約2年半前、大伴系の系譜『古屋家家譜』について | 久米の子の部屋  (ameblo.jp) という記事をアップしました。

そのときは、溝口睦子氏によって「古伝を正確に伝えた秀れた史料である。」と評価される大伴系の系譜『古屋家家譜』を、溝口氏の著書『古代氏族の系譜』から一部お借りしました。

 

今回は、送信サービスを利用すると、甲斐国一之宮浅間神社誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 146コマから『古屋家家譜』が拝見できることが分かりましたので、ご報告いたします。

 

『古屋家家譜』について、宝賀寿男氏は、『大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門』の1314頁で次のように紹介しています。

「鎌田純一氏執筆の『甲斐国一之宮 浅間神社誌』が昭和五四年(一九七九)に刊行されて、その史料篇に社家系譜(『世系略譜』『古屋家家譜』『降屋家系譜』の三編)が掲載された。それが佐伯有清氏の目にとまって、その大著『新撰姓氏録の研究 考証篇第三』(一九八二年刊)のなかで、『古屋家家譜』のはじめのほう天長年間(八二四~八三四年)までの部分が転載・紹介されている。この系図が田中卓博士や溝口睦子氏らから研究されて比較的信頼性が高いものと評価され、大伴氏の系譜と氏族研究は新たな展開を迎えた。だから、この『古屋家家譜』を踏まえた検討かどうかにより、内容的に随分違いが出てくる。

(引用終わり)

 

 

『古屋家家譜』に記されていることで最近あらためて気になったのが、香都知(カグツチ)命の二世代前が高皇産霊尊、一世代前が安牟須比命となっていることです。

 

 

 

カグツチ - Wikipedia の「神話の記述」の項の冒頭には、次のように書かれています。

神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた神である。火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死去。その後、怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で首を落とされ殺された。

(後略 引用終わり)

 

 

ところが、“久米”について調べ始めたときに出会った古代氏族研究会公認HP『古樹紀之房間』(宝賀寿男氏が会長)の「上古史の流れの概観試論」wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/joukosi-nagare.htmには、次のように書かれています。

(1)日本列島(倭地)の形成が概ね一万二千年超ほど前のこととして、その前後ころから大陸方面から来た原日本人がはじめ居住していたことが考えられる。この主体を縄文人とか「山祇族(やまつみぞく)と呼ぶとして、わが国では狩猟・漁労、焼畑農業をしていたものであろう。
  この種族は、いまのクメール族(カンボジア人)や中国古代の三苗とか苗族と呼ばれる種族、ないしはチベット・ビルマ人や羌族と呼ばれる種族に類似の要素が見られ、本来、アジア大陸の北方や西方に居住していたが(いわゆる北狄西戎)、次第に南方にも居を移して、中国古代の南蛮と呼ばれるものの主力をも構成していたものとみられる。この後裔諸氏の多くは、『姓氏録』では神別の天神に属したが、中臣連や大伴連・久米直・紀伊国造などを代表とする。後ろでも述べるが、月星信仰犬狼トーテミズムが見られる傾向がある。

(中略)

山祇族については、これほど明確ではないが、その特徴としては、火神迦具土(カグツチ。火産霊神、香都知命)・天石門別命(同名異神があり)・天手力男命・多久豆魂命、武甕槌神、九頭竜神、淤加美神、丹生神などを祖神として奉斎。犬狼信仰・月神星神信仰が見られ、山部・久米部・佐伯部などがある。なお、「安」の地名は、山祇族にも関連する。

 なお、巨石信仰は、どの種族にも多かれ少なかれ見られるので、要注意も、主に天孫族にあったものか。

(後略 引用終わり)

 

私は、神話はファンタジー的要素が強いと思っていましたし、そもそも、日本の神々や古代史についての知識がほとんど無い状態でしたので、(こういう見方があるのだ)という程度に受け止めていました。

 

