前回の『古屋家家譜』に見える安牟須比命からの考察 | 久米の子の部屋  (ameblo.jp) で、埴安神と安牟須比命との関係について考えてみました。


今回は、静岡理工科大学 名誉教授の矢田浩氏の「宗像神信仰の研究」に、埴安神についての興味深い考察を見付けましたのでご紹介します。

 

むなかた電子博物館(むなはく)|宗像市がもつ魅力を歴史・文化(民俗・芸術)・自然をテーマにデジタル集積 (munahaku.jp) の紀要のページに収められたものなのですが、なかなかのボリュームです。

 

「宗像神信仰の研究(1)  宗像神を祭る神社の全国分布とその解析」は、むなかた電子博物館 紀要 第7号 | むなかた電子博物館 (munahaku.jp) 2016331日発行からダウンロードできます。

 

けれど、ざっと見た感じでは、埴安神について書かれていないようです。

 

ちゃんと読んでいない理由は、矢田浩氏の埴安神に対する考えを私が理解出来、そして宗像神についての情報が必要になってから拝読した方が良いように感じたからです。

 

私が検索のおかげで出会えた考察は、

むなかた電子博物館 紀要 第8号 増刊 | むなかた電子博物館 (munahaku.jp)

「宗像神信仰の研究(2)

北部九州の宗像神と関連神を祭る神社の解析」の中にありました。

※第 8 号の発行日は2017 3 31

 

まず、「概要」を引用します。

 概要 主として神社庁公表の全国神社データに基づき北部九州における旧郡毎の宗像神および関連神を祭る神社の祭神分布を調べた。宗像神は宗像郡から豊前・豊後に到る東部地域と、松浦半島から有明海に到る西部地域とに高密度で祭られている。両地域の間には玉依姫と埴安神を祭る神社が集中するベルト地帯があり、宗像神およびその東部分布域に高密度で祭られる水神 龗(おかみ)神のベルト地帯とは統計学的に有意な棲み分け関係にある。これら分布域の起源は、弥生時代に遡ると推定された。九州北方海域の宗像神分布から、朝鮮半島から日本列島に到る古代通商路として、沖ノ島を経由するムナカタルート1と、壱岐を経由するムナカタルート2(佐賀県経由有明海方面と西海方面へも分岐)が推測される。三女神のうち市杵島神は、特に高密度で祭られている遠賀郡域にルーツがあるように見える。このことから地名ムナカタの語源についての新説を提出した。

他の二女神のルーツについても予備的考察を行った。

(引用終わり)

 

今度は15コマから引用します。

2)オカミベルトと埴安ベルトとの対峙

 次にオカミ神と埴安神の分布を、図 10 に示す。図 9 と同様、この両神ははっきりした棲み分けの関係にあることが分かる。


 

 オカミ神は、宗像郡から始まり、国東半島および直入郡に到る連続した「オカミベルト」を示している。

特に遠賀郡から宇佐郡に到る地域の分布が濃厚で、豊前地方に信仰の中心があるように見える。


 

 一方埴安神は、糸島半島から上座郡に到る連続した「埴安ベルト」を形成している。分布の中心は、那珂郡から夜須郡の辺りにあると見られる。このベルトは、オカミベルトと接していて、ほとんど重複しない。唯一の例外は、両社が 5%以上祭られる旧嘉麻郡である。

 

(引用終わり)

 

埴安神を祀る神社が、夜須郡に多いということに驚きました。

 

 

『古屋家家譜』に見える安牟須比命からの考察 | 久米の子の部屋  (ameblo.jp) でも引用しましたが、宝賀寿男氏の著書『大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門』の「三 神武創業と道臣命の活動」の57ページに、次のように書かれています。

(前略)

 ところで、山祇族の遠祖神たちはどこに居たのであろうか。可能性として考えられるのは、「安牟須比命」の「安」が居住地と関係がある場合には、筑前国夜須郡(福岡県朝倉郡筑前町あたり)であろう

(後略 引用終わり)

 

・・・ということは、安牟須比命と埴安神とを関連付けた拙記事は、まんざらでもない、ということになるのでしょうか。

 

それから、「埴安ベルト」が糸島半島から形成しているという点が気になりました。

 

糸島には、「久米」地名があります。

 

聖徳太子の弟、来目皇子に由来する地名だと言われていますが、福岡神社参拝帳 (jinja-sanpaicho.com) のおかげで、糸島市志摩野北3173の埴安神社の鎮座地が、かつては糸島郡野北村大字野北字久米だったことが分かりましたので、グーグルマップで見てみました。

