前九年の役より20年後の1083年、再び奥六郡で後三年の役が勃発する。はじまりは前九年の役によって奥六郡を支配することになり、出羽と陸奥の二ヶ国に跨がる広大な地域を支配した清原氏の内紛からだ。
この時代は、前回の前九年で活躍した源頼義や清原武則の子の時代となっており、河内源氏の惣領も頼義の子たる源義家に、清原氏も清原武則から武貞、次いで真衡へと世代交代している。
↑源義家像(東京都府中)
↑源義家像説明
さて、清原氏の内紛・御家騒動について説明しておこう。前九年の役で活躍した清原武則には、清原家を次ぐべき後継者として直系の武貞、孫に当たる真衡がいる。ただし、武貞は前九年の後に陸奥進出のために安倍頼時の娘と再婚した。陸奥国の元々の支配者である安倍氏の血を清原氏に入れ、出羽の清原氏が安倍氏の奥羽支配を引き継いだ形としたのである。しかし、この安倍氏の女性は元々は藤原経清の妻であり、経清との間に清衡という子をもうけていた。経清は源氏を裏切っての敗北によって断罪されたが、子の清秀は母の清原氏への再婚で罪を免れ、清原氏へ連れ子養子として迎えられていた。
安倍氏の女性と結婚した清原武貞の方も、元々の妻との間に子・真衡をもうけている。元々の妻がどうなったのかは解らないが、結局安倍氏の女性とは再婚であった。つまり、清原真衡は清原氏の血を受け継ぐ跡取り長男だが、安倍氏の血は入っていない。一方、再婚した安倍氏の女性の連れ子たる清衡は、安倍氏と秀郷流藤原氏の血を引いているが、清原氏の血は入っていない。この真衡と清衡が義理の兄弟という関係である。さらにややこしいことに、武貞と安倍氏の女性は再婚後に新たに子を作っている。これが家衡だ。家衡は安倍氏と清原氏双方の血をひいている。しかも清原氏当主となっている真衡は子に恵まれず、結局養子として国香流常陸平氏の一門から養子・清原成衡を向かえて清原氏後継者候補としていた。これが清原氏の三兄弟の関係であり、御家騒動を起こしてくれと言わんばかりの後継関係である。
【安倍氏と清原氏の関係系図】
安倍頼時-貞任
|
⊥宗任
|
| 藤原経清
| |
| ⊥清衡(奥州藤原氏)
| |
⊥頼時の娘
|
⊥家衡
|
清原光頼-武則-武貞-真衡-成衡(養子・御家後継予定)
|
⊥武衡
|
⊥女
|
吉彦秀武
事の発端は、清原氏の重鎮吉彦秀武が真衡の態度に激怒したことだった。実は当時、河内源氏の源義家が陸奥守に任官して陸奥国府たる多賀城に着任していた。真衡は養子の成衡にハクを付けさせる意味もあり、源頼義の娘と成衡の結婚を取り付ける。源頼義も承諾して婚約は成立、清原家は河内源氏惣領家と縁続きになることが確定した。簡単に言えば成衡と源義家は義兄弟という間柄になるということだ。清原惣領家の祝い事だから、一族の重鎮吉彦秀武も祝いに真衡の元にやってくる。ところが真衡は惣領として威勢を張るところがあり、一族の家衡や清秀から良く思われておらず、一族の重鎮吉彦秀武とは特に険悪な仲だったのである。それでも惣領家の祝いということで、我慢してやってきた吉彦秀武を放り、真衡は囲碁に勤しんで無視したのである。この態度に吉彦秀武は怒り、手土産に持参した砂金を庭にぶちまけて帰ってしまったという。
この秀武の態度に逆ギレしたのが真衡だ。不仲になって三年後の1083年、真衡は吉彦秀武討伐の軍を起こし、両者の争い合戦に発展した。兵力的には清原惣領の真衡が勝っている。不利な吉彦は、日頃仲が悪かった清原家秀と清原清衡に支援を要請、これを受け入れた家衡と清衡の二人は、吉彦秀武討伐に出向いて留守になっている真衡の本拠を攻めようと出兵を開始した。かくして、清原家一族の内紛は大規模な合戦に発展してしまう。
当初は有利だったはずの真秀だったが、家衡や清衡まで敵となる事態を前に、縁続きとなっていた河内源氏の支援を仰ぐべく、陸奥守として陸奥国府に入っていた源義家の元を訪れて協力を要請する。義家もこれを受け、真衡を支援すべく国府から出兵した。源氏軍の援軍を得た真衡は、後顧の憂いなく吉彦秀武討伐の軍を再び起こすのだが、出兵の最中に突然病気を発病させ死去してしまった。
