大攘夷論と帝国主義的覇権国家への道の間にあるもの | 幕末ヤ撃団

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↑水戸弘道館にある「尊攘」の掛け軸

 

 近年、町田明広氏の著書『攘夷の幕末史(講談社現代新書)』で攘夷論が取り上げられ、ネット上でもたびたび話題になるようになってきた。なかにはツイッターなどで「坂本龍馬は世界征服主義者だ」というセンセーショナルな言動すら現れるようになっている。
 確かに攘夷論は日本国の万国対峙の方策として唱えられた対外姿勢である以上、最終的には当時の一等国のような帝国主義的覇権国家を目指すための萌芽であり、その発端ではあることに違いはない。
 しかし、町田氏の著書『攘夷の幕末史』は新書であり文章量にも限りが有ろう。その意味では町田氏が自身の考えをすべて本書で述べきったとは私には到底思えないのだ。本書の主要なテーマの一つに「攘夷VS公武合体」という思想対立は間違いであること。攘夷というならば日本人全員が攘夷主義であったことから、公武合体と攘夷は両立する思想であり、対立しないことを説明することがある。そのテーマを誇張するが故に、一種のセンセーショナル効果も狙って「大攘夷=日本的華夷思想に基づく朝貢国獲得への道」という筋立てになったものと思う。そもそも、本書は攘夷論が大攘夷論へ変化する幕末時代をテーマにしており、本格的に国際社会のなかで一等国への仲間入りを果たそうとし、清国やロシア、朝鮮や台湾などを相手に外征が行われた明治時代はその範疇に入ってないということもあろう。
 
 しかし、それはこれまでも当ブログで述べてきたように思想の成長と展開に飛躍があるように感じるのは、たぶん本書で町田氏が考えのすべてを述べきっていないことによるのだろうと私は思う。私が感じる違和感とは、大攘夷論が他国侵略に直結して論じられている点にある。

 町田氏は海援隊の目的に「運船射利、応援出没、海島ヲ拓キ五州ノ与情ヲ察スル等ノ事ヲ為ス(陸援隊、海援隊約規)」を示す。その上で町田氏は海援隊の真の目的は「土佐藩の応援、これは海運のみならず軍事的色彩も帯びており、何よりも、未開の地(国境が未分明である、または、領有国が顧みていない、主として島々)を開拓、すなわち占領して、日本の版図に加えることを、本来の目的としたのだ。しかも、世界征服のために、世界事情を探索することも、また目的であった(『攘夷の幕末史(講談社現代新書)』100頁)」と説明している。
 また、実際に本書において近藤長次郎の書簡や海援隊の業務提携した岩崎弥太郎らの行動から上記の「世界征服の野望」があったことを論証しており、これを私は否定しない。当時の大攘夷論を掲げた志士たちが万国対峙(日本の対外姿勢)する上で、なによりも欧米列強と同等の待遇を国際社会のなかで日本も得られるようにすることこそが目標だったのであり、そのためには欧米列強と同等の軍事力と西洋の文化文明・科学技術力や知識を得なければならなかったことも周知の事実だ。海援隊では、そのための出版事業もはじめようとしていた。

 また元新選組参謀で御陵衛士となっていた伊東甲子太郎は、新政府草案を考えた際にこのように書いている。

 「(前略)倭人は強兵に成り、力足る時は忽ち併呑の気起こるは天然自然の道理なり。倭 支那を取る時は印度・トルコは日を期して征すべし。二国和す時はヨーロッパは危し。鄂(ロシア)またその難を受くべし。かくの如きの道理なれば、いま露・亜を始め、倭の一和を恐る。倭国一和の基本立つ時は、外国の為には要所を取るの道理にして、国々危し。故に、相互に拒み、真に一和せざる様に計るは、自国不安の恐れ有ればなり。蘭ばかりこの説に関係せざるは倭に恩信有る故なり」「一、五畿内の外、攘夷閉鎖の儀は一大事件につき、衆議に依って決せられ候ふ事」(『伯父伊東甲子太郎武明』新選組史料集コンパクト版より抜粋)」