 

埴安神社が隠れていますので、右下にスライドしてください。

 

グーグルマップによると、埴安神社と来目皇子を祀るとされる久米神社は、徒歩2分、150mしか離れていないということで、驚いてしまいました。

 

この二社の関係について書かれたものはないかと国立国会図書館デジタルで検索してみましたが、今のところ見つかっていません。

 

ヤフーで検索すると、平成2531日発行の「いとしま№76」のpdfが見付かり、大きな箸を贈り新婚を祝う行事が、久米神社と埴安神社の氏子によって受け継がれていることが分かりました。

 

「久米の一つ井」というのもあり、久米の一つ井 (fukuoka-good.com) のおかげで、「正月の若水、またお盆の仏様に供える水として、野北中の人が汲みに来る。この地域では有数の井戸であった。」、というような情報を得ることができました。

 

食と水を大切にする・・・。

まいまいず井戸と久米の関係について | 久米の子の部屋  (ameblo.jp) などにも書いてきた久米らしさを感じます。

 

 

「埴安神社 久米神社」で検索して見付かったブログに来目皇子の久米神社 | 筑前由紀のプチトリップ (ameblo.jp) があります。

 

 

次のように書かれていて、はっとしました。

 

来目皇子は河内国の埴生山ってところに葬られたらしいので、何か関係あるのかも知れない。

 

ないかも知れない。

 

ちなみに、こちらの記事の最後の方で拙ブログが紹介されており、ありがたいことなのですが、眠気が吹き飛ぶくらい驚きました。

 

 

河内国の埴生山については来目皇子 - Wikipedia の「略歴」にも書かれていますので、引用します。

推古天皇10年(602年)2月に任那を滅ぼした新羅に対する新羅征討計画が立てられた際、征新羅大将軍として軍25,000を授けられる。4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営したが、6月に病を得て新羅への進軍を延期とした。征討を果たせぬまま、翌推古天皇11年(603年)24日に筑紫にて薨去。周防の娑婆(遺称地は山口県防府市桑山:桑山塔ノ尾古墳参照)に殯し、土師猪手がこれを管掌した。

 

河内国埴生山(はにゅうのやま)岡上に葬られた。現在、墓は大阪府羽曳野市はびきの3丁目の塚穴古墳(方墳・一辺約50m)に比定され、宮内庁の管理下にある。

(引用終わり)

 

土師猪手が気になったことで、国の史跡となっている土生(はぶ)遺跡が、佐賀県小城市三日月町久米字土生にあることを思い出しました。

 

 

三日月町は、むかしは甕調(みかつき)郷とよばれ、土師部が住んで甕などをつくり朝廷に献じていたのだそうです。

郷土資料事典佐賀県・観光と旅 (県別シリーズ ; 41) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 33コマ参照

 

 

三日月町久米の土生遺跡と久米神社の間には、「鬼滅の刃」ファンにとっての聖地になっているという神在神社が鎮座しています。

 

境内由緒書きを、神在神社 (komainu.org) からお借りします。

28代宣化天皇の2年壬辰(572)征新羅将軍に任ぜられた大伴連狭手彦は、新羅遠征と任那・百済救援の成功と渡海の安全を為すため都(奈良県高市郡)より七世の神(國常立尊・伊弉諾命・伊弉冊命・瓊瓊杵命・彦火火出見命・保食命・大己貴命)を勧請し、当地に神社を建立したのが神在神社の始まりとされています。最初は牧の天神山に在って勝れた神徳に人々が集まり村ができ、盛んに信仰されました。しかし戦国時代となり激しい戦乱のなかで祭りは途絶え社殿は荒廃し、神社の古いいわれを知る人も僅かになりました。

戦乱が終わり平和な世の中になった、寛文4(1664)識者と村の有力者が、小社を今の宮所神在に建立しました。更に宝永4(1707)古屋敷に在った社殿などを再建し、相殿左に菅原神を祀り右座に六柱天神を祀りました。また野崎の天神山に祀られていた、埴安命も合祀して現在の神在神社の姿になりました。

(引用終わり)

 

来目皇子と同じく征新羅の将軍に任ぜられた大伴連狭手彦が建立した神社は、はじめは牧の天神山に在ったということですが、グーグルマップでは示されませんでした。

 

