福沢諭吉『瘠我慢の説』と武士道 | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 武士道を主として幕末史を調べていると、江戸無血開城を行った恭順派の勝海舟や箱館戦争まで戦い抜いた徹底抗戦派の榎本武揚の批評をたびたび目する。両者は戊辰戦争では真逆の立場をとったが、共に幕臣として徳川宗家の録を食み、維新後は明治新政府に出仕して功績を成した人物だ。旧幕臣のなかには、「二君に仕えた者」と批判することも少なくない。明治期の武士階級解体政策(秩禄処分・断髪廃刀令)などによって没落を余儀なくされた幕臣たちにとって、かつての敵たる明治政府(薩長藩閥政治)に仕え、立身出世する勝と榎本が憎まれるのもやむを得ないところだ。

 しかし、現代を生きる我々が、幕末当時を生きた幕臣たちの不平不満をそのまま”現代の人物評にしてしまう”ことは問題だと私は考える。また、この両士を責めるのによく使われるものとして、福沢諭吉が書いた『瘦我慢の説』が持ち出されるのだが、これまた曲解して使っている場合が多く、困惑するばかり。まぁ、この『瘦我慢の説』に関しては、当時の啓蒙思想の大家福沢諭吉の考えということもあり、いつかキチンと論じたいとは考えていたところでもある。そこで、今回は短いながらも、多少この『瘦我慢の説』と武士道の関係をどう捉えるのか考えてみたいと思う。

↑慶應義塾発祥の地

↑史跡案内

 

 この『瘦我慢の説』を用いて幕末期の武士道を論じようとする際、多くが「忠臣は二君に仕えず」という漢書『史記』の格言と『瘦我慢の説』を結びつけて説明するのだが、まずここが大きく間違っている。

 たとえば、ウェブマガジンの一つ「武将ジャパン」の記事が間違いの典型例なので示しておこう。

 

 
 この武将ジャパンという出版社の記事は古代から近現代の広範囲かつほとんどの記事の内容に、こう言っては申し訳ないが事実誤認や担当したライター個人の主観が酷過ぎて客観性を欠いていると言わざるを得ず。言いたいことは山ほどあるが、今回はそれらには目を伏せて、あくまでも福沢諭吉と『瘦我慢の説』にのみ言及したいと思う。
 
 上記の記事を見ると……
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「三百年の徳川幕府をあっさりと敵に売り渡し、二君に仕えるとは。勝というのは傑物かもしれんが、武士の風上にも置けぬ人物だ」

同じく幕臣であった福沢諭吉はそう考え、勝のことを嫌っていました。

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 とある。このような「二君に仕えず」の武士道で言われる忠臣の姿と『瘦我慢の説』を結びつける評論は、武将ジャパンの記事だけでなく他所でも多く見られるパターンだ。しかし、実は『瘦我慢の説』では、“二君に仕えることを非難する部分はない”のである。逆に”二君に仕えることを肯定”しているのだ。だから、福沢諭吉が「勝や榎本が二君に仕えたから不忠だと嫌っていた」という論調も大間違いである。福沢が勝を嫌う理由はまったく別にあり、武士道とは関係がない人間関係のなかでのことだ。

 

 「敵に降りてその敵に仕うるの事例は古来希有にあらず。殊こ政府の新陳変更するに当りて、前政権の士人等が自立の資を失い、糊口の為めに新政府に職を奉ずるがごときは、世界古今普通の談にして毫も怪しむに足らず、またその人を非難すべきにあらず(後略)」『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説(福沢諭吉著・講談社学術文庫)六四頁より抜粋』

 

 このように『瘦我慢の説』のなかでは、二君に仕えること&かつて敵だった者に仕えることは否定されていないし、むしろ肯定しているのだ。

 それもそのはず、そもそも二君に仕えた行為自体を否定してしまうと、幕末当時、中津藩士として中津藩主に忠勤を励むべき福沢諭吉自身が幕臣になって幕府(徳川家)に仕えていたことが批判対象になってしまう。これでは、勝や榎本を批判するどころか、自分で自分を非難することになってしまうのだ。だから、福沢は武士道世界で良く言われる「忠臣は二君に仕えず」という論法を用いることを避けたのである。