なので、今回、カグツチについての知識を持つ必要を感じながらも、とりあえずカグツチ - Wikipedia から見てみるか、という程度だったのですが、冒頭に次のように書かれているのを見て、『日本書紀』と『古事記』を自分で読む必要を感じました。

 

カグツチとは、記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ほのやぎはやをのかみ)・火之炫毘古神(ほのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される。

(引用終わり)

 

「軻遇突智」という表記から、私は車の衝突事故を連想します。

父であるイザナギによって殺されてしまうという酷さと相まって、カグツチについて調べる気になれない原因になっていたように思います。

 

ところが、「火産霊(むすび)」という表記には温かさがあり、高皇産霊尊との同族関係にも納得できます。

 

この違いの理由を知りたくて、学生のときに購入した索引付き『古事記』を引っ張り出しました。

そして、『日本書紀』は、世界聖典全集 前輯 第1- 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 13~1517コマをプリントアウトしました。

こちらは、インターネット公開(保護期間満了)ですので、軻遇突智についての最初の記載をコピペします。

※「は、本の元の持ち主が書き加えたもののように思います。

 

上の画像は、「『日本書紀』巻一(神代紀・上)第五段・第二の一書」の最後の方なのですが、なんと、軻遇突智は埴山姫(ハニヤマヒメ)と結婚し、稚産霊(ワクムスヒ)を生んだというのです。

稚産霊(ワクムスヒ)は頭上に蚕と桑が生じ、へその中に五穀が生じたといいます。

人間の生活を豊かにしてくれた神だというのに、『日本書紀』における登場はワクムスビ - Wikipedia によると、ここだけのようです。

 

土の神である埴山姫(ハニヤマヒメ)は、第六書には埴安神(ハニヤスノカミ)と記されています。

山が安(ヤス)へと変わっているのですが、『古屋家家譜』においては、カグツチの親が安(ヤス)牟須比命であることから気になりました。

 

第六書において、埴安神(ハニヤスノカミ)は軻遇突智より前に生まれていますし、神話の時代の出来事ですから、親子を夫婦のように伝えたり、その逆もあり得ると思うのですが、偶然の一致なのでしょうか。

 

ハニヤス - Wikipedia によると、埴山姫または埴安神は第六書までしか出てきていないようです。

 

第六から第八の一書において、イザナギは火の神カグツチを斬り殺したことが記されていますので、『日本書紀』において二神の婚姻は否定されてはいないように思います。

 

ちなみに、世界聖典全集 前輯 第1- 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) では第八の一書は抜けています。

たまたま、国文六国史 第1 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 18コマをプリントアウトして見比べていたので気付けたのですが、こういうこともあるのだと冷汗をかきました。

 

埴安神と安牟須比命との関係を考察された方をインターネットで検索してみましたが、今のところ見付けることができないでいます。

 

けれど、『古屋家家譜』に香都知(カグツチ)命の子孫として記される道臣命が、埴安、高皇産霊尊、カグツチと共に、のちの神武天皇の天神地祇の御親祭を記すシーンに重要な役割で登場しています。
 

「香都知」という表記からは、「軻遇突智」に比べると随分と柔らかい印象を受けます。

 

火之迦具土神 – 國學院大學 古典文化学事業 (kokugakuin.ac.jp) の「諸説」の項によると、

(前略)

「香」と書いた例として、『日本書紀』神武前紀戊午九月条に「火を名けて厳香来雷(いつのかぐつち)と」する、とあり、『延喜式』所載の神社名にも「香都知神社」が見られる。

(後略 引用終わり)

とのことです。

 

香都知神社跡(かつちじんじやあと)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp) を見てみると、「『延喜式』神名帳は名草郡『香都知神社』を記す」とあり、他の例は示されていません。

 

これらのことから、『日本書紀』神武前紀戊午九月条の「厳香来雷」は、『古屋家家譜』の香都知と近い関係にあることを想像します。

 

