天地悠久様が、2年半前の拙記事「三原という地名」のコメント欄にて、福岡県小郡市の旧「御原郡」のことをお知らせ下さいました。

 

「御原」といえば、淡路国三原郡を鎮座地とする大和大国魂神社は、日本書紀に登場する「御原(みはら)の海人(あま)」を統率したとされる倭(やまと)氏ゆかりの神社であることが、大和大圀魂神社 | 淡路島日本遺産 (kuniumi-awaji.jp)に書かれています。

 

天地悠久様が仰るように、福岡県小郡市の旧「御原郡」が特別な地である可能性を感じ、御原郡(みはらぐん)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp) を読むと、冒頭に次のようにありました。

筑後国北西端に位置し、北は筑前国御笠(みかさ)郡、北東は同国夜須(やす)郡、南は御井(みい)郡、西は肥前国基肄(きい)郡に接する。およそ近世の郡域は現在の小郡市中北部と三井(みい)郡大刀洗(たちあらい)町北部に相当する。古代から近世まで御原・三原の表記が混用されている。

(後略 引用終わり)

 

夜須(やす)郡と基肄(きい)郡は、宝賀寿男氏著『大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門』を拝読することによって、私は既に特別な地なのだろうと思っていました。

 神武創業と道臣命の活動」の最後(57ページ)は、次のように締めくくられています。

 ところで、山祇族の遠祖神たちはどこに居たのであろうか。可能性として考えられるのは、「安牟須比命」の「安」が居住地と関係がある場合には、筑前国夜須郡(福岡県朝倉郡筑前町あたり)であろうし、紀伊国造の「紀伊」に関係するのなら、肥前国基肆郡(佐賀県三養基郡基山町)辺りとなろう。ともあれ、筑後国御井郡あたりを中心地とする高天原(邪馬台国)の北方ないし東北方の近隣、筑後川中流域の平野部に基肆郡も夜須郡も位置していた。この筑後川の下流域・御井郡あたりは物部氏の原住地だと太田亮博士がみており、これら筑後川中・下流域は、後に畿内大和に入った部族の天孫族、山祇族を問わず、氏族源流の地であった。

(引用終わり)

 

宝賀氏は「御井神の系譜」http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/miikami/miikami1.htm  

「五 筑後の御井郡」で、次のように述べています。

 この地域には古来の著名な「井」があり、高良大社には至聖の霊地が三か所あったといわれるが、この地域こそ日本列島の地名「御井(三井)」の源流であり、天孫族系統の部族が中心となって建てた邪馬台国の本拠地であった。そして、この地域が記紀神話の「高天原」で、高木神が主宰神であった。

(後略 引用終わり)

 

高天原(邪馬台国)はともかくとして、「御原」の源流も、福岡県小郡市の旧「筑後国御原郡」とみてよいのでしょうか。

 

私流の確認の方法は、ラインが繋がるかどうかですが、出発点を御原郡(みはらぐん)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp) の〔古代〕の項に書かれていることを参考に選びました。

「和名抄」諸本は「御原」に作り、東急本は「三波良」の訓、名博本は「ミハラ」の傍訓を付す。郡名の初見は「肥前国風土記」基肄郡姫社郷条にみえる「御原郡姫社の社」とされる。

(後略 引用終わり)

 

「御原郡姫社の社」とは、七夕神社 - Wikipedia によると、福岡県小郡市大崎1番地に座す七夕神社(正式名称は、媛社神社)のことなのだそうです。

 

ラインを引くには、最低、共通点が見える3箇所を選ばなくてはいけません。

ラインが繋がるような位置に、大阪府堺市南区三原台という地名があることが分かったのですが、三原台 (堺市) - Wikipedia によると、地区内にあった「三田原」という地名から文字をとったとのことですから、外しました。

 

「三原」を含む地名一覧 (reader.bz) を参考に地図を眺めましたが、適当な場所が見付かりません。

そこで、大和大国魂神社の勧請元との説がある大和神社もグーグルマップで見てみると、次のように並びました。

 

 

グーグルマップで分かった経緯度を地図に複数住所を一括表示 | しるしーず (tizu.cyou) に入れて確認すると、次のようにラインが引けることが分かりました。

1,七夕神社(媛社神社)、福岡県小郡市大崎1番地 33.38935691527718, 130.56338309016337

2,大和大圀魂神社(淡路國二宮)、兵庫県南あわじ市榎列上幡多857 

34.32262856793917, 134.77597138552414

3,大和神社 本殿、奈良県天理市新泉町 34.571159138861404, 135.83737404738082

 

こちらの三座には繋がりがあるように私には思えるのですが、インターネットで簡単に調べても分かりません。

 

