光る君へ』でもレギュラー出演している。ドラマ中で当初明子が右大臣家の道長を酷く恨んでいたのは、この一件があったからだ。

↑武蔵国における藤原秀郷の伝・館跡とされる高安寺(東京都府中市)

↑高安寺由緒


 前九年の役に際しては、先にも記した通り秀郷流の子孫たる藤原経清は当初源頼義に従っていたが、後に安倍氏に寝返っている。後に捕縛された経清に対し、源頼義は「汝が先祖、相伝えて予が家僕たり。而るに年来朝威を忽諸し、旧主を蔑如す。大逆無道なり(『陸奥話記』より抜粋)」と言い放ち、無残な処刑法を選んで殺している。ここで頼義が語るように藤原秀郷の子孫たちは、源氏の郎党になってしまっていたのである。これを裏付けるように、頼義の郎党にはいま一人、秀郷の子孫がいる。『陸奥話記』の後半で、安倍貞任・藤原経清・安倍重任(安倍頼時の子)の三つの首を朝廷に献じた藤原季俊がその人物だ。
 
 系図(『尊卑分脈』より一部を略して掲載)で見ると下記の通りとなる。


【秀郷流藤原氏系図(略した部分あり)】
秀郷千晴-千清-正頼-頼遠-経清清衡(奥州藤原氏初代)
           |
           ⊥頼清-頼俊-季俊
    
 以上のように、坂東に勢力を築いた藤原秀郷流の末裔達も、源氏に取り込まれており、やはり前九年の役に際して源氏の郎党として源頼義に従って戦っている。
 
 前九年の恩賞に関し、源頼義や義家らに朝廷から恩賞が出たものの、頼義に従っていた武士や郎党たちには恩賞が出されなかった。これは、朝廷から見た時安倍氏討伐を命じたのは源頼義であって、他の者は頼義が招集した者であり朝廷が招集したわけでなかったからだ。だから慣例に従い、朝廷側としては朝廷が指名した頼義らには恩賞を出すが、頼義が招集した者たちは頼義が恩賞を与えなければならないという考え方に従ったものである。頼義はこれを大いに不服とし、任地の伊予国へ向かうことをせずに二年間にわたって京都で交渉を続け、ついに朝廷から恩賞を勝ち取って自分の部下達に与えることができた。この時に恩賞を賜って官位を上げて貰えた武士や兵(つわもの)たちの多くが坂東を在地とする武士達であり、坂東の武士達が源氏に抱く信頼感は確実なものとして定着していく。
 後に後三年の役でも父頼義の後を継いだ源義家が自身の私財を手放してでも坂東武士達に恩賞を与えており、頼義義家二代にわたるこの行為によって、坂東武士達の源氏への信頼は盤石なものとなった。この信頼感の主従関係が、後年に起きた源頼朝の挙兵に際して絶大な効力を発揮し、平家を滅ぼして鎌倉幕府を打ち立てていくことになる。 
 

【主要参考文献】

『陸奥話記(梶原正昭校注・現代思潮新社)』
『平安王朝と源平武士(桃崎有一郎著・ちくま新書)』
『戦争の日本史5 東北の争乱と奥州合戦(関幸彦著・吉川弘文館)』
『将門と忠常 坂東兵乱の展開(千野原靖方著・崙書房出版)』
『小学館ウイ-クリ-ブック週刊戦乱の日本史29 新説前九年・後三年の役(小学館)』

 

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 異常に暑い夏となっておりますが、昨日行われました夏のコミケット104にサークル参加して参りました。なんとか無事に今年の夏最大のイベントを乗り切ったというところです。コミケに参加された皆様、お疲れ様でした。そして、当ブースに来て頂いた皆様、ありがとうございました。

↑会場となる東京ビックサイト

 

 2024年の夏コミケは、8月11日~12日の二日間行われました。我がサークル「幕末ヤ撃団」は二日目の12日に出店、新刊となる『歴史企画研究叢書 11輯 幕末期の学問』他、既刊の冊子を頒布しております。

 

 

↑ブース風景

 

 コロナ流行時の大幅な開催参加者制限は撤廃されたものの、その後のアフターコロナ新体制の元で、前売り入場チケット制が維持されており、当日自由に参加するという部分は制限されたまま。確かに全体的にコミケに参加する人数は回復してきたとはいえ、この制限がある限り元の参加者数には戻らないのだろうなと思いますな。なぜなら、事前にコミケに行く決意を固め、前売りのチケットを手配購入するという一手間が必要なわけです。コミケ当日にふらっと買い物に行くというわけにはいかない。ここに自由度がないわけで。