前田晴人氏の論文『埴土をめぐる古代神事について』の2021ページから、その箇所を引用します。

  F時に道臣命に勅すらく、「今高皇産霊を以て、朕親ら顕斎を作さむ。汝を用て斎主として、授くるに厳媛の号を以てせむ。其の置ける埴瓮を名けて、厳瓮とす。又火の名をば厳香来雷とす。水の名をば厳罔象女とす。粮の名をば厳稲魂女とす。薪の名をば厳山雷とす。草の名をば厳野椎とす」とのたまふ。

 Fの伝記はおそらく大伴氏の家記から出た話と推定できる。熊野から神武軍を前駆先導するという大功を建てた将軍が道臣命だったからである。埴土の採取と敵の平定降伏にまつわる話に道臣命が登場するのは、大伴氏が允恭王家と宮廷を守衛する代表的な親衛軍であっただけではなく、ある時期に大伴氏が埴土の神事・儀礼に深く関わった歴史があったからだと考えられるのである。

 右の話では神武天皇自身が高皇産霊の化身となり、侍臣の道臣命が厳媛という名で斎主として神を祀る関係が成立している。男神が女性司祭の奉祀を受ける形で祭儀が行われていることがわかり、高皇産霊と厳媛は擬制的な夫婦関係にあるとみられる。さらに、神事には土でできた埴(厳瓮)のほか火・水・粮 ()・薪・草の化身である神々が関与しているが、意外にも軍事的な色彩がまったく認められず、むしろ何かを産成する目的で集められた物資という性格を帯びているようであり、高皇産霊が産霊(ムスビ)すなわち物の生成や太陽神の霊能に関わる機能と特性を帯びる神霊であることとも相まって、埴土の神事・儀礼の本源を示唆するもののようである。

(後略 引用終わり)

 

もしかしたら、安牟須比命というのは、「はにやす」をつかって土器を作ることを認められた人物のことを指すのではないでしょうか。

 

「はにやす」については、木下長宏の土曜の午後のABC (kinoshitan.com) の「H 埴師−土師」からも学ばせて頂きました。一部引用します。

(前略)「埴瓮」「はにべ」[「埴」という字と「公」の下に「瓦」と書く二字からなる]という語が日本書記神武天皇の集に出てきます。これは、埴で作ったかめのことを意味します。住吉神社の祭事に、「埴使」(はにのつかい)というのが登場して、大和(やまと)の香具山の土を穫って天平瓮(あめのひらか)を作り神前の供える儀式をやります。「埴安」(はにやす)という言葉もあって、埴粘とも書き、焼物を作る粘土の別の呼び方ですが、それは、神武天皇のとき、香具山の埴を取って儀式用の土器を作った、その埴をとった地名ともいわれています。

(後略 引用終わり)

 

「地名」ということで思い出したのが、宝賀寿男氏著『大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門』の「三 神武創業と道臣命の活動」の57ページに書かれていることです。

(前略)

 ところで、山祇族の遠祖神たちはどこに居たのであろうか。可能性として考えられるのは、「安牟須比命」の「安」が居住地と関係がある場合には、筑前国夜須郡(福岡県朝倉郡筑前町あたり)であろう

(後略 引用終わり)

 

 

 

ふと、(夜須では、土器の生産は盛んだったのだろうか?)と気になり検索して見付けたのが、国立歴史民俗博物館研究報告 第110集 20042月、酒井清治氏著「須恵器生産のはじまり」のpdfでした。

「➊……倭における須恵器生産開始期の窯跡」における「2 2a段階の窯跡」に次のように書かれています。

(前略)

 この段階,倭に始めて須恵器が伝えられた。一般に初期須恵器といわれるが,2a段階の須恵器を初現期須恵器とする(図2)。初現期須恵器の生産は,西日本各地で開始され,その分布は福岡県から大阪府まであたかも朝鮮半島から畿内への瀬戸内ルートに沿っているようである。北部九州では福岡県夜須町・三輪町の小隈・山隈・八並窯跡などの朝倉窯跡群,筑紫野市隈・西小田窯跡群,豊津町居屋敷窯跡がある。