鬼滅の刃で人気!糸島「神在神社の神石(しんせき)」 | 糸島ゲストハウス 前原宿ことのは (itoshima-guesthouse.com) には、「神在神社保存会によるパンフレットによると、もともと神在神社は、現在地から北に約1kmほど進んだ、牧の天神山にあったようです。」と書いてくれています。

 

それから、以前、「古屋敷」から繋がる神社や遺跡など。 | 久米の子の部屋  (ameblo.jp) という記事をアップしましたので、「古屋敷に在った社殿などを再建」という点が気になりました。

 

調べてみると、前原市教育委員会による「神在 藤瀬家住宅. 副書名 : 前原市神在藤瀬家住宅解体に伴う学術調査報告」というpdfが見付かりました。

9コマから一部引用します。

(前略)

神在の集落は北方の小字古屋敷から長野川の氾濫を避けるため移転したと伝えられる。これを記した史料は未見であるが、古屋敷には古井戸が残され、集落が存在した可能性は高いと見られている。

(後略 引用終わり)

 

ラインの信憑性を高めるために、適切な地点を見付けたかったのですが、やはり現在の神在神社の鎮座地をグーグルマップに入れて、志摩野北の久米神社と三日月町久米の土生遺跡とを見てみます。

久米神社が隠れていますので、地図を右側にスライドしてみてください。

 

彦岳を通過していることから、このラインが偶然の産物ではないと私には思えます。

 

今度は、グーグルマップで表示される経緯度を、地図に複数住所を一括表示 | しるしーず (tizu.cyou) に入れてみます。

 

1,久米神社、福岡県糸島市志摩野北3262

33.60679954322295, 130.16728722054648

2,神在神社、福岡県糸島市神在801−1

33.53451289886868, 130.17437898119718

3,彦岳、 佐賀県佐賀市富士町大字鎌原

33.34155135070041, 130.1953022231884

4,土生遺跡、佐賀県小城市三日月町久米2488

33.27618738496801, 130.20042926569067

 

 

小城市:小城市の文化財(考古資料) (ogi.lg.jp) の「土生遺跡出土木製品」の項によると、「この朝鮮半島とのつながりは土生遺跡の性格に特徴づけられます。」とのことです。

 

上の地図に出来たラインと関係は無いかもしれませんが、征新羅大将軍 - Wikipedia の「任官者」の項の「大将軍・将軍」を引用します。

・境部摩理勢(実際に新羅へ赴任せず)

・来目皇子(将軍、実際に新羅へ赴任せず) 

・当麻皇子(将軍、実際に新羅へ赴任せず)

・中臣國

・境部雄摩侶

 

境部摩理勢 - Wikipedia によると、「摩理勢は来目物部伊区比なる者に絞殺されたという」。

 

中臣國は、何故か中臣国子 - Wikipedia には書かれていませんが、母親が山部歌子の娘である那爾毛古娘。

つまり、伊予来目部小楯(または山部小楯)の子孫です。

 

伊予と来目皇子との関係は分かっていないようですが、兄である聖徳太子と山部との関係は、空海と斉明天皇、そして大伴(久米)氏について | 久米の子の部屋  (ameblo.jp) で引用した木下密運氏著「佐伯氏と阿刀氏の接点() ―空海生誕の歴史的背景― 」に、「伊予久米郡の久米氏 = 山部連—大和国夜摩郷—法隆寺という一連の繋がり」とあることから、私も強いものであったのだろうと想像しています。

 

来目皇子の名前は、乳母の氏族を示していることが考えられますが、蘇我氏系の久米朝臣、柿本(丸邇)氏系の久米臣かもしれず、(調べても意味が無いかもしれない)と私も触れないようにしてきました。

 

ところが、愛媛県の松山市教育委員会が2024315日に発行した「久米高畑遺跡 国庫補助市内遺跡発掘調査報告書」の100コマから「(2)征新羅将軍久米皇子の九州遠征」として、次のように書かれています。

 久米官衙の成立、特に政庁の成立時期を検討するうえで、この来目皇子の存在は重要である。皇子の名が乳母の出身氏族や、皇子の扶養を任された氏族に由来する可能性が指摘されるからである。本書では、601年に皇子が筑紫に向かう途上、縁のある伊予の久米の地に立ち寄ったのではないかと想定する。受け入れ先として建設あるいは改築された施設が、久米官衙政庁であったのではないか、と考える。

(後略 引用終わり)

 

続いて、110コマの「(9)久米評創設と久米郡の展開」から引用します。

(前略)