 当日券というものがないわけではないらしいのですが、コミケ開催側としては事前購入を勧めようとすることから当日券に関しては消極的で、たとえばどこで売られるのか、何時頃に行けば買えるのか不明瞭にしているのはよろしくないのではなかろうか。しかも、売り切れた時点で販売終了となるため、会場まで来たものの売り切れで徒労に終わる可能性を考えれば、さらに足は遠退くというもので……。

 そんなわけで、アフターコロナ体制のコミケのあり方には、私個人としては大いに不満なのです。なんとかならんもんかなぁ。確かに入場制限によって混雑が劇的に減っており、過ごしやすいという利点はあるものの、それと引き替えに多くの人に我がサークルの本を手にとって貰える機会を減らしても良いとは思わんので。

 

 とりあえず、そんな理由もあってサークルの売り上げとしてはなんとか合格点には達した感じですが、コロナ流行前の売り上げと比較すればまだまだコロナ流行以前に回復したとは言えない状況。歴史サークルそのものの数も激減しており、コロナ流行中に行われたイベント規制によって同人誌即売会が数年にわたって開催されず、ついに生き残れずサークルを畳んだサークルや、歴史ブームが去ったことから新規の歴史サークルも生まれて来ずという状況も重なっているのだろうなぁと実感しております。

↑サークル入場券(一般参加者は、それ用の腕輪チケットを事前購入し、会場内ではこのように身に付け続ける必要がある)

 

 今回の新刊は、先にも紹介しておりました『歴史企画研究叢書 11輯 幕末期の学問』、それに既刊紙である新選組の武士道や武士道の歴史に関する冊子の頒布を行いました。

 『歴史企画研究叢書 11輯 幕末期の学問』のなかで、私からは”儒学・朱子学”に関する記事を書いておりますが、この儒教道徳は武士道にも大きく影響を与えた学問で、それこそが「士道精神」として江戸時代に一般化した武士道となります。つまり、士道や武士道を知る上でも儒学や朱子学は重要な要素なので、武士と関係の深い政治哲学や忠義に関する部分を中心に書かせて頂きました。

 さて、夏のコミケが終わりました。そして再び冬のコミケに向けてこれから走り出そうと思います。冬は、去年の冬コミケで出した『武士道の歴史』を補完する形で、『武士道ガイドブック』を作成頒布しようと思っております。

 これは、前回の『武士道の歴史』は、武士道の変化を古代から現代まで通史的に論じましたが、結果的に時代時代に変化した武士道の特長に関しては説明し切れてないという欠点が残っているのですね。変化点がどこかということは解るんですが。そこで次回は『武士道ガイドブック』として歴史的な変化を見ていくのではなく、武士道と士道では何が違うのか、或いは鎌倉時代や戦国時代の武士道とはどのようなものかのか。ヨーロッパの騎士道や中世イスラムの戦士達の倫理精神と日本の武士道では何が違うのか。といった観点から武士道を見ていこうと思っております。乞うご期待ください。

 

 ということで、また冬に東京ビックサイトでお会いしましょう~。

↑我等の聖地・東京ビックサイト

 

2024年夏のコミックマーケットで発行した同人誌『歴史企画研究叢書11輯 幕末期の学問』の通信販売開始のおしらせです。

 

 本書は、当初サークル「歴史企画研究」を主宰されていた研究家あさくらゆう先生の元で作成され、2023年に発行される予定でした。しかし、あさくら先生が急性骨髄性白血病を発病されて長期入院を余儀なくされ、ついに去年9月に他界されてしまわれます。生前、故あさくら先生より「原稿を托すから世に出して欲しい」と依頼されていた私が本書の製作を引き継ぎ、この度の夏コミケの新刊として、サークル「幕末ヤ撃団」から発行に至った次第です。

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本書の内容は下記の通り

 

オフセット製本・76頁本

●「はじめに」あさくらゆう(幕末史研究家・入院直前に一般に向けて書かれたあさくら先生自身の文)

●「幕末国学を語る上での注意点と展望」宮地正人(東京大学名誉教授・元東京大学史料編纂所長・元国立歴史民俗博物館長)

