水戸学や吉田松陰の言う「尊王攘夷」と帝国主義的覇権国家思想 | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

今日は、再び「攘夷論」と「帝国主義的覇権国家」の関連について述べたい。

 

↑水戸藩弘道館に掲げられている「尊攘」の掛け軸

 

 近年、水戸学で唱えられた「尊王攘夷論」や「攘夷論」について、後の大日本帝国が帝国主義的覇権国家へ向かう思想の原点として見直そうという動きがある。もちろん、幕末の日本は欧米列強の極東アジアへの進出を前に、開国か攘夷かで混乱が起こり、ついには明治維新という変革を成すに至った。この変革によって成立した明治維新政府は、国際社会での一等国を目指して富国強兵に勤め、ついに日清日露の両戦争に勝って欧米列強に肩を並べるまでの国となる。その後は、朝鮮併合や欧米列強と共に第一次世界大戦では連合国として南方諸国を植民地として版図を拡大、強引に満州国を成立させると日中戦争を起こして大陸へと進出を図った。その行動は、まさにアジアの帝国主義的覇権国家である。その意味では、幕末期に万国対峙という問題に対し、異国と戦う道を示した「攘夷論」は、こうした国際社会での日本の有り様を示した最初の論と言えよう。そこに「覇権国家の萌芽」があったことは私も認めるところだ。

 しかし、『攘夷の幕末史(町田宏明著・講談社現代新書)』の著者町田氏が説明する大攘夷の意味が、「通商を容認し、その利益をもって海軍を興し、じゅうぶんな戦闘・防衛体制を整えたうえで、大海に打って出るとする、つまり、帝国主義的な海外侵出をおこなうとする」ものだという論調には同意しかねる。なぜなら、儒学で言われる「覇道忌避の思想」に関する言及がされておらず、「大攘夷=帝国主義的覇権国家への道」という考え方は飛躍があると思えるからだ。このことに関しては過去のブログでも語った通りである。

 

以下、当プログでの「攘夷論」に関する記事をリストアップしておく。

●「攘夷論とは」

●「攘夷論とは2」

●「大攘夷論と帝国主義的覇権国家への道の間にあるもの」

 

 上記の記事は、いずれも儒学における「覇道忌避」の思想と攘夷論に関するものである。

 私の主張は、水戸学は朱子学(儒学)の一学派であり、あくまでも儒学が学問の基礎になっている。だから経書の一つ『孟子』にある覇道忌避の思想を無視した形での他国侵略を提唱してはいない。したがって私は、幕末期に唱えられた攘夷論は、明治期の帝国主義的覇権国家思想に直結しているわけではないということを主張してきた。この考えは、いまも変わってはいない。

 

 さて、最近発売になった『水戸学事始(松崎哲之著・ミネルヴァ書房)』という本を読んでいたところ、「水戸学は覇者を容認している」という説明があった。このままだと、この本を読んだ人が当ブログで書かれていたことと矛盾するのではないかと思われてしまう可能性が出てきてしまったので、今回はその補足のためにブログ記事を書くことにしたわけである。

 まずは、前掲書の内容を御覧頂こう。

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覇者の容認と尊王攘夷
(前略)
 このように『春秋』では、周王は理念的には諸侯に君臨するとされました。しかし、権威の失墜した周王は、現実的に中華の地を治めることはできません。現実的には武力を備えた覇者が中華世界を牛耳っていました。覇者は『孟子』公孫丑上には

力を以て仁を仮る者は覇たり。覇は必ず大国を有つ。徳を以て仁を行う者は王たり。王は大を待たず。(実力を用いながら、仁道を行うごとく見せかける者は覇者である。覇者は必ず大国を持たねばならぬ。みずからの徳をもって仁政を行う者は王者である。王者は国力の大を必要としない)(宇野精一『孟子』百十三頁)