(後略 引用終わり)

 

「小隈」「山隈」は、「こぐま」「やまぐま」と読むのだそうです。

 

太田亮博士の『姓氏家系大辞典』第二巻の「久米」の項には、次のように書かれています。

 

クメ また來目に作り、久味(クミ)ともあり。

なほクマとも通ずるが如し。


 

そして、最近出会った、我が国民国語の曙 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 13コマ目の記載をご紹介いたします。

    

クマ()は男兒、

クメ(久米)は女子、

ハヅ(波豆)は妻、

ケダ(氣多)は少年

 

著者は、坪井九馬三(つぼい くめぞう)氏ですから、熟考の上で「クメ(久米)は女子」と述べたのでは、と想像しています。

 

他にもご紹介したいことがあるのですが、坪井九馬三氏の著書を私は少ししか読んでいませんし、また別の機会に。

 

ただ、坪井九馬三氏の久米についての考察に対する反論はないのだろうか、と思っていたら、松村武雄氏著日本神話の研究 第4(綜合研究篇) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 101コマ目が見付かりましたので、メモしておきます。


 

話を須恵器に戻しますが、文化遺産データベース (nii.ac.jp) に「朝倉須恵器窯跡 小隈窯跡 山隈窯跡」のページがあり、史跡名勝天然記念物になっていることを知りました。

朝鮮半島との交流を含め,我が国における須恵器の受容と展開を考える上で極めて重要な遺跡である。」と締めくくられています。


清治氏著「須恵器生産のはじまり」で、次に気になったのは岸和田市持ノ木古墳です。

 

6コマ目に「持ノ木古墳の製品は,製品および共伴する陶質土器が朝鮮半島の資料と酷似しており,持ノ木古墳の段階で倭に須恵器技術が伝播したといえる。」とあるのですが、岸和田市には「久米田」があります。

 

(持ノ木古墳が久米田の近くにあれば、久米と須恵器との関係が見えてくるかも)と想像して検索してみると、久米田古墳群 - 岸和田市公式ウェブサイト (city.kishiwada.osaka.jp) が見付かりましたので、地図をお借りしました。

 

 


 

井上主税氏著「古墳時代中期前半の河内平野における朝鮮半島系遺物の流入に関する考察」の「(4) 陶質土器」には、次のように書かれています。

  4 世紀末から陶質土器が古墳に副葬された例が確認でき、TG232号窯併行期に加耶系土器の出土が集中する。このうち、持ノ木古墳(大阪府岸和田市)や奈具岡北 1 号墳(京都府京丹後市)の事例からは、古墳祭祀に陶質土器が用いられ、渡来人の祭祀への関与が指摘されている(白井 2000

(後略 引用終わり)

 

岸和田における「祭祀」ということから、私は夜疑(やぎ)神社(大阪府岸和田市中井町2-7-1)を連想しました。

火之迦具土神 – 國學院大學 古典文化学事業 (kokugakuin.ac.jp) で、次のように述べられていることが気になっていたのです。

(前略)

 別名の「夜芸速男」「炫毘古」が人格的な呼称であるのに対して、「迦具土」は自然的で原始的な神霊観に基づく呼称とする指摘があり、神名の成立は「迦具土」の方が古い神名とする説がある。

 「夜芸速男」「炫毘古」の「男」「毘古」から、男神とされるが、斬殺されて体の各部から神々が生まれた際に、闇山津見神が「陰」から生まれたとされるのが不審とされる。「陰」は普通ホトと読んで女陰のこととされるため、男神であることと矛盾する。そこで、ホトの語を男女の陰部の総称であったと解する説や、「陰」をカクレ、ヲバセ、ハゼなどと読んで男茎の意と取る説がある。また、文字通り女陰と解して、この神が元来は女神だったことの痕跡と捉える説もある。

