幕末ヤ撃団 -4ページ目

幕末ヤ撃団

勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

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 今週もコミケに向けて新刊作成せねばなりませんので、当ブログで大ネタが書けません。なので先週同様に小ネタです(苦笑)。

 

 さて、ユーチューブなどで歴史解説を見ていると、どうにも気になるのが「尊攘派が偽勅を作っていた」という論調があること。まぁ、これは以前から言われたりもするのですが、ある程度歴史に詳しい人ならば、なんとなくここで言う”偽勅”なるものが、実は真勅であることに気が付いていることだったりします。が、歴史に詳しくない人はコロっと騙されてしまうわけで。

 まぁ、例によって”武将ジャパン”という歴史出版社のサイトの解説記事でも……

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ではなぜ孝明天皇は、そこまで長州藩を嫌っていたのか?

ざっとチャートで確認してみましょう。

◆長州藩は伝統的に皇室に近いという“思い込み”があった

◆過激化した長州藩士が、公卿に偽勅(ニセモノの天皇の命令)を出させ、テロのような攘夷行為を行った

◆身に覚えのない偽勅の出所が長州藩と理解した孝明天皇が激怒した

学校の授業ではここら辺の歴史を習いませんので、幕末の政治史がややこしくなっているんですね。

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という感じなわけでして……って、ホントここの歴史出版社のウェブ記事は間違いの実例集みたいな感じの記事多いよなぁ(苦笑)。とりあえず受験生の皆さんは、このような粗悪記事を信じることなく、ちゃんとした「教科書」や「参考書」に書いてあることを信じてくださいね。ちなにみ高校の歴史教科書『日本史B』とか『世界史B』は、歴史を調べる上で私も使用しまくっているほどの良書ですので。

 

 で、まぁあまり放置しておくと、この俗説もまた大火事になり、専門家が火消しに負われることにもなりかねず、まぁこのあたりで正確な情報を出しておくべきだろうと思った次第。

 

↑学習院発祥の地(公家の学問所として作られたが、身分が低い尊攘派志士が公家に入説する場ともなった)

↑案内版

 

 最初に結論を言っちゃってますが、この尊攘派が偽勅を作っていたという事実はありません。文久年間に出された詔勅は本物です。ただし、”孝明天皇の考えとは違う”ものだったというだけです。え?、それって偽勅じゃないの?と思う人もいるかと思いますので、もう少し詳しく説明すると……

 

 徳川幕府が徳川将軍の独裁政治ではなく、譜代老中合議制だったように、朝廷も天皇独裁ではなく、五摂家をはじめとする公家による合議制でした。つまり、朝廷内での議論次第では、天皇の意に添わない決定が朝議によってまとまり、朝廷の意思(建前上、天皇の意思)として公表されることもあるということです。

 以上のことを踏まえた上で史料を見てみると、文久三年五月二十九日の中川宮に下された宸翰で、孝明天皇は「毛頭予好まず候えども、とてもとても申し条立たざる故、この上はふんふんという外致し方これ無く候」とあり、孝明天皇が尊攘派公家が多数派になっている朝議の場で”ふんふん”とうなずくだけのイエスマン状態だったことが解ります。

 だから孝明天皇のまったく知らないところで、勝手に勅が作られて出されていたわけではないのですよ。”武将ジャパン”の記事が致命的に間違っていることがお解りになるかと思います。また同記事では、しきりに「長州藩」を悪役にしていますが、ここも正確には天皇の言う「下威」つまり、公家に入説したり威して煽っている身分の低い尊攘派志士や浪士と、そういった在京尊攘派を支援している長州藩内の尊攘急進派や土佐藩の土佐勤王党とすべきかと思います。まして”偽勅の出所が長州藩”などありえません。詔勅を作成できる場所は朝廷内だけですから。朝廷の外に存在する長州藩が、正規の詔勅を作れるわけがないのです。

 ある程度身分のある毛利家(長州藩)とか山内家(土佐藩)の名が出てきていないので、藩組織そのものを敵視しているとは思われないです。孝明天皇が問題視しているのは本来朝廷に出入りしたり、公家に会うことなど出来ない低い身分の有象無象の志士や浪士だったろうと。こういった何処の馬の骨とも解らない有象無象たちが尊攘派の公家たちに入れ知恵し、天皇の考えを同調圧力で押しつぶし、朝議の決定を思いのままにしているのですから、朝廷内の秩序を守ろうとする孝明天皇から見れば我慢ならないことだったと言えましょう。

 

 なぜ、身分の低い志士や浪士が朝廷議論の場に入り込めたのかというと、以前に朝廷内で下々からも広く意見を募ろうという「言路洞開」方針が取られ、国事御用掛といった政治的意見を広く採り上げ、朝廷として政治に関する掛かりを設けました。ところが、この政治的な考えを朝議に反映させる部門に尊攘激派の志士や浪士が多数殺到、公家に入説を行う場となってしまいます。結果的に、数で推す尊攘激派の意見ばかりを拾い上げる機関に成り果ててしまった。そこから、尊攘激派の意見に公家が染まっていくという流れとなり、尊攘激派の代弁者となる公家も増えていく。その結果、朝議の場が数で圧倒する尊攘激派の意見ばかりが話し合われるという状態になったらしいです。むろん、幕府や開国派に寄る意見を持つ者には、尊攘派浪士からの脅迫や天誅といった暗殺が行われる(テロ)わけですから、朝議の場で反対意見など出せようはずもなく、孝明天皇もまた「うんうん」と頷くだけとなってしまったと。このような状態から、”尊攘派の意見が、明日には詔勅になる”と形容される状況になってしまったわけです。

 

↑孝明天皇紀 第86(巻第162-163)「中川宮への宸翰」リンク

 

 さらに同日、薩摩藩島津久光にあてた宸翰には「朕存意は少しも貫徹せず」「すべて下威盛ん」と記され、朝議の場で孝明天皇の意見がかき消され、尊攘派の意見ばかりが盛んだと嘆いています。孝明天皇の言う「下威」とあるのは、下々の者たち(つまり身分が低い尊攘派の志士や浪士)の威(威勢・圧力・脅威)のこと。

 

↑孝明天皇紀 第86(巻第162-163)「島津久光への宸翰」リンク

 

 つまり、朝議の場での同調圧力に屈してしまっている孝明天皇は、自身の考えを言うことができず、心ならずも尊攘派の意見に良い返事ばかり出していたわけです。当然、尊攘派は孝明天皇が頷いている以上、天皇が納得した上で自分たちの意見を採用したという認識になります。その上で朝議で決定したことを詔勅として下していたのですね。なので、天皇のご意志ではないが、天皇がイエスと頷いた上で詔勅が出されているわけですから「偽勅」ではなく「真勅」なんです。

 