とされ、王の徳治に対して、武力による治を行った者とされます。『孟子』において覇者は否定的存在でした。
 しかし、『公羊伝』では、現実的に力を備えた覇者の存在を認めています。その最初に登場するのが斉の桓公になります。桓公は強大な武力を背景に諸侯の旗頭となり、諸侯会議をしばしば主催し、さらに諸侯連合軍を率いて、夷狄の楚を打ち負かしました。
 『公羊伝』では、桓公は夷狄の脅威から中華を救った英雄とされます。そこで、覇者としての理想『公羊伝』に示された覇者の条件は次の通りになります。①諸侯会議を主催する。②弱者を救済する。③絶えた国や滅んだ国を再興させる。④諸侯を率いて王に朝見をする。⑤楚(夷狄)の脅威から中華諸国を守る。これらが理想的な覇者像として示されたのです。これらは④以外は本来は王者のことになります。
 しかし、『公羊伝』では、

上に天子なく、下に方伯なく、天下諸侯に相い滅亡する者有りて、力能く之を救えば、則ち之を救うは可なり。(上に天子がいず、下に諸侯の旗頭である方伯がおらず、天下の諸侯で滅亡しあう者がいて、これを救済する能力があれば、救済してもかまわない)

 と、実質的な力を備えた王者や、その下にあって諸侯を束ねるリーダー(方伯)がいない場合、その実力を有する覇者が王者や方伯に代わって弱者を救済することはやむを得ないとされたのです。
 そして、この考えも宗代以降より尖鋭化します。北宋の時代に胡安国によって編纂された『春秋伝』という書物があります。胡安国は朱熹に影響を与えた人物であり、彼の著した『春秋伝』は朱熹の『資治通鑑綱目』、およびその後の『春秋』解釈に大きな影響を与えました。その荘公十三年には、

桓公、始めて諸侯を合し、中国を安んじ、夷狄を攘い、天王を尊ぶ。(斉の桓公は始めて諸侯を糾合し、中国を安定させ、夷狄の楚を打ち負かし、天王を尊んだ)

 と、桓公は尊王の意思を持ち、諸侯を合して、夷狄を攘い、中国を安定させたとします。桓公が尊王の意思を持ち合わせてことなど分かりません。むしろ『公羊伝』でも桓公は王の権威を利用して、諸侯を集めたとされています。しかし、胡安国は、桓公は尊王の意思を持ち攘夷を実現したとしたのです。以後、尊王の意思を持ち、強力な夷狄(外国)の脅威から中華を守ること、すなわち尊王と攘夷が覇者の条件とみなされたのです。
 『論語』憲問篇「子曰く、晋の文公は譎りて正しからず、斉の桓公は正しくして譎らず」(孔子は言われた。「晋の文公は詭道を用い正道によらなかった。斉の桓公は正道によって詭道を用いなかった」)の朱熹の集注にも、

二公は皆な諸侯の盟主、夷狄を攘い以て周室を尊ぶ者なり。(晋の文公・斉の桓公の二公は、いずれも諸侯の盟主であり、夷狄を追い払い、周室を尊んだ者である)

 と、あります。このような胡安国の『春秋伝』を起点とした考え方が、水戸学に強い影響を与えて「尊王攘夷」という言葉が熟成されてきたのです。
 水戸藩の学問において、この覇者に準えられたのは、誰でしょうか。もう答えは出ています。そう徳川家康です。「弘道館記」には、「我が東照宮、撥乱反正、尊王攘夷」と謳われていましたね。我が東照宮とは、徳川家康を刺しています。徳川家康(もちろん呼び捨てなどできません)は、乱れた世の中を治めて、正しい秩序を取り戻し、天皇を尊び、夷狄(外国)を追い払った、つまり、徳川家康を、天皇に代わって日本を治めた覇者に位置づけているのです。水戸藩の学問においても覇者は認められ、覇者である条件が尊王攘夷であったのです。
(『水戸学事始』(松崎哲之著・ミネルヴァ書房)一九二頁)