 このように、当時の志士などの間で”日本は武国であり、日本の武士は欧米列強の軍隊よりも強い”と信じられている。つまり日本が本気になれば世界を征することもできると思われていたわけだ。それができないのは、国内事情の不和によるという認識を伊東甲子太郎はしている。だが、それは建前であり、実際には日本と欧米列強では軍事力が違い過ぎること。実は日本は弱いことには気が付いていた。それを証明した事件こそが薩英戦争であり長州藩の攘夷実行と欧米列強からの報復だったのだから。だが、いまさら日本は弱いなどとは言えないかれらは、伊東甲子太郎のように他に原因を求めて論じている。事実、同じ新政府草案の中で伊東甲子太郎は「攘夷の儀は、先帝に於かれて誓はせられ候ふ事。天下にも御布告にも相成り候ふ事につき、攘夷の人心奮起し候はばこの上なき御事に候ふ事。さりながら方今の世態人心を推察仕り候へば一和の御基本、海内皆兵、強国の大国是相立ち候ふ後ならでは如何在らせらるべくや、衆評御聞き取り(こそ)御肝要の事」と記して、攘夷を避けて開国し、富国強兵の成った後でなければならないこと。また、その際にはよくよく衆議を尽くさなければならないことしており、明らかに大攘夷論ではあるが、遠回しに攘夷実行には慎重な態度を取っている。このことから、伊東甲子太郎の場合は挙国一致しての富国強兵に大攘夷論の目的があり、世界征服や植民地獲得は日本が強国になった後の話しだとしていることが理解できよう。


 このように先進的かつ急進的に西洋的一等国を目指す海援隊や土佐藩のなかで、当時の一等国と言われた欧米列強が当然のように持っていた”植民地”を一等国のステータスと見なし、日本もこれを得て一等国の体裁を整えようと考えても不自然ではない。
 また、同書80頁にて、坂本龍馬らの師である勝海舟の大攘夷論にも触れられている。それによれば「基本的には、勝もまた攘夷思想である。しかし、現状の武備では、まったく西欧諸国と互角に戦うことなどは敵わないとの認識を立ち、無謀な攘夷を否定した。むしろ、通商を容認し、その利益をもって海軍を興し、じゅうぶんな戦闘・防衛体制を整えたうえで、大海に打って出るとする、つまり、帝国主義的な海外侵出をおこなうとする「大攘夷」主義を唱えたのだ」と町田氏は勝海舟の大攘夷論を説明する。この点について、私は勝海舟の研究はしていないのでよくわからないが、正直なところ「帝国主義的な海外侵出」は過大な解釈ではなかろうかと感じている。そのあとの町田氏の語る「勝が主張するように、通商条約を容認し、積極的に世界と貿易して国力を養成し、そのうえで海外に雄飛するというのが「大攘夷論」なのだ」という大攘夷論の説明には大いに賛同するのだが、「海外雄飛」と「帝国主義的海外侵出」とではまったく意味が違う。帝国主義的海外侵出であるならば、文字道理植民地獲得のための領土侵略であるが、海外雄飛ならば国際社会の中で日本国が活躍する=存在感を示すという意味になるから、必ずしも植民地獲得のための他国侵略を意味しない。私は、後者の「海外雄飛」を大攘夷論の本質と見ており、他国侵略や植民地獲得は大攘夷論のなかには含まれないと考えている。
 私がそのように思う理由は、儒学や朱子学のなかで、そのような覇権主義は否定されているからだ。江戸時代を通じ、儒学、特に朱子学が正学と定められ広く日本に普及したことは周知の事実である。武士階級や志士が多く出た豪農層は、これら儒学・朱子学を学び一般常識として受容していた。
 この儒学・朱子学の重要経書の一つ『孟子』のなかに、武力にものを言わせて支配するような「覇道」を否定する思想があるのだ。いかに国益になるとはいえ、力なき他国を攻めて支配地を広げるなどという考えは、儒学・朱子学の道理に合わないのである。『孟子』は「覇道」ではなく「王道」「仁義(徳)」をもって治めるべきとする「王道主義」・「徳治主義」を説く。これを日本に置き換えれば「尊王・天皇中心」ということになろう。幕末期に尊王思想や王政復古思想が登場するのも、このような儒学・朱子学の理念が普及一般化した結果であるし、こうした儒学や朱子学と共に国学や神道が重視されたことによる。儒学では江戸時代初期から「神儒一致」思想が生み出されており、仏教とは相容れないが神道とはすこぶる相性が良い思想になっている。そうして生み出された学問が、攘夷思想を生み出した「水戸学」である。

