新田荘遺跡と梁田戦争史跡めぐり | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 昨日の事になりますが、研究家のあさくらゆう先生と共に新田荘園と戊辰戦争梁田の戦いに関する史跡を巡ってきました。

↑生品神社にある太平記時代の武将・新田義貞公の像。

 

 この新田庄園遺跡は、武士の発生に関係する「庄園」というものを理解する上で、どうしても行きたかった場所だったんですね。でも、駅から史跡までの距離が遠く、車を運転できれば問題はないが、徒歩でとなると行くのが難しい場所なのです。バスが走っているのも平日だけで、休日は運行していないという(泣)。

 そんなわけで、行きたくて仕方が無かったけど、なかなか行けない場所だったんです。

そんなとき、あさくら先生から「レンタカーを借りて、銃の射撃訓練をした後なら、車で新田庄園遺跡を巡れる」との提案を受け、思わず飛び付いたわけです。結果的に、幕末史が専門のあさくら先生を鎌倉&南北朝時代の史跡めぐりに付き合わせちゃった感じになってしまいましたけども。あさくら先生には大感謝です。そしてお疲れ様でした~。

 ということで、史跡の紹介などしていきたいと思います。

 

 まず、最初に立ち寄ったのがココ。「神道無念流戸賀崎氏練武遺跡」です。

 私は、あまり詳しくないのですが、神道無念流剣術普及に貢献した剣術道場跡だそうです。これはあさくら先生の研究領分となりますので、講演や論文などで、後日出て来るかも知れません。

 

 この後、射撃場へ向かいました。あさくら先生は「銃の免許を持っている人」なので、定期的に射撃訓練しないといけないらしいっす。本来は、こちらが目的で史跡巡りはついでという感じなのですが、何しろ私も戊辰戦争をテーマに記事を書くことも多く、実銃と実弾射撃の見学は勉強になります。でも、射撃時の轟音がすげぇ!。つか、あさくら先生の隣で打ち始めた人達の轟音の方がもっとスゲェ。耳栓が通用しないってどういう実包なんだ。とか、思いました。

 とはいえ、私も実弾射撃にくっついていくのは、これで三回目ぐらいですので慣れてきてたりしますが(苦笑)。

で、訓練が終わったあとは太田市に向かいます。ここに「国指定史跡・新田荘遺跡」があります。

 

 新田荘遺跡には、中世時代の庄園に関する史跡がまとまって残っており、全国的にも珍しいということで国指定の史跡に認定されています。この庄園を開発したのは新田義重という武士で、この人のじいちゃんが源義家です。そう、新田氏は源氏嫡流の名門だったりします。この新田庄のとなりに足利庄があり、やはり義重の兄弟である足利義康が開発領主でした。本来の名字は「源」ですが、それだとややこしいので領地の地名を名字にして、それぞれ新田と足利を名乗っています。

 ちなみに、この新田義重の息子に義季という人がおり、やはり名字を「得川」として得川義季と名乗ります。この義季が祖先だと言い出したのが戦国時代の武将松平元康で、後に改名して徳川(得川)家康を名乗ります。まー、血筋や家系が、本当につながっているのか、かわからんけどねぇ(苦笑)。私自身は、かーなーりー眉唾かと思ってたりします。

 

 ということで、前置きはこのあたりで終わりにして、早速史跡を見ていきましょう~。

まずは「矢太神水源」です。

 上記写真が説明看板となります。

 そしてここが湧水点となります。この水源の近くには古墳もあり、縄文人も暮らしていたことが解っているので、縄文時代から水が湧き続けていて、利用されてきたのではないかと言われています。

 そして、その歴史ある湧き水は、現代でもなお沸き続けている……ぽこぽこ……と!。これです!。これが見たかったのです!!。

ここで湧き出した水が、池を作り出し、そこから流れ出て川となる。

 湧水池から流れ出た小川です。石田川といいます。源流なので小川ですが、下流に行くと水量も増える。そして、この川こそ新田庄を潤した水源となります。前にも言いましたが、庄園の命は水です。水源です。でも、現代まで水源がそのまま保たれている場所は、ほとんど無い。川が水源なら、川は洪水などで流れ方を変えますし、湧き水なども地震などで水が湧き出さなくなったりするのが普通なのです。なにせ庄園時代は約1000年以上昔ですからなぁ。でも、この矢太神水源は今でも沸き続けている!。これほど貴重は史跡は他にはないのですわ!。

 そんなわけで、どうしてもコレを見なければと思い続けていたのですヨ。

 

