今週もコミケに向けて新刊作成せねばなりませんので、当ブログで大ネタが書けません。なので先週同様に小ネタです(苦笑)。
さて、ユーチューブなどで歴史解説を見ていると、どうにも気になるのが「尊攘派が偽勅を作っていた」という論調があること。まぁ、これは以前から言われたりもするのですが、ある程度歴史に詳しい人ならば、なんとなくここで言う”偽勅”なるものが、実は真勅であることに気が付いていることだったりします。が、歴史に詳しくない人はコロっと騙されてしまうわけで。
まぁ、例によって”武将ジャパン”という歴史出版社のサイトの解説記事でも……
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ではなぜ孝明天皇は、そこまで長州藩を嫌っていたのか?
ざっとチャートで確認してみましょう。
◆長州藩は伝統的に皇室に近いという“思い込み”があった
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◆過激化した長州藩士が、公卿に偽勅(ニセモノの天皇の命令)を出させ、テロのような攘夷行為を行った
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◆身に覚えのない偽勅の出所が長州藩と理解した孝明天皇が激怒した
学校の授業ではここら辺の歴史を習いませんので、幕末の政治史がややこしくなっているんですね。
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という感じなわけでして……って、ホントここの歴史出版社のウェブ記事は間違いの実例集みたいな感じの記事多いよなぁ(苦笑)。とりあえず受験生の皆さんは、このような粗悪記事を信じることなく、ちゃんとした「教科書」や「参考書」に書いてあることを信じてくださいね。ちなにみ高校の歴史教科書『日本史B』とか『世界史B』は、歴史を調べる上で私も使用しまくっているほどの良書ですので。
で、まぁあまり放置しておくと、この俗説もまた大火事になり、専門家が火消しに負われることにもなりかねず、まぁこのあたりで正確な情報を出しておくべきだろうと思った次第。
↑学習院発祥の地(公家の学問所として作られたが、身分が低い尊攘派志士が公家に入説する場ともなった)
↑案内版
最初に結論を言っちゃってますが、この尊攘派が偽勅を作っていたという事実はありません。文久年間に出された詔勅は本物です。ただし、”孝明天皇の考えとは違う”ものだったというだけです。え?、それって偽勅じゃないの?と思う人もいるかと思いますので、もう少し詳しく説明すると……
徳川幕府が徳川将軍の独裁政治ではなく、譜代老中合議制だったように、朝廷も天皇独裁ではなく、五摂家をはじめとする公家による合議制でした。つまり、朝廷内での議論次第では、天皇の意に添わない決定が朝議によってまとまり、朝廷の意思(建前上、天皇の意思)として公表されることもあるということです。
以上のことを踏まえた上で史料を見てみると、文久三年五月二十九日の中川宮に下された宸翰で、孝明天皇は「毛頭予好まず候えども、とてもとても申し条立たざる故、この上はふんふんという外致し方これ無く候」とあり、孝明天皇が尊攘派公家が多数派になっている朝議の場で”ふんふん”とうなずくだけのイエスマン状態だったことが解ります。
だから孝明天皇のまったく知らないところで、勝手に勅が作られて出されていたわけではないのですよ。”武将ジャパン”の記事が致命的に間違っていることがお解りになるかと思います。また同記事では、しきりに「長州藩」を悪役にしていますが、ここも正確には天皇の言う「下威」つまり、公家に入説したり威して煽っている身分の低い尊攘派志士や浪士と、そういった在京尊攘派を支援している長州藩内の尊攘急進派や土佐藩の土佐勤王党とすべきかと思います。まして”偽勅の出所が長州藩”などありえません。詔勅を作成できる場所は朝廷内だけですから。朝廷の外に存在する長州藩が、正規の詔勅を作れるわけがないのです。
ある程度身分のある毛利家(長州藩)とか山内家(土佐藩)の名が出てきていないので、藩組織そのものを敵視しているとは思われないです。孝明天皇が問題視しているのは本来朝廷に出入りしたり、公家に会うことなど出来ない低い身分の有象無象の志士や浪士だったろうと。こういった何処の馬の骨とも解らない有象無象たちが尊攘派の公家たちに入れ知恵し、天皇の考えを同調圧力で押しつぶし、朝議の決定を思いのままにしているのですから、朝廷内の秩序を守ろうとする孝明天皇から見れば我慢ならないことだったと言えましょう。
なぜ、身分の低い志士や浪士が朝廷議論の場に入り込めたのかというと、以前に朝廷内で下々からも広く意見を募ろうという「言路洞開」方針が取られ、国事御用掛といった政治的意見を広く採り上げ、朝廷として政治に関する掛かりを設けました。ところが、この政治的な考えを朝議に反映させる部門に尊攘激派の志士や浪士が多数殺到、公家に入説を行う場となってしまいます。結果的に、数で推す尊攘激派の意見ばかりを拾い上げる機関に成り果ててしまった。そこから、尊攘激派の意見に公家が染まっていくという流れとなり、尊攘激派の代弁者となる公家も増えていく。その結果、朝議の場が数で圧倒する尊攘激派の意見ばかりが話し合われるという状態になったらしいです。むろん、幕府や開国派に寄る意見を持つ者には、尊攘派浪士からの脅迫や天誅といった暗殺が行われる(テロ)わけですから、朝議の場で反対意見など出せようはずもなく、孝明天皇もまた「うんうん」と頷くだけとなってしまったと。このような状態から、”尊攘派の意見が、明日には詔勅になる”と形容される状況になってしまったわけです。