●「錦旗の効果と儒学・朱子学」梅原義明(サークル「幕末ヤ撃団」代表)

●「岡山の国学」高橋美智子(作家星亮一主宰「戊辰戦争研究会」事務局担当)

●付録「千葉の名灸 73~最終回」(千葉さな関係の資料となります)

●追悼文「あさくら先生を偲んで」(宮地正人・高橋美智子・梅原義明)

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 あさくら先生への追悼も兼ね、予定になかった「あさくら先生を偲ぶ」追悼の章を加えて執筆者の皆さんに書いて頂きました。

 

 できる限りあさくら先生がこの世に残した言葉や思いを後世に残そうと思い、あさくら先生が書かれた「はじめに」の文章は明らかな誤字脱字以外の修正はせずに掲載しています。残念なのは、あさくら先生の記事が少なく、唯一この「はじめに」の文だけということでしょうか。

 本書の企画自体は2022年の頃に考えられており、その際には「国学思想とリンクした形で幕末人物史を語るべきだ」という意図から本書が企画されていたようです。このため、本書では平田国学研究の第一人者たる東京大学名誉教授の宮地正人氏に原稿を書いて頂いたという話でした。さらに高橋美智子女氏からは岡山の国学に関して書いて頂いております。

 私には「錦旗の効果について」というテーマで原稿依頼が来ましたので、儒学(朱子学)における順逆論や王道主義の面から錦旗の効果について書かせて頂いております。

 

 本書シリーズの付録で連載掲載されていた「千葉さな」に関する史料『千葉の名灸』に関して、第10輯の続きから最後までを掲載し、本書シリーズを通して『千葉の名灸』全文を読めるようにしました。あさくら先生は、「千葉の名灸」の史料価値の高さを評価しており、その普及に努めておられました。なので自身の死によって史料が欠けた状態となることは望んでおられないだろうと思うので、すべて出し切るつもりで最終回まで掲載しております。

 

 本書の頒布値段に関してですが、これまでの「1冊800円」から「1冊200円」と大幅に下げております。これは、あさくら先生への追悼の意味から本書の製作に協力して下さった執筆者の皆さんが、ほとんど無料奉仕に近い形で原稿を書いて下さったこと、関係者の皆様がボランティアで協力して下さったことが本書の発行に至った原動力ですから、発行者たる私(幕末ヤ撃団)もまた同様にそうあるべきだと思い、利益抜きの原価での頒布となったためです。印刷製本料のみ回収しているという形になっているため、価格を原価の200円とさせて頂きました。厳密には、原価は180~190円ぐらいですが、コミケなどでの釣り銭対策で100円単位まで繰り上げさせて頂いております。なので、数千円の利益は出るものの本書を頒布するためにコミケ等のイベントに参加した際の参加費用によって赤字になるといった調整を行っております。

 

以上、故あさくらゆう先生に思いを馳せながら、本書を読んで頂けたらと思います。

 

注)

 9月15日に行われる日野新選組さま主宰のイベント「あさくらゆう氏一周忌記念 福島チャリティーイベント あさくらゆう氏を偲ぶ講演」にて、参加者には本書『歴史企画研究叢書11輯 幕末期の学問』が無料配布される予定なので、講演会に参加される方は、ここで購入されなくても大丈夫です。

 

 

 

 

 

タイトル:『歴史企画研究叢書11輯 幕末期の学問』

発行日:2024年8月12日

価格:200円

体裁:74ページのオフセット製本(300部製本)

 

サークル幕末ヤ撃団通信販売取り扱い本です。購入希望の方はホームページの通信販売案内をご覧ください。

幕末ヤ撃団HP:http://yageki.k-server.org/

 

夏コミケ直前ですが、久しぶりにハゼ釣りに行ってきました。

↑お台場海浜公園

 

 おなじみの人工磯場です。ここで真面目に釣るのは東京オリンピック以降はじめてのような気がします。

東京オリンピックの際は、一年前からトライアスロン会場設置のために工事が始まり釣りがマトモに出来なくなっていました。

その後は、コロナ流行などもあって足が遠退き、別の釣り場でシーバスや黒鯛狙いが主となってましたから、ハゼはもっぱら運河でのちょい投げばっかりやってたのですね。

 でも、ハゼのような小物を小さな小鮒釣り用ののべ竿で、ウキ釣りするのが好きなのですよ。小物であっても竿が小さければそれなりに楽しいので。

 

