夏コミケの告知と「吉田松陰と陽明学」について | 幕末ヤ撃団

幕末ヤ撃団

勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

↑東京江古田にある古戦場「武蔵ヶ原古戦場跡」

 

 まず最初にコミケの告知をします。歴史サークル「幕末ヤ撃団」は、無事今回の夏コミケにサークル当選。出店が決まりました。

 

イベント:コミックマーケット102 

日時:8月12日(金)~13日(日)幕末ヤ撃団は13日に出店

サークル名:幕末ヤ撃団

ブース:東5ホール ヒ-08b

新刊予定:『戊辰戦争の武士道 近藤勇の最後』を予定しており、現在作成中です。

備考:研究家あさくらゆう先生の「歴史企画研究叢書シリーズ」既刊誌各種の頒布を予定しております。現在、諸般の事情で歴史企画研究叢書の頒布は行われていませんが、なんとか幕末ヤ撃団で頒布再開できるよう準備努力しているところです。

 

以上、告知はここまで。ということで……

 

 今日は江古田にある史跡「武蔵ヶ原古戦場跡」を見てきました。戦国期に起きた太田道灌と豊島泰経の戦いに関連した古戦場とのこと。実はこのあたりの知識はあまり持ち合わせていないので詳しくは解説できません。が、どうも以前から開発計画があるということで、もしかすると史跡そのものが消えてしまう可能性が高い。なので、そうなる前に資料用に写真だけ撮影しておきたかったのですね。

 場所は江古田駅前なので、開発はされまくっており遺構らしきものはありません。ただ、碑石が立っており、そこが古戦場だと知ることができる……はずだったんだけどなぁ……。

 

↑古戦場碑と思われるもの

 

 上記写真の通り、史跡を示す碑石は引き倒され、他の廃材と一緒に置かれています(泣)。しかも、表ではなく裏面を上に置かれており、史跡名を刻んだ側は見れなくされておりました……。これ、ワザとそうしたんだろうなぁ……ココが史跡だとわからせないために……。

 あとはもう、開発されて跡形もなく消えていくばかりなのでしょう……。

 

↑碑石が立っていた場所

 

 この碑石は、本来ならこの巨木の根元に立っており、まわりを鉄格子で囲われていたはず。その鉄格子は撤去され、碑石は近くの廃材置き場のようなところに他の石材とともにまとめられている状態でした。この撮影位置より後ろ側はすでに工事が行われており、たぶんココもそのうち工事現場として囲いが出来ていくものと思われ。

 

 以上、こんな感じで今日はプチ史跡巡りしてきました。あと、ついでに最近気になったのでこの場を借りて書くのですが……。

 

 吉田松陰が陽明学関係の書を読んでいたのは事実だけど、陽明学を重視信奉してたという説は怪しいです(汗)。ネット検索すると、陽明学の「知行合一」を座右の銘にしていたとか、「知行合一」の掛け軸が松下村塾に掲げられていたと言われていますけども……松下村塾は陽明学の塾ではありませんから。

 『松下村塾零話』という史料にも「先生の学、もとより朱子学を主とすと雖も、敢えて一に偏せず(中略)或は古注、或は仁斎、又は徂徠、王陽明の説を交え、之に己れの発明説を加へ、取捨折衷せられ、その余考証を主とせり」とあるから、典型的な折衷学派です。また、「吾れ専ら陽明学を修めるには非ず。ただその学の真、往々にしてわが真と会ふのみ」と吉田松陰自身が言ってます。つまり、松陰は陽明学を重視して極めていたわけではなく、水戸学の『新論』や頼山陽の『日本外史』など、とにかく多くの本を読み、知識見識を広める方向性の学問なんですね。陽明学の書もその多くの書物のなかの一つでしかない。まったく影響を受けていないとまでは言いませんし、多少なりと松陰自身の考えと合致した陽明学の教えに関しては影響を受けていたとは思いますが、長岡藩の河井継之助のように傾倒はしていないと私は考えています。

 吉田松陰はあくまでも長州藩山鹿流兵法指南であり、兵学者なんです。山鹿流兵法がかなり儒学の影響を受けているために、この兵法は儒学者並の知識が必要になる。このため、松陰もまた儒学者的な思考をする人ではありましたが、本質は松陰本人が言う通り「兵学者」なんです。松陰の行動や言動は、かなりの部分で陽明学的ではありますが、陽明学に傾倒したからというのではなく、元々本人の性格がそうなんです。だから、結果的に陽明学的になったというだけで、陽明学を知り、陽明学の論理に従って行動したというわけではないと私は考えています。つまり、松陰の陽明学は後付けです。

 以上、ネット検索すると松陰が陽明学の徒として扱われている記事が多かったので、気になった次第。松陰は陽明学の徒というよりは、松陰自身が朱子学や水戸学、国学や陽明学など多彩な書物から知識を得て、山鹿流兵法の士道論など儒教道徳部分をベースに自身の解釈を加え、取捨選択、折衷して編み出した松陰オリジナル学派だと思います。それを松下村塾で弟子たちに広めていった。なので、高杉晋作もよく陽明学の徒とされますが、それについても疑う方がいいかと思います。なにしろ、師匠の松陰がそういう学派なので。

 以上、気になったので書いておきました。