 久米官衙政庁は、人家の少ない湯評北部南辺の微高地(傍系久米直の拠点)に、聖徳太子の来訪を契機として建設された。その後、来目皇子の行軍に際して、前線基地として受け入れたことが、その後の舒明・斉明の伊予行幸と後の立評に繋がっていくのである。

 なお、湯評から傍系久米と浮穴を分離することは、久米直に対する制裁と捉えるのではなく、傍系久米直と浮穴氏に対する論功行賞の結果であったと考える。勢力を分断されたかにみえる湯郡の久米直宗家に対しては、760年ころまでに、伊予郡の北部を湯郡に編入することで手当されたと考えられる。

 日野が指摘する小野川北岸(余戸)への出口を得ただけでなく、旧石手川の河口一帯へ続く広大な可耕地を編入できたことの意義は大きかったにちがいない。旧石手川の河口地帯は、おそらく熟田津の一角を占める重要な場所ではあったが、このころまでに砂の流入によって港湾機能が低下し、かつて果たした西瀬戸内の拠点としての地位を失っていたと思われる。したがって、このときの郡境の変更は、湯郡が失った財政基盤を強化する目的が主であったと考える。これによって、湯郡は平野部の西半部に、南北約33町幅の郡城を確保することができた。

 また、この時、伊予郡東北部を久米郡に編入することで、近世まで続く道後平野の五郡境が確定するのである。これによって久米郡は、伊予豆比古命神社(通称、椿さん・女神)とその周辺の重要な土地(石井郷)を取り込むことに成功した(第52図)。前掲日野論考(『第136集』)によると、田部の活躍が想定されている。なお、この神社は久米郡内で唯一の「式内社」である。古来、来住地区に住む人々が、この神社の氏子を務める習わしで、秋祭りで神輿を久米八幡神社に程近い御旅所に一時ほど留め置く「神輿渡御」は、男女の神を年に一回逢わせるために、このような形態の祭になったと言い伝えられている。

(後略 引用終わり)

 

※「第 52 図 久米郡域の拡大」は108コマにありますが、拙記事では転載していません。

 

760年ころまでに、伊予郡の北部を湯郡に編入することで手当されたと考えられる。」という推論は、もしかしたら、天平勝宝4年(752年)に、宇佐より神霊を勧請し久米八幡宮として建立したことと関係があるのでしょうか。

 

と、ここまで書いて、(もし、私の仮説が正しかったなら、伊予の久米直の勢力範囲で埴安神が祀られているはずなのでは?)と思い付きました。

 

ところが、ここぞという神社が見付かりません。

 

(伊予豆比古命神社で祀る愛比売命に遠慮したのだろうか?)と想像しながら検索を続けていると、見付かったのが、川瀬久美子氏著「松山市垣生地区の地名と災害リスクに関する一考察」のpdfです

 

9コマ目に「表1 全国の『はにゅう・はぶ』地名 」があったり、10コマ目で佐賀県小城市土生について書かれていたりで興味深いのですが、「久米」については触れていないようです。

 

けれど、「久米高畑遺跡 国庫補助市内遺跡発掘調査報告書」から拙記事への引用を見直していると、旧石手川の河口一帯について書かれていることが、松山市垣生地区と久米とを繋いでくれるような気がしました。

 ※「松山市垣生地区の地名と災害リスクに関する一考察」の2コマ目からお借りしました。

 

 

話があちこちしましたが、拙記事の終わりに、話を矢田浩氏の「宗像神信仰の研究」に戻します。

 

むなかた電子博物館 紀要 第9号 増刊 | むなかた電子博物館 (munahaku.jp) からダウンロードできる発行日:2018 3 31 日「宗像神信仰の研究(4) 宗像と宇佐の女神、そして卑弥呼 [付編]魏使の邪馬台国への行程」の20コマにも、「 5.2 四国に伸びた『埴安ベルト』があるなど、興味深いことが色々書かれています。

 

私にとって特に興味深かったのは、3435コマの「7.5 殉葬から見える卑弥呼の出自」でしたので、全文引用します。

 「倭人伝」で卑弥呼の死後に100人以上が殉死したという記事は、卑弥呼一派がかなり北方からの渡来人であることを推測させる。朝鮮半島でも3世紀の金海市の大成洞古墳群から殉葬が始まる。それまでは殉葬の習慣はなかったので、北方民族による王権簒奪があったことと考えられている。前記朴天秀 [35]は、扶余からの侵攻を考えている。

 