 

↑尊攘派志士のバイブル『新論』


 尊攘派志士のバイブルとされた水戸学の『新論』冒頭では、西欧諸国を「西荒の蛮夷、脛足の賤を以て、四海に奔走し、諸国を蹂躙し、眇視跛履、敢へて上国を凌駕せんと欲す。何ぞ驕れるや」と欧米列強の所行を批判する。水戸学は日本的華夷思想の影響を受け、かつ神儒一致思想をも反映させた思想だから、日本を日本の神々が作った天皇中心の神国と定め、最も徳ある国と位置づけて世界の中心”中国(現在の中華人民共和国ではなく、中(世界の中心の)国の意)”と位置づけている。つまり「上国」とは日本を指しているわけだ。欧米諸国を蛮夷とする理由は「諸国を蹂躙」という部分にかかっており、彼らの帝国主義的植民地獲得競争は「覇道」に他ならず、儒学・朱子学が説く「徳ある国」には到底見えないことにあろう。逆に江戸時代の260年に及ぶ天下泰平の世を過ごした日本こそ、覇道を廃し徳治をもって国を治めてきた王道主義の徳ある上国となる。その上国をも凌いで併呑しようとする欧米の蛮行に対抗し、国を守ることのは当然であり、それこそがもともとの攘夷論の本質なのだ。

 薩英戦争や馬関戦争によって欧米列強の強さを知った薩摩藩や長州藩の尊攘派志士たちが、攘夷の不可を悟って大攘夷論に思想を変化させていくのだが、それも日本を改革し富国強兵に努めて、他国から侮られない強国になることが最優先課題となる。富国強兵のためには貿易を行って外貨の利を得ると共に西洋知識や技術の取得導入が必須となろう。そのための開国である。そして、国際社会のなかで日本が最初に目指すポジションは、当然ながら欧米列強と同じ扱いを受けること。つまり、不平等条約を改正し、欧米諸国と対等の一等国になることだった。
 その一等国になるためのステータスとして植民地を得たいと思う坂本龍馬のような人間も出てこようが、だからといって儒学や朱子学が否定した覇道に落ちて良いという理屈はなりたたないし、水戸学が否定する蛮夷とおなじ「四海に奔走し、諸国を蹂躙」する行為を日本も行うのだということにはなるまい。これでは大攘夷という言葉と水戸学の言う攘夷(小攘夷)は相反し、とても攘夷論が大攘夷論に発展したなどとは言えない。それはおかしいと私は思うのである。

 海援隊のようにごく少数の人間の集まりや土佐藩のごく一部のグループ内で、町田氏の述べるような世界征服への動きがあったとしても、それはごく一部のグループ内の認識であって日本全体の志士たちが納得し、日本国の大攘夷論者の大多数から賛同を得る思想とは思えないのである。日本が帝国主義的覇権国家になるためには、儒学・朱子学のいう「覇道を忌避する思想」を捨て去るという作業がどうしても必要なのだ。したがって大攘夷論がそのまま明治時代の日清日露戦、あるいは昭和初期に行われた日中戦争や太平洋戦争へ直接つながる思想とは思えない。
 
 さらに気になるのは、町田氏の本書をのみを見た時、日本的華夷思想(日本を世界の中心国位置づけ他国から朝貢を受けるのが当然と見る)と帝国主義(皇帝が複数の国を支配する)が同じ意味として論じられていることがある。確かに古代中国ではそのような形が帝国であったし、華夷思想の根本もそこにあったろう。だが、私は単に世界の中心・中央が華国であり、その廻りに夷があるという考え方だと理解している。例としては、天皇が住まう京の都(京都)が上国、その上国に近い国ほど文化や地位が高く、遠いほど野蛮だという考え方だ。越地方だと京都に近い「越前」が地位や格、文化レベルが高く、次に「越中」と続き「越後」が越の国のなかで最も文化レベルが低いという考え方で、国名にもそれが現れてもいよう。同様に野州は「上野・下野」、房総は「上総・下総」となる。つまり、帝国主義だと皇帝が他国を支配する国や領土があるかどうかとなるが、華夷思想の場合は地位や知的文化レベルの方が重視され、必ずしも領土拡張や他国支配にこだわらない。事実、日本的華夷思想は江戸時代に儒学者の間で広まったが、そうした儒者から一言も「鎖国を止め、海を渡って他国を支配しなければ、日本は華国(中国・世界の中心国)になれない」という主張は見られない。
 