 

 では、福沢の言う『瘠我慢』とは何かについて考えてみよう。福沢は『瘠我慢の説』のなかで、瘠我慢こそ武士道の本質だと見抜いた。そして、自身が弱いからと強者へ抵抗せずに頭を垂れる態度は良くない。例え自分が弱くとも最低限の抵抗はすべきという考えを福沢は語る。それは瘠我慢であり無駄な抵抗かもしれないが、後世に与える影響を考えれば、戦わずして膝を屈するよりは戦った末に膝を屈する方が良いのだというのが福沢の主張だ。ただし、抵抗した上で勝てずに降伏することは福沢も認めるところで、城を枕に玉砕するまで戦えというのではない。強弱だけ見て意地を張らないことを批判しているのだ。簡単に例を示せば、欧米列強が強国だからと戦わない内から負けを認め、欧米列強の言いなりなって国そのものを敵国に明け渡せるのか?。そのような精神性は否定すべきで、そのためには弱国といえども戦わねばならない。だからこそ、これから欧米列強の帝国主義と対峙しなければならない明治日本には、瘠我慢の精神が必要なのだというのが福沢の論理となる。戦うことなく江戸城を明け渡した勝の判断は、悪しき前例を作ったことにならざるを得ない。

 

 「当時積弱の幕府に勝算なきは吾輩も勝氏とともにこれを知るといえども、士風維持の一方より論ずるときは、国家存亡の危急に迫りて勝算の有無は言うべき限りにあらず。いわんや必勝を算して敗し、必敗を期して勝つの事例も少なからざるにおいておや。然るを勝氏は予め必敗を期し、その未だ実際に敗れざるに先んじて自ら自家の大権を投棄し、ひたすら平和を買わんとて勉めたる者なれば、兵乱のために人を殺し財を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる瘠我慢の士風を傷うたるの責は免かるべからず」『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説(福沢諭吉著・講談社学術文庫)五七頁より抜粋』

 

 と福沢は勝の罪を語っている。だが、一方で「徹底抗戦すべきだった」とは福沢は決して言わないのだ。なぜならば、福沢自身もまた戊辰戦争で戦わなかった幕臣の一人なのだから。

 

 『福翁自伝』にはこうある。徳川慶喜が江戸城に帰還し、江戸城内が大騒ぎになった頃、福沢は江戸城に登って幕臣の加藤弘之と会う。福沢は……

 

 「今度の一件はドウなるだろう、いよいよ戦争になるか、ならないか、君達にはたいてい分るだろうから、ドウゾそれを僕に知らしてくれたまえ、ぜひ聞きたいものだ」「ソレを聞いて何にするか」「何にするって分ってるではないか、これがいよいよ戦争ときまれば僕は荷物をこしらえて逃げねばなくてはならぬ、戦争にならぬといえば落ちついている。その和戦如何はなかなか容易ならぬ大切な事であるから、ドウゾ知らしてもらいたい」『福翁自伝』(福沢諭吉著・講談社学術文庫)二〇四頁

 

 と主戦論者の加藤に吹っかけ、福沢自身は戦争になるなら自分は逃げると宣言している。さらに、上野戦争の際に慶應義塾で普段通り授業を行っていたことこそ、福沢諭吉終生の自慢として有名な話だ。『福翁自伝』にもこうある。

 

 「明治元年の五月、上野に大戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席も見世物もみな休んでしまって、八百八町は真の闇、何が何やら分らない程の混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業をやめない。上野ではどんどん鉄炮を打っている、けれども上野と新銭座とは二里も離れていて、鉄砲玉の飛んで来る気づかいはないというので、丁度あのとき私は英書で経済の講釈をしていました。だいぶ騒々しい容子だが煙でも見えるかというので、生徒らは面白がって梯子に登って屋根の上から見物する。何でも昼から暮過ぎまでの戦争でしたが、こっちに関係がなければ怖い事もない」『福翁自伝』(福沢諭吉著・講談社学術文庫)二一九頁

