「武威」とは何か? | 幕末ヤ撃団

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勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 今日は、補足的な意味で「武威」に関して論じてみたい。というのも、この「武威」は、日本における武士の思想「武士道」や武士が考え出す国防方針・攘夷論などに多大な影響を与えているからだ。

 

 まず「武威」の意味だが、国語辞典的には「武力の威勢」「武家の威光」という意味となる。しかし、その具体的な内容となると広範囲だ。武力と、その武力を背景にした影響力。武士個人の強さや武術の巧みさも含むし、その武士が属する家の名や武士個人の名の影響力も武威に含まれる。つまり、「武名」も「武威」の一つだ。ここで重要なことは、”強いという評判”こそが「武威」の正体であって、必ずしも“実際の武力(強さ)”である必要がないということ。嘘でも”強い”と評判が立てば、その時点で「武威」として認識されるという点である。この部分が、ミリタリー系の人や軍事に詳しい人ほど理解されないので困りもの。まぁ、ミリタリー的に考えれば、所詮”評判”に過ぎず、重視されるべきは実態のある”強さ”だからなのだが、江戸時代以前の日本の武士達は、武威の効能効果を知っているので、実際の実力以上にこの武威という評判を重視している。

 

 もっとも一般的な「武威」の効果を示そう。下記の写真を御覧頂きたい。

↑源為朝の武威

 

 上記写真は明治期の絵師月岡芳年によって描かれた絵である。源為朝は平安時代の武将で、源頼朝の叔父にあたる人物だ。剛弓の使い手で暴れ者。九州に追放されると、ここでも暴れ回って近隣を制覇してしまい「鎮西八郎」という武名を轟かせた。この強さの前に疫病神(疱瘡神)が恐れ、逃げ回っている絵である。つまり、その強さ(武威)の前では、病魔も近寄らないという絵であり、武力(武技)の強さに病魔除けの意味が込められているわけだ。

 

 平安時代、まだ武士が武士団を形成するかどうかという武士の誕生期は、武士達の武力も極端に大きくはない。一族郎党という言葉が示す通り、自分と自分の血族(一族)、一族に召し使われている者(郎等)を中心とし、彼らが動員できる数人の雑兵で数十人程度。武士団が形成されて始めて数百数千の兵力が動員できるようになるが、そうした武士動員力を持つのは、源氏や平氏といった武家の棟梁たち武家貴族に限られる。

 兵力が数十人レベルの場合、そのかなに一人でもやたら強い者がいるだけで非常に有利になってしまう。例えば、10人対5人の戦いであれば、兵力的には10人いる側が有利だ。しかし、5人側の方に”アントニオ猪木”がいるとなれば話は変わってる。たぶん、アントニオ猪木一人が相手10人を倒しまくってしまうのではなかろうか。これが武士における”強さの信仰”となる。

 「武器の性能が絶対的な戦力差にはならない」という名言を赤い彗星のシャアが言っているが、ザク三機の戦力でガンダム一機を倒せなかったではないかということだ(苦笑)。

 

 冗談はともかく、武術の強さがあれば戦力差は覆せるという信仰が最初期に形成され、それがさらに「武名」になっていく。ややこしいのは、この「武名」に評判の力が込められ、その効果が発揮されることを武士達が認識していたことである。先の例を元に語れば、10人いる側が最初から5人のかなにアントニオ猪木がいると知っていたら、まず敵の数が5人と少なくとも襲いかからなかっただろう。少なくともアントニオ猪木と互角に戦える”ジャイアント馬場”のような人間を味方に引き入れない限り、戦いを挑もうという気にならないはずだ。戦ってもいない内から、アントニオ猪木を恐れ、戦うことを避けるわけで、逆に言えばアントニオ猪木を味方にしている5人側は、兵力が少ないのに敵からの侵略が防げている。

 これがアントニオ猪木の名の効果である「武名」の効果となる。そして、この武名が広がるとさらに別の効果が発揮されるのだ。その効果とは、アントニオ猪木のいる5人側に味方する者が続出するというもの。アントニオ猪木が味方になってくれればこれほど心強いことはない。すると当初5人しかいなかったのに、さらに5人が仲間になり、次は10人が仲間になりという形でどんどん味方兵力が増えていく。この現象は、アントニオ猪木の名が広まれば広まるほど発揮される。つまり「評判」が広まれば広まるほど、味方は増えて敵は減る。味方が増えるということは、”実際の兵力も増え、実際の武力も強くなる”ので、評判次第で雪雪崩的に兵力が増えたりもする。このように「強さ」の評判が広まると同時に実際の強さも増大することで、武力の威勢や武名が轟くことを「武威が広まる」という。

