大塚・歳勝土遺跡と勝海舟設計の神奈川台場跡 | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

会社が盆休み連休です。

この機会に行くべきところに行かねばなりません。

なので、今日も出撃!。そして二日連続でブログ更新なんて、普段はありえないことですが(苦笑)。

 

 行かねばならない場所とは、横浜市歴史博物館と横浜開港資料館です。今、ここで企画展「戊辰の横浜」をやっている。

実は、戊辰戦争時の横浜には六浦藩(武州金沢藩。明治維新後に六浦藩に改名。ここでは六浦藩で統一して記述します)が関わっているのです。この六浦藩の幕末・戊辰戦争は、まだ研究途上っぽくて明確に史料が世に出て来ない。

史料がまったく無いわけじゃなく、少なすぎるんですね。それでもいくつかの古文書が残されており、すでに寄贈されているという情報だけは知っておりました。

 私のやっているシリーズ同人誌『戊辰戦争の思想史』で、譜代大名の戊辰戦争時の行動から、武士道と士道の分離がどのような形で現れたのか考察するというテーマがありますが、当然、六浦藩もターゲットなのです。というか、小田原藩、荻野山中藩と考察してきましたので、これに六浦藩を加えると神奈川県にあった藩はコンプリートなのです。

 取材のほうもぼちぼちやってまして、例えば今年の正月に六浦陣屋の方に行ってたりします。

ヤ撃団ブログ記事→https://ameblo.jp/yagekidan/entry-12341510427.html?frm=theme

 

 あのときは、お正月と言う事もあって開港資料館とかは閉まってたので、展示も見ていなかったんですが(苦笑)。

まぁ、冬の新刊は新選組を予定していますが、『戊辰戦争の譜代大名』の調査もしていかなきゃいかん。しかも、企画展示が「戊辰の横浜」では、行かねばなりますまい。つーわけで、すっげぇ行きたかったんですが、コミケの原稿を仕上げてコミケで新刊を売った後でないと、どうにも暇がなかったのです(苦笑)。

 

 で、横浜市歴史博物館の方を見学してきましたが。すげぇっ!六浦藩(武州金沢藩)の戊辰時の動きが記された古文書とか、ばっしばしに展示してる~。目からウロコが何枚も剥がれ落ちます。

 

 展示を見終わったあと、ついでに歴史博物館の裏手にある「大塚・歳勝土遺跡」も見学しました。

 弥生時代の集落跡がまとまって出土した遺跡です。

 

 集落の周りは、 このように空堀が掘られ、木の杭を何本も突き刺した柵が設けられてました。対人間用であると同時に野犬や熊が村の中に入ってこないように対策されたんでしょうなぁ。後に、これが中世武家館のように四角型になり、城とよばれていく防御施設に発展していくのでしょう。

 歴史博物館の展示も撮影して、ブログに載せていいということでしたので(注:ただし注意事項はある)、遠慮無く弥生時代の武具などを撮影しておきました。

弥生時代の鎧っす。鉄板を巻いた感じ?。

鉄製の剣とか矛とか。鏃もありますかな。

当時は、当然歩兵でございます。

時代は下りますが、奈良時代や平安時代初期の律令体制の頃は、まだ歩兵の徴兵制。

これが東北の蝦夷に勝てない。全然勝てない。蝦夷は馬上で弓を撃ってくるのです。

歩兵が剣をもって走って行っても馬には追いつけず、蝦夷はアウトレンジから弓ですから、勝てる道理が無い。

結局、武力制圧を諦めて融和策に切り替え、従ってきた蝦夷を坂東(関東)に配置した。これが坂東武士の元になります。

なので、馬に乗り弓を射る武士が誕生すると。初期の武士の闘争方が「射騎戦」なのは、そういう訳だったりします。

 

 上記写真が墓地遺跡です。集落のすぐ横に墓地遺跡もあり、集落と墓地との関係が良くわかる珍しい遺跡ということで「国指定遺跡」になっているとか。

 

 墓地を掘ると、こんな感じで棺桶があったそうです。

 

 ということで、弥生時代の遺跡を楽しんだあと、歴史博物館の方に戻って六浦藩に関する資料を探してみました。この博物館には図書室が併設されているので、そこで非売品の為に稀覯本になっている六浦藩の資料『武州金沢藩の流転と終焉(森谷欽一著)』を発見!。

 この本こそ、六浦藩の幕末と戊辰に関する先行研究なのです!。どこの図書館にも所蔵されてなくて、見れなかった本だ!。大急ぎでコピー申請し、六浦藩の幕末から戊辰、明治ごろまでの考察部分をコピーしました。

 さらに売店の方に行ってみると……『武州金沢藩(六浦藩)関係史料集Ⅰ』と『武州金沢藩(六浦藩)関係史料集Ⅱ』(共に横浜市歴史博物館発行)が売られている!。もう絶版で手に入れられないと諦め、県立図書館の方でコピーしてた史料です。まさかピッカピカの本で買えてしまうとは!(号泣)。もう、大収穫でございますよ~。

上記写真が、六浦藩に関する手に入れた史料群。この後、横浜開港資料館へ。そちらの展示を見たあと、せっかくなので横浜外国人居留地をウロウロと(苦笑)。いや、正月にも行っているけども。

 

旧英国七番館とか。

 旧英国壱番館後とか。「ジャーディン・マジソン商会」があったところです。横浜開港資料館の目と鼻の先にあったりします。

しかし、前にも回っているので、同じ所を見てもなぁと思い、横浜近辺で興味のある史跡で、まだ行っていなかった「神奈川台場跡」を見に行くことにしました。

 

 京急神奈川駅を下車し、てくてくと歩いてくと「台場公園」という小さな公園があります。そこが「神奈川台場跡」となります。

 上記写真が、公園にある「神奈川台場」の説明看板です。この台場の設計は、勝海舟だったりします!。

ただ、もう埋め立てが進んでおり、ほとんどが陸地で当時の面影は何も無い。けど、辛うじて石垣が露出しているところがあるということで。

 

 公園を出て、しばらくいった所に石垣露出部分があります。

上記写真が石垣露出部分になります。

 

さらに、すっげぇ遠回りなコースを歩き、星野町公園に行くと、そこにも遺構が露出しておりました。

 柵で、近くに行けないようにしているのは史跡保存のためなんだろうなぁと。

さらに、公園の最奥部には、このような石垣がありました。

 たぶん、これも遺構だと思う。入り口の門が閉鎖されており、これ以上近寄ることができません。やはり、史跡保護のためでしょう。というのも、調査の結果、この神奈川台場は、丸ごと埋まっているだけで破壊されていないらしいのです。つまり、掘れば当時のままの遺構が丸ごと出て来ると。発掘調査の後、よく埋め戻して史跡を保存するんですが、この台場の場合は発掘してないけど埋めてます的な感じになっているらしい(汗)。

 

 んで、近くにカフェを兼ねた資料館があるのですが、今日は定休日で開いてませんでした。が、その横に遺構を掘って見れるようになっていたので、そこも撮影しました。

こんな感じで、石垣の断面を見る事ができます。丁度、横浜港の防波堤「象の鼻」と同じ構造っすね。品川台場も同じ作りなのかなぁ。今度、ハゼ釣りに行った時に確認してこようと思います。

 

 という感じで、今日の史跡巡りは終わりました。暑かったし疲労し過ぎでしたが、収穫は絶大でした。今日は、うはうは~気分で良い夢が見れそうです。