攘夷とは | 幕末ヤ撃団

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 攘夷論について、今現在の一般認識を知るべく『攘夷の幕末史(町田明広著・講談社現代新書)』を読んだのだが、どうも合点がいかなかった。

 いや、さすが町田先生の著書ということで、幕府とロシアの外交問題や、長州藩の攘夷実行、朝陽丸事件に絡んだ長州藩と小倉藩の確執など、史実に基づいて読み解いていて、個人的には大いに勉強させて貰ったし、「尊皇攘夷VS公武合体」という構図は間違っているということも同感なのだが……。肝心要の攘夷の定義について合点がいかなかったため、違和感が……。

 町田氏のいわれる攘夷は、「小攘夷」と「大攘夷」の二種に類別される。

「小攘夷」は、「破約攘夷(ただちに欧米と結んだ条約を破棄し、武力で外国を打ち払う)」であり、「大攘夷」は、「貿易を行い、富国強兵につとめ、華夷思想に基づいて日本をアジアの帝国とすべく他国を侵略し、最終的には世界を征服する」という理解でいいのだろうか。

 これだと小攘夷は納得できるものの、大攘夷の目的が「帝国主義的な世界征服」だとする点にどうも違和感がある。

 

 そこで、私なりの攘夷の理解を下記にまとめることで、その違和感の正体を掴みたいと思う。

 

●攘夷思想の成り立ちについて

 

 私は、日本における攘夷思想の出発点は朱子学にあると考えている。戦国時代以前の武士道は、いわば戦闘者の精神であり、武士として強者であろうとする精神思想だった。この武士道は「武士のプライド(武士の名、武名)」が重視されており、この武名を汚されることを「恥」とする。戦に負けることも「恥」であったから、武士は常に戦に勝つ強者であろうとした。『甲陽軍鑑』における「勝ちがなければ、名は取れぬ」という精神が武士道だったろう。

 江戸時代に入り天下太平の世を迎えると、戦国時代のような武士道は廃れ始める。そもそも合戦がないのだ。戦闘者としての技量を試す場がない以上、武士達は戦闘以外に自分の存在意義を見出さなければならなかった。特に徳川三代目家光から四代目家綱の頃、朱子学が官学相当の学問として幕府採用される。四代目家綱の後見人が、会津藩祖保科正之だ。この保科正之は激烈な朱子学信奉者であり、同時代の徳川光圀(ドラマで有名な水戸黄門)もまた、朱子学を信奉した。保科正之などは、歴代の徳川将軍が仏式で葬られている中、神道式で葬られることを願い、幕府の許可を得て「土津公」として神道式で埋葬されている。これも朱子学の中の華夷思想に基づいて、天皇家とその根源たる神道を重視してのことだろう。無論、保科正之の師とも言える儒学者山崎闇斎(垂加神道創始者)の影響でもあったろう。

 この朱子学は、政治においては「覇道(武力による支配・侵略など)」を廃し、「王道(王者の道)」を絶対視する。もともと、朱子学は古代中国の乱世期に成立した儒教を体系化した学問である。特に乱世によって国や民が傷付き、疲弊している状態を否定し、武力によらない正しい国の統治や政治の在り方を模索した結果、「徳」による支配こそが正しいとしている。徳の高い聖人君子が国を治めれば、戦争も無く国は豊かになるとした。王道は、王の道でもある。国はこの徳ある王によって治められるべきで、覇道(武力)で国を奪うことは悪であるとする。つまり、国家政権の正当性が「王」に求められている。

 これが徳川幕府により日本で広められていくことになるのだが、朱子学は中国の歴史に準拠しているため、どうしても日本に適用するようにしなければならなかった。水戸藩徳川光圀が、大日本史編纂をはじめたのも朱子学の価値観で日本の歴史を見つめ直すことが必要だったからだ。