 むろん、この状況を打開しようと思った孝明天皇は前述したように島津久光に宸翰を与えて対策を行わせようとしました。これは、文久2年の島津久光が率兵上京した際、「寺田屋事件(薩摩藩士同士討ち事件)」で尊攘激派を取り締まった実績があることを孝明天皇が知っていたからでしょう。これを受け、薩摩藩は京都守護職たる会津藩に支援を要請「薩会同盟」が形作られ、これに中川宮も協力し8.18政変へとつながっていくわけです。

 

 さらに孝明天皇が紛らわしいのは、8.18政変時に「是迄ハ彼是真偽不明分ノ儀コレアリ候ヘドモ、去ル十八日申出ノ儀ハ真実ノ朕ノ存意候」と語り、18日に出された詔は孝明天皇の存意に間違いないと薩摩会津のクーデターが、天皇の意思によって行われたと宣言していること。真偽不明分という部分の意味は、偽勅だといっているのではなく、孝明天皇の真意か否か不明瞭な勅を出していたという意味だと考えるべきだと思われます。

 それって偽勅じゃないのと思われる方もいるでしょうが、孝明天皇自身が「ふんふん」と頷いた上で発せられた勅なので、孝明天皇自身が「偽勅である」と認めるわけにはいかないのですね。だから、このように非常に勘違いされやすい表現になったのだろうと思われま。

  なお、この8.18の政変以降から京都守護職会津藩の京都警備と新選組による不逞浪士狩りが徹底され、藩籍を持たない尊攘派志士や浪士たちにとって京都は超危険地帯となります。尊攘派志士たちの回顧談でも、多くの志士が新選組を恐れて京都から脱出していた記録があるほどで、事実京都の治安は一方的に回復していきました。

 急激に追い込まれた在京浪士たちが、苦し紛れに「京都に火を放って、天皇を奪取する」という無謀な計画を立てるといったことが行われたりもしています。なお、長州藩桂小五郎は、この計画には反対の姿勢ですから、この計画も長州藩の策謀というよりは在京浪士たちの策謀と言うべきかと思います。こうした在京浪士の計画は、新選組の池田屋事件によって壊滅失敗に追い込まれたことは、皆さんも知っての通りです。

 

 孝明天皇のご意志に関しては、ペリー艦隊が来航したときから変わっていません。それは「これまで通り、大政委任されている幕府が政治行政を司る。対外姿勢はこれまで通り鎖国。戦争は好まない」です。簡単に言えば、異国が日本に来る前の天下泰平の日本のままでいたいというのが孝明天皇の意思でした。したがって攘夷を支持する姿勢ですが、幕府が上手く攘夷を行い異国を追い払ってくれることが望ましい。この望ましいことを諦めずに望み続けようというのが孝明天皇のご意志なのですね。

 ぶっちゃけた話、孝明天皇の真意は「異国が来る以前の日本のままでいたい」というものです。尊王攘夷派や幕府から見みたら「それが出来れば苦労はせん!!」と叫びたくなるでしょうし、「異国が来た以上、どうすべきかで揉めてんです!」と言いたいところでしょう(苦笑)。

 孝明天皇のご意志なるものが厄介なのは、幕府の「異国の武力が強いので、今すぐの攘夷はできない。日本が強くなるまでは開国もやむなし」という方針を嫌がり、「神州日本に異国人が入り込むのはイヤなので、今すぐ追っ払って(即時攘夷=鎖国継続」でしたし、尊王攘夷派の言う「幕府は弱腰なので、この上は天皇自ら立ち上がり攘夷親征、天皇自らが攘夷戦争の指揮をすべき。天皇が立ち上がったのに幕府が傍観するのであれば、そのような幕府は不要だから倒幕してしまおう(大和天誅組ら尊攘激派の意見)」は、「幕府へ大政委任しているのだから、政治行政は幕府が行う。この形も変えたくないから倒幕など考えられない。天皇自ら攘夷戦争を行うなどもってのほか。戦争は征夷大将軍が行うべき事だから、攘夷は幕府が行わなければならない」という考えから不同意なんですね。

 そんなわけで、幕末政局の混乱に拍車を掛けていたのは、この孝明天皇自身の頑でブレないご意志も一要因になってました。幕府が希望する開国も、尊攘派が望む攘夷実行も孝明天皇のご意志に阻まれてひたすら空転するしかなかったわけです。

 

 以上、わりと孝明天皇のご意志が正しいか否かといった是非を語らないまま、勅だの偽勅だのといった議論をするのはナンセンスだと思ったので、小ネタついでに書かせて頂きました。

 

参考文献

『幕末の天皇』藤田覚著・講談社学術文庫

 

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 現在、冬コミケに向けて絶賛新刊制作中ということで、プログを書く暇がないのでユーチューブ動画で誤魔化します(スマン)。ただ、一応このユーチューブ動画に関しては、根拠史料を見せながら解説しており、変な妄想で作り話を語っている動画ではないのでアップしときます。

 

 とはいえ、まぁ以前から言われていたことではあるけれども、某ウェブマガジンも含め”欧米列強に勝てるわけないのに攘夷を叫んでる攘夷派はバカじゃね?それに比べて幕府には優秀で開明的な幕臣が多くいて……”という論調があるわけだけども……。

 このユーチューブ動画にある通り、日本で最初に攘夷を決行したのは長州藩でも薩摩藩でもなく”幕府”なんだよね。モリソン号事件の一件があったため、日本に開国交渉を迫るには”軍艦をもって武力を見せつける”以外に道がない(交渉もせずにいきなり撃ってくるので)ということでペリーの軍艦艦隊が来たわけで。

 なので、攘夷決行した藩で有名なのは長州の「下関戦争」と薩摩の「薩英戦争」があるが、この二藩に徳川幕府も加えるべきだと私は思う。

 

 

 なお、動画中で「邪教の国」という部分がありますが、これは皆さん知っての通り「キリスト教国」を指す。こうした文政年間の幕府の対外方針に基づき、文政の次の天保年間に学問的に理論付けを行ったのが水戸藩の水戸学なわけです(なので別名を「天保学」とも言われる)。いわゆる「尊王攘夷」も文政年間の幕府方針に即した思想だった……のだが、アヘン戦争の情報が入ってきた途端に幕府側が方針を転換し、幕府の外交方針と水戸学の外交方針に食い違いが生まれたというわけですな。

 そんなわけで、幕末史がペリーの黒船来航から始まると思い、それ以前の歴史を知らないと、黒船来航時の時点で水戸学の攘夷論と幕府の開国方針がすでに食い違っている状態なので「御三家なのに、幕府の意向に反する思想を唱える水戸藩や徳川斉昭とはいったい何なんだ。こいつらが反幕府思想を生み、幕府を滅ぼす思想を生んだ元凶ではないか」というトンチンカンな理解になるので注意が必要なのです。

 

追記・・・

 