 以上の理由で、私は町田氏のいう大攘夷の意味が「通商を容認し、その利益をもって海軍を興し、じゅうぶんな戦闘・防衛体制を整えたうえで、大海に打って出るとする、つまり、帝国主義的な海外侵出をおこなうとする」ものだという考え方には賛同しないが、「通商条約を容認し、積極的に世界と貿易して国力を養成し、そのうえで海外に雄飛する」ことが大攘夷なのだという考え方には賛同する。

 では、明治維新後にこの「大攘夷論」はどうなったのだろうか?。明治時代は開国主義を取って富国強兵に勤め、実際に日清日露戦争を経て日本が覇権を求めて海外に出ていった時代となる。
 ここでは、明治新政府初めての対外戦争を行った「台湾出兵」を例に見ていきたい。

 明治維新後、日本は急速な西欧化が進んだ。それは官民一体となった「文明開化」政策によるものだ。明治政府にあっては地租改正や廃藩置県で藩・大名家を解体、かつ秩禄処分、断髪廃刀令などを布告して武士階級を消滅させていく。同時に民間では福沢諭吉などの開明派文化人によって洋学や西洋文化・科学技術の普及と江戸時代の古い文化から先進的な西洋文化への転換が喧伝され、日本人の意識が変わっていった。
 なかでも福沢諭吉は『学問のすすめ』のなかで「天理に戻ることを唱うる者は孟子にても孔子にても遠慮に及ばず、これを罪人と言いて可なり」といった調子で儒学・朱子学を徹底排撃しており、こうした江戸時代の学問は時代遅れのものとした上で洋学への転換が図られている。同時に学校設備も明治政府によって整えられて義務教育が始まった。学校での学問も文明開化政策に沿って洋学が主とされた。そうした背景から、江戸時代に一般常識だった儒学・朱子学・漢学は明治維新後に一気に衰退し、かわって西洋の学問が日本学問界を席巻することになる。
 つまり、ここで儒学・朱子学が『孟子』のなかで唱えていた「覇道忌避」の思想もまた打ち捨てられたわけである。そして、手本とすべきは西洋の一等国、イギリスやフランス、アメリカなどの欧米列強国となった。この段階で、もはや異国を野蛮な夷国という認識はなくなり、逆に日本も欧米のような文化国になろうという羨望の眼差しが欧米に向けられるようになる。つまり、ここで帝国主義的覇権国の道を日本もまた歩み出せるようになったわけであり、逆にいえば文明開化という日本人の意識改革がなければ、日本が領土的野心に目覚め、それを堂々と国家政策と位置づけて推し進めることができなかったはずだ。だから、文明開化が行われる前の江戸時代に唱えられた「大攘夷論」が帝国主義的侵出を目指す思想だったとする理解に私は同意しないのである。

