東京都足立区にある戦国期千葉氏の史跡巡り | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

昨日のことになりますが、GW連休中に一回ぐらいは史跡巡りしようと思い立ち、足立区の方に出向いて参りました。

↑中曽根城跡碑

 

 房総の雄、千葉氏も戦国期になると色々とややこしい様相になっておりまして、ザックリ説明すると一族が享徳の乱と絡んで二派に別れました。享徳の乱とは、鎌倉公方の足利成氏が室町幕府と対立した争いで、関東管領だった山内上杉氏や扇谷上杉氏が室町幕府派だったために鎌倉公方と室町幕府を後ろ盾とする関東管領の戦いに発展、後に鎌倉を維持できなくなった足利成氏は古河に移って初代の古河公方になります。以後、この古河公方と関東管領上杉氏が関東支配を巡って争って長期化し……とまぁ、そんな形で関東の戦国時代が幕をあけてます(汗)。

 こうした関東の争乱のなか、千葉氏も同族で内紛を起こしており、公方側に味方した馬加(千葉)康胤や原胤房らが千葉城の千葉氏嫡流千葉胤直父子を攻め滅ぼしてしまいます。ここで千葉氏嫡流は一旦途絶えました。康胤らが古河公方を後ろ盾に下総の支配権を固めて千葉氏嫡流を名乗り、古河公方もこれを認めました。これが下総千葉氏となります。一方、関東管領上杉側は、千葉胤直の弟・千葉賢胤の子、実胤と自胤の二人を庇護し、実胤を板橋区にある赤塚城、自胤は荒川区の石浜城へ入れ、千葉康胤のあとを継いだ千葉孝胤に対抗させました。実胤・自胤も千葉氏嫡流を名乗り、関東管領もこれを認めます。この系統が武蔵千葉氏になります。つまり、下総千葉氏も武蔵千葉氏も両方とも千葉氏嫡流を名乗っており、古河(鎌倉)公方と関東管領(室町幕府側)もそれぞれがこれを認めちゃってるために彼らが勝手に自称したとも言えず……。まー、戦国らしいといえばらしいですけどもねぇ……。

 

上記の中曽根城は武蔵千葉氏の石浜城の支城の一つとして築城されたらしいです。

 

↑中曽根神社

 

 中曽根神社は、中曽根城の一部だったということで中曽根城跡の碑が立っています。

 

↑来歴が記された碑

↑来歴が記された碑

 

 で、非常にややこしいことに、この地域にはこの地を支配していたのは千葉”次郎”勝胤だという伝承があるらしく、中曽根城も千葉勝胤の築城と碑文にはあります。一般的に、千葉勝胤というと下総の本佐倉城を居城とした千葉勝胤のことを指すと思いますが、この勝胤は千葉家嫡流を襲った下総千葉氏グループなのですね。ただ、康胤の嫡流ではなく、康胤の庶子輔胤の子・千葉孝胤が下総千葉氏嫡流を名乗って勢力を拡大しました。この孝胤の子が勝胤なんです。

 でも位置的に中曽根城は武蔵千葉氏の勢力下です。なので下総千葉氏の勝胤の築城という話しには疑念があります(汗)。

 

↑中曽根神社社殿

↑扉には千葉氏の家紋「月星紋」

 

 上記は、中曽根神社の社殿の写真です。扉には千葉氏の家紋たる「月星紋」が描かれています。また、この神社はもともとは妙見社だったらしく、千葉氏が守護神として祭った妙見菩薩信仰の面影が残っています。

 また、実際に発掘調査も行われており、長さ19.2メートル、深さ1.2メートルの堀跡が発掘されていますから、ここが千葉氏と関係のある城跡であった可能性は非常に高いです。(遺構は調査後に埋め戻されているため、現在は見ることができません)

 

↑長勝寺

↑長勝寺にある伝・千葉勝胤のお墓

↑史跡案内版

 

 足立区にある長勝寺には「千葉次郎勝胤の墓」と伝わるお墓がありますのでお参りしてきました。しかし、先にも説明した通り、ここに勝胤のお墓があるのは不自然なんですな。なにしろ下総千葉氏とは仇敵関係の武蔵千葉氏の勢力圏ですので。

 なので、武蔵千葉氏にも勝胤という同姓同名の人物がいたか、別人のお墓ではなかろうかと想像しますが、なにぶん史料もなくよくわかりません。お墓は、後世の人々によって作られていますから、勝胤を祀ったものが後の時代に作られたという可能性もあるかなと。謎です。

 駅からかなり離れていたため、徒歩で30分もあるいてたどり着いた長勝寺。もう日が沈むのが早いか否かというところでたどり着いたわけですが、資料用写真撮影中にお寺も門扉が閉じられそうになり、慌てて外に出ました。どうやら長勝寺は午後5時30分に門扉が閉じられ参拝できなくなるみたいなので、勝胤のお墓をお参りする際にはお気をつけ下さい。

 

↑千葉勝胤のお墓があった元の場所

 

 勝胤のお墓は本来はこちらにあったようです。それを諸般の事情で長勝寺に移動させたそうです。

 

↑案内版

 

 案内版にもある通り、武蔵千葉氏の系図に「勝胤」の名はありません。あるのは下総千葉氏の系図の方なんですよねぇ(困惑)。勝胤は下総だと本佐倉城を築城した戦国期の武将として有名なので、どうも長く伝承されていく内に武蔵千葉氏と下総千葉氏の混同(混乱)が起こっているような気がします。

 ただ後北条氏の所領役帳により、この地域が武蔵千葉氏の支配地だったことは間違いなさそうなので、武蔵千葉氏が下総千葉氏と国境を接する最前線の城だったことは間違いないだろうとは思います。古河公方と関東管領がわちゃわちゃやってる間に、小田原北条氏が関八州を席巻しちゃいましたからね。下総と武蔵とに別れていた千葉氏も、みんな丸ごと小田原北条氏の家臣として取り込まれましたので(汗)。

 

 ということで、突発的に足立区にある中世戦国期の千葉氏関係の史跡を巡ってきた次第です。足立区の他にも武蔵千葉氏の史跡があちこちにまだあるみたいなので、時間があればまた巡ってみたいと思います。