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 上記の文章を読んだだけだと、「水戸学では覇者を容認しているのだから、帝国主義的覇権国家も水戸学的にありではないのか」と思われる人も当然いるかと思う。まず儒学の歴史として、最初に”自身の野心のために武力を用いて乱を起こし、民を苦しめる行為”が覇道であり、覇道を行う者が覇者という認識がある。これが後に、王や王に代わって(つまり王道のために)武力を行使し、国を安定させて民に安心した生活を与える者を「”良い”覇者」という認識に変わっていった。自分の野心のために武力や暴力にモノを言わせる者は悪(覇道に堕ちた者)だが、”良い覇者”は王道のために覇道を行っているわけで悪ではないからだ。

 水戸学では、戦国乱世を平定した徳川家康をこの”良い覇者”と捉え、武力を持つ武士たる者の手本とした。もちろん、史実の徳川家康は別に天皇のためとか天下太平の世を作りたいからといった理由で天下を平定したわけでない。が、家康に登用された林羅山の時代から、徳川家康は天下を平定して国を平穏にし、儒学を天下に普及させた聖人という形で美化され、そういうことになっている。儒学の一派である水戸学もまたこうした学説に従い、徳川幕府権力の正当性を「大政委任論(天皇から政治の大権を任されてたのが征夷大将軍たる徳川家だとする論)」で説明している。

 

 したがって、史実上の徳川家康が自身の野心で天下を平定し幕府を開いていたとしても、後の儒学者達はそういう認識には立っていないし、水戸学でもその認識では徳川幕府権力の正当性が説明できないからそのような認識には立っていない。あくまでも徳川家康は、天下に平穏をもたらす使命を帯びた東照大権現という神であり、東照大権現の偉業によって天皇と民は平穏に暮らせるようになったという認識となる。

 だから「自身の野心と満足のために覇道を行い、民を苦しめる者(恐怖政治)」と「王に代わって武力(覇道)を用い、民のために覇者となった者」とで同じ覇者(武力を行使する者)でもまったく違うということは覚えておいて欲しい。

 現在、帝国主義的覇権国家という場合、「支配国(植民地)の主権を侵害し、内政に干渉する」「支配国(植民地)から利権などを奪い、利得を得る」「貿易という形態を大義名分に、支配国(植民地)の民から搾取を行う」「支配国(植民地)の民の安寧は二の次で、自国民(支配する側の国の民)の利得安寧が最優先」という行為が連想される。このような帝国主義的覇権思想と先に述べた”良き覇者”の行いは明らかに違うものだ。帝国主義的覇権思想では、明らかに”自身の野心を満たすため”に覇道を行使しているが、”良き覇者”は自分の野心のために覇道を行使してはいない。水戸学が認める覇者とは、このような”王道のために武力を用いる良い覇者”であって、アフリカや南アメリカ諸国を植民地として利益を吸い上げ、中国にアヘンを売って自国を豊かにするというような帝国主義的野心のために武力を行使するという覇道は認めていない。

↑水戸弘道館

 

 いま一つ、吉田松陰に関しても世界征服主義の提唱者のような論調があるのだが、ついでにこれについても論じておこう。そもそも、ウィキペディアの書き方が悪い。

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対外思想
『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道(当時の蝦夷地)の開拓、琉球王国(現在の沖縄県。当時は半独立国であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、そして当時は清領だった満洲や台湾・「スペイン領東インド」と呼ばれていたフィリピン・ロシア帝国領のカムチャツカ半島やオホーツク海沿岸という太平洋北東部沿岸からユーラシア大陸内陸部にかけての領有を主張した。その実現に向けた具体的な外交・軍事策を松陰は記さなかったものの、松下村塾出身者の何人かが明治維新後に政府の中心で活躍したため、松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を与えることとなった。(「ウィキペディア 吉田松陰」より引用)

 

 

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 上記のようにウィキペディアに書かれており、まるで帝国主義的覇権国家を目指し、世界征服主義を唱えたような書き方になっている。「領有を主張した」とあるが、実際の『幽囚録』には、「領有するぐらいの勢いを示すべきだ」という程度のことで、諸外国と対峙する上での覚悟の話をしているだけのことだ。以下、抜粋を掲載しておこう。

 