 次に行った場所も水源です。

 こちらは「重殿水源」と言われています。こちらの水量はもう激減してますな(悲)。しかし、まだ水が溜まっているところを見ると、湧き出してはいるのでしょう。

 上記写真が、史跡案内看板です。1322年の『関東裁許状(正木文書)』によると、大館宗氏と岩松政経が「一井郷沼水」から流れる用水堀を巡って争いを起こしており、鎌倉幕府が裁定を下していることが解っています。この「一井郷沼水」とは、この「重殿水源」だと言われています。つまり、ここも庄園の水源として利用されており、現代でもまだ沸き続けているということになります。超貴重な史跡です。

 

 水源を見たあとは、やはり新田庄に来た以上、ここは見なければなりません。そう「生品神社」です。

 大河ドラマ「太平記」でも登場した武将、新田義貞が打倒鎌倉幕府を掲げて挙兵した場所がココです。冒頭にある「新田義貞公の像」も、この神社にあります。新田義貞が挙兵した時には、数百騎程度の兵力しかなかったのですが、鎌倉へ向かう途上で、やはり鎌倉幕府に反旗を翻した足利尊氏に従う武士団が続々と加わり、鎌倉攻めの時は数十万騎に膨れあがりました。そして、ついに鎌倉幕府は鎌倉を守り切れずに敗北し、鎌倉幕府は滅びます。

 しかし、この後は、源氏嫡流の座を巡り、足利尊氏と争うことになって敗北を重ね、滅びていくことになります。

 

 次の史跡は「反町館跡」です。

 上記写真が説明看板。中世の武家館跡となります。が、戦国時代に出城として改修されており、庄園時代の館跡そのままというわけではないのですが、それでも中世武家館の形をよく残しているということで見学しました。現在は、館跡にお寺が建っております。

上記写真が堀です。言わんでも見ればわかるか(苦笑)。戦国時代の改修や道路拡張開発などもあって、堀が大きくなっているらしいです。

中世の館の堀は、もっと小さく、掘り起こした土は、そのまま土塁の土盛りに利用されます。

 これが土塁跡です。館なので、形状も長方形です。単純に、館の周囲に長方形に堀をほり、土を盛っただけですね。でも、これが城の原型です。庄園時代の合戦は、戦国時代のように大量兵力を動員できない。せいぜい、一族や親戚だけが味方であり、敵も一族親類達程度の人数しか居ません。なので数十人程度ですね。なので、こんな単純な防禦で十分だったんです。

 大抵、敵が攻めてきた時に、こちらの援軍となる一族親類縁者が駆け付けてくるまで少人数で守れればいい。というレベルの代物でした。

時代が下り、武士団ができはじめると状況が変わります。一族親類縁者の他に郎党や同盟した武士たちが加わってくるので、兵力も数十人レベルから数百~数千騎に飛躍的に増える。となると、当然こんな長方形の館じゃ持ち堪えられない。なので、防禦するのに適した”山”に籠もろうということになる。せっかく山に籠もるなら、防御施設も山に作っておこうということで、山の尾根に堀切りを作ったり土塁を作っておいたりします。これが山城と呼ばれる城に発展していく。

 この反町館跡は、戦国時代に三重の堀を持つ城として増築されており、初期の武家館のままというわけではないのが注意点でしょうか。

 

 さて、次に行った場所も中世の武家館跡となります。

 史跡「江田館跡」です。ここも水源と並んで見たくて仕方がなかった場所の一つでした。ここも戦国時代に改修されたりしているのですが、その改修規模が大きくなく、築造当時の姿を比較的に保っている貴重な史跡なのです。

 説明看板を見て貰えれば解りますが、長方形のままの形をそのまま現代に伝えています。

 上記写真が、館跡の中心部です。大抵の城跡は、グラウンドやら学校やらお役所などが建てられてしまい、開発されて原型を崩されてしまうのですが、ココはナントそのまんまなのです!。草ぼーぼーな事からも、子供達が野球やサッカーで遊ぶ公園としての整備すらされていません!。館跡だからそのまま史跡として残そうという姿勢なんですよ。感動モノです!。

 堀跡の下から撮影。左側に土塁があります。形が長方形のままなので、堀も土塁も直線です(苦笑)。城のように複雑な構造も工夫もなんもなしです。でも、それこそが館跡なのです!。

江田館跡の入り口です。城だと大手門と言うところなんでしょうが、館跡なので館の「門」あるいは「木戸」跡としか言いようがない(苦笑)。そこには土橋が作られていました。敵が来たときは、この土橋を崩して、攻め込まれ難くしたりしたそうです。

 さて、余談です。初期の庄園時代の武士達は、上記にあるような荘園領主として、館に住み、水源を守り、庄園を守っていました。それは後の鎌倉時代にあった「一所懸命」の武士精神に結実していきます。が、この「自分の庄園を守る」ということはきれい事ではないんですね。