 さて、文明開化政策の最中である明治七年に「台湾出兵」が行われ、明治政府初となる外征が行われた。事件の発端は、琉球漁民が海で遭難し、台湾北部に漂着したところ現地人の牡丹社という「生蕃(原住民・首狩り族のような風習があった)」に54人が殺戮されるという事件が起こったことによる。当時、琉球は清国と日本の両属になっており、国の帰属が定まっていない。日本は琉球は日本に属すという立場から琉球人は日本人という立場で清国へ強い抗議を行う。対する清国は琉球は清国に属し、琉球人は清国人だから日本には関係がない。また、事件が起こった現地はまだ清国の統治が行われていない化外の地(未支配地)だという反論を行って日本の抗議をはね付けている。
 これを受け、日本は現地人に報復を与えて同じ事が起こらないように教化しなければ、航海の安全が保てないこともある上、琉球人は日本人という立場からも国家として責任を断固追求するという立場で台湾出兵論が登場するに至った。何しろ清国は台湾は清国の版図だが、事件のあった地域は未支配地だから責任は取らないと言っている以上、現地人に責任を問うには日本が動くしかないという状況である。ましてや、江戸時代に琉球を支配していた薩摩藩士たちにとり、琉球は日本ではないという清国の主張は認めがたい。当時、西郷隆盛は征韓論にかかりきりだったが、内需優先を唱えて征韓論に反対だった大久保利通は俄然台湾出兵には賛成する立場だった。さらに朝鮮征伐に盛り上がる外征派のエネルギーを台湾征伐にすり替えるという効果も台湾出兵には期待されている。
 外征準備として参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命し、西郷従道に与えられた勅命は「我国人を暴殺せし罪を問うこと」「臨機兵力を以てこれを討つ」「防御の方法を立」てることである。そして重要なことは、これに特諭が加えられており、そこに「鎮定後は漸次に土人を誘導開化せしめ、ついにその土人と日本政府との間に有益の事業を興起せしむるを以て目的となすべし」とあることだ。これに関し、三条実美は岩倉具視の書簡のなかで「台湾植民一条、実に苦慮に堪えず候、もっとも御委任状は御改めに相成り候えども、実地の運びはすでに植民の都合に相成り候あいだ、都督の処分は必ず植民の姿に相成るべくに相違これなくと懸念つかまつり候」とあることから、西郷従道都督へ与えられた真の目的が植民地の獲得にあったことは明白である(『台湾出兵(毛利敏彦著・中公新書)』132頁)。
 西郷従道は台湾に上陸するや牡丹社の生蕃(原住民)を討伐を開始して壊滅させた。その上で、現地の領有を視野に入れて現地人と交わり友好関係を築いていく。一方の清国はこうした日本の行為を非難し、西郷従道へ撤兵を申し入れている。これに対して従道は「生蕃は化外の民と答え、今所轄であるという、是れ信を失うの一、我邦の師はこれを先に告げて後に発したのに、今に及んで詐りて知らずというは不信の二、我が民害既に二年を経過しているに拘らず放置し、今に及んで文句あるは信を失うの三、で貴邦は何一つ交信に値するものなし」とはね付けている(『元帥西郷従道伝(西郷従宏著・芙蓉書房)』120頁)。
 しかし、征韓論で揉めている最中で清国相手に戦争も出来ないことから、大久保利通自身が清国に渡って交渉に当たり、最終的に「日本の外征は義挙であること」を清国が認め、戦争に掛かった経費と賠償金を支払うことで交渉がまとまった。結果として日本は台湾から撤兵し、植民地を得るには至らなかったが、変わりにこの「外征は義挙」と認めさせたことで、琉球人は日本人であり琉球は日本の一部と公式に清国に認めさせている。その意味では台湾出兵は成功裏に終わったと言えよう。
 