(後略 引用終わり)

 

『古事記』においては、火の神の名として最初に「火之夜藝(やぎ)速男神」の名前が記され、またの名を火之炫毘古神、またの名は火之迦具土神と続いています。

 

「藝」は好字なのでしょうが、「疑」を社名に用いる理由が分かりません。

 

夜疑神社 - 岸和田市公式ウェブサイト (city.kishiwada.osaka.jp) に、「もとは古代地方豪族八木氏の氏神として創建されたと考えられます。」と書かれています。


 

八木氏については、「波多門部造」から想像される久米の歴史1 | など、拙ブログでは度々見てきました。

 

宝賀寿男氏の著書によって私が知った久米氏の系図の中で、一番遡って書かれているのが波多門部造のものです。

 

波多門部造は、外祖の八木氏がつとめてきた淡路の大和大国玉神社の年預職を譲り受け、南北朝期まで世襲したことが分かります。

 

          ↑

クリックしたら、「諸系譜」のそのページにとぶことができます。


 

淡路といえば、イザナギ・イザナミによる国生み神話は、もともとは、淡路島に伝えられていた伝承だったという説を何度か見聞きしました。

 

その説の出所をさがしていて、「塩ビと環境のメールマガジンNo.736 2022/11/4 」のPDFに、木下清隆氏著「◇古代ヤマトの遠景〔番外〕(52)」を見付けましたので、引用します。

 

(前略)

岡田精司氏の論理は地方神イザナギ・イザナミが、どのように記紀の世界に組み入れられて行ったかを解き明かしている。要約すれば、イザナギ・イザナミ二尊による国生み神話は、淡路島に伝わる信仰或いは古い島生み伝承を基にして、天武朝の記紀編纂時に大八洲誕生の形に整えられた、と結論されていることになる。

従って、その岡田氏の所説を前提とするなら、素戔嗚尊とイザナギ・イザナミ二尊の問題に対しては次のように結論されることになる。

― 淡路島に伝えられていたのは島生み伝承であり、記紀で語られているような神生み伝承ではない。従って、イザナギ・イザナミ二尊によって大八洲が誕生したとする神話が、天武朝において最終的に整えられたとするなら、素戔嗚尊もこの時期に誕生したと考えられることになる。―

(引用終わり)

 

私は以前から、(八木氏にとってイザナギは男系の先祖神で、イザナミと共通のX染色体の持ち主と、八木氏一族は幾度も婚姻関係を結んだのでは?)と妄想していました。

そして、そのX染色体の持ち主は、早くから日本列島に入っていた“くめ”ではなかったかと。

 

諸系譜 第2- 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 105コマには、「国造本紀」にあるのと同じく矢口足尼が淡道国造に定められたことが記されていますので、八木氏と矢口足尼の子孫である波多門部造一族が通婚を結びながら協力し、時にはぶつかりながら、淡路を開拓していったのでは、と想像していたのです。

 

あくまでも私感に過ぎないと思いつつも、夜疑神社 - Wikipedia 久米御縣神社 – Wikipedianiに載っている経緯度のおかげで二社が東西に並んでいることが分かり、確信めいてきました。

夜疑神社       北緯342849

久米御懸神社    北緯342859



 

これで、どうにか私らしいオチがつき、久々に記事がアップできると安心したのですが、ある事が気になり調べたところ、思いがけない考察と出会うことが出来ました。

 

書いてみないと分かりませんが、拙ブログで未解決のままになっていた幾つかのことが繋がるかもしれません。

 

〔2024/06/06追記〕

「天香久山と畝傍山の埴土研究-その土器原料としての物性について-

 ㈱アテック吉村   成迫 法之」というpdfを見付けましたので、拙記事では引用しませんでしたが興味深かったのでメモしておきます。