 「守る」なんて言うと、現代の日本の専守防衛的な考えを持つ人もいるかと思いますが、そうじゃない。庄園領主たる武士は、庄園から取れる米などの作物を資源に、武器や防具を整えて武装する。当時は武士も農民と大差ないのです。水が無ければすべてが滅んでしまう。だから、水は命でした。水争いもそうしたところから起こります。それだけでなく、その年の天候や気候不順でも農作物の不作が起きてしまう。洪水や台風といった自然災害が起これば、すべての資源の根本たる米や農作物が全滅してしまったりします。そうなると、来年まで農作物は収穫できない……。これは大打撃です。だから飢饉だって簡単に起こってしまう。庄園を耕作する人々が餓死すれば、休耕地が増えてしまって来年になっても農作物は減収です。じゃあ庄園を守るために、どうすればいいか?。そう、無いのであれば、他から持ってくれば良い。略奪です!。他者の庄園を襲い、武力で水や食料を奪う。それらを自分の庄園に持ってきて、生き残りをはかるのです。

 当時の武士は、庄園の守護者でもありますが、同時に不法な略奪者であり、盗賊団や山賊、海賊でもありました。一所懸命に自分の村や庄園を守っているといえば聞こえはいいですが、決して綺麗事では済まされないのが、「一所懸命」という武士精神です。

 

 以上、他にも見所も多い新田荘遺跡ですが、私の見たいところは見終わったので新田荘遺跡見学を終了しました。本当は、「新田荘歴史資料館」という場所もあり、そこで庄園に関するくわしい説明などが展示されているので見たかったのですけども、午後5時をまわっている時刻ですので、閉館しちゃっていて断念しました。

 そのかわり、この太田市のとなりにある足利市に移動して、戊辰戦争・梁田戦争に関する史跡を見学してきました。

 

 上記写真が、梁田戦争のあった例幣使街道梁田宿跡です。ここに来たタイミングで夕立が!(号泣)。地面が濡れているのは、そのためです。

史跡「弾痕の松」です。木の幹に流れ弾の砲弾がぶち当たったのだそうです。

木の幹に、でっけぇ亀裂が(苦笑)。これが砲弾の当たった跡らしいです。

長福寺にある「梁田戦争戦死塚」です。戦争直後に、地元の人々の手で作られたのだそうです。

同じく、長福寺にある「東軍戦死者追弔碑」です。

 

 梁田戦争は、まだちゃんと調べていないのであまり詳しくないのですが、古屋佐久左衛門が率いる旧幕軍が梁田宿で休んでいる隙を突いて、明治新政府軍が攻めかかり戦争へと発展した戦いとのこと。完全に新政府軍の奇襲が成功したようで、古屋の旧幕軍は敗北せざるを得なかったという展開なのかな。

 実は、私が興味をもっている武州金沢藩(六浦藩)が、参戦した唯一の戦いでもあります。武州金沢藩は、神奈川県の八景島あたりに陣屋を構える譜代の小藩です。しかし、北関東にも飛び地を持っており、藩士を派遣して統治にあたっていました。とはいえ、一万石前後の小藩ですから、家臣の数も100人前後しかいません。飛び地に派遣していた藩士も、行政担当で戦うためじゃなかった。でも、旧幕府軍が来て、明治政府軍も来ちゃった。来ちゃった以上は、挨拶ぐらいはしなきゃいけない。藩の方針も、一応恭順ということだったので、武州金沢藩士たちは、急ぎ農民を10人ほど掻き集めて火縄銃などで武装させ、明治政府軍に合流したという次第です。

 もちろん、武装は火縄銃で訓練もなにもしていない急造の一個小隊という感じ(苦笑)。明治政府軍の幹部達は思った事でしょう……「コレ、イラネ」と(苦笑)。

 そんなわけで、梁田戦争本戦には参加せず、後方の警備に当たっていました……つーか、荷物見張ってるだけの留守番的な感じ。

戦闘が終わり、追跡の段階で、武州金沢藩のこの部隊が、古屋隊追跡に駆り出されています。まー、主力の薩長兵は前日に戦ってますからね。休息も必要でしょうし。

 ということで、別段なにか大戦果をあげたわけじゃないんですが、一応、武州金沢藩も明治政府軍へ協力し、参戦した実績作りにはなったわけです。

 

 というところで、日も沈み真っ暗になっちゃったし、なぜか強烈な夕立にも襲われながら、帰路につきました。

いやぁ、いろいろと見所が多い史跡巡りで、私は大収穫でしたが、幕末史を専門とされるあさくら先生は大変だったかと思います。当日は37~38度に迫ろうかという熱波が来て、猛暑でしたからねぇ。

 あさくら先生、本当にお疲れ様でした~。そして、お付き合いいただきありがとうございました~。