↑孝明天皇紀 第86(巻第162-163)「中川宮への宸翰」リンク
さらに同日、薩摩藩島津久光にあてた宸翰には「朕存意は少しも貫徹せず」「すべて下威盛ん」と記され、朝議の場で孝明天皇の意見がかき消され、尊攘派の意見ばかりが盛んだと嘆いています。孝明天皇の言う「下威」とあるのは、下々の者たち(つまり身分が低い尊攘派の志士や浪士)の威(威勢・圧力・脅威)のこと。
↑孝明天皇紀 第86(巻第162-163)「島津久光への宸翰」リンク
つまり、朝議の場での同調圧力に屈してしまっている孝明天皇は、自身の考えを言うことができず、心ならずも尊攘派の意見に良い返事ばかり出していたわけです。当然、尊攘派は孝明天皇が頷いている以上、天皇が納得した上で自分たちの意見を採用したという認識になります。その上で朝議で決定したことを詔勅として下していたのですね。なので、天皇のご意志ではないが、天皇がイエスと頷いた上で詔勅が出されているわけですから「偽勅」ではなく「真勅」なんです。
むろん、この状況を打開しようと思った孝明天皇は前述したように島津久光に宸翰を与えて対策を行わせようとしました。これは、文久2年の島津久光が率兵上京した際、「寺田屋事件(薩摩藩士同士討ち事件)」で尊攘激派を取り締まった実績があることを孝明天皇が知っていたからでしょう。これを受け、薩摩藩は京都守護職たる会津藩に支援を要請「薩会同盟」が形作られ、これに中川宮も協力し8.18政変へとつながっていくわけです。
さらに孝明天皇が紛らわしいのは、8.18政変時に「是迄ハ彼是真偽不明分ノ儀コレアリ候ヘドモ、去ル十八日申出ノ儀ハ真実ノ朕ノ存意候」と語り、18日に出された詔は孝明天皇の存意に間違いないと薩摩会津のクーデターが、天皇の意思によって行われたと宣言していること。真偽不明分という部分の意味は、偽勅だといっているのではなく、孝明天皇の真意か否か不明瞭な勅を出していたという意味だと考えるべきだと思われます。
それって偽勅じゃないのと思われる方もいるでしょうが、孝明天皇自身が「ふんふん」と頷いた上で発せられた勅なので、孝明天皇自身が「偽勅である」と認めるわけにはいかないのですね。だから、このように非常に勘違いされやすい表現になったのだろうと思われま。
なお、この8.18の政変以降から京都守護職会津藩の京都警備と新選組による不逞浪士狩りが徹底され、藩籍を持たない尊攘派志士や浪士たちにとって京都は超危険地帯となります。尊攘派志士たちの回顧談でも、多くの志士が新選組を恐れて京都から脱出していた記録があるほどで、事実京都の治安は一方的に回復していきました。
急激に追い込まれた在京浪士たちが、苦し紛れに「京都に火を放って、天皇を奪取する」という無謀な計画を立てるといったことが行われたりもしています。なお、長州藩桂小五郎は、この計画には反対の姿勢ですから、この計画も長州藩の策謀というよりは在京浪士たちの策謀と言うべきかと思います。こうした在京浪士の計画は、新選組の池田屋事件によって壊滅失敗に追い込まれたことは、皆さんも知っての通りです。
孝明天皇のご意志に関しては、ペリー艦隊が来航したときから変わっていません。それは「これまで通り、大政委任されている幕府が政治行政を司る。対外姿勢はこれまで通り鎖国。戦争は好まない」です。簡単に言えば、異国が日本に来る前の天下泰平の日本のままでいたいというのが孝明天皇の意思でした。したがって攘夷を支持する姿勢ですが、幕府が上手く攘夷を行い異国を追い払ってくれることが望ましい。この望ましいことを諦めずに望み続けようというのが孝明天皇のご意志なのですね。
ぶっちゃけた話、孝明天皇の真意は「異国が来る以前の日本のままでいたい」というものです。尊王攘夷派や幕府から見みたら「それが出来れば苦労はせん!!」と叫びたくなるでしょうし、「異国が来た以上、どうすべきかで揉めてんです!」と言いたいところでしょう(苦笑)。
孝明天皇のご意志なるものが厄介なのは、幕府の「異国の武力が強いので、今すぐの攘夷はできない。日本が強くなるまでは開国もやむなし」という方針を嫌がり、「神州日本に異国人が入り込むのはイヤなので、今すぐ追っ払って(即時攘夷=鎖国継続」でしたし、尊王攘夷派の言う「幕府は弱腰なので、この上は天皇自ら立ち上がり攘夷親征、天皇自らが攘夷戦争の指揮をすべき。天皇が立ち上がったのに幕府が傍観するのであれば、そのような幕府は不要だから倒幕してしまおう(大和天誅組ら尊攘激派の意見)」は、「幕府へ大政委任しているのだから、政治行政は幕府が行う。この形も変えたくないから倒幕など考えられない。天皇自ら攘夷戦争を行うなどもってのほか。戦争は征夷大将軍が行うべき事だから、攘夷は幕府が行わなければならない」という考えから不同意なんですね。
そんなわけで、幕末政局の混乱に拍車を掛けていたのは、この孝明天皇自身の頑でブレないご意志も一要因になってました。幕府が希望する開国も、尊攘派が望む攘夷実行も孝明天皇のご意志に阻まれてひたすら空転するしかなかったわけです。
以上、わりと孝明天皇のご意志が正しいか否かといった是非を語らないまま、勅だの偽勅だのといった議論をするのはナンセンスだと思ったので、小ネタついでに書かせて頂きました。
参考文献
『幕末の天皇』藤田覚著・講談社学術文庫