 同時代に、兵学者にして儒学者だった山鹿素行(山鹿流兵法創始者)は、朱子学の注釈書を廃し、論語などの古典に立ち返るべきと説いて古学を提唱する。当時の朱子学隆盛の中で、朱子学が中国の学問であることから中国を高く評価し、日本を過小評価する風潮も生まれてきた。素行はこれに反発し、中国の華夷思想(世界の中心に優れた国=中華があり、そのまわりに野蛮な夷がいるという思想)を日本向けに作り替えた。つまり、日本の神々が日本国を作り、そのまわりに世界が広がっている。王朝が何度も交替した中国と比べ、日本を作った神々の子孫たる天皇家が古代から現在にいたるまで続いており、日本は王家が交替したことがない。故に日本人は徳の高い民族である。中華の条件を揃えているのは、中国では無く日本だと、『中朝事実』で説いた。これが、日本流華夷思想の原典だと私は考える。

 また、山鹿素行は朱子学から武士のあるべき姿を模索し、士道を生み出した。士道は、武士に「武士は礼儀作法に通じ、農工商など庶民の模範となり、もし世を乱す者が現れれば、これを罰して世を平穏に保つ」という使命を与える(『山鹿語類』)。これ以後、戦う精神たる武士道は弱くなったものの、「仇討ち」や「無礼討ち」といった形で、武士の精神の中に生き残り、主流になった士道精神と共存していくことになる。

 幕末時代は、長州藩山鹿流兵法師範だった吉田松陰が、この山鹿素行の思想を受け継いで、松下村塾で講義などが行われたようだ。

 

 時代が下り、幕末になると多くの外国船が日本近海に現れるようになる。すると、日本流華夷思想に基づいて、「野蛮な夷を打ち払え」という考えが水戸学によって提唱された。華夷思想の原点に天皇家がある以上、この思想に天皇家(王家)を尊ぶ思想があるのは当然で、故に「尊皇」と「攘夷」はワンセットになっている。

 この事は、水戸学のテキストたる会沢正志斎の『新論』の冒頭で、

 「謹んで按ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日之嗣(日神の血を受け継ぐ天皇を指す)、世宸極を御し、終古易らず、固より大地(世界)の元首にして、万国の綱紀なり。誠によろしく宇内に照臨し、皇化のおよぶ所、遠邇あることなかるべし。しかるに今、西荒の蛮夷、脛足の賤を以て、四海に奔走し、諸国を蹂躙し、眇視跛履、敢えて上国を凌駕せんと欲す。何ぞそれ驕れるや(後略)」

 とあり、日本流華夷思想にもとづいて、日本を中華、欧米を夷と見て、その野蛮性を志士たちに訴えており、水戸学における華夷思想の受容の形が見える。

 

 また、黒船が来航した時、ペリー艦隊は江戸湾に侵入した。慣例では「長崎の出島に行くべき」だったのだが、ペリーはこれを無視する。二度目も同様に軍艦を江戸湾に入れ、示威行動をした上で日本を開国させることに成功した。

 これが日本武士の怒りに火を付ける。武士達から見た時、ペリーの行いは「礼儀知らず」であり無礼千万に見えたからだ。軍艦で江戸近海に入るという示威行動は朱子学が嫌う「覇道」そのものであったし、士道精神から考えても到底認めがたい。水戸学における尊皇攘夷思想や日本人選民思想である日本流華夷思想から考えても、ペリーの行いは許せないものだったろう。さらには、士道精神は日本国の平和を守ることを武士の使命としており、欧米列強のように逆らう国々を攻めて植民地とし、自らの利ばかりを貪るような欧米列強を日本国内に入れることは、士道精神からも拒否されよう。

 ところが、徳川幕府はこのような欧米列強と条約を結び、戦わずして開国に踏み切る。それは、欧米の横暴なやり方を知る志士から見た時「戦わずして、相手の要求に屈した」ように見えた。失礼なこと(武名を汚された)をされたとき、武士は戦わなければならない。戦いから逃げるのは惰弱であり「恥」とされる。なぜ、幕府は戦わないのか!。と志士たちの怒りは幕府にも向けられることになる。

 上記の理由から、武士の間で水戸学が流行、尊皇攘夷の拡大へとつながっていく。

 この時点では、直ちに条約を破棄して夷敵を追い払えという「小攘夷」が世論であった。

 

 一方、欧米列強の強さを知る蘭学者や知識人たちは、「今戦うのは無謀である。貿易によって富国強兵を行うべきだ」とした。つまり開国である。しかし、ただ開国というだけでは武士道精神や士道精神は元より、朱子学的な華夷思想までも無視することになる。これらの思想は、当時は常識であり、これを無視したまま開国(貿易)を説いても説得力は無い。