 

 と。福沢諭吉は、この年に幕臣も中津藩士であることも止めたが、少なくとも江戸城に登っている時点では幕臣の身分にいたはずだ。ならば、福沢の言う「こちらには関係がない」という立場ではない。ただ、福沢の認識ではもう「幕府や明治新政府など権力から距離を置き、教育と西洋学問普及に専念したい」という気持ちになっていた。だからこそ「関係がない」と言えたのだと思う。

 このように、幕臣だったはずの福沢自身が戊辰戦争を関係ないものだったという立場をとっていたのに、勝海舟批判のために「非戦を非難する」というのは筋が通らない。したがって、戊辰戦争における非戦論も抗戦論も福沢は否定も肯定もせず、自分のことは棚上げして、ただただ「瘠我慢(武士の意地)」を通さない態度は問題なのではないか?と問題定義のレベルで留めるほかないのだ。

 では、函館まで戦い抜いた榎本武揚に関してはどうだろうか。「瘠我慢」という武士の意地を通したという点に置いては、榎本武揚は最後まで戦っており、まったく戦わなかった勝や福沢よりもよほど武士らしい。

 福沢は『瘠我慢の説』のなかで、榎本を評してこう語る。

 

 「榎本氏の挙は所謂武士の意気地すなわち瘠我慢にして、その方寸の中にはひそかに必敗を期しながらも、武士道の為めに敢えて一戦を試みたることなれば、幕臣また諸藩士中の佐幕党は氏を総督としてこれに随従し、すべてその命令に従って進退を共にし、北海の水戦、函館の籠城、その決死苦闘の忠勇は天晴の振舞にして、日本魂(やまとだましい)の風教上より論じて、これを勝氏の始末に比すれば年を同うして語るべからず」『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説(福沢諭吉著・講談社学術文庫)六三頁より抜粋』

 

 と、榎本武揚の瘠我慢は天晴れだと福沢は語った上で、続けて「氏が放免の後に更に青雲の志を起し、新政府の朝に立つの一段に至りては、吾輩の感服すること能わざるところのものなり」と新政府に仕えたことに関して批判を加えた。福沢は、これでは榎本に従って戊辰戦争を戦い、戦死していった人々の思いはどうなるのか?。という点にある。彼らのことを思えば、榎本は敵たる明治政府に仕えることは拒否すべきだ。戊辰戦争で瘠我慢を発揮したのに、明治政府に仕えるというところで榎本は瘠我慢を発揮していないというのが福沢の主張であったと私は考える。

 

 つまり、福沢が勝と榎本を批判する理由は、新政府に仕えて立身出世、著名人になったことに対してなのだ。単純に見れば「二君に仕えたことへの批判」のように見えるがそうではない。福沢が言うところに従えば……

 

 「古来の習慣に従えば、凡そこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例もあれども、今の世間の風潮にて出家落飾も不似合とならば、ただその身を社会の暗所に隠してその生活を質素にし、一切万事控目にして世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ」『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説(福沢諭吉著・講談社学術文庫)六七頁より抜粋』

 

 ということだ。つまり勝や榎本は、普通の幕臣とは別格であり、幕府幕引きの責任者あるいは一軍の総大将つまり指導者やリーダーなのだから、徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜のように政治世界や世の中とは関わらず、一人ひたすら趣味に没頭して世と関わらないように生きるべきだというのが福沢諭吉の結論である。そうしてこそ武士の意地、福沢の言うところの瘠我慢を全うした武士だと評し、これを手本に後世の人々に瘠我慢の大切さ、個人の意地を通す生き方を広められる。今の政府高官に出仕した勝や榎本では、とてもこれからの日本人が見習うべき人だと言えないというのが福沢の主張するところだろう。