太陽は昇っているのでなければ西に傾いているのであり、月は満ちているのでなければ欠けつつあるのである。同様に国も隆盛でなければ衰えているのだ。だから、よく国を保持するというのは、ただたんにそのもてるところのものを失わないというのみではなく、その欠けるところを増すことなのである。いま急いで軍備を固め、軍艦や大砲をほぼ備えたならば、蝦夷の地を開墾して諸大名を封じ、隙に乗じてはカムチャッカ、オホーツクを奪い取り、琉球をも諭して内地の諸侯同様に参勤させ、同会させなければならない。また、朝鮮をうながして昔同様に貢納させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾・ルソンの諸島をわが手に収め、漸次進取の勢いを示すべきである。しかる後に、民を愛し士を養い、辺境の守りを十分固めれば、よく国を保持するといいうるのである。そうでなくて、諸外国競合の中に坐し、なんらなすところなければ、やがていくばくもなく国は衰亡していくだろう。(『日本の名著 吉田松陰』(松本三之介編・中央公論社)掲載『幽囚録』二三七頁)

 

 松陰が『幽囚録』で述べているのは、専守防衛に徹するだけではダメだということ。守り一辺倒ではなく、攻撃(侵略)に転じるぐらいの気持ちでことに当たらなければ、国を守ることはできないという話だ。せいぜい「事前に前進した上での防禦」であって、結果的に他国領土を犯すものの利権を求めての版図拡大・植民地獲得ではない。論の主眼は版図を広げることではなく「国を保持する」ことである。この吉田松陰の言葉に従い、明治維新以降の明治政権が大陸進出方針を決めたような論調は飛躍しすぎである。例えば台湾やルソン、満州国も支配できたのは結果論であって、幕末期に立案された吉田松陰の策が採用されていたわけではないし、松下村塾系の人物が明治政府内にいたというだけの薄弱な根拠で、大陸進出という重大な対外方針が決まったという主張は陰謀論的であり、とても学術的に信頼することはできない。

 

 さらに、上記の吉田松陰の考えは松陰オリジナルというわけでもなく、その大元は水戸学者会沢正志斎の『新論』からだと思われる。

↑水戸にある『新論』の著者・会沢正志斎像

 

『新論 長計』

且つ夫れ所謂攻むるの勢は、また豈に必ず兵を頓り軍覆して、以てその城邑を争いて、しかる後に、すなわちこれを攻むると謂わんや。要は我自から勝つべからざるをなして、以て敵の勝つべきを求むるのみ、誠によく志気を恢廓して大勢を観、外は以て謀を伐ち交を伐ちて、形格き勢禁まるの略を設け、内は以て大いに守禦の備を修めて、兵力は以て虜を制するに足り、政教は以て夷を変ずるに足らば、彼それ辺を伺わんか、奮撃殲滅して、以て威を万里に揚げん。もしそれ帰順せんか、東漸西被、以て四裔を弘化して、蝦夷の諸島、山丹の諸胡をして、相踵いで内属せしめ、日に夷狄を斥け土宇を拓くは、勝つべからざるをなす所以にして、未だ戦わずといえども、隠然としてこれに乗ずること、天よりして下るがごとくするは、その勝つべきに応ずる所以なれば、すなわち虜は我に備えざるを得ずして、客を変じて主となすの術、窮れり。これ所謂、その之くところに乖くものにして、実を変じて虚となし、虚を変じて実となすなり。かくのごときは、すなわち神聖、夷狄を御する所以の略、彼は倒用するを得ずして、彼の我を擾す所以の術、我まさにこれを倒用せんとす。然る後に操縦の権、我よりこれを制するなり。廟謨すでに定まり、上下心を同じくして、千塗万轍も、必ずこの道に由りて変ぜず。ここにおいてか、我の夷狄を御する所以のものは、黠慮をして千群して我を窺わしむといえども、将た何を以て我が辺陲に陸梁するを得しめんや(大猷公、嘗て訳官島野兼了なる者をして天竺に遣わす。兼了、荷蘭の賈舶に乗り、諸国を周流して、遂に東海に往くこと三千里にして、一大国を得て、以為らくこの国はよろしく神州に属すべしと。因りて碑を立て題して日本国中と曰えり。当時、規模の宏遠なること、また見るべきなり。東海三千里とは、疑うらくはすなわち西夷称するところの亜墨利加洲なるものならん)。(『新論』(会沢正志斎著・講談社学術文庫)二三七頁)