 そこで、一種の妥協的な論理が生まれた。

「日本は徳ある国で、世界の尊崇を集めて当然の国だ(華夷思想)。しかし、長く鎖国を続けていたので軍艦や大砲、銃砲の性能で欧米列強から遅れををとっている。だから今は開国し、貿易を行い、富国強兵を行うべきだ(開国論)。それが完成した時、日本は世界に武威を広げられる国になれる(華夷思想と武士道精神)」という論法だ。

 ここでいう「武威」とは、武士道的にいえば「武名」であり、他国の侵略を意味しない。武名が高ければ、敵も躊躇して攻めてこないからだ。戦う相手が、名も無い田舎武者相手なら怖くない。だが、相手が音に聞こえたいくさ上手の源義経だとなれば、戦いを避けようとするのではないだろうか。つまり「武名」とは、そのような働きをする。

 「武威」もまた同じで、日本の武威が世界に広がれば、日本を植民地にしようとする国は減ると、志士達は考えたのだろう。

 そもそも、他国を攻撃して言う事を聞かせるという「覇道」は、朱子学や士道精神からも外れている。攻めるなら攻めるで、相手国に非礼があったなどの「大義名分」が絶対に必要だ。だから、大攘夷思想が直ちに帝国主義的かつ覇権主義的な植民地(朝貢国)の獲得を目指していたとは、私にはどうしても思えない。

 

 攘夷とは、「夷狄を攘う」という意味であり、あくまでも防衛の範疇になるというのが私の認識だ。小攘夷はそのまんまだが、大攘夷も日本国を強国にすることで、武威を広め、世界に日本攻撃を諦めさせるという意味では「攘う(はらう)」の範囲内である。他国の領土を奪うのは、攻撃であり、攘夷の範疇外だと思うのだが、まぁこのあたりに『攘夷の幕末史』に違和感を覚えた理由があるのだろうなと思う(汗)。

 

 余談になるが、明治維新後に日本は本格的な国際社会に出て行くのだが、その課程で朱子学や水戸学などの漢学と呼ばれた学問は、西洋学問に押されて衰退していく。この課程で、日本流華夷思想も衰退していった。その象徴的な文献は、福沢諭吉の『学問のすすめ』であろうと思う。以下に抜粋してみよう。

 

 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤きせん上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資とり、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり(『学問のすすめ(福沢諭吉著)』)

 

 上記は、『学問のすすめ』の超有名な名文句だが、日本流華夷思想を明確に否定したものでもあろう。さらに、福沢は同書の中で、

 

およそ人とさえ名あれば、富めるも貧しきも、強きも弱きも、人民も政府も、その権義において異なるなしとのことは、第二編に記せり。今この義を拡おしひろめて国と国との間柄を論ぜん。国とは人の集まりたるものにて、日本国は日本人の集まりたるものなり、英国は英国人の集まりたるものなり。日本人も英国人も等しく天地の間の人なれば、互いにその権義を妨ぐるの理なし。一人が一人に向かいて害を加うるの理なくば、二人が二人に向かいて害を加うるの理もなかるべし。百万人も千万人も同様のわけにて、物事の道理は人数の多少によりて変ずべからず。(『学問のすすめ(福沢諭吉著)』)

 

 とも記して、日本流華夷思想に基づいて、欧米を野蛮な夷と見る価値観と攘夷思想を打破している。実際、幕末期には日本を「神国」とも呼んでいたが、明治維新後は「皇国」と呼ぶのが一般的になっていった。神国は、「神の国(神が最初に作った世界の中心。神に最も近い国)」として名付けられたと思われるが、「皇国」は「天皇の治める国」の意味だ。言葉が変わった意味に関しては、まだ調査不足ではあるが、日本流華夷思想の衰退と関係しているのではないかと私は思っている。もっとも、このような平等を説く「天賦人権論」は、天皇主権を説く明治国家にとって危険思想になりかねず、明治の政治界で一大問題となっていくのだが、それはまた別の話である。以上、余談でした。