 つまるところ、武士道云々というよりも、福沢自身が明治維新を堺に幕臣を止め、中津藩士であることも止めたように、権力から距離を置くべきだというのが福沢の本心ではなかっただろうか。

 福沢の理想信念たる「一身独立して一国独立す」のために、福沢自身は権力から距離を置いた。対して勝や榎本はかつて敵だった勢力に仕える道を選んでいる。両人に対する福沢の不満はそこにあったと思える。なぜなら強者の権力にすり寄り迎合する姿に「一身独立して一国独立す」の理想はないからだ。

 王政維新後の日本人が目指すべき姿は、相手が強者であろうと屈することなく、対等に渡り合おうという意地なのだという啓蒙思想家たる福沢の思いがあったのではないだろうか。

 

 そもそも、江戸時代のポピュラーな武士精神「士道」は、忠孝の道や仁義礼智といった徳目を重視する精神だ。つまり、儒教道徳の精神が士道なのである。こうした儒教儒学を真っ向から否定し、糾弾したのが他ならぬ福沢諭吉であり、『学問のすすめ』のなかでも「天理に戻ることを唱うる者は、孟子にても孔子にても遠慮に及ばず、これを罪人と言いて可なり」と排撃した。

 そんな福沢が、儒教道徳に彩られた武士道・士道精神に縛られるはずがない。だからこそ、漢書にような「二君に仕えず」とか「忠義・忠孝」の賛美も『瘠我慢の説』にはないのである。だから私から見た時、『瘠我慢の説』は武士道の大切さを説く論文ではけっしてない。明治時代の日本国民の有るべき姿を示し、啓蒙するための論なのだ。武士階級の精神たる武士道そのものは不用だが、武士道のなかにある「意地」というものを通す信念は、明治に生きる日本人にも必要な精神と福沢は認めていたのである。だから「瘠我慢」という形で、人として意地を通す大切さを訴えたものではなかったか。

 ただし、これをもって「日本国民」とか「日本民族」の精神だという主張もまた福沢はしていないので注意して欲しい。『瘠我慢の説』の冒頭には、「立国は私なり、公に非ざるなり」とあるから、福沢は国家も私情で作られたもので、公ではないと語っている。だから『瘠我慢の説』のなかで、明治政府が叫ぶ「忠君愛国もまた日本国の私情だ」と喝破し、公とは一国だけでなく国際的に公であることだと語る。しかし、一方で忠君愛国は私情ではあるが美徳とする他ないとも語っており、帝国主義が席巻する明治時代の世界情勢のなかで、私情であっても国としての意地・瘠我慢の精神の必要性を説かなければならなかったところに、福沢諭吉の難しさがあったろうことは理解できる。

 

 こうしてみるとやはり『瘠我慢の説』は切れ味鋭い福沢の論文主張のなかで、切れ味がない論文というイメージだ。それは、武士の意地たる武士道を「瘠我慢」と評し、それを武士ならば守るべきだという主張は、儒教道徳への帰依にならざるを得ず、そうした儒学の主張は古くさいものだと打ち捨てて洋学普及に勤しんだ福沢諭吉の行動とは矛盾すると思えるからだろう。

 福沢自身もこのあたりはわかっていたようで、だからこそ敢えて勝海舟と榎本武揚に見せて意見を聞こうとしたのだろうし、両者の返答を聞いてからも発表は控え続けていた。そして、福沢自身の死期が近くなった明治三四年、弟子たる石河幹明のすすめに応じ同年一月に発表している。そして、発表直後となる明治三四年二月に福沢はこの世を去った。

 

 なお、余談になるが福沢諭吉が勝海舟を嫌うのは、自身の恩人たる木村芥舟と勝海舟の間に確執があったからだとするのが通説で、戊辰戦争での身の処し方が原因ではないとする見方が妥当である。