↓ウェブマガジン武将ナントカのとある記事より

実はペリーが来航した当時の江戸幕府は、それ以前から日本各地の海岸に現れる外国船の影を捉えていました。

いずれ幕府に接近してくることは予感していた。

しかし、事前に思い切った具体策は取らず、実際にペリーがやって来るまで見て見ぬふりをしてきたのです。

それが【黒船来航】の真実であり、今回の『SHOGUN 将軍』も同様に思えてなりません。

(ウェブ記事より抜粋)

 

 プロの歴史ライターを名乗っているウェブライターの記事だが、まず歴史ライター業でお金稼ごうというのに、嘘書いちゃダメですな。「ロシア船打払令」や「無二念打払令」を”思い切った対策”ではないという歴史研究者はまずいませんので。歴史出版社を名乗ってる会社も、この程度のチェックはして欲しいなぁ。ウェブ記事ライターに「それ、どこの研究者の見解?。そう言い切れる根拠は何?。ちゃんと調べた?」ぐらいは聞いて良いと思うぞ。わしも、某出版社の商業記事書いた時には、連日連夜この程度の質問は編集さんから貰ってたし。答えられなきゃ記事は全ボツぐらいのプロ意識は欲しい。

 

 

 

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今年の冬のコミケにサークル当選いたしました。ということでサークル出店告知です。
 
サークル「幕末ヤ撃団」
イベント:コミックマーケット105
場所:東京ビックサイト
日時:2024年12月30日(コミケ二日目)
ブース:月曜日 西地区 え-13b
新刊『武士道ガイドブック』を頒布予定

 新刊として『武士道ガイドブック』を製作しております。 これは以前に発行した『武士道の歴史』をさらに簡略化し、各時代ごと項目として紹介している形式となります。
 なので、わりと既刊本『武士道の歴史』と重なる内容が多いですが、『ますらおの道』、『もののふの道』、『士道』といった形の項目単位で単的に短く紹介するという形式にしています。
 目新しいものとして、世界史を視野に入れて『騎士道(キリスト教圏)』と『イスラム戦士の精神(イスラム教圏)』も項目として追加し、日本の武士道とヨーロッパの騎士道、中東のイスラム戦士や騎士との比較ができるという形にしています。
 この世界史レベルで武士道を見るというのは、なかなか面白かったですわ。たとえば日本の武士道というものは、純然に武士たる者の精神です。武士は合戦で戦うことが生業ですから、文字道理の戦闘者の精神なわけです。だから”武”というものを追及し、武名や家名もまた「強さ」に基づいてプライドだとか名誉といったものが加わります。なので逆に武名や名誉を貶める効果を発揮する「恥」というものに敏感に反応するのが武士です。
 これに対し、ヨーロッパの騎士道は武士と同様に戦闘者の精神ですが、一方で騎士という存在が生まれてくる歴史的背景にキリスト教が存在しているのですね。このため、騎士はキリスト教の騎士でもあります。なので主君たる自身の主君に忠誠を誓うのは当然のことながら、キリスト教の教会(つまり、イエス・キリスト)にも忠誠を誓っています。主君と教会の二君に仕えるのが騎士なわけです。このため、日本で言うところの僧兵の特性を騎士は持ちます。日本だと武士と僧兵という形に二種類存在するんですが、ヨーロッパは騎士が日本の僧兵の役割も担当するため、ヨーロッパに僧兵はいないんですね。強いて言えば、キリスト教会自身が主導したテンプル騎士団に所属する騎士が僧兵といえる存在になるかなと。
 そしてイスラムの戦士はどうかというと、こちらはもの凄くイスラム教の教義や戒律が関わってくる。イスラム教は、経典の『コーラン』が旧約聖書や新約聖書とは違っており、もの凄く法律的に戒律を定めているのですよ。しかも、主神アッラーのみが崇拝対象であり、アッラー以外は皆平等に同胞(ムスリム)だとする。だからイスラム教に聖職者はおらず、指導者がいるのみ。その指導者もアッラーの前では他のムスリム(同胞・信者)と同じ一人のムスリムでしかないのです。同胞は皆平等で、そこが徹底している。なので、イスラムの戦士や騎士には、ヨーロッパの騎士や日本の武士みたいに「我々と庶民は違うのだ」という考え方がないのです。騎士や武士の多くは、支配階級で、大小あれど領主階級です。しかしイスラムの騎士や戦士は、教義によって同胞平等主義であるため「騎士や戦士も一般市民ムスリムと同じ意識を持つ」わけです。つまり、イスラム教では一般庶民も騎士や戦士も同じ精神性であることが教義的に定められているという話。
 ということで、このあたりの比較検討を文字数多めに論じておりますので、乞うご期待ください。

↑儒学の聖地「湯島聖堂」にある孔子像


さて、これだけだと寂しいんで、儒学絡みの小話で「科挙の是非」について、今回は雑談してみようかなと。

 またまた歴史出版社「武将ジャパン」のウェブ記事で、漢籍に詳しいという触れ込みのプロ歴史ライターが主張していたことですが……
 
「古代中国では、科挙試験があり身分に関係なくこれに受かれば中央官僚の文官として出世できた。このシステムによって常に優秀な人材が中央政府で政治を行える。さらにこうした人材登用システムによって文官と武官が明確になっており、かつ文官が武官より上位とされることから武官に政治を奪われることもない。これに対しに、日本には科挙試験がなかったために、政治行政を行う者が世襲で固定してしまい優秀な人材が集まらず、かつ武官であるはずの武士が文官を押しのけ、朝廷内でなし崩し的に権力を握っていく。しまいに朝廷は権力を武士に奪われてしまった。これは科挙を導入しなかったために文官と武官の立場が曖昧になっていた日本の失敗であり、日本より中国の方が優れていたことの証だ」

 といったような内容の日本批判(中国賛美か?)をしておりました。これは大河ドラマ「光る君へ」の解説記事で、たびたび主張されているもの。何かにつけて中国史と日本史を比較し、日本がいかに劣っていたか主張されるのですが、その比較が主観的かつ恣意的に過ぎるわけです。もう歴史に造詣が深い人は、この論調の間違いに気づいているかと思いますが、科挙があろうとなかろうと文官も腐敗するのですね。腐敗したからこそ、科挙で優秀な官僚を得ているはずの中国王朝が、何度も倒れたり、禅譲といって王権を無理矢理奪われたりしてるわけです。中国史で常に政権腐敗の温床となった「宦官」は、この科挙試験に合格した上で、自ら去勢した存在です。つまり、彼らは科挙試験に合格するほどの優秀な人材であるはずなのに、なぜ常に腐敗の温床になってしまうのか?。といった部分に関して記事では触れていない。これは問題だろうと思うわけです。
 また、日本において「文官と武官の区別が曖昧で明確ではない」という記事での見解は、明確に史実に反してもいる。日本における文官武官の区別は律令法令にしっかり記されている上、令外官として存在する武官役職についても律令法とは別に定められていますから曖昧ではありません。つまり「文官と武官の差が曖昧になっていたからこそ、朝廷は権力を武家に奪われた」とする見解は、明確に間違っていると言えるわけです。