 

(現代語訳)

そもそも「攻勢」という言葉は、必ずしも敵兵を破り、敵軍を滅ぼし、城や市街地を奪い合うことだけを言うのではありません。つまり我々の方は、敵に負けることのない態勢を取りつつ、敵に打ち勝つ方法を追求するということです。真に我々の志気を広げて世の中の大勢を観察し、外国に対しては敵の裏をかいて協力者を討ち、敵に不利な形勢となる計略を設計します。国内に対しては充分な守禦の準備を整え、兵力は敵を制圧するのに不足がないようにして、政治と教育によって外敵を恐れない心に変えるようにいたします。このようになれば、彼らが我が国の国境を害したとしても、全力で攻撃して全滅させて、我が国の力を世界に示すことができるのです。もし彼らが、侵略の心を改めて服従するのであれば、東西へ勢力を広げ、国の四方を導き、北海道の諸島、沿海州の諸民族を服属させ、日に日に外敵を退けて領土を拡大するのです。これが敵に負けることのない態勢というものであって、戦う前から敵の野心を攻撃することになるのです。こうした後で敵の重要な地点を攻撃して隙を狙い、天から舞い降りるように時機に乗して行動すれば、勝つべくして勝つことができるのです。そうして敵は我々の攻撃に備えざるを得なくなるので、「客」を変じて「主」となる方法は、ここにおいて完成いたします。これが先に述べた敵の予想外の行動に出るということであり、「実」から「虚」、「虚」から「実」へ転じることなのです。こうしたことは、もともと建国の神々が外敵を制御してきた戦略であり、外国が逆用することはできません。彼らが我々を騒がせている戦術を、今度は我々が逆用するのです。こうした後で、主導権を我々が制御いたします。朝廷の方針はすでに決定し、上下の心を同じくして、あらゆる手段は必ずこの道理に由来して変わることはありません。ここにおいて、我々が外敵を制御する由来は、神々から続く天皇家が外敵を制御したのと同じものとなり、内側には一定した戦略があり、外側には狙われる隙はありません。ずる賢い外国人が多数で我々を狙ってきたとしても、我が国の辺境で暴れ回ることなどできないのです(徳川家光は、かつて通訳の島野兼了という者をインドに派遣しました。兼了はオランダ商船に乗り、諸国を周遊して、ついに東の海三千里の場所にある大国に達し、この国は神州日本に所属するべきであると考えました。そこで石碑を建てて「日本国中」と刻みました。当時の発想の規模が、いかに広範囲であったかを見るべきです。東の海三千里とは、おそらく西洋人がアメリカ州と名づけたところでしょう)。

 

 上記の『新論』のなかでは、「国内に対しては充分な守禦の準備を整え、兵力は敵を制圧するのに不足がないようにして、政治と教育によって外敵を恐れない心に変えるようにいたします。このようになれば、彼らが我が国の国境を害したとしても、全力で攻撃して全滅させて、我が国の力を世界に示すことができるのです。もし彼らが、侵略の心を改めて服従するのであれば、東西へ勢力を広げ、国の四方を導き、北海道の諸島、沿海州の諸民族を服属させ、日に日に外敵を退けて領土を拡大するのです。これが敵に負けることのない態勢というものであって、戦う前から敵の野心を攻撃することになるのです。こうした後で敵の重要な地点を攻撃して隙を狙い、天から舞い降りるように時機に乗して行動すれば、勝つべくして勝つことができるのです。そうして敵は我々の攻撃に備えざるを得なくなるので、「客」を変じて「主」となる方法は、ここにおいて完成いたします」の部分が、吉田松陰の『幽囚録』で語られた部分に対応する。