 この記事以前の日本には、はっきりした殉葬の証拠は見あたらないようである。朝鮮半島中南部の文化を取り入れた弥生文化には、殉葬の慣習はなかったと思われる。卑弥呼の一族は、北方系の慣習を持つ地域の出身と考えられる。

 

 この時期以降殉葬の慣習が継続していたことは、『書紀』の垂仁天皇32年に皇后の死に際して天皇が野見宿弥の進言を容れて埴輪を以て殉葬に代えさせた記事から窺うことができる。

 

 亀山で発掘された石棺からは顕著な副葬品の報告はないので、卑弥呼の墓の本体はまだ発掘されていないと考えられる。従ってこれらの石棺は殉葬者のものであった可能性がある。

(引用終わり)

 

 

垂仁天皇は「常陸国風土記」に伊久米天皇と記されていますが、編纂者に比定されることもある藤原宇合は久米若女を妻にしています。

 

二人の子供である藤原宇合は、山部親王(桓武天皇)の立太子を実現しましたが、山部親王の母方の祖母は、土師真妹です。

 

土師氏 - Wikipedia によると、野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」と土師臣姓を賜ったと日本書紀にあるが、野見宿禰による埴輪発明の伝承は考古学的史実と一致しないことから、後世に土師氏が創作したものとみられのだそうです。

 

もし、垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」と土師臣姓を賜ったことが土師氏による創作だとすると、それは、「久米」との近さを主張するためのような気がするのです。

 

何故ならば、備前国邑久郡土師郷一帯は、「大伯郡土師里」と呼ばれていたとのことですが、大伯国造は吉備海部直か佐紀足尼か? | 久米の子の部屋  (ameblo.jp) にも書いたように、諸系譜2冊 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)に収録されている「波多門部造」105コマには、大久米命の子孫である佐紀足尼が、軽島豊明(応神)朝において備前国邑久郡の大伯国造に定められたことが記されています。

 

邑久町の沿革 - 瀬戸内市公式ホームページ (setouchi.lg.jp) 「名前の由来」の項に、次のように書かれています。

(前略)

6世紀ごろ、今の岡山県東南部を治めていた豪族が「大伯国造(おおくのくにのみやつこ)」でした。その勢力範囲が邑久郡となるのですが、 和気郡などももとは邑久郡の内だったと考えられています。邑久郡は当初、まさに広大な郡だったのです。

(後略 引用終わり)

 

 

大伯国だった場所のどこかにポインターをおいて地図を見ることを考えているときに、甲山(岡山県瀬戸内市)の最新登山情報 / 人気の登山ルート、写真、天気など | YAMAP / ヤマップ のおかげで、次のことを知ることができました。

甲山(こうやま)は岡山県瀬戸内市にある、標高163mの山。長船町土師地域では古代から稲作や土師器の生産が行われており、この地域の人々が信仰の中心として崇めていた山ともいわれる。甲山は「神山(こうやま)」とも表現される。

(後略引用終わり)

 

地図で甲山の位置を確認し、香川県高松市東山崎町の久米の地と南北にあることに気づきました。

 

そして、線で結んだ延長上には、近畿以西の西日本では2番目の高峰である剣山があります。

 

甲山が隠れていますが、右に少しスライドすれば出てきます。

直線で繋がることは、定規などでご確認ください。

 

大成洞古墳については、朝鮮から渡来した神と久米との関係についての妄想 | 久米の子の部屋  (ameblo.jp) にも少し書きました。

 

金海大成洞古墳群 - Wikipedia の「被葬者とDNA解析」の項によると、

2022年、韓国ゲノミクスセンター、蔚山国立化学技術研究所などの協力を得て、オーストリアのウィーン大学が行った研究"Northeastern Asian and Jomon-related genetic structure in the Three Kingdoms period of Gimhae, Korea(『韓国金海の三王国時代における東北アジアと縄文人に関連する遺伝子解析』)"では、朝鮮半島南部金海市に位置する大成洞古墳の伽耶王の王陵[3]から出土した被葬者の人骨を検査したところ、伽耶王と思われる陵の墓主が縄文系のY染色体ハプログループであるD-M116.1D1a2a1)に属し、家臣とみられる殉葬者が弥生系のハプログループO-PH40O1b2a1a2a1b1)に属する男性らであることが判明した。

(後略 引用終わり)

とのことです。

 

矢田浩氏のご考察は、最新の研究結果を得て、どのように真実に近づいていくのでしょうか。

拝読する機会を得たいものです。