この戦いは、元々清原真衡と吉彦秀武の戦いである以上、片方の真衡が死んでしまえば戦う理由がなくなる。家衡と清衡も陸奥国守たる源義家相手に戦う気はなく、二人とも義家の軍門に素直に下ったことで、この内紛は一旦は収まることになる。
戦後処理として、源義家は仲介者となって両軍の間に立ち、真衡の遺領陸奥六郡を三郡づつの二つに分け、家衡と清衡の二人に均等に分け与えることにした。
ところが二年後の1085年、この遺領配分に納得いかなかった家衡が兵を挙げ、叔父である清原武衡と連合して清衡への攻撃を開始する。彼らの不満は、遺領の半分を受け継いだのが、養子ではあっても清原氏の血をまったく受け継いでいない清衡が継承したことだった。清原家から見れば、前九年の役で滅んだ安倍氏の遺児に領地を奪われたようなものだったのである。
家衡は武衡支援の元に清衡と激しい戦いを行い、ついに清衡の本拠・館を襲撃して清衡の妻子、従者をことごとく殺戮してしまう。滅んだ安倍氏の一族である清衡では、清原氏総力をあげて攻撃には耐えられない。窮した清衡は陸奥国府に逃げ込み、窮状を国守源義家に訴えて助けを乞うた。自分が仲介した遺領配分を巡ってのいざこざが原因となれば、義家も黙ってはいられない。自身の裁定に文句があるのかと言わんばかりに清衡に味方し、家衡・武衡連合軍を叩きつぶすべく、1086年の秋に一千騎を率いて国府を出陣する。
義家の出陣を知った家衡は、出羽の沼柵に立て籠もり徹底抗戦した。沼柵に攻めかかった義家軍だったが地の利がないこと、季節は晩秋から冬であったために降雪にも悩まされて難戦を強いられ、戦局が泥沼化して長期戦になると兵粮不足にも陥った。美濃・三河・坂東から招集している兵たちも疲弊しきってしまい戦闘継続が困難となる。やむなく義家は兵を引き、国府多賀城へ撤収する他なくなってしまう。
義家が撤退すると、家衡支援のために来援した叔父の武衡が沼柵に到着。河内源氏惣領たる義家を撃退した家衡の武勇を絶賛する武衡だが、義家の再来攻に備えてさらに堅固な金沢柵への転陣を提案。家衡はこれを受け入れて金沢柵に移った。
一方、義家は1087年の夏になっても腰をあげようとはしない。次の失敗は河内源氏惣領として許されないからだ。十分な兵力と軍備が整うまで力を充填し続けていたと考えられる。京都に居た義家の弟、源義光は兄の苦戦を知り、朝廷での官職を投げ打って援軍として奥羽に駆け付けた。兄義家が感激したことは言うまでもない。かくして1087年秋、清衡義家連合軍に義光軍も合流、一万騎を越えるほどの大兵力を動員し、河内源氏の総力をもって金沢柵に向け出陣を開始することとなる。
金沢柵での戦いは激戦となった。堅固な金沢柵に家郷・武衡連合軍が籠城し、義家軍はこれを包囲したものの攻め倦ねている。再び季節も冬に移り、降雪や寒さが義家軍を悩ませたのだ。苦戦に陥った義家軍だが、義家軍に従っていた吉彦秀武が義家に力攻めをやめて兵粮攻めにしたらどうかと提案する。これを受け入れて義家は兵粮攻めに方針を転換した。ちなみに、これが日本史上初の兵粮攻めとされる。
今度は金沢柵に籠もっている家衡・武衡が兵粮不足に苦しむ番であった。戦いは長期戦になっていたが突如金沢柵内部で出火が起こる。出火原因は判然としないが、籠城側の兵が火事を理由に脱出を試みようとして自ら火を放ったとも言われる。すでに城内の兵粮は尽きており、餓死者が続出している状態で、籠城している兵たちも精神的に追い詰められていたのだろう。
この城内の異変を見逃さなかった義家は、金沢柵への総攻めを開始した。籠城軍にもはやこの攻撃を耐えるだけの体力はなく、城内は阿鼻叫喚の殺戮劇場と化す。家衡も脱出を試みるも失敗して討死。武衡は捕縛されて義家の前に引きずり出された後、斬首されたという。
この時代の合戦では、捕虜を取るということをしない。敵の首を取れば取るほど手柄になるからだ。だから傷ついた敵であろうが、死んでいる敵であろうが構わず首を取って手柄にしてしまう。長期籠城中に飢餓に耐えられず脱出して降伏を願い出てきた敵兵は、すべて殺されている。当然総攻撃に際しては敵兵一人残らず殺すという殲滅戦の様相となる。深手を負って助けを求める敵でも殺して自身の手柄とするのがこの時代の武士道「兵(つわもの)の道」であり、一般常識だった。