 少々説明すると、まず防禦を固めて諸外国が攻めてきたらこれをいつでも壊滅できる強さを持つ。おのずと諸外国は日本が強国であることを知って日本を攻めるどころか、逆に日本から支配地を守ろうと防禦に回るようになる。これが尊攘派の良く言う「日本の武威(武名)を世界に広める」という意味だ。武威武名が広まれば、今度は日本の強さにすがってくる国も出てこよう。徳川家が強くなれば、自ら進んで徳川家の家臣になっていく豊臣恩顧の大名たちのように。或いは源頼朝強しと武名が広まった途端に、平家から鞍替えする武士たちが続出したようにだ。これが武名の効果であり、武威を広めるとはこのような効果を期待してのこと。戦争をして実際に勝てば武名は高くなり広まるが、別に生きるか死ぬかの全面戦争をせずとも相手に「強い!」と思わせるだけで武威の効果は発揮される。中世日本の武士たちのように自ら征夷大将軍の元へ臣従を誓う他国が現れれば、そのような国々を支配下となし、結果的に国土や支配領域を広げてゆける。

 このように武威を広めるためには、いつでも戦って勝てるようにしておかねばならないし、諸外国には自分たちが支配してくる地域に日本が攻め込んでくることを警戒させておかねばならない。敵が警戒するようになれば、戦いの主導権を奪った形になって攻守の立ち場が逆となり、まず攻め込まれる心配はなくなる。

 

 このように水戸学での対外姿勢は、あくまでも「防禦」であり、「防禦のための攻め」にある。ガンダム的に言えば「守ったら負ける!攻めるんだ!」であり、「攻撃こそ最大の防禦」ということ。主導権を握って夷狄を制御することこそが水戸学の対外姿勢なのだ。吉田松陰の『幽囚録』での論調もこの『新論』の延長線上にあり、故に「太陽は昇っているのでなければ西に傾いているのであり、月は満ちているのでなければ欠けつつあるのである。同様に国も隆盛でなければ衰えているのだ。だから、よく国を保持するというのは、ただたんにそのもてるところのものを失わないというのみではなく、その欠けるところを増すことなのである」という吉田松陰の言葉は、要は”主導権を握ることの重要性”を語っているわけだ。

 

 さらに、『新論』の会沢正志斎も『幽囚録』の吉田松陰も、前述した文章の前後で『孫子の兵法』に言及しており、これら対外姿勢に関して両者共に『孫子の兵法』から着想を得ている。

 これら水戸学の会沢や吉田松陰が参考としたのは、『孫子兵法』の形篇と虚実篇の部分となる。

 

 『孫子兵法』の該当部分において、具体的には「形篇」で守りの重要性を、「虚実篇」で主導権の重要性についてそれぞれ語られており、会沢も松陰もここから万国対峙の方策として提示しているに過ぎない。これは”国を守るための方策”であって、けっして”他国を侵略して版図を広げる”ことを主張するものではないのだ。

 したがって、水戸学や吉田松陰の論のなかでも、依然として『孟子』で語られている「覇道忌避」の思想は生きており、故に彼らが守りの方策を語ることはあっても、領土的野心を満足させる方策を提唱ことはない。

 やはり明治初期に行われた「文明開化政策」によって儒学が排され、同時に「覇道忌避」の思想も破棄された上でなければ、欧米列強のような帝国主義的覇権国家へ、植民地と大陸利権を求めて他国へ進出していくような”攻め”の政策や戦略は取れないだろうと私は考えている。明治期の文明開化によって日本人の意識は一気に改革され、それまで野蛮な「夷」としていた欧米諸外国の見方が一転、「文明国」と羨望の眼差しを向けるようになった。そして日本も文明国(国際的な一等国)になろうと欧米列強を見習い、これを真似る新国家作りを行ったことは、皆さんも知っている通りだ。この段階で、西洋学問こそ身に付けるべき最先端の学問になり、江戸時代に正学の立場だった『孔孟の学(儒学)』は非科学的かつ時代遅れの学問になって衰退の道を辿っている。この状態になってはじめて自然と『孟子』で唱えられた「覇道忌避」の思想も日本人の価値観のなかで失われ、逆に欧米列強が自国の国益獲得のために生み出した植民地を日本も持ち、欧米列強のように他国の利権を獲得して自国の国益にしたいと思うようになるわけだ。