 
 日本における「武官」については、過去に私が書いた記事があるので、そちらを御覧下さい。

↓「武士の起源について」へのリンク

 


 まず、先に文官武官の区別云々から話すと、朝廷の役職区分として文官と武官はしっかり区別されています。例えば検非違使や衛門府といった役職に就いてる者は武官で、治安維持や御所警備のために弓や太刀で武装した状態で朝廷内に入れます。文官は武官以外の役職に就いている官人全員となり、朝廷内に武器を持ち込むことはできません。
 では平安時代の武士(兵・つわもの=地方の豪族や有力者などの武装勢力)は、文官か武官のどちらでしょうか?。実はどちらでもないのです。そもそも朝廷に仕える朝臣でもなく、官位も持っていなのであれば官人(朝廷官僚)ですらない。地方武装勢力であれば、地方に在住する「兵(つわもの)」というだけの一般民に過ぎません。だから、このような「兵(つわもの)」を動員することが出来る軍事貴族、いわゆる源氏や平氏といった貴族としては下級でも官位を持っている武家が朝廷内で重宝するわけです。
 では、この武家は武官か?。というとそれも違うのです。武家はその特質上、検非違使や討伐軍の将軍に任じられますが、その武官としての職に任じられ、その職に付いている間は武官です。が、武官としての職を解かれれば武官ではなくなるわけです。逆に武家であっても文官の職を与えられれば、その職に就いている間は文官です。

 そもそも武家や武士は、朝廷内の武官といった役職とは無関係に、朝廷の外で勝手に武装し成長した存在であり、そうした武装勢力を勝手に束ねて朝廷との仲介をしたのが武家(軍事貴族)なのですから。朝廷は、必要に応じてこうした武家や兵(つわもの)を軍事力として必要に応じて用いていただけです。したがって、武士が台頭してきた理由は、武士の武力を利用しようとした上級公家が、軍事貴族の地位身分を引き上げて恩を売って自分の勢力に取り込もうとした結果、軍事貴族が権力を握る文官の役職も手に入れられるほどに官位をあげてしまったことによるのです。
 一つの例として『平家物語』で語られる「殿上闇討ち事件」があげられます。平清盛の父、平忠盛が内裏の清涼殿にある「殿上の間」に昇ることが許される「昇殿(通常は三位以上の公卿でなければならない)」を得ました。これを妬んだ公家たちが忠盛を闇討ちしようと計画を立てます。この時、忠盛の官位は従四位下、職は但馬守(国守・受領)です。いわば但馬国の行政長官という立場で、行政官人ですから文官です。院御所や御所の警備役職ではないですから、武家たる彼でも御所内に武器は持ち込めない。それが解っていたからこそ、武家であっても丸腰ならば闇討ちできると公家たちは思ったワケです。ところが忠盛は、木刀に銀箔を貼ったニセの太刀を作って持ち込みました。これを見た闇討ち側は太刀を装備する武士にはかなわないと悟り、闇討ちを諦めたという逸話があります。当然後日、武器持ち込みの禁令を破ったかどうか疑われる忠盛でしたが、忠盛は「これは太刀ではなく、木刀だ」と説明。皆が舌を巻いたそうです。このように、武士であっても文官になれますし、当然武官にもなれます。付け加えるなら、地方の豪族などの武装勢力(兵・つわもの)が実力を付けてきた平安時代末期になると、地方行政の長官たる受領(国司)にそれ相応の武力が備わっていないと地方の武装した豪族や有力者(兵・つわもの)が従わずに反抗することが多く起こってきます。つまり、普通の貴族公家が受領では対応できないケースが増えたため、軍事貴族が積極的に受領(国司)に採用されるという状況にはなっていました。

↑昌平坂学問所跡(幕府直轄の学問所)

↑昌平坂学問所跡案内板


 さらに話を科挙に戻しましょう。科挙によって優秀な人材が集まり、良い国作りが出来るのかどうか?。科挙のあった中国や韓国と、科挙が無かった日本ではどちらが優れているのか?。史学的には、このような議論ははっきり言ってゲスですが、記事のなかで「科挙のあった中国や韓国の方が、日本より優れていた」という結論を出して世に広めている以上、私もこれに答えねばなるまいとおもいますので。
 結論から言えば中国や韓国と日本は、どっちもどっちで優れている面もあれば、劣っている部分もあった。科挙試験が、生まれや出自、身分に関わらず自由に優秀な人材を集め、選び、官僚として登用できるシステムは優れてはいました。しかし、試験に通りさえすれば良いという意識が広がり、儒学本来の道徳をもって世作りをするという志が失われてしまうのです。カンニングや試験管への賄賂が横行し、試験に合格しさえすれば良いという考えが蔓延し、徳ある人間・役人として徳ある政治を行うという儒学の”志”がなくなってしまっている。科挙試験があることで、科挙試験に受かって出世し、利得を得ることが目的となってしまったのです。確かに合格できれば、それは優秀な人なのでしょうが、そこに世のため人のために働きたいという意識はないのです。何のために学問をするのか?と言えば、自分が出世して役人になり、利得を得るためでした。
 加えて、科挙試験は朱子学と定められていたため、朱子学以外の学問は役に立たないものとされます。朱子学者の見解や科挙での正解回答が正しいものと固定化し、学問としての深化発展は望めません。辛うじて陽明学がこれに反旗を翻すべく生み出されたぐらいでしょうか。 

 では科挙のない日本はどうでしょうか?。科挙がない以上、学問をしても立身出世を保証するものではありません。したがって、江戸時代になるまで儒学は一般化せず、辛うじて平安時代から室町時代の間は、天皇と一部の上級公卿が帝王学として学んだ程度です。
 江戸時代に入り、儒学が一般化すると、すぐさま朱子学は間違っているのではと問題提起されるようになり、朱子学的解釈を廃して原点の『論語』から解釈し直そうという古学派が誕生します。さらに朱子学と違う解釈をする陽明学も学ばれ、朱子学を主としつつも陽明学や古学をも融合折衷し、良いとこ取りしつつ自由な学説が生まれてくるようになります。つまり、科挙試験がないことで発想が自由になり、儒学という学問そのものが深化発展したのです。なぜ、そのような現象が起きたのかと言えば、学問をする動機が中国や韓国と違い、純粋に知恵や知識を得るための手段として儒学が学ばれたからだと考えられます。身分が高く、政治に携わるお家柄であれば、なおさら善政を行うために、或いはお家を守るための知識として学問修行を行ったわけです。むろん、藩校などで武士として一般常識として知らなければいけないことは頭ごなしに教えられるわけですが、そこから先の学問は自発的な意思で、自ら進んで行われています。科挙試験のようなものがないのですから、学ぶも学ばないも個人の自由だったわけです。なによりも学問が立身出世の道具に過ぎないという認識などなく、故に利得を得るための手段になることもなかったのです。