 とはいえ、この日は潮の動きがよろしくない。いや、大潮だから潮の流れはいいのですが、満潮が丁度夕まずめに重なっているんですね。普段から夕まずめ直前に釣り場に入り、そのまま夜釣りへという展開で釣りしてますから、夕まずめに満潮だと満潮直前に釣り場に入り、潮が止まっている時刻に夕まずめのチャンスタイムが重なると。チャンスタイムでも潮が動いていなければ魚は食い渋るから苦戦するのです。しかも、釣り座も満潮のために一級ポイントが水没していて二級ポイントに入らざるを得なかったのです。

 しかも、暇を持て余してちょっと早めの午後3時に釣り場入りしちゃったのも不味かった。とにかく暑い!。暑さと満潮直前の潮止まりで大苦戦。ひたすら暑さに耐え、汗を流して体力を削られ続けて午後5時に至り、ようやくキビレの幼魚が釣れてきます。

↑キビレ幼魚

 

 黒鯛ではないですね。鰭が黄色いのでキビレです。幼魚ですのでリリース。この日はキビレが比較的多かったらしく、幼魚サイズをこの後2匹ほど釣っています。その他は外道のダボハゼが何匹も釣れ、かつカニが仕掛けを根掛かりさせて針を失うこと数度、暑さに体力気力共に削られていたこともありヘトヘトになってました。

 

 午後6時になってようやく日が沈みます。なぜか日が沈むとダボハゼの活性が鈍りだし、逆にマハゼの活性がよくなるんですね。なので、経験上昼間は良くなく、夕まずめから夜にかけてマハゼが釣れ出すというイメージが強い。であれば、夕まずめジャストの涼しくなる時間帯に釣り場に入るのがベストでした。

↑マハゼ

 

 大苦戦のなかでようやくマハゼをゲット。午後6時以降からは、干潮に向けて潮が動き出したため、あたりが暗くなるのと連動して釣れやすくなったようです。

 この後、喰い渋りはあるもの何匹かここでマハゼを釣ります。型はまあまあといったところ。夏のデキハゼですからな大きくはないかわりに数釣りができるはずなのですが、先にも書いた通り、あまりベストポジションの一級ポイントに入れてないために数が伸びません(泣)。

 結局、ハマゼ4匹釣ったところで午後8時を迎えました。潮はだいぶ引いていたため、ここでようやく一級ポイントの釣り座に渡れるようになった。なので、さっそく釣り座を移動。浮き下を調節して底取りし、餌が底を這うように設定。期待の第一投でウキが勢いよく引き込まれます。合わせると強烈な引きが!。瞬間的にシーバスと直感しました。こっちはハゼ釣りようの3mのべ竿に、ハリスもナイロン0.8号ですから簡単に切られる可能性がありました。が、なんとか引き寄せて取り込んだところ、シーバスではなく塩焼きサイズのキビレでした♪。

↑キビレ

 

 キビレは黒鯛と同種の魚ですが、黒鯛と違って鰭が黄色いのが特徴です。食べたときの味も黒鯛と同じく美味です。

ハゼ釣り用の小さな釣り針だけに針が飲まてしまってリリースしても助からない。その上、今東京湾では黒鯛が増えすぎて海苔養殖が食害にあっており、黒鯛やキビレが害魚駆除対象になりかねないところまで来ていることもあり、とりあえずキープして持ち帰ることにしました。

 この後は午後9時まで1時間ほどこの釣り座で釣りましたが、やはり一級ポイントだけにハゼの入れ食いモード。夏のデキハゼ釣りらしい数釣りになります。ただ、体力気力共にかなり失っていたので、写真を撮る余裕がなくなっておりました。なので、釣りたて時の写真がないです(苦笑)。

 釣れれば楽しいことは楽しいのですが、ここまで来る間に暑さにやられて体力が削られていまして、9時以降も釣り続ければ釣果を伸ばすことはできたのですが切り上げて帰宅することにしました。

↑レインボーブリッジと第六砲台場跡

 

 まー、ベストではなかっただけに夏のデキハゼ釣りの割には数が出てませんが、8時から9時の1時間でマハゼ10匹以上を一気に稼いだとこを考えれば、夏のデキハゼ釣りっぽくはあったなぁと思います。

↑今回の釣果

 

 来週からいよいよ盆連休に入ります。夏のコミケもありますが、連休中にもう一回ぐらいココに来ようと思います。