こうして後三年の役は終了する。陸奥六郡は勝者となった清原氏最後の一人たる清原清衡に与えられ、後に鎮守府将軍の地位を与えられた。清衡は姓を清原から本来の藤原に戻し、藤原清衡とする。こいうして奥州藤原氏初代となり、ここから奥州藤原氏の栄華がスタートした。一方、清原氏は血を受け継ぐ後継者の多くを失ってしまったため、滅亡の道を歩むほかなくなっている。
一方、戦乱を鎮めた義家は、朝廷に戦勝の報告して恩賞を得ようとした。恩賞を得て、それを奮闘してきた部下の兵たちに分け与えなければならなかったからだ。ところが、清原氏は朝廷に納税を続けており、内紛に陥ったのも清原氏の私的な問題で朝廷には関係がなかった。この時代の中央政府たる朝廷は、地方に求める納税が滞らねば良く、地方の内紛や戦乱など問題視しないのだ。だから、後三年の役も同様で納税を続けていた清原氏は、朝廷に楯突いたわけではないという判断がされる。後三年の役は、本来は気清原氏の内紛に過ぎず、そこに源義家が国守の立場で勝手に介入したに過ぎない。つまり、朝廷が命じた公戦ではなく、清原氏と源氏の私戦と朝廷は見なしたのである。結果、勝手にはじめた私戦に朝廷が恩賞を出す理由はなく、義家への恩賞はなしと決まってしまう。
困ったのは義家である。共に戦ってくれた部下たち、武士・兵(つわもの)たちに与える恩賞が朝廷から出されなかったのだから。義家は軍事貴族、武家の棟梁として合力した部下たちに恩賞を与える義務があった。これが中世の忠義「ご恩と奉公」の関係だからだ。主君として恩賞を部下に与えなければ、部下たちも主君に奉公しなければならない義理もなくなり、武士や兵たちは自分の元を去ったり、主君としての信頼を失って次の戦いの際に兵を出し渋り、合力しなくなってしまう。それでは困るので、何が何でも部下に恩賞を与えなければならないのが河内源氏惣領源義家の立場だ。
結局、前九年の役で父源頼義がそうしたように、義家も私財を投げ打ち、自身の支配地を自分に従ってきた武士・兵(つわもの)に分け与えたりして部下へ与える恩賞をひねり出して与えた。義家に付き従う武士・兵(つわもの)たちは感激し、朝廷や天皇よりも自身が主君と思い定めた源氏に信頼を寄せる決定だとなっていく。特に坂東の武者たちは頼義・義家と二代に続く重代の信頼となって不動のものにったのである。
後三年の役で語られた武士道「兵(つわもの)の道」
さて、後三年の役の概略を前述の通りだが、武士道論の見地から見逃せないことは、明確に武士の倫理精神たる「兵(つわもの)の道」が語られたことだろう。
金沢柵籠城戦の最中、義家に従っていた十六歳の若武者鎌倉權五郎景正は、戦いの最中に敵の矢を右目に受けて負傷する。景正は刺さった矢を折り、矢が顔に刺さったままで戦闘を継続し、敵を倒している。その後、自陣に帰って来た景正は「傷を負った」と言って倒れてしまった。同じ相模の武士三浦の平太郎為次が近寄り、顔に刺さった矢を抜こうと景正の頭を足で踏んで固定した途端、突然景正が為次を掴み、刀を抜いて突こうとする。為次が驚いて「何をする!」と言うと、景正は「弓箭にあたりて死するはつはものののぞむところなり。いかでか生きながら足にてつらをふまるる事あらん。しかじ汝をかたきとしてわれ爰にて死なん(『奥州後三年記』より抜粋)」と答えた。為次は舌をまいて言い返すこともせず、ただ今度は膝をもって顔を固定し矢を抜いたという。
弱冠十六歳の武士にして、この覚悟である。たとえ同郷の出身、味方旧知の仲であっても顔を踏まれる恥は許さないという武士精神が理解できよう。名前に鎌倉、三浦とあり両人共に相模の兵(つわもの)とされているので二人とも坂東武者である。鎌倉權五郎景正は鎌倉の在地豪族と思われ、義家の直下に従っていたと考えられる。