 そして、このような風潮のなかで新たに蘭学や国学も生まれ、学問界が煩雑になってきてしまう。朱子学の優位性を失いかねないと思った幕府官儒林家が危惧を覚えて幕府の力で「寛政異学の禁」を発し、朱子学以外の学問は禁止と言い張るほどでした。この寛政異学の禁によって、一時的に朱子学が盛り返したものの、結局は一時的なものでしかなく、陽明学も古学も学ばれ続けます。しかも学問をするのは義務ではないのですから、学問の先生を横断的に求めることも平気に行われました。朱子学のA先生の学説はいまいちだから、陽明学で有名なB先生の塾へ行くといった感じです。
 江戸時代末期になると朱子学を主としつつも国学や古学とも融合した水戸学なども生まれ、志士といった政治活動家をも生み出しています。彼等は皆、自身の学問をもって、より良い日本を作り出そうとし、かつ日本を守るために欧米列強の脅威と戦ねばならないという意思を持っています。それは、世のため人のために働き、学問を世の中で役立てたいという儒学の理想と合致するものです。そのような意思を儒学では「志」といい、それを命がけで成し遂げようとする人を「志士」と呼びます。
 ただし、科挙が無かったデメリットとしては、学問界が多種多様で権力者が統御しきれないということがあります。寛政異学の禁があったのにも関わらず、結局この禁令は徹底せずに終わりました。そして権力者側が統御しきれなかった故に、権力者に取っては不都合な思想も江戸時代には生まれて、政情不安も引き起こしています。例えば老荘思想(『老子』や『荘子』の思想)があり、江戸時代中期にこれを学んだ人が、「自然に身を任せ、狩猟採取で人は生きればいい。朝廷も幕府も藩もいらないのだ」という思想に目覚めたりもしています。
 つまり、科挙試験があれば試験科目である朱子学だけとなり、権力者が学問思想を制御できます。が、そこに思想学問としての深化発展はなく、単なる個人の立身出世のための関門や道具に成り果てます。一方、科挙試験がなければ学問の自由度が増し、深化発展は無限に広がるかわりに怪しげな思想も生み出したりもします。その結果として政情不安や戦乱なども起こってしまう。つまり、科挙試験のあるなしで、どちらが正しい選択かなんてケースバイケースだと言えましょう。まして、科挙試験があった国は優れている。それが無かった国は劣っているという比較には何の意味もないと私は考えます。

以上、また変な説を広めようとするプロ歴史ライターに対して反論したかったので、雑談がてら論じてみました。

 

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今日は、東京国立博物館の方へ特別展「はにわ」を見学して参りました。

 

 古墳時代から飛鳥時代の武具や武具の装着などは、はにわが一番の史料になるのです。今回の目玉は、国宝「挂甲の武人埴輪」。東京国立博物館に保存されていた挂甲の武人埴輪はもちろん、各地にある「挂甲の武人埴輪」を一挙に勢揃いさせたという貴重な機会となりました。しかも、基本的に撮影OKということでしたので資料用に写真を撮りまくってきたという次第。とはいうものの、東京国立博物館の特別展って、いつも人多すぎな状況なのでチケット購入と入場で二回ほど並びましたけども。

 

ということで、会場は第一展示室と第二展示室の二つに別れていたわけですが、なんか第一展示室は人多すぎなので、第二展示室から見ろという話になりまして、順路道理にめぐってません(苦笑)。第一展示室は、いわば前振りの造形が複雑ではない初期の埴輪を見る感じで、第二展示室でメインの武人埴輪が!という展開。なのですが、第二展示室から見始めたために、一番最初の初っぱなからメインの「挂甲の武人埴輪」を見ることに(苦笑)、

↑挂甲の武人埴輪(東京国立博物館所蔵)

 

 国宝「挂甲の武人埴輪」です。あの映画「大魔神」のモデルでもあります。太刀(直刀)と弓を装備している姿です。

 

↑挂甲の武人埴輪(群馬・相川考古館所蔵)

↑挂甲の武人埴輪・背面(群馬・相川考古館所蔵)

 

 こちらも太刀と弓を装備、予備矢を入れた矢筒を背面に背負ってます。

 

↑挂甲の武人埴輪(奈良・天理大学附属天理参考館所蔵)

↑挂甲の武人埴輪(千葉・国立歴史民俗博物館所蔵)

↑矢は腰にある。

 

 上記の挂甲の武人埴輪も太刀と弓を装備していますが、矢筒が腰にあります。

 

↑挂甲の武人埴輪(アメリカ・シアトル美術館所蔵)

 

 以上、国宝「挂甲の武人埴輪(東京国立博物館所蔵)」とこの埴輪の兄弟とも目される武人埴輪4体で、計5体が勢揃いです。それぞれが非常に似ており、5体の製造場所や作成者は同一ではないのだろうかと想像されていて、今後の研究進展が待たれるところといった感じです。

 

 

↑挂甲の武人埴輪(文化庁・群馬県立歴史博物館保管)

 

 先の5体とは別に、令和2年に国宝に指定された挂甲の武人埴輪です。冑に独特の朝鮮半島風の飾りがあるということで、大陸との軍事文化の交流を感じさせてくれる埴輪です。

 

↑挂甲の武人埴輪着色レプリカ(東京国立博物館所蔵)

 

 調査によって、埴輪には着色がされていたことがわかり、古墳時代当時の色彩を着色したレプリカだそうです。

まー、主役ロボットは「白」というのは、ガンダムより以前からの伝統で……いや、それは違うか(苦笑)。

 という感じで、挂甲の武人埴輪各種を360°で眺めて参りました。

 

↑竪矧広板鋲留衝角付冑

↑挂甲

↑籠手

 

 上記は、挂甲の武人埴輪作られた古墳時代の武具です。挂甲はまさに挂甲の武人埴輪が装備している防具ですね。鉄の平板で作られた短甲から発展したのが挂甲です。短甲は鉄板なので戦う際に動きを拘束してしまいます。これを改善したものが挂甲で、多くの小札を魚の鱗のように重ね縫い合わせることで、防禦性能の損なわずに自由な動きができるようにしています。特に馬上での動き易さがに優れると言われています。

 古墳時代は、製鉄を含め、このような鉄加工技術を持つのはヤマト王権の他になく、地方の豪族や有力者たちは、こうした優れた武具を欲してヤマト王権の傘下に入っていきました。このため、ヤマト王権は地方に勢力を拡大していく上で敵対勢力とも戦ったと思われますが、戦わずに地方の豪族達が傘下に入ることも多かったといいます。ヤマト王権が後の大和朝廷として日本支配を達成するわけですけども、こうした中央と地方での鉄器や鉄製武具の輸出入によって、その支配範囲を広げていったわけです。その根拠は、こうした甲冑に地方変異が見られないということ。西国でも東国でも、短甲や挂甲の作りや仕様が同一なのです。そのため、同一の政治勢力が大量生産し、それを地方豪族の王が手に入れていったと考えるのが自然ということなのですね。そして、そのような高度な製鉄と鉄加工ができる技術を持っていたのはヤマト王権以外にないということなわけです。