 

 別の例を示すと、鎌倉時代末期に新田義貞が上州新田荘で倒幕挙兵を行った。この時の兵力は三百人程度の小勢力に過ぎなかったという。ところが、各地の戦いに勝ち続け、かつ足利尊氏の子千寿王も合流して鎌倉に達したとき、その総兵力は軽く十万人を越える大軍になっていた。これは、鎌倉幕府支配体制の反発もさることながら、新田義貞と足利尊氏が勝ち戦を続けていたという評判により、はせ参じる武士が続出した結果だ。むしろ、味方にならないと後で攻撃を受ける可能性すらあるから、皆が味方になるなら我も我もという感じだったのである。

 逆に、負け戦となると蜘蛛の子を散らすように味方が極端に減る。これらは実際の強さではなく、評判次第で兵力が増減し、かつそれが実際の兵力の増減に直結している現象だからだ。これが日本における合戦の特徴だったりする。

 

 このように、実際の合戦や戦いにおいて評判は勝敗を左右する効果を発揮するため、武士は自身の評判をものすごく気にした。特に自分の名や家の名は、実際の実力以上に重要視する。中世武士の名台詞たる「命を惜しむな、名こそ惜しめ」という一文も、こうした武威や武名の効能があるがゆえに、自分の命より重視すべきものとして武名や武威が意識されていたということの証明である。

 

 これが幕末時代まで時代がくだってくると、異国からの脅威に対しても「武威」を示して追い払おうという思想になってくる。これが「攘夷論」だ。日本は強いという武名が世界に広まれば(日本の武威が広まれば)、夷狄は日本に近寄らなくなるだろうという考えは、先に示した「為朝の武威」の絵に描かれた効果とまったく同一の発想である。

 ミリタリー系の人がよく勘違いするのは、実際の強さ実力を重視するあまり、武威を武力と解釈してしまうこと。「武威を広める」とあれば、「武力をもって支配地を広める(侵略行為)」と早合点することが多いのだが、先にも述べてきた通り、実際の武力を含めた評判こそが武威の正体である。ぶっちゃけ、史実の源為朝は医者ではなく武士だから、病気を治したり病気予防するような技能は持ち合わせてない。つまり、実際の力ではなく、「病魔も逃げ出しそう」という評判さえあれば、実際には病魔を退散させる力などなくても武威の効果は発揮されると言うことである。

 このように武士の武威を意識してペリー黒船来航を見れば、ペリーが開国を迫るために行った砲艦外交、江戸湾で空砲射撃を行い、日本人に対して示威行為を行うといった行動が武士にはどのように見えただろうか。日本の武士に大砲で脅しをかける夷狄を前に、日本の武士達が恥を与えられたと思い、その報復をせねばならないと思うのは武士の自然は反応ではなかっただろうか。攘夷論に火が付くのは当然だと私には思える。

 近年、水戸学や水戸藩の攘夷論に関して、ウェブ上のプロライターやミリタリー系の人の言うことを見ると、彼ら曰く「水戸藩の稚拙かつ見せかけでしかない軍備増強策は実戦では役に立たない。つまらない意地を張らずに開国し、欧米の優れた軍事技術を導入すべきだ」という。だが、以前のプログで論じたように福沢諭吉「瘠我慢の説」で説かれたように、武士道の本質は「瘠我慢=意地」にある。意地を張らないのであれば、それはもう武士ではないのだ。なるほど、実戦に役立つ実際の強さを導入配備する必要は水戸藩烈公徳川斉昭も認めており、西洋帆船や洋式大砲など水戸藩でも配備研究している。が、そうした軍備を整えるのに時間も金も必要だ。こうした実態ある強さを手に入れられることに越したことはないが、それが間に合わないのであれば”評判”だけでもなんとかしよう。嘘でも日本は強いと敵が思いさえすれば、「武威」の効果が発揮されるからだ。という発想が、武士の思考ロジックである。”我々は西洋に劣っている。弱いのだ。だから西洋から学ぼう”とは口が裂けても武士は言わない。なぜなら「弱い」と認めることは「恥」だからだ。だから武士は虚勢を張る。「武士は食わねど高楊枝」の精神は武士の本能でもあるのだから。