大和神社と大和大圀魂神社の主祭神とされるのは大和大国魂神で、七夕神社(媛社神社) - 小郡市観光協会 (kanko-ogori.net) では、祭神は織女神(棚機神)と媛社神と記したうえで、織女神は「万幡秋津師比売命」としています。

 

淡路国三原郡には、天萬栲幡千幡比売命を祭神とする倭文神社が座していますが、栲幡千千姫命 - Wikipedia に書かれている「別名」を見ると、どうやら同じ神様のようです。

 

グーグルマップで、大和大圀魂神社と倭文神社が徒歩17分の近さであることを確認したあと、地図を縮小して周辺の様子を確認していて、大和大圀魂神社、倭文神社、岩上神社、伊弉諾神宮がラインに並んでいることに気づきました。

 

地図に複数住所を一括表示 | しるしーず (tizu.cyou) で試したところ、マーカーの先端で繋がることが分かりました。

 

 

1,大和大圀魂神社(淡路國二宮)、兵庫県南あわじ市榎列上幡多857

34.32262856793917, 134.77597138552414

2,倭文神社 兵庫県南あわじ市倭文委文793

34.330071479799045, 134.78016482123496

3,岩上神社、兵庫県淡路市柳澤乙614

34.44038430410575, 134.84180734880493

4,弉諾神宮 本殿、兵庫県淡路市多賀740

34.46019314865401, 134.85248254068466


 

伊弉諾神宮を中心とするレイラインについては広く知られています。

伊弉諾神宮発のレイ・ライン - Google マイマップ から、上の地図をお借りしました。


 

けれど、大和大圀魂神社、倭文神社、岩上神社、伊弉諾神宮を繋ぐラインは、インターネットで簡単に検索してみましたが、引っ掛かってきていません。

 

伊弉諾神宮と大和大圀魂神社との繋がりとして明かなことに、大和大国魂神社 - Wikipedia の「祭神」の項に書かれている次の事があります。

(前略)

『中世諸国一宮制の基礎的研究』によれば、『一遍聖絵』や謡曲『淡路』に祭神は伊弉諾尊および伊弉冉尊と出ており、中世において二宮の祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊になっていたのだと言う。同書では、このような誤りが起こった理由について、淡路が伊弉諾尊と伊弉冉尊による国生み伝承の地であるため社家によって付会された、との『式内社報告』の推測を紹介し、再び祭神が大和大国魂神に戻ったのは明治の神仏分離以後だと述べている。寛文10年(1670年)8月の『中興趣意書』も、祭神を伊弉諾尊と伊弉冉尊とする説を基に書かれている。

(引用終わり)

 

大和大圀魂神社の祭神を、伊弉諾尊と伊弉冉尊にした社家とは、もしかしたら、久米氏出身の、波多門部氏だったのかもしれません。

このことについては、「波多門部造」から想像される久米の歴史1 | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) などにも書いてきましたので、今回は省略します。

 

今回調べる上で一番気になったのは、淡路国三原郡には、天萬栲幡千幡比売命を祭神とする倭文神社が座しているけれども、天萬栲幡千幡比売命と、機織の神である天羽槌雄神(別名 建葉槌命、止与波知命、天破命、天羽雷雄命、武羽槌命、止与波豆知命 など)を祖神として奉斎する倭文氏とは、直接的な関係が見つからないことです。

 

これが、倭文と久米との関係ならば、地名に表れています。

久米・来目について (kamnavi.jp) の考察を引用します。

(前略)

東海 常陸 久慈郡久米郷 隣接の倭文郷は茨城県那珂市 静神社は倭文神社の縮まった名。

山陰 伯耆 久米郡久米郷 倭文神社  建葉槌命は織物の神、また天津甕星を退治した武神。
  鳥取県倉吉市志津 三宮  伯耆国川村郡、因幡国高草郡にも倭文神社。

山陽 美作 久米郡久米郷 倭文神社 建葉槌命のルーツは不明、久米氏の出だったのかも。
  岡山県久米郡久米町 久米郡久米郷は全国で2つ、そこに倭文神社が命中。
倭文神社は19社、久米と倭文の関連は否定できない。

(後略 引用終わり)

 

次に、倭文氏 - Wikipedia の「概要」を引用します。

織物を生産する部民である倭文部(しとりべ)を率いた伴造氏族。倭文とはシズオリの意で、アサやカジノキなどの繊維で文様を織り出した日本古来の織物。

中央の一族は連の姓(カバネ)であり、その中の主流の一族は天武天皇13年(684年)に宿禰姓を賜った。地方の伴造には、連、臣、首などの姓がある。

『新撰姓氏録』(815年)によると、大和国と河内国に委文宿禰、摂津国に委文連の三氏を掲げている。出自としては、「大和国神別(天神)」の項に「委文宿禰 出自神魂命之後大味宿禰也」とあり、また「摂津国神別(天神)」の項に「委文連 角凝魂命男伊佐布魂命之後也」とある。