 

↑力士埴輪(福島・泉崎村教育委員会所蔵)

↑力士埴輪(神奈川・厚木市教育委員会)

↑力士埴輪(大阪・高槻市今城塚古墳歴史館像)

 

 上記は力士埴輪です。古墳時代に力士がいたという何よりの証拠ですが、すでに西は大阪から関東、東北福島に至るまで力士の格好がふんどし(まわし)一つだというところは個人的に注目しています。それは、全国的に力士とはそういうものだという共通認識が出来ていることを意味するわけです。そして、武士道精神の最源流の思想に「大丈夫(ますらお)の道」という考え方がありますが、この大丈夫の体現者こそ「力士」なんです。大丈夫(ますらお)とは、つまり健康で力強く丈夫な成人男性を目指す道。つまり、男らしい男になろうとする精神性です。なぜ、そういう男性を特別視するかといえば、村で力がある男性は、村を守るために戦える男だということ。狼や熊が村を襲ったり、あるいは他の村の人間が襲撃してくるということもあります。この時に、村を守って戦うのは体が大きく力もある成人男性の役目なんです。

 そして、その健康で力持ちの成人男性であるということは、ヤマト王権からみれば「君、良い体してるねぇ。うちに兵隊として来ないか?」ということで、ヤマト王権で兵士になった成人男性たちは、大王(おおきみ・天皇)を守る者に選ばれたというプライドが生まれる。そして、主君や国のために戦うという意識が芽生えると「武士(もののふ)の道」と言われる古代武士道精神が生まれてくるということです。

 

 

↑家形埴輪

↑導水施設型埴輪

 

 水利施設の埴輪と言うことで、珍しかったので撮影しました。武具には詳しいけど、家とか水利施設とかは詳しくないので~(苦笑)。

 

↑鹿埴輪

 

 子供達に人気が出てきたという鹿の埴輪です。その他にも牛とか鳥といった動物を模した埴輪多数が展示されていました。

 

↑武人埴輪模型

 

 武人埴輪は中世の武士を模した埴輪ですが、むろん古墳時代じゃなくて明治天皇陵に埋められた埴輪の模型ということです。

 

↑短甲と衝角付冑

 

 上記が先に述べていた短甲です。鉄板なので体の動きを拘束します。これを改善したものが挂甲となります。小札にしたことで、折りたためるようにもなりました。そして、小札を利用した防具は後の中世に大鎧と呼ばれるものに発展していきます。小札を赤い糸で威す(綴り合わせる)と「赤糸威鎧」に、黒い糸で威せば「黒糸威鎧」になるわけです。厳密には、挂甲と大鎧の間に、筒状から箱型になった中間形態があったり、革製の鎧(革が腐って分解されてしまうため出土例が極小)となる鎧がありますけども。

 

↑短甲埴輪

 

 短甲を模した円筒形埴輪。短甲の武人埴輪もありますが、特別展の方では展示してなかったなぁ。常設展の方にあると思いますが。

 

↑最大級の円筒形埴輪

 

 埴輪はこのような円筒形埴輪からはじまりました。

 

↑踊る人々埴輪

 

 有名な埴輪です。円筒形から造形が複雑になっていき、先の挂甲の埴輪のように細かい造形ができるようになっていきます。そうそう、第二展示室から第一展示室に行ってますので、時系列が変です。ご容赦を。

 

↑馬形埴輪

↑馬形埴輪

 

 上記の馬埴輪は、旗を差していることから軍事用かと思います。現在、日本列島に馬は生息していなかった(弥生時代以前の馬の骨が出土しないため)と思われ、『魏志倭人伝』にも邪馬台国に馬はいないという記述もあります。つまり、古墳時代から忽然と現れたわけです。考えられるのは、当時の日本は朝鮮半島に渡って戦争を行っており、大陸の騎馬隊と戦っていたこと。むろん、そのような力のある権力はヤマト王権しかありませんから、このヤマト王権が大陸からモンゴル系の馬を輸入し、増やしたのだろうというのが有力説です。同時に、先に述べた鉄器や鉄製武具と合わせ、馬もまた軍用として地方の豪族・有力者に伝播し、日本全国で馬が飼育されて増えていったということです。むろん、馬を飼育するにはそれなりに大金が必要ですから、馬もまた豪族や有力者の持ち物だったと思われます。つまり、馬に乗れるというのは身分の高さを表す一種のステータスなんですね。これが時代がくだると馬に乗り、弓を射る者こそ武士という「弓馬の道」といった武士道精神になっていきます。

 

↑石人武人

 

 埴輪の材料には石もあったということで石人が展示されていました。石人というと九州地方に多いというイメージなんですが、阿蘇山や桜島といった火山絡みの溶岩石が多いからなんでしょうか。そのへんは詳しくないです。

 

 以上、東京国立博物館の特別展「はにわ」のご紹介でした。私個人は、武士道論や武士論(武士の起源)に関する展示を中心に見てきたので、家形埴輪とか礼装をする男子・女子の埴輪など多数があったものの詳しくないんで~(苦笑)。文化民俗学的には重要なものだと思います。一応、写真だけは資料用に撮影だけしといた感じでしょうか。

 興味のある型は、12月上旬までは東京上野で開催していますので、見に行くべきかと思います。余談ですが、来年になると九州国立博物館の方に移って「はにわ展」やるみたいです。

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 最近は、本業の方がややこしいことになって在宅業務してたりする。通勤時間を削減できるという点で、在宅業務はストレスがないのだけれど、ずっと家に籠もって仕事するとなると外出をホントにしなくなってしまう。これで一番困るのは生活リズムが狂うという部分だ。

 以前なら会社に出勤するために外に出て歩く。この時に日光を浴びるし、駅と会社の間は徒歩だから多少の運動にもなる。在宅業務だとこれがない。つまり運動もしないし日光も浴びない。結果、体の体内時間(生活リズム)が狂って不眠のもとになってしまうわけだ。これはいかんということなわけで。擬似的な通勤の真似事をすることで、生活リズムを取り戻さねばと考えて、毎朝散歩することにした。

 ということで、近場の神社まで散歩してきたついでにmini史跡巡りもしてきたり……。

↑東中野氷川神社

↑神社由緒

 

 東中野にある氷川神社であるが、ここは房総で平忠常が反乱を起こした際、討伐軍を指揮した源頼信が立ち寄り、氷川神社の祭神を勧請して祠を建て、戦勝祈願を行った場所とされる。むろん伝承で史料的根拠はないのだけれども。