 また、小攘夷論(即時攘夷)が大攘夷論(開国し諸外国と戦えるだけの近代的武備を整えた上で攘夷しようという思想・未来攘夷)に変化するのだが、当時の国際常識として欧米列強が世界の覇権を求めてアフリカやアジアを植民地化していった。これを目の当たりにした日本は、「羊(植民地・他国の属国)か狼(列強国・支配する側)」の二択を迫られていると言って良い。羊にならないのであれば、狼になるしかない。吉田松陰や水戸学における会沢正志斎なども、そうした観点から守り重視の「攘夷」を論じているが、一部に侵略を可とするような物言いになっているのは、”羊を拒否して狼を選択”しているからだ。彼ら攘夷派が”日本も世界に覇を唱えよう”と言わないのは、彼らがよって立つ学問儒学に覇道忌避の思想があるためだと私は思う。だから、彼ら攘夷派は”夷狄を打ち払え”というのであり、夷狄を討伐して支配してしまえとは言わないのである。私はここから「帝国主義的覇権国家への萌芽」とは見ているものの、大攘夷論とは帝国主義的覇権国家思想だと直結する考え方には否定的である。これは先日のブログで述べた通り、儒学には覇道忌避の思想があり、江戸時代はこれが一般的であったこと。攘夷論はあくまでも自国防衛に主眼があり、他国侵略といった植民地の獲得や版図拡大を主眼としていないことが理由である。

 

↑本所吉良邸跡(忠臣蔵の舞台となったところ)

 

 一方、この武名や武威と対になっているものが「恥」だ。「恥」には武名や武威を貶める効果がある。このため、武士は徹底的に「恥」を忌み嫌う。相手から「恥」を与えられ、これを放置した場合、武名や武威が下がり、結果として味方も減る。先にも述べた通り、これらは評判であるがゆえに、高まる時は勢いよく高まるが、下がるときも勢いよく下がるのだ。一度味方が減り、武力が減れば、それを知った味方がさらに減るという悪循環が起こってしまう。こうなると落ち目没落の道に転落してしまうから、武士は「恥」を放置しないのである。たとえ、他愛ない「悪口」であっても、言われたら言い返して殴り返す。殴り返さないことは弱さの証明にしかならず、武士における弱さそれ自体が「恥」なのだから。

 父が殺されれば、子はその仇を討つ。なぜなら武士の世界で殺されるとは「弱かった」ことを意味するからだ。弱さは恥である。恥である以上、殺した相手を殺し返す(仇討ち)ことで、この恥を返上し武士の家の名(武名)を回復させるしかない。だから、仇討ちは武士の子が家の名を懸け、かつ武士として生きていくためには成し遂げなければならないものとされたわけである。つまり、武士の仇討ちは単なる報復・恨みを晴らすという行為に留まらず、仇討ちをする者自身が行う”武士であることの証明”行為でもあるのだ。見事仇討ち本懐を遂げたとき、家の名(武名)は回復し、その家を嗣ぐ子は仇討ちをしてはじめて武士の家・武家の当主として認められる。

 

 この仇討ちに関しては、「忠臣蔵(赤穂事件)」に関し、「赤穂浪士たちは亡君の仇を討って名を馳せ、再仕官しようとしていただけ。恨みを晴らそうとしていたわけではない」と論難する歴史プロライターもウェブマガジン上に見られるのだが、とんでもなく軽い見解だ。赤穂浪士たちが武士として居続けるためには、亡君の仇を討つことが必要だったという見方が妥当だろう。だから、武士をやめて庶民になるのであれば仇討ちは必要ないが、武士でいたいのであれば仇討ちする以外に彼らに道はないのである。再仕官するにも仇討ちが前提であり、仇討ちすらしないような弱い武士は必要なく、他の大名家も仕官させようとは思うまい。「再仕官(再就職)が目的だった」と軽く切り捨てるのは、あまりにも表面的なものしか見ていない見解である。

 

 以上、「武威」や「武名」について簡単ながら論じてみた。何気に、こうした「武威」や「武名」に言及する記事や論文が少ない上、武威や武名を考えずに武士の思想精神を安易に論じるプロ歴史ライター(多くがウェブマガジン系のライター)が増えてきたので、多少なり「武威」「武名」に関する武士思想精神が広まってくれればと思う次第。

 よく「武威」や「家名」を「名誉・プライド」と捉えられているのだが、これまで述べてきたように単なる名誉やプライドとは違い、現実に”力”を与える効果が「武威」や「武名」にはある。むろん、武名や武威のなかにも名誉・プライドという意味も含まれているが、武士の世界ではそれだけに留まらないという点に注意すべきだ。