 

 また筑波大学名誉教授大濱徹也先生(故人)の記事も大いに参考になるので、ぜひ一読願いたいと思う。

 
 上記記事でも「松陰は、日本列島を「常山の蛇」に倣い、欧米列強の侵出に対峙しうる「皇国」の政略を「幽囚録」に描いております。その政略は、危機の時代を的確に把握し、世界認識を提示したものです。(中着)この論は、欧米列強がアジア・アフリカを植民地にしていく帝国主義の時代に対峙し、日本の独立をいかに守るべきかとの想いを述べたものです。この言説は、松陰を帝国主義につらなるものとみなし、その尖兵と論難されがちですが、日本が欧米の植民地となることへの危機感にうながされた政略にほかなりません」とあり、やはり大濱先生も吉田松陰を「帝国主義」と直結させる考え方に対して抵抗があることを示唆されている。
 
↑尊王攘夷志士のバイブル『新論』
 
 なお、似たような論に元新選組参謀で御陵衛士になっていた伊東甲子太郎の「新政府草案」がある。これに関しては以前にも言及したが、再度掲載しておく。
 

「(前略)倭人は強兵に成り、力足る時は忽ち併呑の気起こるは天然自然の道理なり。倭 支那を取る時は印度・トルコは日を期して征すべし。二国和す時はヨーロッパは危し。鄂(ロシア)またその難を受くべし。かくの如きの道理なれば、いま露・亜を始め、倭の一和を恐る。倭国一和の基本立つ時は、外国の為には要所を取るの道理にして、国々危し。故に、相互に拒み、真に一和せざる様に計るは、自国不安の恐れ有ればなり。蘭ばかりこの説に関係せざるは倭に恩信有る故なり」「一、五畿内の外、攘夷閉鎖の儀は一大事件につき、衆議に依って決せられ候ふ事」(『伯父伊東甲子太郎武明』新選組史料集コンパクト版より抜粋)」

 

 同じ新政府草案の中で伊東甲子太郎は「攘夷の儀は、先帝に於かれて誓はせられ候ふ事。天下にも御布告にも相成り候ふ事につき、攘夷の人心奮起し候はばこの上なき御事に候ふ事。さりながら方今の世態人心を推察仕り候へば一和の御基本、海内皆兵、強国の大国是相立ち候ふ後ならでは如何在らせらるべくや、衆評御聞き取り(こそ)御肝要の事」と記して、攘夷を避けて開国し、富国強兵の成った後でなければならないこと。また、その際にはよくよく衆議を尽くさなければならないことしており、明らかに大攘夷論ではあるが、遠回しに攘夷実行には慎重な態度を取っている。このことから、伊東甲子太郎の場合は挙国一致しての富国強兵に大攘夷論の目的があり、世界征服や植民地獲得は日本が強国になった後の話しだとしていることが理解できよう。

 

 以上、尊攘派志士がこのように、”日本は強兵であるから、やろうと思えば世界を制することができる”という論調を取りつつも、決して”世界を侵略しよう”と明確に言わないのは、基本的に”守り”に主眼があり、”他国侵略”を目標にしていないからだ。というのも、そもそも他国を侵略する利が当時の日本人はよくわかっていない。欧米列強がしていたような三角貿易的な国益の増やし方も論じられていないのだから。せいぜい、坂本龍馬をはじめとする土佐藩の尊王派が、植民地を一等国のステータスと見なしてその獲得を意図したことはあったかもしれないが、他国を占領し、占領地の民から搾取を行うという発想や思想が、幕末当時の有識者たる儒学者や志士たちにはほとんどない。

 

 以上、水戸学や吉田松陰を帝国主義の思想提唱者だったとする論調に対して、反対の意見を書かせて頂いた次第である。

 


↑吉田松陰水戸留学の地
↑案内版。吉田松陰が会沢正志斎から直接水戸学の教えを受けていたことを示す。