 

↑奉納された浮標水雷缶1

↑奉納された浮標水雷缶2

 

 この神社のある地域には、戦前に軍人の官舎があったそうで、「忠孝」の二文字が書かれた石碑にその面影を残す。以前には大砲の弾などもあったそうだが、今は撤去されているらしい。

 

 さて、これだけだとブログとして寂しいので、幕末史関係として「徳川慶喜」について少し語ってみたいと思う。

 

 徳川幕府最後の将軍として有名な人物だし、大河ドラマの主人公にもなっているので細かい説明は省き、いきなり本題に入ろう。以前より、慶喜と水戸学の関係については注目されていたわけだが、近年の水戸学と慶喜の関係を解説するネット上の歴史記事やユーチューブ動画の間違いが酷すぎると思うのだな。

 まず水戸学だが、近年はおもしろおかしく「過激派テロリストの思想」と喧伝される傾向が強いが、水戸学が思想として体制側か反体制側かどっちだと問われれば、実は体制側つまり佐幕側の思想である。水戸学が考え出された天保年間の時期は、幕府は異国船は打ち払えという「無二念打払令」を発令していた。水戸学は、この幕府の基本方針を朱子学的に理論付けして正当化し、さらに政治学として今後どうあるべきかを論じた学問である。水戸学と幕府方針が食い違っていくのは、その後にアヘン戦争の情報がもたらされたことによる変化だ。幕府の対外姿勢が軟化し、遭難した異国船に限り、水や食糧を与えて帰すという「薪水給与令」に変更され、なし崩し的に無二念打払令が骨抜きになっていく。そしてペリーの黒船艦隊の来港によって幕府は開国に迫られ、これまた異国の強硬な交渉の前に屈する形で開国していくことになった。この結果、無二念打払令を是とする水戸学の政治姿勢と幕府の政治姿勢に致命的な齟齬ができてしまったのである。

 あと、尊王思想が水戸学から始まったとする解説も変で、そもそも王道主義を取るのが朱子学だ。日本の王は天皇しかいない。だから王道主義を取るならば、水戸学に限らず自動的に尊王になる。例えば水戸学の『新論』と共に、尊攘派のバイブルになっていた尊王思想の歴史書『日本外史』の著者である頼山陽は朱子学派で水戸学者ではないが、ほぼ『新論』の完成と同じ時期にに『日本外史』を完成させている。頼山陽は広島で生まれ、京都や大阪で活躍した西国の学者で、水戸学派が活動した関東とは縁が薄い。にも関わらず、関東で水戸学の尊王攘夷思想と歩調を合わせるように、関西では頼山陽の尊王論が受け入れられていたのだ。とかく関東の水戸学の尊王攘夷ばかりが注目されるが、それでは片手落ちで関西には頼山陽の尊王論があったことを忘れてはいけない。この関東と関西で同時期に生まれた尊王論に基づく政治論が共鳴し相乗効果を生みつつ広まった結果、尊王と攘夷が大流行し、多くの志士を生んだのだから。

↑頼山陽の子、頼三樹三郎の書

 

 さて、徳川慶喜はこうした時代背景のなかで生まれ、水戸学を完成させた父徳川斉昭の薫陶を受け、かつ水戸学派の重鎮にして『新論』の著者である会沢正志斎を学問の師として学問に励んだ。

↑水戸藩の藩校・弘道館

 

 水戸弘道館や水戸各地に作られた郷校で水戸学を学んだ若者たちの多くが水戸学派となり、政治運動を行いだして志士となっていったことは想像に難くない。水戸学派の志士と言えば、水戸天狗党(実は諸生党もだが)のように過激運動家というイメージを持つ人も多いと思うが、それは間違いではない。実際、水戸学では「学問実業一致」が基本方針で、学問で得た知識は実際に役立てねばならないとする。水戸学が政治論である以上、それを役立てようとすれば政治の場しかないからだ。

 だからこそ烈公徳川斉昭は、幕府閣僚からうるさがれるほどに幕政にくちばしを挟んだし、藩政改革でも大胆な改革を行おうとして幕府から横やりを入れられて挫折に追い込まれたりしている。水戸藩士や志士たちも徳川斉昭に負けず劣らず政治論にやかましく、なんとか自分たちの政治主張を幕府政治に反映させようとした。ところが、慶喜はこうした水戸学派の志士たちとまったく違う行動を取っている。

 

 例えば慶喜が一橋家に入って次期将軍候補になった。攘夷派の巨頭徳川斉昭の子が次期将軍候補なのだから、尊攘派志士たちも慶喜が十四代将軍になった暁には、水戸学派が望んでやまない攘夷が実行されると期待されることになる。ところが、黒船来港の際に幕府が求めた意見書に、慶喜は「国初よりの法度は改むべからず、其請を許さざるを至当とす。因りて防禦を厳重にすべし。万一戦を開かば、浦賀のみならず、所々に襲来せん、諸国廻米の漕運等故障なからんやう、予め計画せらるべし」と穏当な意見を述べるに留めた。攘夷派ならば「打ち払うべし!」と言いそうなものだが、慶喜の意見は”古来からの鎖国を守り、米国の開国要求は拒否するのが妥当”という穏当なものに留まっている。

 さらに安政五年の大老井伊直弼による日米修好通商条約の締結の際は、「いやいや余が思ふ所は、条約調印の事、強に許すべからずとにはあらず、已むを得ざる事情ありてとならば、せんすべなけれど、さらば何故に即日にも御使を上京せしめざるぞ、ただ一片の宿次奉書にて、届け放しの有様なるは何たる不敬ぞや、天朝を軽蔑し奉ること其罪重大なり」と井伊直弼に苦言を呈しているが、これも開国に踏み切ったことに関しては”やむを得なかったのならば、仕方がない”と理解を示しているのだ。つまり慶喜が怒ったのは、攘夷とは真逆の開国に踏み切ったことではなく、その後の事後処理で孝明天皇に手紙一枚送っただけで済ませようとした態度である。天皇からの許しを得たあと条約調印するのが筋であり、そうならなかったことは仕方がないにせよ、それを詫び状一つで言い捨てにする態度はあまりに不敬だというのが慶喜の考えである。つまり、井伊直弼の攘夷開国という政治姿勢を怒っているのではなく、後の手続きが悪すぎると言っているに過ぎない。

↑江戸の一橋邸跡

 

 十四代将軍継嗣問題となるとさらに慶喜の姿勢が明らかになってくる。慶喜は父斉昭に対して「天下を取る程気骨の折るる事はなく候。骨折るる故にいやと申すには候はねども、天下を取りて仕損ぜんよりは、天下を取らざる方大に勝るべし」と伝えている。将軍になりたくないと言うのだ。これは水戸学の「学問実業一致」の考えとは完全に相容れない。将軍になれば、慶喜が習ってきた水戸学を政治に活かせることは間違いないのに、慶喜はそれを嫌がる態度を見せているのだ。