なお、三浦為次の父は三浦為通といい、源頼義に従って前九年の役に出陣、その戦功によって三浦の地を与えられ三浦性を名乗り、相模の武士団三浦党の祖となった。為次(為継)は為通の後を継いだ二代目である。ただし、領地を与えられたというと語弊があるかもしれない。この時代、私有地の所在を確定できるのは朝廷であり、武家貴族である平氏や源氏の棟梁といえども土地を与える権限は持っていないからだ。従って、自身の領する土地を分け与えたか、その土地の利権を管理する権限もしくや職を彼らに与え、その地位立場を保証したとするほうが正確なのかもしれない。
鎌倉・三浦の両者ともに祖先は国香流平氏、もしくは良文流平氏の末裔とされる。諸説あるのはそれぞれ異なる系図があるためにどちらが正しいか判断が付かないためだ。どちらにせよ、鎌倉が源氏に譲られてから河内源氏に従った坂東平氏の兵(つわもの)であり、坂東平氏が河内源氏を主君としていることの証明と言えよう。
↑三浦氏三代の墓所(中央が三浦平太郎為次(継)の墓石)
↑三浦氏三代の墓所説明
さらに金沢柵の戦いが終わった時、捕らえられた清原武衡は源義家に「一日だけでも」と命乞いをしている。義家はこの懇願を拒否し、即刻武衡の斬首を行った。まさに斬首される直前に、副将を勤める弟源義光が兄義家に「つわものの道。降人をなだむるは古今の例なり。しかるを武ひら一人あながちに頸をきらるる事。その心いかが」と問い質している。義家は、この問いに対して「降人といふは。戦の場をのがれて人の手にかからずして後に咎をくひて首をのべてまいるなり。所謂宗任等なり。武衡はたたかひの場にいけどりにせられてみだりがましく片時のいのちをおしむ。かれをば降人といふべしや。君この禮法を知らず『奥州後三年記』より抜粋」と義光をたしなめて武衡の処刑を行っている。
この史料『奥州後三年記』のなかで、明確に「つわもの(兵)の道」と武士・兵(つわものの)の倫理道徳としての「道」が語られており、義家が敵将の処断に関して「武家の礼法」一般常識としてそれに従っていること。義光のように敵に憐れみ、その感情に流されて敵将を助けようとする態度は、一見すると温情ある武将の態度で仏教や儒教道徳に即した行いではあったが、武士としての慣例礼法を破ることになってしまう。これは武士として取るべき行動ではないと義家は言うのだ。
この記述から、当時に「兵(つわもの)の道」という、武家独自の倫理道徳が存在して武士の間で用いられていたことが解る。さらに、当時の武士の間での認識では、降伏とは罪を謝罪して敵の軍門に降ることだが、敵に捕縛されて逃れられない状態になってから見苦しく降伏を口にするのでは降伏者とは認めないという厳しい武士の認識がわかる。武士は「恥」を極度に嫌うし、戦場において逃げたりする臆病者や卑怯な振る舞いをする者は武士であっても武士とは認めないのだ。まして戦場で苦し紛れに自身の命乞いするなどもってのほかであり、武士として生かす価値もないという判断が当時の「つわものの道」にあることが認められる。
武士にとって、戦場は自身の武名をあげるハレの場であり、そのハレの場で虚勢であっても強さを見せようとするのが兵(つわもの)の道だ。逆に弱さを見せることは恥となる。恥を恥と思わない者は武士・兵(つわもの)とはいえないのである。このような武士精神を持っていない者は、たとえ武士身分であっても武士と認めず、武士としての待遇は行わないのだ。こうした事例から、武士・兵(つわものの)の社会では、仏教や儒教道徳よりも「兵(つわもの)の道」の倫理が優先される。ただし、こうした認識は武士同士が戦う合戦の場、武士がすべてを支配する戦場の倫理ルールかと思われる。合戦ではない平時であれば、「兵(つわもの)の道」を意識しつつも、武士としての振る舞いに反しない限り仏教儒教道徳も意識され、これら異質の倫理道徳の共存がはかられたものと考えられる。
↑三浦氏の居城・衣笠城
↑衣笠城説明。前九年の役の戦功で三浦氏の祖となる村岡為通が三浦の地を得て築城されたと伝わる。
【主要参考文献】
『群書類従 第二十輯(続群書類従完成会編)掲載史料「奥州後三年記」』
『平安王朝と源平武士(桃崎有一郎著・ちくま新書)』
『戦争の日本史5 東北の争乱と奥州合戦(関幸彦著・吉川弘文館)』
『小学館ウイ-クリ-ブック週刊戦乱の日本史29 新説前九年・後三年の役(小学館)』
【武士道論トップ】