機織の神である天羽槌雄神を祖神として奉斎し、全国に倭文神社が残る。

(引用終わり)


 

大和国の委文宿禰は、神魂命の子孫として『新撰姓氏録』に載っており、波多門部氏も「神魂命十三世孫意富支閇連公之後也」と記されていることから、同祖ということになります。

 

けれど、諸系譜 第2- 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 104コマから始まる波多門部造の系図は「移受牟受比命」から始まり、「神魂命」は記されていません。

 

「移受牟受比」は「やすむすび」と読むらしく、それが本当ならば、上で紹介した説の、筑前国夜須(やす)郡が山祇族の遠祖神たちの居住地であったというルーツを、波多門部造は大切に伝えているのかもしれません。

そして、「移受」という漢字には、移住者を受け入れたという歴史を籠めているのでは?と、私は想像しています。

 

筑前国夜須郡だった地に鎮座する神社として一番有名なのは、大己貴神社(於保奈牟智神社、おおなむちじんじゃ、福岡県朝倉郡筑前町弥永697-3)のようです。

大己貴神社 御神体山へ | まにまに。 (ameblo.jp) で知ったのですが、大己貴神社のパンフレットには、朝倉地方のまわりの地名が、大和郷のと似ていることを示す記事があるのだそうです。

 

「朝倉地方のまわりの地名」「大和郷のまわりの地名」を記した画像を眺めていて、香山(高山)が天の香山に対応していることに気付きました。

 

そして、かつては「伊予国久米郡天山郷」だった地が、香山(高山)と天の香山を繋ぐライン上に入ることに気付きました。

 

以前、天山と天香久山とのレイライン? 天加具山と天山とのラインと久米の子ら) では、佐賀県の天山とのラインに注目したのですが、それ以上の精密さです。

1,高山、 福岡県朝倉市杷木久喜宮 33.35990673725779, 130.78266717713777

2,天山、 愛媛県松山市 33.821379032476635, 132.77782298839375

3,天香具山、 奈良県橿原市南浦町326 34.495428339278426, 135.81818737305156

 

このラインは淡路島の上を通りますが、先山も諭鶴羽山も外れています。

 

天山神社 (komainu.org) によると、

 八世紀前半に編集されたという地誌『伊予国風土記』逸文に、「伊与の郡。郡家より東北のかたに天山あり。天山と名づくる由は、倭に天の加具山あり。天より天降りし時に、二つに分れて、片端は倭の国に天降り、片端はこの土に天降りき。よりて天山といふ、本なり。その御影を敬礼ひて、久米寺に奉れり」と書かれている。

とのこと。

 

上のラインを見ていると、香山(高山)が“久米”にとっての「天」のように思えてきました。

久米と香山(高山)との関係について知りたくなり検索すると、邪馬台国と地名 (snk.or.jp) が見つかりました。

久米に関係する箇所だけを書き抜くと、

大和郡では朝倉→久米→水間(みずま)→天の香山(高山)

夜須郡では朝倉→久留米→三潴(みづま)→香山(高山)

と並ぶのだそうです。

 

邪馬台国と地名 (snk.or.jp) を読み進めると、次のように書かれています。

北九州に「天の安川」を思わせる「夜須川」(小石原川)が流れており、その「天の安川」のほとりから大環濠集落の平塚川添遺跡が発見された。

(引用終わり)

 

天安河 (nihonsinwa.com) の「まとめ」によると、

高天原の河の名前。

アマテラスとスサノオが誓約をした場所。

天岩戸事件で八百万の神が話し合いをしたところ。

古語拾遺には天八湍河原と書く。

(引用終わり)

と、なかなかの場所です。


 

長くなりましたので、「御原郡姫社の社」に戻し、終わらせたいと思います。

旧・御原郡の七夕神社の織女神様のお相手は、「犬飼神」です。

ひこぼし|星や月|大日本図書 (dainippon-tosho.co.jp) によると、

(前略)

「いぬかいぼし」の犬は牽牛の牛を犬に見立てたのでなく、たなばたの神話が中国から伝わる以前からの和名と言われています。

(後略 引用終わり)

とのことです。

 

日本に中国から入ってきた織女は、本当に犬飼とカップルになることもあったような気がします。何故ならば、鼠から織物を守るためには、よく訓練された犬の助けが有効だったはずだからです。

 

『新撰姓氏録』の左京神別中に、「県犬養宿禰。神魂命八世孫阿居太都命之後也」とあることから、来目衣縫(くめのきぬぬい)之始祖である眞毛津(まけつ)の存在と合わせて気になります。