 結局、安政の大獄で慶喜は失脚したが、その後に将軍家茂の後見として復活する。だが、それも島津久光の率兵上京と天皇の勅を背景にする幕政改革によって引っ張り出されたのであり、慶喜が望んで政治界に舞い戻ったわけではない。

 むろん、引っ張り出されて将軍後見職だの禁裏御守衛総督の役職に就いているが、これも孝明天皇に望まれてなっただけで、やはり自らの望み、工作し勝ち取った役職ではない。

 おおよそ、学問実業一致と尊王攘夷を掲げる水戸学派の志士と違い、この攘夷論全盛期の慶喜は攘夷派とは呼べない態度を取っている。なぜかと考えた時の答えは、文久二年の慶喜の考えにあったろう。

 文久二年といえば、京都では「天誅」という暗殺が大流行した時期で、尊攘派志士の暴れっぷりに手が付けられない状態の時期だ。朝廷内も孝明天皇を始め、攘夷一色である。こうした状況から、幕府老中と松平春嶽はイヤイヤながらも奉勅攘夷に同意するしかないという結論に至った。それを聞いた慶喜は反対し、自分の本心が開国にあることをついに明かしたのである。『徳川慶喜公伝』によると「世界万国が天地の公道に基きて互に好を通ずる今日、我邦のみ独り鎖国の旧套を守るべきにあらず。故に我より進みて交を海外に結ばざるを得ずとの趣旨を、叡聞に達すべし」と慶喜は語り、幕府の結んだ条約が、勅許を得ていない不法なものという議論は国内だけの事情であり、諸外国から見れば正式な条約なのだと慶喜は主張する。続けて慶喜は、条約を破棄したくとも諸外国は納得しないだろうとし、堂々と開国路線を取るべきだと主張した。これを聞いた元々開国派である松平春嶽に異論があるはずもなく、橋本左内にかわって春嶽のブレーンを務めていた横井小楠もこれを聞いて、慶喜を二十余歳の若年と侮っていたことを「余が眼識の及ばざりしは慚愧の至りなり」と語り、慶喜の開国路線に賛同を示した。事実、この尊王思想全盛期の「天皇のお言葉は絶対」とする時代に、朝廷や天皇に間違いがあれば、これを諫止して正さなければならないという考えを持っていたのは慶喜ぐらいであったろう(強いてもう一人いるとするならば、それは岩倉具視だろう)。

 つまり、慶喜はかなり年若の頃から、尊王ではあったものの攘夷に関しては疑問を持っていたと考えられる。しかし、父斉昭をはじめ、廻りは皆攘夷論者でだから表だって反対を唱えれば事が荒立つ。だから、攘夷には反対しないが積極的に攘夷を主張するようなこともなかったのだろう。

 この時期の慶喜は将軍後見職であり、これ以上黙っていれば攘夷の末の結果も慶喜の責任になってしまうからこそ、自身の本心が開国にあると表明したのだ。先を見通す天才的先見性を慶喜が持っていたことの証明だが、一方で慶喜の悪い部分も露骨に出ている。先にも説明した通り、水戸学は「学問実業一致」であり、常に自分の学問を政治の場で活用すべきとする。ところが、慶喜は水戸学の言う攘夷が危ういと気付き、逆に政治とは距離を取ろうとする。本来ならば、攘夷は危うく、現実的ではないと世に訴えるべきなのだが、水戸学派は絶対に納得しないことも見越している。だから説得しても無駄だと悟り、本心を隠して手っ取り早く責任ある立場になることを避けようとするのだ。これは水戸学派の志士とは真逆の行動で、水戸学的に見れば非難されて当然の行動である。

 こうしてみると、慶喜が水戸学を習っていたことは事実だが、まったく水戸学に踊らされていない。水戸学はあくまでも学問であり、その学問をどのように使うかは人間次第である。尊攘激派の多くは水戸学の政治方針を信じ、その実現に奔走した。しかし、慶喜は水戸学の政治方針と現実の乖離(水戸学では武士は強いとするが、現実には西洋の銃砲主体軍事力の前に刀槍の武士は勝てない)を見抜き、見抜いたが故に自分で考え、水戸学の政治論とは違う考えを持つに至っている。ちなみに薩摩藩や長州藩の攘夷派は、薩英戦争や下関戦争で欧米列強と戦って敗北することで水戸学の間違いに気付き、自らどうすべきか考えるようになっていった。その結論、薩長が持つに至ったものが「尊王倒幕論」である。逆に水戸天狗党など水戸学を信奉している関東出身の尊攘派や水戸藩士は、あくまでも水戸学の根本思想である「尊王敬幕(天皇を尊び、幕府を敬う)」思想を維持しようとするので徳川幕府の間違いを正す”諫言”のための行動に留まる。新選組の芹沢鴨は尊王攘夷派だが、尊王倒幕派ではないという話だ。だから幕府のために新選組のリーダーになっていても何の不思議もない。蛇足になるが、やはりユーチューブの新選組の動画にも時々「近藤勇は佐幕だが、芹沢は尊王で幕府を倒そうとしたので近藤一派と対立した」といった謎の説明で近藤一派と芹沢一派の対立を説明したものも存在する(謎)。収益化してお金を得ようとするなら、嘘をついてお金を得ようとしちゃだめだ。そのような行為は「詐欺」である。

  話を戻そう。徳川慶喜という人物はおおよそ尊攘派志士とは言いがたいし、父徳川斉昭と志を共にしていたとは思えない。ところが、近年のネット記事はユーチューブ動画では「蛙の子は蛙」的説明で、徳川斉昭が過激な尊攘思想を持っていたから子の慶喜も同じく尊攘派だったはずだと説明するものが多い。これでは間違ったイメージを拡散させるだけで益はなく、問題だなぁと私は見ている。

 

 まぁ、徳川慶喜の悪いところは、本心が開国(というより、開国しないと国際社会のなかで日本が立ち行かないことを知っている)なのに、薩摩藩に主導権を奪われないよう”孝明天皇は攘夷をお望みだ”と言って攘夷的な主張をして政敵を追い落としたりするトコだな(汗)。たしかに天皇を尊び、幕府を敬う「尊王敬幕」の基本を守っている佐幕派なのだ。ただ、こうゆう政治的な寝技というか政略も駆使するので、慶喜自身の本心は他者から見づらく、「二心殿」なんて言われてしまって敵はもちろん味方からも信用を失う。鳥羽伏見での慶喜の振る舞いなど、特にそういうところが目立つ(ただし、大坂城退去を怖くなって逃げ出したという理解は間違いで、真の目的は”天皇と覇権を争うような戦争は断固回避”することだと私は考えている)。政治上の重要な案件をも政争の具に使っちゃうのは政治家としてはマイナスと言わざるを得ず、慶喜の最も悪いところになる。