 以上のことから、台湾出兵に際に明治政府内には植民地獲得の意図があったことが明確に読み取れる。まして、未開の地の領有を意図していることから、まさに町田氏のいう「未開の地(国境が未分明である、または、領有国が顧みていない、主として島々)を開拓、すなわち占領して、日本の版図に加えることを、本来の目的」とする大攘夷に合致する事例が台湾出兵だったと言えよう。しかし、これを大攘夷と言う明治政府高官もないことから、こうした帝国主義的覇権行為は水戸学や朱子学的な思考ではなく欧米と同様の帝国主義的思考であったと思われる。
 しかし、これをもって儒学・朱子学の「覇道忌避」の思想が忘れ去られたとは言えない。というのも、この時期に明治政府の高官を務めていた薩長両藩出身者の多くが、江戸時代生まれで儒学・朱子学を学問修行として受けて育った世代だからだ。
 そのことは、清国と話し合いを行った大久保利通の交渉の中で見ることができる。大久保はこの時のことを振り返って曰く「余則ち八月六日を以て日本東京を発し、九月十日清国北京に抵る。十四日其総理衛門に踵り、諸大臣を見、首として詰問して曰く、貴大臣等前来柳原公使と論辨せらるる如く、生蕃の地、貴国版図内に在るとせば、何を以て今に至るまで蕃民を開化せざる。夫れ一国版図の地たる、其主管を設けて、化導するに由らざるを得ず。貴国生蕃に於て果して幾許の政教を施す乎。万国交際を開きしより人々互に往来す。則ち各国に於て、航客の安寧を保護せざるはなし。いわんや貴国素より仁義道徳を以て全地球に鳴る。而して生蕃の屡々漂民を暴害するを見て之をを度外に置き、唯残暴の心を養ふ。是理有る乎」と語っており、清国が台湾を自身の領土と主張するのに支配せず、未開のまま放置していることを糾弾。かつその結果、遭難した他国人が現地人に殺害されるに任せたままにしていること強く非難している。そして、儒学・朱子学が中国(清国)発祥であることから、徳治国家をもってなる清国が、このような徳で未開の人々導かないのはなぜか。そのような道理はないと儒学・朱子学の論理をもって清国を責め立てているのだ。(『近世日本国民史 第九十巻・台湾役始末(徳富猪一郎著・時事通信社)』三七〇頁)
 もし、ここで帝国主義的な理屈を持ち出すのであれば、武力で占領した地域は勝った日本が支配するのが当然だと言って居座る手もあった。だが大久保はそうせず、儒学・朱子学を持ち出したして非難を浴びせるに留めている。儒学朱子学を持ち出した以上、「覇道忌避」の思想から武力で占領地を奪ったままという道理は成り立たないから、大久保が琉球は日本に帰属するということを清国に認めさせ、戦費と賠償金を得ることで満足し、占領地は清国に返すというのは納得のいく結果ではなかろうか。そうすることで、植民地獲得の野心は隠しつつ、あくまでも自国民保護と清国に版図内の国際的な安全確保は貴国の義務と知らしめることが目的だったと国際社会的に公言できる。これで儒学・朱子学の目指す政治と矛盾しなくなるのだ。
 こうした大久保の行動を見るに、この明治初年度では文明開化政策が行われて帝国主義的覇権国家への脱皮しつつも、まだ儒学・朱子学は政治の世界で息づいている。日本が完全な覇権国家になるためには、はやり明治時代に生まれ、明治の文明開化以降の教育を受けて育った世代が国政や軍事を担うようになった時代であったろう。時期としては明治時代後半から大正・昭和初期である。
 したがって私個人の考えでは、日本が帝国主義的覇権国家を本格的に歩み、植民地獲得に何の遠慮もなくなり、大陸利権を奪い始めるのは昭和初期の満州事件から日中戦争あたりではないだろうか。

 以上、大攘夷論と帝国主義覇権国家に関して長々と書いてきたが、結論としては帝国主義的覇権国家の大元は確かに大攘夷論にあった。しかし、大攘夷論がそのまま帝国主義や覇権主義へ成長することはできない。帝国主義的覇権国家へ成長するためには、文明開化による西洋化と富国強兵、それにともなう日本人全体の意識改革によって儒教・朱子学の徳治主義から法治主義への転換が必要だったと私は考えるのだがどうだろうか?。
 

 なお、これは余談だが漫画「ゴールデンカムイ」流行を受けて、歴史ライターを名乗る者がウェブマガジンなどで明治政府がアイヌ人を差別して虐げ、教化と称して強引にアイヌの文化伝統を奪ったとして明治新政府(と薩長両藩)を批判をする記事がアップされている。

 しかし、是まで述べた通り。明治政府は台湾出兵と清国との交渉で「未開の現地人を教化せず。文明的に開化しないままの未統治」では、国際社会に対して無責任だという見解を示した。そうした明治政府が蝦夷のアイヌ人を尊重し、アイヌの自由に任せるということはあり得ないことはご理解頂けるだろう。むろん、アイヌの文化を奪って強引に日本人同化政策を行った行為は非難されるべきだが、だからといって蝦夷のアイヌ人の住む土地を未統治のまま放置することもまたありえないのである。それこそ蝦夷地を版図に加えている日本の責任が、国際社会から問われてしまうのだから。